日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

長〜い、投稿です。

2019年09月21日 19時30分44秒 | 思うがままに
恨みつらみを今更言うつもりは全くありません。
でも、皆さんや皆さんの家族には、どうしても伝えたいことがあります。そして私の記録として少々長くなりますが、書き綴りたいと思います。

勿論夫のことです。

3年ほど前の2016年ごろから気になる程、夜中に何度もトイレに行く。

前立腺肥大かもしれないから病院に行った方が良いと勧める。しかし、泌尿器科には行きたくない夫はテレビのコマーシャルで見たクスリを買ってくれない?と盛んに言う。

仕方なく取り寄せるが、一向に改善せず。

ますますトイレの回数は増える。

秋ごろから頻繁に病院を勧めるも拒否。前立腺肥大だったらいいけど前立腺ガンだったらどうする気?の押し問答。

12月末、食欲減退。

年末から都内のホテルで過ごすことになっていたがキャンセル。

年明けも食欲なし。逆流性食道炎のようにしゃっくりが頻繁。うどんしか食べられない。

年明けに病院に行った方が良い…と強く勧め、ようやく帝京病院の内科受診。栄養点滴のみの対応。その後、内視鏡検査をする。

1月年明け早々にキールタンのCD収録。この時、私は血尿。

1月末、一緒に夫の内視鏡検査の結果を聞きに行く。
慢性胃炎だった。多分、前立腺ガンとの因果関係はないと思う。しかし、栄養点滴はブドウ糖だったはずだからガンに栄養を与えたかもしれない。

この時点で68キロあった体重が10キロ減。

「結果が出る前にあれこれクスリを出さない先生なんて珍しいわね。この先生を私は信じる」という会話を交わした記憶がある。
ついでに泌尿器科に回してもらうことを勧めるも夫は頑として譲らず。

食欲は戻り元気を取り戻すも夜中どころか日中もトイレに頻繁に行く。

そんな状態が続いたまま4月に突入。
4月19日、何となく私の体調が悪い。後から考えると胸騒ぎだったのかもしれない。

4月20日朝から夫の様子が普通ではない。排尿障害も激しくなり血尿まで…。
この時ばかりは泌尿器科で受診。約2週間の検査入院となる。

毎日、病院には行ったが、東京ヨーガ連盟大会、大阪、岡山と続き、私の疲労もピーク。私の血尿も続く。

入院中、CT、MRIの結果は悪し。
前立腺ガンのPSA腫瘍マーカーは入院時は38。
退院時は44。
因みに4以上がグレーゾーンで10以上はガンの確率50パーセント。

