日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

母の思い出

2016年07月04日 21時07分39秒 | 思うがままに

何という母でしょう。

私のスケジュールが分かっているわけがないのに…

全国大会をつつがなく終え、来年の全国大会が決まるのを待つように、母は、私が富山から戻ったその日から食べ物や水分を一切受けつけなくなりました。

入院して延命するか

自然に任せて見送るか

選択を求められましたが、私たち姉弟は迷わず後者を選びました。

木曜日の午後から、金曜日、土曜日の夜まで母と私の濃密な時間。

弟の家族も出たり入ったりしていましたが、私はほとんど一緒にいました。  

浅い呼吸でしたが母は穏やかな顔でした。 

最期の時、弟家族に近くのファミレスで食事をすることを勧めました。戻ってきたら交代で私たち夫婦もしばしの休憩をしようと思っていたのです。

私と主人が見守る中、妙に呼吸がゆっくりになりました。慌ててナースコール。それからです。ほんの23分後に、静かに安らかに天に召されました。

すると、みるみるうちに母は何十才も若返った顔になり「こんなに美人だったのかしら」と改めて驚嘆したのです。

看護師さんたちが「こんなにキレイな人を見たことがない」と言ってくださいました。

母はクリスチャンネームそのままマリア様でした。

シミなし、シワなしの柔和な優しい顔。お化粧は必要なし。ピンクのルージュとチークを薄くつけるのみ。

誰にでも話を合わせるのが常だった母の口癖は「そうねえ~」。

認知症になってからも、食事時に私が「ねぇ~入れ歯は入れないの?」と聞くと「そうねえ」と。(笑)

72日、820、もの言わぬ人となった母は、私たちが旅立ちのコーディネートをしている時の会話に「そうねえ」と今にも言いそうでした。

この3日間、子どものころ一卵性親子と言われた母と私の思い出が走馬灯のように思い出されました。

校則違反だからダメだという私に「可愛いから」と言って無理やりパーマをかけさせちゃった母。

父がゴルフに行くと、強引に学校を休ませてデパートにお買い物。

私を溺愛し、私といるのが一番好きだった母は、人生の最期はやはり私と居たかったのね。

全ての手配が済んで、その間隙をぬって水戸の師範科に伺った昨日。

上野に早めについたのでインドカフェに入ったら「恋する輪廻」の挿入歌「オーム・シャーンティ・オーム」が流れていました。

「何度生まれ変わっても君に恋する」

この映画のキャッチフレーズでした。

私も

「何度生まれ変わっても母と巡り合う」

もしかしたら私が男性で、母が妻かもしれない。

私が母で母が娘になるかもしれない。

いずれにしても、大切にするから待っててね。

今月16日からインド旅行…

母の急変が一週間遅かったら行けなかったかもしれません。

数年前に観ていただいた五日市剛先生の算命学によると、実は母は存命の時から私の守護神だったのです。

今日、棺に『ヨーガ・スートラ全4章』と『ヨーガ・スートラへのいざない』を入れてあげました。

オーム・シャーンティ・オーム(荻山貴美子)

追伸

土曜日の青山NHK、本日の朝日カルチャーをお休みさせていただきました。

ご心配のお問い合わせもいただいているそうです。ありがとうございました。

以前から「お母様はいかがされていますか?」と、案じてくださっていた方々にも心からお礼申し上げます。

母は愛されキャラで、施設のスタッフの皆様からも「照子さん、大好き!」と、スキンシップを受けていました。

ご弔問やお香典など一切ご遠慮させていただくため、本日、家族だけでお別れしました。

明日から日常に戻ります。

コメント (20)
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