「 嫌悪が、憎悪に」・高齢者と若者の利害関係が、安倍政権の延命に!
2025年問題、この言葉を私も口にするが、周りからもよく言われる。いわゆる「団塊の世代」がこの時期に75歳「後期高齢者群」に突入することを指す。それは単なる年齢の移行を表すするものではない。また医療費や介護費などの増大を伴うだけではない。これらの世代と子や孫たちの関係に、何らかの「負の増大」を課すことを意味すると受け止めたい。
よく、言われる言葉に「無病息災」というものがある。しかし今は「少病息災」。つまり中高年になれば1つや2つ不調な箇所があって当たり前。病気を治すというより治療しながら、病気とうまく付き合っていく気持ちで人生を送ろうということが必要だということである。だが、これとてうまくはいかない場合が多い。現役時代の検診で「要指導」のマークがついてきたことがあった。その時は、しばらくの間「アルコールの自粛」などをしたものであったが、いつの間にか前に戻り「かみさん」から嫌みの一つ、二つ言われるのが常であった。しかし、70代に入ると外来通院が多くなる。
こんな川柳がある。「いい湯だな、みんなそれぞれ、薬出す」。歯・血圧・腰痛・糖尿・そして内臓ポリープという具合である。それでも病気とうまく付きあう「ながら生活」は続くが医療費は確実に増えていく。そこに、社会保障費が大変なことになるという暗い予測が突きつけられる。そして若い世代からの反発が生まれる。「年寄りには金がかかる。その金を若い世代にまわせ」と。それに対し戦後世代は「異議あり」と唱える。「私たちは、戦中・戦後の混乱の中で高度成長を支え、常に時代の主役を担ってきた。その私たちが『問題児なのか』・『お荷物扱いなのか』」との反発である。この対立が深まり、そして孤立を深める。それとも新たな存在感を出せるのか。それが2025年問題であるととらえたい。
「いつの時代も若者からは高齢者は疎んじられる」。しかし、作家の五木寛之さんは「嫌老」はそんな風潮とは違うと近刊の「嫌老社会を超えて」(中央公論新社)で述べている。つまり世界にも前例のない超高齢社会、年々増える社会保障費が若い世代の「重荷」になっていく。それなのにもう右肩上がりの経済成長は望めそうもない。とするなら若い世代の「嫌老意識」に、異議ありと述べることのできないところまでいくであろう。つまり「嫌悪」が「憎悪」にまで進んでしまうのではないかというのが五木さんの心配である。
若者世代の雇用環境は厳しい。不安定な非正規雇用からやっと就職できたと思ったらブラック企業だったりする。独身者の9割が結婚を望みながらもできないでいる。その大きな要因は経済力であり、所得格差である。そして地域格差も大きい。東京と沖縄の差は2倍以上である。世代間の格差もさることながら「世代内格差」もますます広がる。
安倍首相は強弁する。「アベノミクスの滴りを全国津々浦々に広がる」と。しかし、そのような言葉も、もはや日本社会を足元からむしばむ問題に対しては場当たり的でしかない。いや「むしろ格差対策をやると、経済活性化を阻害される」との意識が安倍政権のあると見るのが正しいだろう。「保育所落ちた・日本死ね!」は、あらゆる場面で「日本死ね!」が叫ばれて不思議ではない時代に直面していると言わなければならない。いや待てよ。「安倍思想」はあらゆる場面で表面化していく国民の利害格差を、国民的分断として利用しているのではないか」。「憲法改正」をはじめとした強権政治の遂行の「テコ」として使おうと考えているのではなかろうかと。
「歴史は繰り返す」よくよく見極める必要がある。そこに2025年問題もあると受け止めたい。