あるところに「すがさん・あそさん」がおりました

2015-07-11 19:09:02 | 日記

あるところに「すがさん・あそさん」がおりました

  「あるところに、友人ではあるが、それだけの関係でしかない「すがさん」がいました。また、友人であると同時に私のことを本気になって考えてくれる「あそさん」がいました。その「すがさん」が暴漢に襲われました。しかし、私と「すがさん」は単なる友ということで、直接にかかわることではないので助けに行きませんでした。ところが、次に暴漢が「あそさん」を襲ったのです。「あそさん」は腕力があり、私を常日頃助けてくれる。または助け合うことを約束している友です。私は「あそさん」の友情が必要です。そこで一緒になってその暴漢と戦いました」。

  これは、テレビ局など、報道各社が出演を求めてこないことに業を煮やした安倍首相が、自民党のネットを活用した企画の中で語った「物語」の一場面である。日本海の公海上にいる米国のイージス艦が某国から攻撃を受けた。その時攻撃を受けたイージス艦を防護し、共に戦うという「集団的自衛権の行使」をわかりやすく、かみ砕いて解説をしたと出演者の安倍首相は語る。多分、首相の脳裏では100点満点中、及第点の70点は超えたであろうと自負していたと考える。そして、そのことによって国民の理解が得られた、あるいは説明責任が果たせたと思っているかも知れない。そうだとすると大変な勘違いであり、間違いであることをまず指摘をしておきたい。

  とにかく、その場面は、側近たちとその配下の者を前にして「そういうことだ、良きに計らえ」と述べて席を立つ殿に対し、「御意」と首を垂れて見送る「活動写真」の一場面に似ている。では「御意」と答えた側近たちの間で「良きに計らえ」という中身を、誰もが共通した認識となっているのかということである。

  よくよく考えてみよう。「あそさん」は合うたびに、あべさんに「助けるし、力にもなる。お互いがんばろうではないか」と述べている。よって、あべさんにとっては腕力のある「あそさん」の存在を、必要以上に重く受け止めてはいないかということである。また、「助ける、力にもなる」と言っているそのことは、具体的にどういうことなのか。確かに口先だけではなく紙にも誓約を書いている。では「何から、何を、どのように助けるのか」を具体的に誓約しているのだろうか。「肩を抱き、叩きあいながら助け合おうぜ」と述べているに過ぎないのではないか。その誓約の理解に「勘違いは無いのだろうか」と考える。その勘違いに対しごめんなさいで済むなら簡単である。しかし、事は軍事協定である。しかも武力の行使となれば相手の弾が自分の胸をぶち抜くこともある。同時に相手より早く引き金を引くことにもなる。結果として「何を、畜生となって怒り狂う」それが戦場である。

  「後方支援をする」と言う。それは「兵站」の役割を持つ。兵站の任務は武力行使である。戦場となったら避難をするという。「ごめんなさい」と言って背を向けたら、「ここで裏切るのか」と鉄砲を向けられることだってあるだろう。戦場は狂気である。

  避難する日本人を乗せた米軍艦が攻撃されたらそれを防護して戦うと言う。現地の米軍指揮官に民間人を乗船させるゆとりがあるはずはない。まず敵に筒先を向けるのが軍艦である。仮に民間人を救護する。その地に米国民はいないのか、そんなことはない。であればまず同国人を乗船させるだろう。ではその軍艦が攻撃を受けても自衛隊は防護しないのか。しないとすれば約束が違うとならないか。安倍首相がよく述べる「助けを受けて、助けないことは不条理だと」。その通りとなる。

  ある民主党議員は「軽口の解説」と述べたと言う。軽口どころか、資質が問われるものとしか言いようがない。理解できない国民の一人として、まず法案のページを閉じ、あらためて来る参議院選挙の争点にすることを求めたい。それが「政治の常道」であろう。