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横浜から北海道の山村に移り住んだ、我が家のつぶやき

北海道追分に移り住み5年。今度は追分から恵庭へ。毎日が新鮮で愉しい事だらけ。そんな生活を気まぐれにおしゃべりしています。

人生これから

2014年04月19日 09時25分45秒 | 家族

3男坊もババも新天地での引越し荷物は完全にお任せ。

ババの荷物はパンツ一枚、靴下一枚、歯ブラシなどなどすべてに記名。

大昔、子供の小学校入学時、文房具ひとつひとつに記名していたのを思い出す。

あの時は、子供の成長に感慨深い想いを感じながら、これからの学校生活に心躍らせながら記名していたもんだ。

ババ?というと・・

おんなじ。

見渡す限り未開の原生林をじじとふたり、鋸で大木を切り倒し、一鍬一鍬、大きな根っこを掘り出し、開墾してきた辛苦の毎日。

いつの日か人らしく暮らせるようになり、子供たちは巣立ち、踊りや旅行を楽しむ時間が持ててきたのに、60後半頃から認知症の症状が出始め、アルツハイマーと診断される。

じじが亡くなり、“真知子さんいる?”ってよく我が家に遊びに来たものだ。

いつもにこにこ笑っている。

60年の歴史満載のババの自宅。ここで死にたいとよく言っていたが・・・

ゴメン、ばば。

もうここでは、ばば一人では生活できない。

ババは自分の事は何でも出来るけど、ご飯作り、ストーブの点火消火、水の始末などなど、出来なくなったことが沢山あるんだ。

グループホームは同年輩の仲間が9人、いつでも一緒。ここでおしゃべりしたり、お茶碗を洗ったり拭いたり、掃除をしたり、ババなら出来ることばかり。

きっと楽しいと思うよ。

ババの部屋をカッコよくしよう。

メロンを作りながらもメナードの優秀な販売員だったババ。

40歳で車の免許を取り、乗り回していたババ。

アクティブなババ

おしゃれをしよう。

これからまた、謳歌しよう!

 

 

 

 

 

 

 


横浜へ

2014年04月15日 21時16分30秒 | 家族

4月1日、横浜の娘から電話がある。

“おかあさん、明日仕事?”  “ないよ。”

“私明日休みなんだ。桜が満開でとってもきれいだし、明日来ない?”

“えっ!明日? ここ北海道だけど。”

“そのために働いているんでしょう、おいでよ。”

“う・・・・・・考える・・・”

去年はこの時期、桜を観たくて行ったんだけど、今年はいいか~っと思っていたんだ。

行っちゃった・・・・・

羽田空港から横浜まで電車でも行けるんだけど、私は首都高湾岸線高速バスのYCATが好きなんだ。それも右側に座るんだ。

「鶴見つばさ橋」から「ベイブリッジ」を通過する左右の横浜港を眺めた時、“あ~これが横浜だ~”って実感する。

右手にはひと際高く美しい70階のランドマークタワー、半月形のヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル。

みなとみらい。

好きだな~

娘の住むマンションのすぐ前には川が流れ、その両側は満開の桜並木。

見事!

真っ青な空、ゆっくり流れる川面、さくら

贅沢な風景。

そのさくらも一週間の帰宅頃にはすっかり舞い散り、今度は川面がさくら色に染まっている。

娘は二人目の子供がお腹におり、つわりがとってもきつそう。

おさんどんに精を出し、

長女の家でもまたまたおさんどん。

母であることを楽しんできた。

今年11月は娘と息子、ふたりの孫が誕生予定。

改めて、親にさせてもらったことに感謝。

ふつつかな親ですが、これからも末長くお付き合いを。

 

 

 

 

 


僕の友達

2014年02月22日 12時07分05秒 | 家族

 