生検の結果を残し、5月退院。
結果は連休明け。

5月8日、生検の結果出る。
12箇所すべてにグリーソンスコア(悪性度)はマックス。
つまりこの時点で末期。リンパに転移。骨転移の可能性大。

医師は情け容赦なく治らないと断言。
あえて、ステージも余命も聞かず。
抗がん剤は拒否し、ホルモン治療と、投薬のみ。

退院の日、お寿司屋さんで食事。夫に私がデパートで一目惚れしたジャケットを買う。

この日から、食事改善と、高濃度ビタミンC点滴、温熱療法など一斉着手。

治してみせると武者震い。

1ヶ月検診でPSAが劇的に下がる。

2ヶ月目の検診でさらに下がる。

3ヶ月検診でPSAは0・3。
CT検査良好。転移なし。
医師は治っていますねぇ…と。

しかし、この時点で転院を決める。

2人でノンアルコールで乾杯。

私のスケジュールに合わせ、映画、芝居、落語、旅行を楽しむ。

一年後、昨年の6月ごろから腰痛を訴え始める。

それでも昨年の11月末には伊勢に旅行をしているし深刻ではなかった。

暮れには骨転移とわかりピンポイントで放射線治療。

わずかに小さくはなったが、年明けからまた違う痛み。それでも相変わらず、時間を作っては待ち合わせをして食事をしたり映画を観たりした。

4月24日、待ち合わせて食事。中華は油が気になるからご法度。でも、どうしても中華が食べたいという。
すごい食欲。しかし、口には出さなかったが顔色が悪い。

翌日の4月25日の朝、布団から起き上がれない。カルテのある国立国際医療研究センターに救急搬送。

抗がん剤治療をしないなら受け入れられない…と、言われる。
仕方なく4月30日、初めての抗がん剤点滴。

点滴は確か4〜5時間。
ちょうど決算にあたっていたので、夫の後を引き継ぎ決算をしたり、彼の手を握ったり…。

ヨーガの四季の編集も気になる。

抗がん剤点滴翌日から「ウチに帰ってヨーガの四季の編集をしてくるね。また戻ってくるから待っていてね」という私に「ここでできないの?」と、寂しがる夫。

ウチと病院を何往復もしながらよくぞ乗り越えた…と、自分でも驚く。

一回の抗がん剤点滴は意識障害まで引き起こす。主治医は、脳転移していないのでストレスでしょう…と。つまり髄膜炎を見逃していた。

前立腺ガンの抗がん剤は2種類しかない…。今のが合わなければもう一つの抗がん剤を試すという。「でもダメかもしれませんよ」と、諦めムード。

「それならはじめから勧めるな!」と、内心怒りを感じながら何とか円満に転院したいと奔走する。

都立豊島病院の評判を聞いて、すぐに転院の手続きをする。

国立国際医療研究センターの入院は夫のストレスの極限まできていた。

とても退院できる状態ではなかったがやや強引に介護タクシーで退院。

帰宅後、5回も嘔吐。
でも、「ウチはいいなあ」とシミジミ。

すぐに豊島病院に行き、私が面接を受ける。

一泊でも入院すればいつでも緊急の場合に対応してくれる。

通常、ひと月半は入れないのに約2週間で受け入れてくれた。

結局、一泊どころか、最終的に看取ってもらうことに…。

17日間の在宅看護は本当に良かった。

「豊島病院の入院は嫌じゃない?帰りたくない?」の問いかけに「全然嫌じゃない」と答える夫。

主治医の先生は最高だった。
「意識障害は髄膜炎によるものです。奇跡が起これば別ですよ。でも通常は2〜3週間」

この先生に最後まで診ていただければ本望。本気でそう思った。

入院中は、ただ彼のそばにいるだけ。私には何もできない。

一番良い部屋に移していただいた。彼は「高いんでしょう?」と心配した。「自分のお金だもの、こんな時に使わなくていつ使うの?」と会話した。

「私、こうして一緒にいられて幸せよ」と言ったら「君の幸せが俺の幸せ」とも言った。

「生まれ変わっても一緒になろうね」と言ったら
「ホント?」と聞いた。
そして「君さえ良ければ」と。

夫は、テレビで野球を観ていた。因みに私は野球はキライ。

そこへ、主治医の山田先生の回診。
「野球好きですか?」
「はい、大好きです」
「僕も少年野球のチームに入っていたんですよ」と、先生。
「いかにもスポーツマンに見えますね」と夫。

全てがゆったりと過ぎていく。

何回か山田先生に別室で話を聞いた。

「幸せなご主人ですね。愛の力はすごいですね。信じられないくらいがんばっておられます」

髄膜炎は性格が変わり、八つ当たりすることが多いとか…。

彼は最後まで穏やかだった。

7月9日、呼吸が荒くなることもなく、寝ている状態で私と2人きりの時に息を引き取った。

長々と書き綴りましたが、私が言いたいのは2つ。
ガンになったら緩和ケア外来も受診しましょう。

夫は痛みはガマンするものだと思い込んでいました。だから痛み止めの薬は極力控えました。

痛みはひどくなる前に対処するもの。痛みがなくなれば生きる気力が湧いてきます。

私が山田先生から教えていただいた大切なことです。

そして納得がいくまで信頼できる先生を選ぶこと。

私たちは遠回りしてしまいましたが、最後に出会えた先生が山田先生で本当に良かったです。

人の命は宿命です。

夫は発症してから口癖のように言っていました。
「君に生かされている」と。

ガンと言われてから奇跡的に回復し、2人で楽しんだ時間は神様の贈り物でした。

そして、ガンは別れの時間を十分に与えてくれました。

夫の死は、年齢的にはやはり早すぎたかもしれませんが、幸せな人生だったと信じています。

愛されキャラでした。

夫が私に教えてくれたことは、死は恐れることではない…ということです。

そしてガンも痛みさえ取ればそんなに怖いものではありません。

私は、夫が亡くなってから、がん保険に入りました。

豊島病院にお礼のご挨拶に行ったとき、私もガンになったらこちらでお世話になります。よろしくお願いします…と頼んできました。(笑)

緩和ケアの素晴らしさを皆さんに再確認していただきたい…と思い来年の4月に山田先生をゼミナールにお呼びします。



























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