今も余震【戦争】が続いている恐ろしい。中東の難民に福島を置き換えてみる

2016-12-28 09:13:33 | 日記

  今も余震【戦争】が続いている恐ろしい。中東の難民に福島を置き換えてみる

 

   「今も余震が続いています。いつまで続くのか。それにしても恐ろしい現状です。1号機と3号機は爆発しました。そして2号機も時間の問題だと思います。最も恐れていたことが現実のものとなりました。避難者も中通り、会津、そして県外まで逃れています。15万名の大移動です。まさに中東の日本版です。しかも「この火は消せない・消す方法を知らない・マニアルもない」のです。(三月十四日)

   「津波から逃れられた命が今奪われようとしている」ということです。避難された皆さんの居場所は避難先の集会場や学校の体育館です。真冬並みの寒さです。暖房設備もありません。ダンボールを敷いた床に毛布一枚。とても暖がとれる状態ではありません。むすび一つを三人で分け合うというところもあると報道されています。どこでも『水と灯油』をと叫んでいます」(三月十七日)

   この文章は2011年3月11日に発生した地震・津波・そして東電第一原発の破壊を目の前にして綴った毎日の日記からの抜粋である。以来私は、この日記を全国の知人にメールをもって発信を続けてきた。

   そして今、中東においては何十万という難民が国境を超えて避難を続けている。その中で6千名にも及ぶ難民が地中海の藻屑となったと報じられている。また「浜に打ち上げられた子供」の悲しい写真が報じられた。メンケル・ドイツ首相は、この報道に難民の受け入れの決断をしたと言う。しかし今、その決断を責め立てられメンケル首相は窮地に立っている。

   この中東の難民問題に福島の避難の実態を重ねてみる。行く先々のコンビニの駐車場で「福島ナンバー」は嫌がらせを受けた。居場所を2度から3度も変えたという報告はざらであった。現地にとどまった高齢者施設もエヤコン暖房は使えず、と言って石油ストーブはない。あっても1台か2台。しかも灯油が無い。町長の緊急要請で配車された折角のタンクローリーも60キロ先でストップ。運転手は放射能が怖いと言う。そして津波から逃れた老人も命を絶っていった。中東の「福島版」と言っても過言ではない。

   しかし、中東の避難は「戦火」から逃れた難民である。

   このことを考えている中で次のことわざがあることを思い出した。「七度の飢饉より、一度の戦争に逢うな」という言葉がある。戦争は七度の飢饉より劣悪、悲惨だという譬えである。これほど明確に戦争を嫌い、拒んだ言葉はないであろう。

   このことわざは、現在の福島県伊達郡保原町の百姓一揆の指導者で八丈島に流された菅野八郎の「八老独年代記」の中にしるされていることを知ったのは昨今である。「七年の飢饉に逢うとも、壱年の乱に逢ふべからずとは、むべなる哉」と書かれている。江戸時代に宣言された反戦思想は今も生きていると受け止めたい。

 そして、このネットに次のブログが添付されていたので紹介したい。

      -みくの独り言ー
  「戦乱の世に生きていた我々の先祖たちにとってこの世に戦争ほど恐いものはなかっただろう。元気な若者は徴兵され、戦乱の中に巻き込まれ、家は焼かれ略奪暴行の悲惨な目に遇ったであろうことをこの諺が証明している。豊かになった日本で飽食の時代を生きる若い人たちは飢えも知らなければ、戦争も知らないのは、幸せなことなのであろうか、それとも不幸せなのだろうか?・・・・・恥ずかしながらぼくは、この諺を知らなかった。この諺は、土の中から出てきた真の反戦の言葉である」

 祝いの新年を前にして、「きな臭さ」さを増しつつある2017年を危惧するのは私だけであろうか。

 

 




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