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ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

屋島から志度までのストリートビューをムービーメーカーにしました。

2015-07-02 | パソコン

2014-7-6 のブログ 屋島の家から志度のログハウスまでの道をストリートビューで撮りました。(NO.1)と 

2014-7-7 のブログ と 屋島の家から志度のログハウスまでの道をストリートビューで撮りました。(NO.2) 

で作った画像を久しぶりに ムービーメーカーで編集してみました。

60歳の定年後には 屋島の家から志度の畑までの 約12kmの道を車かバイクで何度も何度も通っています。

上の画像はGoogleマップの切り取りで、下の画像は それをもう少し詳しくしたものです。

屋島から志度までの道の 25地点を Googleのストリートビューで表示したものを Snipping Toolで切り取りました。

前半の①~⑨までの分です。

 ①家の近くの新川の橋には
   那須与一の像があります。 
 ②橋を渡って新川に沿って南下
 ③直ぐにJR高徳線の踏み切り
 ④屋島と五剣山が見える風景
 ⑤左折して東に向かいます。
 ⑥車で移動の時には この交差点
   で屋島に向かいます。
 ⑦長い間 工事中だった東部運動
   公園がやっと出来ました。 
 ⑧讃岐郷土料理の店「郷屋敷」
   ここがちょうど中間地点です。 
 ⑨羽間の交差点 ここから上りです。  

 

 

 

後半の⑩~25 までの分です。

 ⑩石の置き場があり、ここから下り
 ⑪ここの畑の人がいつも手入れを

   していて、野菜の参考にします。
 ⑫黒い石で造られた彫像があります。
 ⑬普通の家でモーニングの看板
 ⑭県立保健医療大学の近くで
   ここから見る五剣山がいいです。 
 ⑮県
立保健医療大学が見えます。
 ⑯同じようなシーンです。
 ⑰牟礼トンネルの入り口には
   讃岐の偉人 平賀源内のイラスト
 ⑱この牟礼トンネルを出ると
   さぬき市志度です。 
 ⑲ショッピングセンター Fujiです。
 ⑳コンビニがセブンイレブンに
 21 高徳線の踏み切りを渡ります。
 22 美容室 リッツには いつもきれいな花が咲いています。
 23 夏だけに設置される無人のモモの販売所
 24 ここを右折するとログハウスが近くです。
 25 この奥に畑とログハウスがあります。 


ムービーメーカーで編集して YouTubeにアップロードして、ブログに貼りつけました。

屋島から志度へ


写真の背景を透明にして、合成写真を作る方法についてまとめてみました。

2015-06-23 | パソコン

わくわくお出かけに行った時の 記念写真に撮影者が写っていない時には

2枚の写真から 一人分を切り取って、背景を透明にした後に合成するのが

手際よくなってきました。

パソコン教室で習った 「Clipping Magic」で背景を透明にして

Snipping Tool」で 切り取った画像を Wordに貼りつけて

「背景の削除」をして、PNG形式で保存します。

その画像を「Photoscape」の画像編集で 貼りつけて出来上がりです。


作業手順を Wordの資料にして、PDF Viewer を使って画像化しました。


今までのブログて作った合成写真を振り返ってみました。

 


私が育った多度津町の彫刻家「速水史郎さん」について、インターネットで調べました。

2015-03-25 | パソコン

昨年の暮れから 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書き始めました。
1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
回目は2015-01-07のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷
回目は2015-01-29のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 之丞 

回目は2015-02-05のブログ:四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さん(多度津の人)

今回は石の抽象彫刻などで活躍されている速水史郎さんが、私の生まれ育った多度津町の人と知り
インターネットで調べましたら、身近なところや全国にいろいろな作品がありました。

速水史朗さんは、香川県多度津町で1927年に生まれました。左の写真は4年前の香川県ミュージアムで挨拶された時のもので、今年で88才となられます。
氏の略歴をEXCELでまとめて、画像化しました。


    



この詳細は Picasaウェブアルバムに登録しました。 
   (☆ クリックすると 略歴の詳細にリンクします。)
1949年から多度津中学で理科の教師をして、この頃から彫刻の勉強をし
1954年から善通寺市立東中学校の美術教師になりました。
私が多度津中学に入学した時には、もうおられなかったのですが
奥様と一緒の写真を見ると、音楽の先生だった人が奥様でした。

