「暗闇の生活、その脇で豪華な生活」、企業の倫理的・社会的責任は問われないのか

2016-04-19 11:28:38 | 日記

 「暗闇の生活、その脇で豪華な生活」、企業の倫理的・社会的責任は問われないのか

   A様、この間「春と冬」が入れ替わりやってきます。私のところでも5日前でしたか小雪が舞いました。とは言え不思議なことではありません。かつて小学校の入学式、そして桜が咲いたところに10センチの積雪があったことを記憶しています。

  「最近の気候」は異常だと言われていますし、私もそう思います。このことに対し、かつても4月に積雪があったではないかという例示を持ち出し、その異常性を否定することが科学的であるか、無いのか。この問いが熊本大地震と川内原発の停止問題に通じるものがあるのでは無いかと考えてメールを差し上げます。

 【「近代観測が始まって以降は思い浮かばない地震」それでは原発は大丈夫か】というタイトルでブログを書きました。(4月18日)

 福島の場合は大揺れによる被害よりは「原発事故」によるものでした。当時は、放射能の被害に対する確固たる知識もなく、現にシーベルトとかベクレルなどの言葉さえも知らなかったというのが実態でした。しかし、3月11日以降続く余震の中で、さらに原発が爆発するのではないかという不安と危惧にさいなまれたのは事実でした。熊本の場合はどうでしょう。「本震」と思ったのが実は「前震」であったということ、そして本震以降「分単位で揺れる余震」しかも本震に近い「大揺れ」が襲う。さらに「今後一週間は震度6以上の余震がある」などの気象庁の発表を聞くにつけ、余震に対する不安と恐怖は福島のそれとは格段に違うものがあると想像いたします。

 熊本地区の皆さん、そして九州県民の多くの皆さんの想いは、次のような譬えに表現できるのではないでしょうか。「暗闇の中で逃げ場を求め、夜間の暖を求め、水を求め、そして食を求める人々がいる。その脇で、赤々と照らされた部屋で豪華な献立を前にして食事をしている人々がいる。そしてその人々は言う『暗闇にいる皆さんからとやかく言われる筋合いは無い、私たちがこの食事をやめたからと言って貴方たちの暗闇をなくすことにはならないだろう。またこの席を否定されるいわれもない』」と。

 「川内原発を止めよ」という要求に対し、電力会社も、政府もその必要はないと答えています。そして田中規制委員長に至っては「(我々は)想定内で判断している。想定外と言ってはいけないと肝に銘じて我々も規制している」と。さらに「どういう状況が起こっても今の川内原発で想定外の事故が起きるとは判断していない」と付け加えたと報じています。まさに「安全神話の復活」です。そこで私が述べたいことは、それ以上に「企業の倫理的・社会的責任」です。「場合によっては自分あり方を変える」という倫理観と社会性が企業にはあると主張したいのです。一時的ではあれ稼働を止めることは大きなリスクをもたらすでしょう。しかし、そのリスクをもってしても受け入れなればならないとする「企業の社会的責任」があるのではないでしょうか。「暗闇の生活、そんなこと関係ないよ。批判があろうが貴方たちには電力を必要とするのでしょう」という傲慢な態度にあるとするなら、そこには「倫理観も社会的責任」も失った企業の存在だけということです。そのことが近代的社会において許されることでしょうか。そんなことを述べたくてメールを差し上げました。ご意見が頂きたく思います。