小学校低学年の頃。多分1年生か2年生だったのだと思います。
予防接種の注射で順番を待っていました。痛いと泣き出す子。痛さをこらえている子。
どちらにしても何だか痛そう。
怖そう。
いよいよ自分の番が回って来ました。私は、しっかりと針が自分の腕に刺さるのをみとどけました。
チクッ!
ほんの1秒くらい。
何だこれくらい?
幼い私はこんなことをふと思っていました。
人は必ず死ぬ。
順番を待っている間は怖いけど、その時はほんのひとまたぎ。注射の針が刺さるくらいなものではないかしら…と。
変な子でした。
こんな小さな時から死を考えていた瞬間があったんですから…。
今年は忘れられない年になりそうです。
苦しみや悲しみの最中にいる時、心はとてもデリケートになっています。
人の優しさが胸に沁みます。
反対にグサッと刃物のように突き刺さることもあります。
一番身近にいてくれる長いお付き合いのE.Oさんは昨年お母様を亡くされました。長い闘病生活でしたが、私と違って足繁く通って親孝行した方でした。
優しさ溢れるメールをくださいました。
同じくらい親しくお付き合いさせていただいているM・Kさんは私をたくさん笑わせてくださいました。
違った愛のカタチ。
皆さんの暖かさと優しさに包まれていた一年でした。
母は結婚してから外泊をしたことがありませんでした。
家出はしたことがあります。
30分ほどでしたが…。(笑)
やりたいことはたくさんあったけれど、パパがやらせてくれない…といつも嘆き、父の顔色を見て生活していました。
子どもの頃から私の一番嫌いな時間は一家団らんの食事。何で父はいつも不機嫌だったのでしょう。
父がいない時の夕食は伸び伸びと楽しかったこと。(笑)
大正生まれのオトコはこんなだったのかもしれません。愛情はあるけれど不器用。
でも、機嫌のいい時は、とっても可愛かった。(笑)
そんな父も12年前に亡くなりました。
父の闘病中、母が呟いたことがあります。
「私ね、パパの世話をしているのが生き甲斐になっているの。パパがいなくなったら空っぽになっちゃう…」と。
え〜っ!
あんなにワンマンでヤキモチ焼きで、他人の前で蹴ったこともあったのに?
分からないものです。
母と最後の3日間を過ごしたとき、浅い呼吸の母を見つめながらこう自問自答していました。
「頭がよくて達筆で絵も上手く、私たちの着るもの、靴から帽子から何もかも手作り、アイスクリームも手作り。キレイで歌も上手く、スーパーウーマンだった母は、家庭のため、子どものため、父のためにその才能を捧げた。果たして幸せだったのかしら?」
幸せだったのだと思います。
少なくとも私たち姉弟が独立するまでは、母にとって一生分の幸せを感じていたはず。
だから私は悲しくなかったんです。
次の人生はきっと才能を開花できる人生を選ぶんでしょう。
人生は皆自分で選んでいる…って実感させてくれた母との別れでした。
ある方は、そんな私を見て「荻山先生って強いですね」と、おっしゃいました。
複雑な心境でした。「強いですね」が「冷たいですね」という響きに聞こえたのは、平常心ではなかったのかもしれませんね。
でも、強いんではないんです。
心から母の一生を祝福した、私の愛のカタチだったのかもしれません。
皆さん、ありがとうございました。
今年もあとわずかですが、残された2度と来ない2016年を大切に過ごしたいですね。(荻山貴美子)