 僕は絵描きになろうと思っていた。
大学を出て理科の教師になったが、
やっぱり絵が好きだった。美術教室に行くと
美術の先生が粘土で女の子の顔を作っていて、
「こんな世界があるんだ」と衝撃を受け、
そこから彫刻を志した。

この美術の先生はいかにも芸術家といった風貌の記憶のある先生のことだったのでしょうか。
60年前の記憶ですから かなり曖昧ですが 
私は図工も音楽も苦手だった生徒でしたので 
なおさら思い出せません。 

香川には僕を育ててくれるものがたくさんあり、近くに飯野山と高見島がある。
このほっこりした形が僕の彫刻の原点。讃岐の風景を大切にして、讃岐から作品を発表して行きたい。

先生のアトリエは町の西の白方で、特徴のある塀が印象にあり、
今回 GoogleマップのEarthとストリートビューで見つけて、切り取ってPhotoscapeで編集しました。

 Googleマップを貼りつけてみます。
  

 

  インターネットで「速水史郎」画像を検索すると
 多くの作品が見つけられました。
 その画像に関するブログなどの記事も とても
 参考になり 作品の作られた年や題名、設置場所
 を知ることが出来ました。

 その作品の画像をパソコンに取り込み、
 Picasa ウェブアルバムに登録しました。

 (☆クリックすると Picasa ウェブアルバムにリンクします。)

 2011年に行われた展覧会の様子の動画
 登録しました。

 多度津町にある作品についても 知りませんでした。丸亀・琴平・高松など県内の作品も見ていません。これから機会を作って見たいと思います。
 

速水さんは私の母校 多度津工業高校の機械科を昭和20年に卒業されたことを知りました。
現在は多度津高校となっていますが、
その60周年の記念に校舎前に「メビウス」という作品を作っています。

 
    

多度津町の中央を流れる桜川にかかる「ごくらく橋」に飾られている作品で、
阿吽の呼吸」を表しているとのことです。

右の地図は多度津町の全体がわかり、中央付近に 「ごくらく橋」という文字が見えます。

  

昔 桃陵公園の下を琴平参宮電鉄が走っていた時のトンネルが、きれいになっています。
その入り口のデザインも速水さんで、右の画像は以前のブログで多度津町を紹介した時のものです。

桃山隧道の出入り口のデザインは、太陽と月と桜にイメージで
す。
桃陵公園の桜は有名で、4月の桜まつりが楽しみです。

   

 

 

 


 香川県桃山隧道の出入り口のデザインは、太陽と月と桜にイメージです。

桃陵公園の桜は有名で、4月の桜まつりが楽しみです。内に設置されている作品も見つけました。

左の画像は JR琴平駅前に作られた作品
「こんぴらふねふね」

下の画像は JR丸亀駅のバス停ちかくにある作品
「ふれあい」です。

  


屋島の家から志度の畑に行く途中に、香川県立保健医療大学があり、バイクで通るときに見かけるので一度スマホで撮ったことがあるのですが、速水史郎作の「人」とは知りませんでした。
Googleのストリートビューから切り取った写真と、インターネットで
見つけた写真をPhotoscapeで編集しました。


 日本のあちこちに速水さんの作品があります。

 洞爺湖にある作品「Sun-TOYA讃洞爺」
です。

題名の「讃」には洞爺開拓をされた讃岐出身の方々への思いが込められているとのことです。
2015-1-29のブログ香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 之丞
で財田村出身の大久保という人が洞爺村開拓の支援をして湖畔には銅像が建てられています。
    

1993年に始まった「洞爺村国際彫刻ビエンナーレ」は2007年の第8回まで行われ、
速水さんは毎年 参加しました。

ビエンナーレとはイタリア語で「二年に一度開催される国際的美術展」のことで、
姪の卒業作品が「札幌ビエンナーレ」に入賞した時に
ビエンナーレという言葉をしりました。


インターネットで見つけた日本各地の速水史郎さんの作品を Photoscape で編集しました。
Picasaウェブアルバムに登録しました。 

 

 

 

     

  


 速水史郎氏の略歴

1927, 香川県多度津町に生まれる。 
1945, 多度津工業高校機械科を卒業 
1949, 徳島大学工学部機械工学科を卒業 多度津中学校の理科教師となる。この頃から彫刻の勉強を始めた。
1954,善通寺市立東中学校の美術教師となり、1957年からコンクリートによる半具象の作品を制作し、二紀会などに出品。