僕の友達を紹介しま~す。

くまのぷ~さん。

真知子ママが寒いからと手袋と靴下を編んでくれたんだ、

この手袋、ほんとうはね~僕の靴下にと編んでくれたんだけど、真知子ママは寸法も測らずさっさと編んじゃって、出来上がったみたらぷ~さんの手袋になっちゃった。

でもぷ~さんも寒いからよかった。

ぷ~さんがもぐっているのは横浜から遊びに来たもうひとりのね~ちゃんが作ったかまくら。

これだって、真知子ママが大きな雪だるまを作るぞ~って張り切っていたんだけど、どう見ても雪だるまというよりは、お供え餅で、見るに耐えなかったよ。

“ね~ちゃんに任せる!”

って真知子ママは途中で止めちゃって、横浜のね~ちゃんが引き継いで作ってくれたんだ。

今日は気持ちのいい、真っ青な空が広がってる。

高いところで、ぷ~さんはたまに行き交う車を眺めている。

あったかいっていいなあ~

                                     テディベアー

 

 


気分がいいこと

2013年11月23日 21時15分30秒 | 家族

朝“モコおはよう!”って戸を開けると、ぴょんぴょん飛び跳ねて足元に寄ってくる。

人間のようなわかり易い表情はないけど、きっとにこにこ笑っている、

“よ~いどん!”

いつものようにいつもの道を走る。

秋蒔きの麦がちょっとだけ伸び、青く染まった畑を左右に、真っ直ぐ伸びる300mほどの農道を最近走っているんだ。

まあ~走るというよりは歩いてはいないよって感じかな。

60を過ぎてから変に健康を気にしている自分がいるんだ。

車移動ばかりだし、運動も特にやっていないから、何かやんなくちゃって思っちゃんだ。

歩くより走ったほうが効き目があるかな~って・・

でも効き目というより、以前は出来なかった事が出来た事がいいんだなあ~

もうダメだ~

って止めちゃうのは簡単。

すぐ出来ちゃう。

あそこまで行ったらもう止めよう。

そこに着いて、まだ行けそう。

またそこに着いて、まだいける。

あれ?着いちゃった。

メロンの時もそうだった。

30度を超える暑~い80mのトンネルハウスの中で、四つんばいになりながら作業をしていく。

もう少し、もう少し、もう少し

 

そんな時、自然に口から出るのはザードの「負けないで」。

 ♪負けないで、ほらそこに♪

♪ゴールは近づいている♪

頑張らなくちゃって感じじゃないんだ。

伸びたメロンのつるをきれいにして風通しよくしてあげる。

風通しよくなったメロンは風を感じ、陽射しを感じ、またすくすくと成長する。

それを見るのが楽しいんだなあ~

職場も家庭も風通しがいいと気分がいい。

だから今まで走るのを途中で止めちゃった自分じゃない自分に、“やったね!イエ~!”っていい気分なんだ。

でも、

だからって、“毎日走んなくちゃ”なんて思っていない。

ゆっくり歩くこともいい気分だから。

薪ストーブの揺れる炎を見ながら過ごしている今もいい気分。

足元が寒いからと薪ストーブの部屋に炬燵を置いたら、

炬燵の中では風太が、ストーブの前ではおと~さんが、座布団の上ではさくらがすやすやすやすやお休みタイム。

そんなみんなを眺める私。

あ~いい気分。

 

 


縁続き

2013年11月20日 00時13分05秒 | 家族

おと~さんとの出会い、

もう8年になるんだ。

私は横浜で看護師をし、おと~さんは札幌でサラリーマンをしていた。

夜、パソコンで遊んでいたらたどりついたメル友サイト。

書くのが好きだったのもあり、メル友での交流はなかなか面白く、ちょっとはまっちゃった。

何人かの人と会ったりもしたけど、どれもこれもパッとせず、

気がついたらおと~さんと最後までメールをしていた。

チャットをするが、じっくり考えてるのか返信が遅い。

当時、おと~さんは家内別居をしており、

“何やってんの、そんなの結婚って言えないよ、さっさと離婚すれば”

