驚くことである。総理大臣席からのヤジ

2015-05-29 15:44:00 | 日記

驚くことである。総理大臣席からのヤジ

    国会は質問の場てはない。討論の場である。はきちがえては困る

 

  大戦末期の1945年3月、米軍は日本周辺の海域に機雷を敷設した。輸送路を絶つためである。いわゆる「飢餓作戦」の開始であった。その敷設は7月まで続いたという記録が残されている。しかし、よくよく考えて見る。物資の輸送路を絶つという事であるが、あの時期に軍用物資はともかく、当時の国民の胃袋をまかなうほどの食料をどこから輸入しようとしたのだろうか。海上封鎖がなくとも国内に物資は入ってこなかったろう。米軍がその実態を把握ができないはずはない。むしろ日本軍を国内に封じ込め、そして地上戦に持ち込むことを決意した米軍の軍事作戦と考えるべきではないか。本土における「沖縄戦」の再来である。もちろん米軍も莫大な犠牲を覚悟しての恐ろしい軍事作戦と考えられないか。かく言う私には資料もない、研究をしたわけでもない。これは一市民の感覚から推定したものである。だが、いずれにせよ「飢餓作戦」にしても「地上戦」に持ち込むためのものにしても「軍事作戦」であったことは変わりのない。

  そして、いみじくも28日の国会の平和安全特別委員会における辻本議員(民主党)の質問に結び付く。辻本議員は「ホルムズ海峡が機雷で封鎖されたのと、日本近海が機雷で海上封鎖されたのとは同じか」と中谷防衛大臣に質問をしている。答えは簡単なはずである。常識的に考えれば「違う」としか答えられないはずである。しかし、中谷大臣はそのようには答えない。例のごとく、はぐらかす答弁を繰り返し果ては「新三要件」を持ち出し、ホルムズ海峡における機雷の掃海は「受動的、限定的」なものであり、このことに限り集団的自衛権の行使は許されると、またもや「水戸黄門の印籠」を振りかざしている。

  日本の近海に機雷をばらまいた米軍は、今日においても機雷による海上封鎖は効果のある軍事作戦であるとしている。しかもそれが敷設であれ、掃海であれ、機雷を用いる行為は能動的行為(軍事目的を遂行するための)であることを明確にしている。受動的、限定とは言ってはいない。「ホルムズ海峡の機雷掃海」が、あたかも特別なものとして扱うことはまやかしであると辻本元議員は追及をしている。

  言うまでもなく、日本領海内の機雷による海上封鎖は日本に対する武力攻撃であり、その掃海は個別自衛権の行使(専守防衛)である。それは今も許される。ことあらためて「新三要件」を語らずとも良い。よつて、同じ海上封鎖にしてもホルムズと日本近海とは同じなのかと質問する辻本議員は全うであり、それに対し「違う」と答えず、しかも新三要件の文言を繰り返す中谷大臣が全うなのか。

  何のことはない、集団的自衛権の解釈変更を閣議決定した後、安倍首相が記者会見を行った時のバネル「ホルムズ海峡の機雷掃海」の例示がある。その例示であるホルムズをどこまでも「受動的・限定的」として取り上げ続けることが、「集団的自衛権の行使の容認」という看板が守ることに尽きるということである。そうでなければ「集団的自衛権の行使の憲法解釈」は成り立たなくなる。

  そのことを追及する発言者の辻元議員に「早く質問をしろ」とのヤジが安倍首相の口から飛び出した。国会の質疑とは質問者が回答者(政府)に「教えてください。説明してください」というやり取りだと考えているのだろうか。もちろんそれもあるだろう。しかし、国会は主権者の代表である国会議員が、主権者の委託を受けて意見を述べ、それに対する意見を求める。反論もあるだろう。それでよい。その討論の内容を受けて国民は判断をし、選択をする。この姿こそが当然である。にもかかわらず「質問をしろ・質問はないのか」といって審議を中断させた総理大臣。そして「「悲しい、もう答弁の必要はありません」として辻元議員は降壇した。この場面は、今国会の最大の汚点として今後に残ることは間違いない。

  私も悲しい・そして無念である。

 

 

 

 

 

 


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