1964,宮武画廊で初個展以来、日本各地の現代美術展に参加する。 
1968,ギャラリー新宿の個展で、最初の瓦の作品〈おばけ〉240点を発表。
1969, 第1回現代国際彫刻展(箱根彫刻の森美術館) 
1970 ,今日の作家展(横浜市民ギャラリー) 
1973, 第1回彫刻の森美術館大賞展で優秀賞 
1974, 第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で神戸須磨離宮公園賞 以後10回まで出品し毎回受賞 
1975, 第2回ブダペスト国際彫刻ビエンナーレ 
1977,第7回現代日本彫刻展で宇部市野外彫刻美術館賞 8回で群馬県立近代美術館賞、11回で京都国立近代美術館賞 
1981, 第1回びわこ現代彫刻展で優秀賞  第2回へンリー・ムア大賞展で優秀賞、
    3回で美ヶ原高原美術館賞。日本近代彫刻の展開(神奈川県立近代美術館) 
1984, 現代国際彫刻シンポジウム-びわこ現代彫刻展 
1985 ,速水史朗展(香川県文化会館)
1986 ,高松野外彫刻展 1987 丹沢野外彫刻展で優秀賞 倉敷まちかどの彫刻展 第15回長野市野外彫刻賞 四国新聞文化賞 
1988 ,瀬戸大橋架橋記念野外彫刻展
1989 ,第1回横浜彫刻展で横浜市長賞 抽象彫刻の旗手たち(福島県立美術館) 
1991 ,香川県文化功労者
1993 ,洞爺村国際彫刻ビエンナーレ  平成5年から8回まで行われた。
1996 ,紫綬褒章
1997,おおらかな大地・速水史朗展(高松市美術館他)
1999 ,仙台市彫刻のあるまちづくり事業
2000, 国際芸術文化受賞(日本文化振興会)
2001 ,招聘作家として滋賀県立陶芸の森にて制作。
2002 ,世界恒久平和記念、日米秀作ポスター展で平和美術貢献賞を受賞。
2003 ,速水史郎展 猪熊弦一郎現代美術館、丸亀 速水史郎の側面展 ギャラリーアルテ、丸亀
2005 ,よんでん芸術文化賞、旭日小綬章

2009,洞爺村国際彫刻ビエンナーレの特別展


Picasaウェブアルバムに裕次郎の歌を追加しました。

2015-02-25 | パソコン

今迄に何回も YouTubeからCraving Explorerでパソコンにダウンロードした歌謡曲を

Windowsムービーメーカーで編集して Picasaウェブアルバムに登録してきました。

今回 裕次郎の曲をYouTubeからまとめてダウンロードした分を、3つのアルバムに

編集して、今までに2つ登録していたアルバムに追加しました。

  (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの裕次郎にリンクします。)


一つ目のアルバムは裕次郎が入院後の映像の分で、7曲を23分くらいに編集しました。

曲名は ①粋な別れ ②夜霧よ今夜もありがとう ③港町涙町別れ町 ④恋の町 札幌

⑤夕陽の丘 ⑥くちなしの花 ⑦旅姿三人男 で、⑤は浅丘ルリ子 ⑥と⑦は渡哲也とのデュエットです。

  (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの1番目にリンクします。)

     


二つ目のアルバムは裕次郎の歌 10曲を35分くらいに編集した分で、

曲名は ①北の旅人 ②ブランデーグラス ③二人の世界 ④こぼれ花  ⑤錆びたナイフ

     ⑥俺は待ってるぜ  ⑦雪国の町 ⑧口笛が聞こえる港町 ⑨夕陽の丘 ⑩地獄花 です。

     曲の背景画面に裕次郎は出てきませんが、⑨夕陽の丘 の背景は映画のシーンになっています。

  (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの2番目にリンクします。)

     


三つ目のアルバムは裕次郎が他の人の曲を歌っている 8曲を28分くらいに編集しました。

曲名は ①小樽のひとよ ②霧にむせぶ夜 ③君こそわが命 ④カスバの女 ⑤東京の夜

     ⑥北斗七星 ⑦赤坂の夜は更けて ⑧東京ナイトクラブ で、

曲の背景画面に裕次郎は出てなくて ほとんどが風景の画像です。

     ⑧東京ナイトクラブ は 八代亜紀とのデュエットです。

   (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの3番目にリンクします。)

