先日の田原豊道先生のブログ投稿でハタと気づいたことがあります。
白隠禅師は病気で寝ている人の修行の心得を説いていらしたようです。
西村恵信先生に大分前に頂戴したご著書にこうありました。
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禅の修行のためには病気の時ほど絶好のチャンスだ…と。
古来賢人たちはみな深い山に身を寄せ、世間を遠ざけ、世人を離れて一所懸命修行なさった。
ところが病気であるということは、これほど素晴らしい世間から離れ、日常の托鉢作務の煩わしい仕事をはなれ、お客さんとも会う必要もないし、みんなとワイワイ言う必要もない。
そして死活は天運に任せて、飢え死にするかどうかは、看病してくれる人に任せてしまって、まったく犬や猫が病んで底に這いつくばっているような形で、何も考えず、何の了見も起こさず、 ただすべてを放擲して、そしてこの自分というものはどういう者であるか、自分は何処から生まれて何処へ行くのかということに心を集中できるのだから、病中の床ほど素晴らしい修行の場はないではないか…
これが白隠禅師の特色であるし、また死ということも重要に考えられ、死に向かって参ぜよ、ということも盛んに説かれています。
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改めてこの文章に触れ、白隠禅師と聖フランシスコとが重なったのです。
ひろさちや先生がよくおっしゃいます。
事実を超えた真実がある…と。
「暫時不在 如同死人」は学説的にはどうあれ田原豊道先生が心酔したのは、そこに白隠禅師の真意を見出したのではないでしょうか。
クラーク博士の有名な
Boys,be ambitiousは「少年よ、大志を抱け!」と、教えられました。
しかし、田原先生は「少年よ、野望を抱け」です。
何故野望なのか?と、疑問を持ったことがあります。
田原先生は「ambitionとは大志などという甘っちょろいものではありません。大いなる野心です。野望です。地上に天国を築けと訴えたのです」と、おっしゃった田原先生の師である松浦雨花老師のお言葉に感動された…とか。
野心、野望に先入観を持っていた私はambitionを調べてみました。
抱負,(…に対する)大望;功名心,野心,熱望…とありました。
松浦雨花老師が大いなる野心、野望…と訳されたところにクラーク博士の深淵さがあったのですね。
事実は言葉や目で見えるもの。真実はそれを超えたものなんですね。(荻山貴美子)