“子供のために・・”

“何が子供のためよ、もうみんな成人しているんだからそれこそ迷惑だよ”

なんて言いたい事を言って、

「つまんない男」って思っていたんだけど・・・・

私が交通事故で入院をしたら休みを取って横浜にやってきた。

保険会社とも折衝してくれ、当面の支払いもしてくれたのだった。

こんな人っているんだ・・・・

家には28歳の息子と21歳の息子がいるけど、いいか。

53歳の花嫁となった。

それから色々あった。

有り過ぎるほどあった。

早期退職、義母のアルツハイマー発症、義父の“ばばが出来なければもうメロン作りも終わりだ”の言葉で追分に移り住み、メロン作りを始めることに。

義父母が埼玉から開拓で移り住んだ築50年近いブロック作りの屋根裏が最初の住まい。

次に別の作業部屋の屋根裏、

慣れない農家の仕事。義父が癌を発症するが、入院を嫌い自宅点滴をし、“点滴が洩れてる”と畑に教えに来る義母の言葉で家に戻り差し替えをする毎日。

廃墟のような住まいを借り受け何とか住めるようになった時の喜び。

追分での生活は北海道の自然をまざまざと見せつけられた。

感動の毎日だった。

メロン作りの面白さを知り、人との出会いがあり、

横浜からさくらとモコがやってきて、メロンをムシャムシャ夜毎食べにくるアライクマ退治に飼う事になったアイリッシュセッターのチャチャと出会い、アライグマ捕獲の檻に捕まった猫の「梅」が生んだ4匹の猫と出会い、雪降る朝、育児放棄され放り出されていた生まれたばかりの風太と出会い、

歩けなくなり、“農業をする身体じゃない”と医者から言われ車椅子生活になり介護認定を受けたり、

メロン作りを止めようと決心したとき、リサイクルシャップの話があり、“やってみようか”

横浜から移ってきた息子の存在は大きかったな~

こんなそんなで今に至っている。

8年の月日、

いや~実に面白い。

おと~さんとの「縁」続き。

「縁」があってよかった。

私に最高な幸せをくれた。

縁は異なもの味なもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


横浜から戻る

2013年11月16日 23時35分46秒 | 家族

一週間ぶりに横浜から帰宅。

たった一週間なのに、景色が変わっている。

好きだったもみじは一枚の葉も残す事なく散りゆき、その葉は枯葉色に染まり、カラカラ丸く姿を変え地面に落ち、実は落ちてもまだ緑色だった栗の葉は黄色に染まっている。

あら?ここにテーブルと椅子があったと思ったけど・・・

除雪のために端に寄せられ、

周囲の木々もすっかり葉を落とし、

風通しのよい空間が出来上がっていた。

留守中、今季初めての雪が降ったと聞く。

そんなんだ、本格的な冬がやってきたんだ。

外の蛇口をひねったら水が出ない。

留守中、氷点下になり、凍ちゃったんだって。

だからもう出ないようになっている。

て言う事は、

もう外で洗髪出来ないんだ。

薪でお湯を沸かしながらの外洗髪はけっこう気に入ってたのに、

残念。

今度は5月頃からかな。

北海道に移り住んだ息子の東京出張に合わせ、横浜では子供3人とその家族みんなで遊び、

よく飲み、よく食べ、よく働き、

どこに行くにも、バス、電車を乗り継ぎ移動。

都会は歩くところなんだと実感。

足腰が強くなったような・・・

強くなった勢いで、19時半自宅に戻ってまず始めたのは掃除。

おとうさんがバイトで20時から0時まで不在なので、一層やりやすい。

せっせせっせとお掃除、お掃除。

う~~きれいになった。

翌日、

「イタイ!!」

患肢の左足に強い痛みがひっきりなしに襲う。

またか・・・・

コルセットで固定し、部屋を暖め、いっとき我慢をするが、ダメ!