     


四つ目のアルバムは前からアルバムに登録してあった分で、 5曲を15分くらいに編集してあります。

曲名は ①おれの小樽 ②恋の町 札幌 ③夕陽の丘 ④赤いハンカチ ⑤サヨナラ横浜 です。

   (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの4番目にリンクします。)

     


五つ目のアルバムも前からアルバムに登録してあった分で、 8曲を15分くらいに編集してあります。

曲名は ①北の旅人 ②俺の小樽 ③赤いハンカチ ④二人の世界 ⑤思い出さがし 

     ⑥銀座の恋の物語 ⑦ブランデーグラス ⑧夕陽の丘 です。

   (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの5番目にリンクします。)

     


今迄に 歌謡曲をPicasaウェブアルバムに登録してきたブログは以下のものです。

2014-10-24 Youtubeから取り込んだ懐かしい歌謡曲をPicasaウェブアルバムに載せました。

2014-07-10 Youtubeからダウンロードした歌謡曲をPicasaウェブアルバムにまとめ直しました。

2014-01-16 Picasaウェブアルバムに美空ひばりの歌をWindowsムービーメーカーで編集して登録しました。

2014-01-09 Youtubeからダウンロードした歌謡曲をPicasaウェブアルバムに再登録しました。


私が育った多度津町についてインターネットで調べて見ました。

2015-02-15 | パソコン

香川県の偉人について調べていくうちに、私が生れ育った多度津のことを

インターネットで調べて昔の記憶をたどったり、現在の町の事を知りました。

 2/14(土)に多度津町特産の「白方かき」
 をPRする
「第6回白方かき祭り」が、
 多度津町西白方の白方漁協
で行われ、
 新鮮な生カキやカキ料理を求める大勢の

 家族連れらでにぎわったそうです。
 香川県産のカキで初めてブランド化した大粒で
 良質な
「白方かき」をPRし、販路拡大に
 つなげようと開催した。

 市価より2、3割安い新鮮なカキを目当てに
 町内外から
約5千人が訪れ、開場前から
 長蛇の列をつくった。


 今年はさぬき市や岡山県の産地で記録的な不漁となる中、「白方のカキ」は例年通りの出来栄えで、むき身のパックは
販売開始から40分余りで完売。会場では家族連れやグループらが熱々の焼きカキや
カキフライなどを頬張り、冬の味覚を堪能していた。

 

以前から山田下の交差点にある香川の地酒 西野金陵
の看板が気になっていました。
今回 讃岐の観光案内やインターネットで金陵のことを調べて、多度津工場の写真をGoogleの
ストリートビューで切り抜き、
2012年に
初詣のブログて使った画像と合成しました。

山田の伊射奈岐神社に奉納されています。
調べた記事の中に、
金陵の多度津工場の近くにある
「八幡の森」のことが
書かれていました。
子どもの頃にそこの湧水が冷たくてきれい

だったことを思い出しました。

「八幡の森 ほたるの里」は、葛原正八幡宮の奥にあり、
「金陵の多度津工場」はその裏手にあります。
このあたりはきれいな湧き水が豊富だったので、
金陵の工場もここに作られたそうです。
「八幡の森」今でも暗い感じのする森である。
またこの森の中には、いつもコンコンと自然に湧き出る泉があるので、特に夏などはこの冷い湧水で、
旅人は顔を洗ったり、
呑んだり、馬にも飲ませたことであろう。
古い本で金比羅絵図にも書かれている程、この森は昔から有名な森である。 

下の画像はGoogleのストリートビューで切り取った分とインターネットから見つけたものです。

        


 10年前に亡くなった母は善通寺の生まれ
 で、
家の前に見える大麻山のふもとに
 平照寺(首山観音)があります。 
 弟が車で母と私をよく連れて行って
 くれて
 先日 聞くと今でもお参り
 しているそうです。 

 場所を確認したら、三豊郡高勢町とのこと
 でした。
 そにある石の碑は多度津の大工一同が
 普請
し、その中に祖父の名前があることに
 弟が気づいて

 写真も撮ってくれています。
    

 弘法大師が一夜で建てたと言われている
 通称「首山の観音さん」。
 首から上の病気や目・鼻などの病封じ、
 また子授けや入学祈願などを祈る参拝者が
 多く訪れ、線香の煙が絶えません。 


