バカな戦争はやめろ』と言えなくなる。始まってしまうと手に負えなくなる

2015-06-14 14:52:03 | 日記

 

バカな戦争はやめろ』と言えなくなる。始まってしまうと手に負えなくなる

  毎日新聞(6月18日)は、脚本家・山田太一さん「創作の原点・戦後70年」を文化面(13面)で取り上げている。昨日は、同日のコラム『昭和のかたち・保坂正康』の「安倍首相のヤジ、国家総動員法審議のものと共通」が取り上げられていた。

  さて、山田太一さんである。1934年生まれというから私にとっては兄の年代となる。もし2年早く生まれていたら確実に戦地に赴いていただろう年齢である。最近よく思い出す。私の校舎と高等科の校舎が同敷地内にあった。そこでは兄にあたる13歳から14歳の生徒が鉄棒や土俵の上で、教師と四つに組んでの相撲をしている光景をよく目にしていた。とりわけ私の記憶にある生徒は、鉄棒が得意で大車輪そして着手するなどその姿は恰好がよかった。今のような身長ではなかったが大きく感じたことを記憶している。何せ、その生徒が先生を土俵に投げつけるなどの姿を見ていたから当然であろう。そして14歳の春で卒業をしていった。

  折しも戦局悪化の中であった。15歳から応募ができるとした乙種少年飛行兵制度が、1年下げて15歳未満でも採用できるという制度となった。そして後で知ったことであるが、何人かが応募し合格をしたというニュースを聞く。私は勝手に校庭で目にした憧れの先輩の顔を思い浮かべた。生きて戻ったのか、それとも戻らなかったのか。それとも応募しなかったのか。それは知らない。

  山田太一さんは述べる。「今考えると、どんどん死んでいった。家も取り壊された。(山田さんの家は強制疎開で家が取り壊された)今だったら、なぜ『戦争反対』と言わないのかと思われるかもしれないけれど、戦争が始まってしまうと『反対』なんと言えない。出征する人がいて、死んでしまう人がいる。『バカな戦争はやめろ』と言えなくなる。始まってしまうと手に負えなくなる」

  NHKの朝ドラ「ごちそうさん」の場面でバケツリレーでの消火風景があった。現にあの当時は、本気で火が消せると思っていたのである。油の火(焼夷弾)であることさえも知らなかった。「本土決戦」・女、子どもが竹やりで上陸してきた米兵を殺せると本気で思っていたのである。そして日本が負けるとは考えてもみなかった。「神国・神風・無敵艦隊などなど」。今の若者に話せば「バカか」と言われるだろうが、それが事実罷り通っていたのである。

  昭和19年の正月を超えたころからである。隣組の誰々さんが戦死をしたとか、あるいは「白木の箱」をかかえて戻ってこられる方が多くなった。その度に私たちは道に並び目礼をした。その年の暮れ、長患いをしていた父が亡くなった。弔いに来た皆さんが「こっちの父ちゃんは自分の家の畳の上で死ねたから幸せだよ」という言葉を母にしていたのを記憶している。それは大人の言葉であって、父を亡くした子供には通じる言葉ではなかったはず。しかし、それが実態であった。

  最近のマスコミの報道には異常さが見られる。「国会中継」の報道が無い。無いだけではなく、なぜ「錦織選手」や芸能人のあれこれが「国会報道」の前なのか。それもその報道はちょろりである。民放もさることながら、NHKテレビの企画にやたらと「食べる場面」が出てくる。30分であれば半分以上は食べている。

  最後に、随筆家岡部伊都子さんの言葉を紹介したい。 「自分はこの戦争は間違っていると思う。こんな戦争で死にたくない」。これが私の婚約者だった人が遺した言葉でした。小学校の先輩で、婚約が決まってやっと二人だけになって、初めて話したときの言葉です。忘れられません。「どうしてそんなことを言うの」と、軍国少女だった私はこう答え戦争に行くのを止めようとは思わなかった。その人は敗戦の年の5月31日、沖縄本島の津嘉山というところで死にました。木村邦夫という名前。もう戦後60年。私は「邦夫さん、ごめんね」と言い続けている。平和を語るときも、愛を語るときも、私の原点は、邦夫さんです。