鎮痛剤を服用。

痛みは消えた・・・

薬ってすごいなあ~って思うけど、あまり好きじゃないんだな~

まあ、ほどほどに付き合っていけばいいいのかな。

薪ストーブのガラス窓から、赤くゆらゆらと炎が燃えているのを眺め、その上でシュンシュンとお湯が沸く音に耳を留める。

これが好きなんだ。

この温かさで足の痛みも消えていく。

11月も半分が過ぎ、残すカレンダーはあと一枚。

厳寒な北海道の冬はすぐそこに。

寒さは痛みを誘うけど、

横浜で子供たち孫と過ごした一週間は、まだしばらく心に温かさをもたらさせてくれる。

おとうさん、

ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 


自転車を楽しむ

2013年09月08日 22時16分38秒 | 家族

我が家には自転車が何台もある。

“これは?”

“車でいったらベンツ”

“これは?”

“クラウン” 

“ふ~~~~~ん”

その「クラウン」で48歳の時、新千歳空港から広島空港。高速バスで尾道まで行き。尾道から自転車で向島 、因島、生口島、大三島などを経て愛媛県今治まで、全長約60kmにもおよぶ西瀬戸 自動車道(しまなみ海道)の緑豊かな島々を結ぶ7本の橋を渡る、5泊6日のひとり自転車旅をしたらしい。

聞かされてネットで見てみたんだけど、なかなかよさげな所だね。

“いつか行こう”って言うけど、なにせ4匹のねこと4匹の犬がいるからせいぜい近場の一泊が限度。

この子達を看取ってからだと70を越えそうだ。

ふ~~

70過ぎてからじゃ、ね~~~~~

買ってもらったイカシタ自転車にカッコいいウェアーがあるんだから乗んなくちゃと思うんだけど、一回カーブを廻りきれず深い用水溝に突っ込みスッポっとはまっちゃった事があってからは、なんとなく遠ざかっているんだ。

乗るのがチョッピリ怖くなってるかも。

初めて乗った時は、イカシタ自転車にカッコいいウェアーを着てサングラスを掛けて走る姿に、気分良く乗っていたもんだけど・・・

ママチャリに慣れちゃうと楽チンなんだよね。農婦ウェアーでも全然OK!だし。

もう一度、ひととき風を感じながらカッコよく(?)走っていたあの頃に戻ってみるかな~

この辺は(農村地帯)アップダウンがほとんどないから楽っていえば楽なんだけど、ちょっとイカシタ自転車にカッコいいウェアーが似合わないような・・・

何カッコつけてんの。

そんな台詞は乗りこなしてから言えっていうもんだよね。

何を言いたいのかわかんなくなっちゃった。

まあ、気候もよくなってきたし、ちょっと頑張ってみてもいいかな。

レースをする訳でもないし、ゆっくりマイペースで楽しめばいいんだもんね。

なんだかしたくなってきた。

いいかも。

 

 

 

 


母のその後

2013年08月29日 15時57分26秒 | 家族

献体先の大学より封書が届く。

「死体解剖承諾書」の提出と「文部大臣からの感謝状授与」の希望有無。

感謝状は不要。

書面には、母は平成27年9月~12月の4ヶ月間に行われる解剖実習に献体され、27年7月末までなら顔を見ることが出来ると書かれている。

母は28年に戻ってくる。

今は順番待ちで大学で静かに眠っているんだね。

3年後か~ きっと忘れてる。

夫婦で話し、

近々献体を受け入れている大学を探して登録するつもりだ。

家族の同意が必要だが、きっと子供達は承諾してくれると思う。

少しづつ少しづつ、意識して物を減らしていこう。

自分が死んだ後、子供達に“何この荷物! あんだけ整理するって言っていたのに、本当にもう~!”と言われないように。

その頃、子供達もおじさんおばさんになっているだろうから、あんまり疲れさせないようにしないと。

カッコよく死ぬぞ~

子供達よ、任せて!