 私の家から小学校までの間にあった小川に
沿って
歩くと機関区へ出た。その附近の家を官舎と呼んでいて国鉄の官舎で、近くには機関車の釜で燃えかすになった石炭の山が築かれ、コークスを拾う小母ハン達の姿をよく見かけたものだ。
手前の小川にはどじょうや小鮒がいた。
この小川は鉄道に沿って鴨の踏切の近くまで延び、そこで曲がって線路の下を流れていた。場所によってはシジミが取れたりした。
大雨の後では希に鯉にもお目にかかったが、
あれは私の家の近くにある「大森」の池から
逃げ出したものと思われる。

 大人が本気でうなぎの穴釣りをしているの
にも
出会ったりした。
 この間 弟に聞くと、大森の池は今でも
 あって
養殖池になっているそうです。
 小川の近くにあった 通称「鉄砲池」
 には兄と
行って、小さな竿に大きな鮒が
 かかったことを
覚えています。
 その池も埋め立てられて、どこだったか
 分からず
ウナギの穴釣りを見かけた記憶も曖昧です。
 左の画像はインターネットから取り込んだもので
 たしか大きなみみずを使っていました。


多度津の医院について調べた中の記事に町には4人の医師(山本、是澤、高畑、塩田)と3人の歯科医(島田、横田、小野)がいたとあり、私の家は高畠醫院にかかっていました。
待合室にあった古い扇風機と年取った先生の記憶です。
往診に来てくれていたことと、父を看取ってくれたのも大先生でした。
右の写真はインターネットから見つけた高畠醫院と旧楽天堂医院とGoogleのストリートビューで切り取った分をPhotascapeで合成しました。 

下の写真はインターネットで「GEの扇風機」で
見つけたもので、高畠醫院の待合室に有ったのは
たしかGE製だったとの記憶です。 

       


一昨年の8月に東京スカイツリーを見た後に多度津の中学の時の友達に会った時に、
多度津町の埋立地にある川田工業の四国工場で
東京スカイツリーの先端を作ったと聞いたので
インターネットでそのことを調べてみました。
スカイツリーの先端にある避雷針で、川田工業はスカイツリーを作った企業の一つでした。

        


四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんが多度津の人と知りました。

2015-02-05 | パソコン

昨年の暮れから 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書き始めました。
1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
回目は2015-01-07のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷
回目は2015-01-29のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞 

今回は「四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんが、私の生まれ育った多度津町の人と知り
昔の多度津のことについて インターネットで調べました。

 明治22年2月に、現在の四国鉄道の前身ともいうべき鉄道・私鉄讃岐
 鉄道を創立して、四國で初めて、多度津を起点として、琴平・丸亀・
 後に高松までを汽車を走らせた。


 また同24年には、多度津銀行を町内で初めて創立、同31年には西讃
 電燈(後に現在の四国電力KK)を創立するなど、常に公益事業に
 力を入れた。


 一方、また国政にも参與し、衆議院議員に4選したこともあり、数々
 の功績に対し元、四水本社(現在多度津電報局のところにあった)
 前に、氏の生存中に等身大の銅像が建立され 戰時中、金属強制回収
 で供出されたが、元社地へ昭和43年10月25日、四水発祥地碑と並ん
 で立派な胸像が建立された。


 なお香川県では、氏の功績を稱え、昭和36年11月、善通寺市にある
 香川県護国神社内にある、先賢堂に祭神として、菅原道真公や、
弘法大師や、本県の先賢者と共に祀られてある。

現在の国鉄四国鉄道の始まりは、明治23年に、讃岐鉄道会社が、多度津町の景山甚右衛門さんによって
創設され、多度津を起点として、東は丸亀町、続いて高松まで延長。南は琴平町までを、外国製の汽車を
買入れて走らせたのである。


多度津町について、インターネットで調べていくと「多度津町資料館」に多くの写真や
記事があり、多度津全体を描いた絵地図がありました。

左の絵は多度津町全体の昔の様子が分かる鳥瞰図で、右の画像は現在の町内地図です。

  
多度津駅前から西に向かってすぐに学校・警察署・町役場があり、町並みを通り過ぎると
多度津港に着きます。
その近くに桃陵公園があって子どものころの遊び場で良く行ったことが記憶にあります。

