細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

恵林寺  

2014-07-02 16:26:53 | 散歩・旅  山梨県

◆乾徳山 恵林寺

 恵林寺は1330年、夢窓国師によって開かれ、戦国武将・武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派の古刹である。 

 夢窓国師は伊勢の生まれで、甲斐へ移り住み九歳で出家。当時のの領主、二階堂道蘊(どううん)に請われ邸宅を禅院に改めたのが恵林寺の始まり、国師五十五歳の頃であった。           (パンフレットより)

◆四脚門<国重要文化財>

 黒門を入り参道を上がると四脚門(赤門)が現れる。この赤門は織田信長により全山焼かれた後、徳川家康によって再建された当時のもので、1606年の棟札が掲げられ国の重要文化財に指定されている。

 丹塗りの門であるところから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、檜皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽(ちまき)形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行(けたゆき)に通した頭貫(あたまぬき)で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。
 このように極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現している。

◆恵林寺庭園<国指定名勝>

 本堂の裏側には夢窓国師築庭の池泉回遊式庭園が広がっている。上段に枯山水、下段には心字池を配した雄大な規模を誇る名園であり、昭和十七年に国指定の名勝となる。国師はこの恵林寺庭園作庭の後に、西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭も手掛けることになる。寂寞な中にも流れを許すその姿は、この現代においても、安らかなる禅の風向そのままとして現れている。

  

◆三門<県文化財>

「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしも さんすいを もちいず しんとうめっきゃくすれば ひも おのずからすずし)」という快川(かいせん)和尚の遺偈(ゆいげ)がかけられている門が、県の文化財に指定される三門である。

 武田氏を滅ぼした織田軍は恵林寺に押し寄せ、潜伏保護されていた者達を引き渡すよう快川和尚に命じたが拒否され、怒った信長が三門に快川和尚はじめ約百人の僧侶らを封じ込め火を放った。天正十年(1582年)快川和尚、壮絶な火定(かじょう)を遂げた際の一句である。

 構造は、一間一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たり三解脱すなわち空門・無相門・無願門の意による三解脱門の略。
 四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的にあふれる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。

◆武田信玄の墓

 明王殿の裏に信玄の墓がある。1521年生まれ。16歳の時、晴信と名乗り39歳で出家し信玄(僧名)と号す。1573年4月12日、53歳にて病死、後に快川和尚の導師により恵林寺で葬儀が行われており、現在でも、恵林寺では4月12日に信玄忌として毎年供養が行われている。信玄の墓の後ろには武田家臣の供養塔が約七十基並んでいる。

柳沢吉保夫妻の墓

江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府十五万石藩主柳沢美濃守吉保と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保九年(1724)三月、吉保嫡男甲斐守吉里の時、奈良の大和郡山十五万石に転出が決まり、このため同年四月十二日恵林寺へ改葬されたものである。
 柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献資料の中にもそれをうかがい知れる資料が現存している。このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。(案内板より)

   

   

   

 

 

うぐいす廊下

侵入者を察知するために作られた廊下。二条城にもありました。恵林寺の廊下はきれいですねぇ。 

 

 


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