 

 

 

 

 

 

 


母死す

2013年08月27日 10時35分49秒 | 家族

危篤の連絡が入った翌日、一番の飛行機で新千歳空港を発ち、病院に向かう。

“かずこさん”  “は~い”

“かずこさん”  “は~い”

“何寝てるの起きなさい” とホッペをつねっておでこをピタピタ、鼻をもじもじ

“いた~い”

“かずこさん、武子よ”(母の母親)

顔をクシャクシャにする。

モニターには血圧60~70の表示。

担当医と面談、

延命だけの点滴ならば不要と、点滴抜去を希望、

担当医はすぐに承諾してくださり、手の甲に刺されていた点滴が抜去される。

何回も刺し替え、あちらこちら紫色に内出血している母の手。

“戻りたい”母の小さな声が聞こえる。

“ホーム?” “うん” と頷く母。

“ホームに帰れないでしょうか? 24時間私が見ます。”

並行してホームにも打診。

病室でホームの責任者と母の担当者、私の3者会談だ。

“今までホームでの看取りは前例がないので申し訳ありませんが・・”

理由をよく問うと、

母は「措置入所」なので、ホームの許可だけでは判断出来ないらしい。

区に申請し、次に市に申請し許可を取らなければならないと。

“お願いします。” 再度頭を下げる。

“わかりました。担当医と相談し検討します。”

“週明けまで持つかどうか・・・”

この日は金曜日、明日明後日は役所は休み、週明けの返事待ちとなった。

“許可が出たらすぐに対応出来るように酸素ボンベの手配をしておきます。”