  多度津港は金比羅さんにお参りする人が
 近くの琴電参宮電鉄で行くことなどで
 賑わっていましたが、今は何でも高松に 
 移って昔の面影はなくなっています

   

昭和の初期くらいの多度津港の写真をみつけて、Photoscapeで編集しました。

当時は海岸線もきれいで、何か所かの海水浴場もあったのですが昭和40年代から
埋め立て工事が行われて 今は様変わりしてしまいました。

           


香川県立桃陵公園のはじまり

  昔は、この公園一帯の地は「桃山」または、桃山公園と呼ばれていて、
 多度津のお殿様の別荘もあった処である。

 山上からの眺めは、天下一品の稱がある。
 波静かな瀬戸内の風景は、実に一幅のパノラマを見るようである。

 昔の桃山が、県立公園に指定されるまでには、矢張り、公園としての施設全般について改善、改良、
 開発も必要だし、
又、政治面に於いても大いに関係がある。
 これを開発して、県立桃陵公園に編入させたのは、今井浩三さんという町長さんで、昭和5年9月
 から2ヶ月に亘って、
毎日、善通寺師団の工兵隊から何百人もの兵隊さんが出動して、爆破演習の
 名目で、公園登山道の大岩を切取って
道をつけることに、この町長さんは、交渉に成功したのである。

 翌6年には山上ドライブウェーも開通し、同年6月21日には、嘗ては国定教科書にも搭載された
 有名な「一太郎やーい」の
銅像を建てた。 
(註・この銅像は、戰争中、強制供出で取り去り、今のは、コンクリト造にブロンズしたもの)

 また一方、全山に「桜」数千本を植え、見晴らしに展望台を設けたり、子供遊園地、動物の飼育
 なども完成し、
名前を「桃陵公園」と稱した。
 今は全山これ桜!桜で、4月の満開頃には毎日2・3万人の人出で、大混雑をする。

 昭和22年8月、この公園は、町民待望の、県立公園に指定され、
 昭和45年春、子供遊び場の拡張、施設の充実と、相俟って、県下一、桜の名所となった。

 この功労者、今井町長さんは、生前、町民の手によって公園入口広場に等身大の
 銅像が建てられている。

 左の画像は桃陵公園に登るスロープと
 かって琴平電鉄が走っていたトンネルの
 様子と、今井町長の銅像をGoogleの
 ストリートビューで撮ったものを編集
 しました。

 子供の頃の記憶に桃陵公園で国体の
 ボクシング
が行われことがあり、
 調べてみると昭和28年の
10月に
 第8回の国体だったようです。

 


「一太郎やーい」の銅像は、明治37年からの日露戦役に
多度津港から出陣する善通寺師団の息子に手を振って
声をかけているものです。

有名になって一時国定教科書にも搭載されていたそうで、
昭和6年に銅像となって桃陵公園の展望台に建てられました。

 桃陵公園からみえる讃岐平野の眺望は讃岐富士が良く
 見えて
きれいです。

      


 桃陵公園の入り口付近に琴平参宮電鉄の駅がありました。
 コンクリート造りの立派な建物で、ここから乗って親戚の
 ある
善通寺や金比羅参りにいったことがあります。

 多度津の港へ船で来て、さぬき金比羅さんへ、お詣りする人
 を輸送する
多度津から琴平へ直通電車が、大正13年10月
 9日、琴平参宮電鉄KK
に よって、琴平から、多度津鶴橋
 まで初めて開通し、
翌14年2月26日には桃陵公園山麓の
 トンネルが開通したので、
更に路線延長により、東浜の桃陵
 公園口に、多度津駅を開設した。

 この東浜附近は、当時としては珍らしい洋風駅舎が町の
 真中にあって、
相当 町は賑っていた。
 その後、高松―琴平間にも電車が走るようになり、
 客も次第に減り、從来の複線を単線にした。
(昭和28年4月25日)

 更に時代の推移には抗し難く、同社はバス路線運転に切りか
 え、
昭和38年9月15日、ここに多度津の町から電車は
 姿を消したのである。

 この近くにあった大きな旅館の子が同級生で一度集まりを
 しました。

        


