危篤の連絡が入った翌日、一番の飛行機で新千歳空港を発ち、病院に向かう。
“かずこさん” “は~い”
“かずこさん” “は~い”
“何寝てるの起きなさい” とホッペをつねっておでこをピタピタ、鼻をもじもじ
“いた~い”
“かずこさん、武子よ”(母の母親)
顔をクシャクシャにする。
モニターには血圧60~70の表示。
担当医と面談、
延命だけの点滴ならば不要と、点滴抜去を希望、
担当医はすぐに承諾してくださり、手の甲に刺されていた点滴が抜去される。
何回も刺し替え、あちらこちら紫色に内出血している母の手。
“戻りたい”母の小さな声が聞こえる。
“ホーム?” “うん” と頷く母。
“ホームに帰れないでしょうか? 24時間私が見ます。”
並行してホームにも打診。
病室でホームの責任者と母の担当者、私の3者会談だ。
“今までホームでの看取りは前例がないので申し訳ありませんが・・”
理由をよく問うと、
母は「措置入所」なので、ホームの許可だけでは判断出来ないらしい。
区に申請し、次に市に申請し許可を取らなければならないと。
“お願いします。” 再度頭を下げる。
“わかりました。担当医と相談し検討します。”
“週明けまで持つかどうか・・・”
この日は金曜日、明日明後日は役所は休み、週明けの返事待ちとなった。
“許可が出たらすぐに対応出来るように酸素ボンベの手配をしておきます。”
ホームに戻れる希望が見えてきたのに・・・・
翌13時04分、母は眠るように静かに旅立っていった。
2013年8月24日、享年91歳。
生前、献体登録をしていたのですぐに登録先の医科大学に連絡。
4時間後、大学から迎えの車がやってきた。
「よろしくお願いします。」
母を見送った翌日、ホームに行き荷物の整理。
元気な頃から少しずつ整理をしていたのであっという間に終わる。
捨てる物ばかりだ。
それでも、小さなダンボールひと箱を荷作りし北海道に送る。
翌日は病院で死亡診断書を頂き、コピーしたものを大学にFAXし、担当医にお礼を言い、次に役所に行き診断書を提出し火埋葬許可書をもらい、大学病院に送る。
すべてが終わった。
北海道に戻り、届いた母の荷物を開ける。
けん玉、老眼鏡、電池の切れた時計、古い落語家のテープ、下駄、草履
老眼鏡はこれから使えそう、時計も電池を入れたら時を刻みだした。
テープも折を見て聴いてみよう。
下駄も草履も履かせてもらおう。
けん玉でおとうさんが遊んでいる。
私もやってみよっと。
身辺整理を済ませ、子供に葬式の心配もさせず旅立った母。
見事な最後だった。
か~さん、カッコいいよ。
位牌も作らず、もちろん戒名などない。
ないないずくし。
母の希望。
思い出は良しきにつけ悪しきにつけ、心に残っているもの。
それで十分。
母はまだ大学にいる。
1年、2年、3年、いつになるか。
未来を担う学生の手助けをし、荼毘にふされ戻ってくる。
淡々と普段の生活に戻っている。
最後、母から学ばさせてもらった。
か~さん、ありがとう。