1人の友からのメールを受け取って

2015-07-07 09:41:28 | 日記

 1人の友からのメールを受け取って

 

  メールの交信者の一人である友からメールが入った。「母親を施設に入れることができました。時間が取れますので久しぶりに一杯やりませんか」というものでした。その彼の父親が逝ったのは100歳であった。

  長寿を全うしたとはいえ、人には言えない苦労と悩みはあったものと推察する。そして今度は母親の介護。それは退職後の彼に科せられたものとなった。幸い施設入所が可能になったことは良かったことである。その彼も迷ったようである。当然だろう。彼は在職中ということもあり父親の介護はもっぱら妻が担った。もうこれ以上妻には負担をかけられないという想いがあってのことだろう。それは介護の選択をめぐって悩み、場合によっては家族間の亀裂が生じたりする事柄であり、どこの家でも存在することである。

  そこで思い出した一つの記憶がある。

  縁があって、定期的に特老施設を訪問していた時である。それは年末の時期であった。一人の老婆に「お正月は家で過ごせますね」という言葉をかけた。私としては、極めて当たり前の、そして常識的な言葉と思った。これに対し彼女からは「ここは暖かいし、みんなが親切だから甘えて、家に帰らずに、ここで正月を迎えます」という言葉が返ってきた。その瞬間「どうして」という言葉を述べようとして思いとどまった。家に帰りたくないはずはない。ましてやお正月である。しかも帰れる体力はまだある。彼女にとっての家は、嫁ぎ、そして夫と暮らし、子どもを育てたところである。しかし、その世界は「老」を境にして異なったのであろう。子ども夫婦や孫たちと、僅かな日日であれ共に過ごすことは嬉しいことであろう。だが、それを拒んだ彼女の想いは何であったのだろう。かく言う私も、80を前にしてそれがわかるような気がする。多分私も、そのような状態に置かれたら同じことを選ぶだろう。

  そのことを思うと「介護保険制度」は、大変な重みのあるものであることを痛感する。「誰もが、どこでも、いつでも、必要とする介護が受けられる」。この社会性はまさに画期的な財産である。

  しかし今、少子化・高齢化社会の中でこの財産の見直しが始まっている。社会制度である以上「税」による維持は欠かせない。当然見直しはあって良いし、なければならないだろう。ではどのように見直すのか。そのことは国民総ぐるみの討論が必要であるはずなのに「国民は蚊帳の外」におかれている。同時にその批判は大事だが、国民的討論に参加できる知識を持たなければならないことも重要である。ここは忘れてはならない。

  来年は参議院選挙の年である。安倍内閣は経済政策「新アベノミクス」なるものをもって国民の支持を得ようとするだろう。しかし、本命は「憲法」であることは変わらない。ならば私たちは改めて「税と社会保障問題」を取り上げる中で、高齢者の医療・介護の政策をもって政権を選択する材料にしたいと思う。

  そのタイトルは「老後の社会的保障を見据えることによって、今を生きる、老若男女の安心と希望が得られる社会」と書きたい。

  早速、メールの友に返信を打つことにする。「貴方たちは、よく父・母を見守った。その母を手元から離すことは決して誤りではない。いずれ私たちもその立場になる。その覚悟をする知恵を持ちたいもの。久しぶりに一杯やりましょう。奥さまによろしく」と。