 実家の近くに四国八十八カ所の第77番札所
「道隆寺」
があり、古くから行われている
 鴨市があります。
植木や野菜の苗などが売られて
 いて、何度か行きました。

 その後、市立は多少変って来て、農機具なども
 展示される
ようになっているが、昔からの鴨市は
 今でも相当な賑いを
呈しているそうです。
 この春市は、塩屋市・海岸寺市と続き、最終が
 金倉寺市で終り、それから麦刈りに忙しくなる。
 亡くなった母がお寺の伽藍でハトにエサをやって
 いる
写真があったので、貼りつけてみました。

 私達の小学生時代には、春と秋のお彼岸の中日には、「七ヶ所まいり」があり、
 弁当をさげて、友達と、
おまいりした。七ヶ所めぐりの寺々は 
  ●第71番 弥谷寺
  ●第72番 曼陀羅寺 ●第73番 出釈迦寺
  ●第74番 甲山寺 ●第75番 善通寺 ●第76番 金倉寺 ●第77番 道隆寺


 多度津小学校の歴史は古く,明治5年頒布の学制に
よって,硯岡小学校として授業を始めました.

その後,多聞院や旧多度津藩倉庫などを校舎としたりしていましたが,明治20年の小学校令によって,硯岡小学校を多度津尋常小学校と改め,明治21年には,大通町(現JR多度津工場)に校舎を新築しました。大正15年になって,栄町の現在地に移転し,
新校舎が建設されました.

さらに,昭和3年には鉄筋コンクリート造2階建て大講堂が新築落成し,郡内一の規模を誇りました.
昭和47年には老朽化したということで取り壊されて,新しい校舎が建設されました。

多度津町立多度津中学校は、鉄筋コンクリート建築物の耐用年数の目安となる建築後50年以上が
経過しており、現在その改築事業を実施中だそうです。

私が中学生の時に多度津町・白方・四箇が統合されて鉄筋の新しい学校で学びました。
一学年に10クラスはあったように思います。

インターネットで調べていると多度津小学校の
創立100周年記念誌「硯丘の百年」 に兄の名前を
見つけました。兄は三歳上で昭和15年
(皇紀2600年)生まれで、
昭和27年の卒業生です。
各組53~55名で東西南北の組み分けです。
兄は北組で担任の岡田先生の話は今でも
出てきます。先生は美術が専門で兄は絵が上手で
油絵もやり始めていたと思います。
版画で表彰されたことを覚えていて、兄は今でも
保管していました。その絵を貼りつけてみました。

今でも東京出会う 私の親友の兄の名前や母に90歳のお祝いを 持ってきてくれた
町長さんの
名前を見つけました。


 浜には、夏が来ると小屋がけが出来た。仕切の簾を巻き上げると二つの貸席が大きな一つの貸席にもなるように出来ていた。どの店にも、関東煮(おでん)、かき氷、あめゆ、それにいり豆(大豆)を袋に入れたものを売っていた。子供達はその袋をフンドシに結びつけ、泳いでいる間に、潮水でふやけ適度に味のついたのを袋から取り出して食べたものだ。ここでは何といっても「あめゆ」である。底のあついそり身のコップになみなみとついでくれたあのあめゆは、生姜がきいていて、泳ぎ疲れた少年の咽喉に優しかった。

 多度津のあった中華そばの店「上海軒」の味が懐かしくて、多くの人から話を聞きます。
大正堂は町の中央にあった友人の店で、いつも忙しく餡をつくったり 餅を搗いたりしてた
風景が記憶にあります。


 インターネットで調べた時に参考にさせていただきましたホームページです。
  (☆ 画像をクリックすると リンクします。)

  

     


香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞について調べました。

2015-01-29 | パソコン

昨年の暮れから 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書き始めました。
1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
回目は2015-01-07のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷

今回は 明治初期に四国新道・香川用水・瀬戸大橋を提唱したことで知られる
大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう)について、インターネットで調べました。

 大久保 之丞は1849(嘉永2年)に三豊市財田町の
 大地主であった大久保森冶の三男として生まれる。
 1872(明治5年)、財田村吏員、その後郡吏員等を
 経て、1888年(明治21年)に愛媛県会議員、翌年、
 香川県が愛媛県から分離し香川県会議員となる。
 1891(明治24年)、議会での演説中に倒れ、
 42歳で死去。