ホームに戻れる希望が見えてきたのに・・・・

翌13時04分、母は眠るように静かに旅立っていった。

2013年8月24日、享年91歳。

生前、献体登録をしていたのですぐに登録先の医科大学に連絡。

4時間後、大学から迎えの車がやってきた。

「よろしくお願いします。」

母を見送った翌日、ホームに行き荷物の整理。

元気な頃から少しずつ整理をしていたのであっという間に終わる。

捨てる物ばかりだ。

それでも、小さなダンボールひと箱を荷作りし北海道に送る。

翌日は病院で死亡診断書を頂き、コピーしたものを大学にFAXし、担当医にお礼を言い、次に役所に行き診断書を提出し火埋葬許可書をもらい、大学病院に送る。

すべてが終わった。

北海道に戻り、届いた母の荷物を開ける。

けん玉、老眼鏡、電池の切れた時計、古い落語家のテープ、下駄、草履

老眼鏡はこれから使えそう、時計も電池を入れたら時を刻みだした。

テープも折を見て聴いてみよう。

下駄も草履も履かせてもらおう。

けん玉でおとうさんが遊んでいる。

私もやってみよっと。

身辺整理を済ませ、子供に葬式の心配もさせず旅立った母。

見事な最後だった。

か~さん、カッコいいよ。

位牌も作らず、もちろん戒名などない。

ないないずくし。

母の希望。

思い出は良しきにつけ悪しきにつけ、心に残っているもの。

それで十分。

母はまだ大学にいる。

1年、2年、3年、いつになるか。

未来を担う学生の手助けをし、荼毘にふされ戻ってくる。

淡々と普段の生活に戻っている。

最後、母から学ばさせてもらった。

か~さん、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


母危篤

2013年08月22日 23時48分05秒 | 家族

入院先のDrより“急に状態が落ちて2~3日かもしれません。”と電話あり。

膵臓癌から肝臓に転移し徐々に低下していった母。

9月に行く予定をしていたのだが・・・

この日が来てしまった。

子供のようになった母を見て、長い間の確執が溶け、時間に余裕が出てきた今、時々横浜に行ってと思っていたんだけど・・・

母の方が待てなかった。

いつかこの日が訪れるが、いざ遭遇すると心がざわつく。

病院にいる事を嫌がり、何度も頑張ってホームに戻っていた母。

最後、戻らしてあげたいが・・

お屋敷暮らしのお嬢様から一転して定住なき生活に変わり、幼い時に母親を亡くし神童と言われていた母が満足に学校にも行けなくなった少女時代。

私が昔、“あなたは愛情を知らずに育ってきた人だね。”と言われたように、

母もまた愛情を知らずに育った人だったのだろう。

知らぬがために、身近な愛もどきに仮想の愛を見つけ、見えてくると別れ。

本物の愛を見つけていたのだろうか。

心休まる愛を見つけていたのだろうか。

最後の母を見届けに行ってきます。

待っていてほしい。

 

 

 

 


母の日プレゼント

2013年05月20日 04時31分36秒 | 家族

“母の日に何もあげなかったからこれから買い物に行くよ。迎えに行くから支度して待ってて”と息子からの電話。

やった~!!

若いときはヒールを履いてカッコつけて歩いたものだけど、

今はだめだ。

足がスッポリ入る楽チン靴が一番。

とは言え、

まだもうちょっとカッコつけたいから、楽チンプラスカッコいい靴を買ってもらおうって思っていたら、

“靴がいいんじゃない?”

わかってるじゃん。

“これは?それは?”

“決めた!これがいい”

“こんなでいいの?”(安過ぎたみたい)

その日から私のお気に入りになった。

昨日も今日も、お出掛け時にはこの靴だ。

ありがとう!

貰うことはもちろん嬉しい。

それより、

自分の事を気に掛けていてくれたことが嬉しいんだ。

“髪切った?” “なんかあった?元気がないね?” “なんか楽しそう、いいことあった?”

“飲みに行く?”  “カラオケ行く?” “今日のご飯美味しい!”

なんて、

そんな言葉を聞くだけで幸せ気分。

お金なんて掛けなくていい。

私を気に掛けてくれただけで、幸せなんだ。

 

 

 

 


横浜へ

2013年05月09日 10時10分19秒 | 家族

滞在5日目、

今日は子守りを長女に任せ、ひとり、母のホームに行く。

“あら?誰だっけ?”

“あら?ぼけたの?”

“ううん、ぼけてない、今思い出すから”

“まつこ?”

惜しい!

“真知子だよ。”

“真知子?私の娘?”

“だと思うよ。”

懐古話に花が咲く。

姉からしか聞かされていなかった、記憶のない父。

ふ~私の父親ってそんな人だったんだ。

子供にはわからぬ、夫婦でしか知ることのない「離婚事情」。

あるよね~

今日も“いつ来る?”の声を背にホームを後にする。

今度はいつかな~

想いは毎月なんだけど。

横浜に来て久しぶりのひとり時間。

帰途、ブラッと鮨やに立ち寄り、カウンターで軽く一杯。

長女に預けた孫と一緒に帰宅するが身体が妙にけだるい。

早く帰宅した娘婿に後を託し、早々に横になる。

こうして5日目も終わった・・・・

 

 


ピッカピカの一年生

2013年04月07日 09時53分25秒 | 家族

長女の子供は今年ピッカピカの一年生になった。

入学時の写メールには照れくさい孫の成長した姿があった。

古いアルバムを取り出してみる。

ピンクの着物に黒の羽織を着た若きしの私と、寒そうに寄り添う娘の写真。

昭和55年4月の出来事。

それから娘との時間が止まった。

離婚。

アルバムにはそれ以降の娘の姿がない。

運動会、卒業式、中学時代、高校時代、大学時代。

どんな時間を過ごしてきたのだろう。

だめだな~

涙がこぼれてくる。

孫の入学式に行きたかった。

て言うか、一年生の母になった娘を見たかったような。

どうぞ娘家族が末長く幸せでありますよう。

心から祈ります。