 私財を投じて道路・橋梁を整備、奨学資金の貸付け、
 病院建設への資金の寄贈等又、讃岐鉄道・北海道移住
 などを提唱・実行する。

 道路開発に情熱を傾け「四国新道開発の父」と称される。

 北海道移住・開拓などにも私財を投じ、
 北海道洞爺湖町では「開拓の父」と称される。
 北海道開拓移民には自ら資金を出し、毎年数百人を
 北海道に移住させた。

 左の画像は財田「たからだの里」に建つ之丞の胸像


大久保 諶之丞の功績を記す碑が各地にあります。財田町と北海道の洞爺村にある碑の文面を

WORDからPDFにして、PDF-VIEWERというソフトを使って画像に変換しました、

  

 

 


大久保が育った財田は、阿讃山脈のふもとに位置しています。
隣の徳島県や高知県に行くためには、険しい猪ノ鼻峠を越えていかなければなりませんでした。
大久保は幼い頃から、人々が踏みわけ道程度の曲がりくねった道を苦労して
峠越えしている様子を見て育ちました。

讃岐の発展、四国の発展のためには、人々が容易に往来することができる道をつくることが
必要であるとの
大久保の思いはこうして形成されました。
  


香川用水は、水源が十分ではない香川県の慢性的な水不足を解消するために建設された多目的水路です。
香川県では降雨量が少なく、大きな河川が少ないため、水不足は深刻で、
満濃池など多くのため池を築いてきたが
十分な用水の確保は出来なかった。
また一方、徳島県も吉野川では大きな洪水による被害が度重なった。

そのため吉野川流域の安全と水の安定供給を目的とした吉野川総合開発事業が計画され、
早明浦ダム、池田ダムとともに
計画の一環として香川用水は建設されることとなり、
開発事業の発表から24年後の1974年に完成した。

香川用水の水源は吉野川にある早明浦ダムで、蓄えられた水は池田ダムから
讃岐山脈を貫通しているトンネルを経て
香川県に導かれ県内一円に
農業用水、水道用水、工業用水を供給している。

            早明浦ダム                    満濃池

  


 讃岐鉄道は多度津の景山甚右衛門が、地元においても 
   鉄道敷設の必要があると判断し、多度津港から、
 金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立した。
 発起人には計画に協力した香川県議会議員の
 大久保 之丞も名を連ねていた。
1888年(明治21年)
    起工された。1889年(明治22年)、通した年に讃岐鉄道
 の初の営業区間である丸亀駅 - 琴平駅間を開業させた。

 日本全国で9番目、四国で伊予鉄道に次ぎ2番目の
 開業となった。
讃岐鉄道の開通式の祝辞で、大久保は 
 瀬戸大橋の構想を
発表しました。
 坂出市番の州の瀬戸大橋記念公園内に大久保諶之丞
 の
銅像があります。


香川県財田町と北海道洞爺村とのつながりは、明治20年(1887 年)5月10日、
洞爺村開拓の父と慕われる
大久保之丞が心血を注い だ「北海道移民計画」に共鳴し、
香川県財田村を中心とする22戸76 名の一団が
原始の洞爺に移り住んでから約120年、
これらの人たちの 努力が実を結び、原始の大地は今は、豊かで美しい土地に姿を変え、

人々 はいきいきと暮らしています。 開拓の第一歩が印されて以来、洞爺村には財田町との縁故の人達も
数 多く、これらの方々にあっては途切れることなく交際がもたれていまし たが、
両町村の組織的な交流は行われていませんでした。

このような状況のなかで昭和49年に財田町から町長と町議一行が 来村され、
「祖先を同じくする縁故を基にして、
今後さらに友好を深め 産業、教育、文化その他の
交流を図りながら両町村発展のため、友愛に よる姉妹町村の盟約を
結ぼう」との話がもち上がり、
洞爺村議会で「盟 約調印」が決議され、昭和50年4月1日に姉妹町村盟約の調印を行い、

財田町と洞爺村の姉妹の契りが結ばれ、以後30有余年にわたり活発な 交流活動がなされてきました。

洞爺湖の画像に大久保諶之丞の画像の切抜きを貼りつけてみました。


 桜の頃に、毎年恒例で行われる財田町のお祭り「諶之丞まつり」
 が
財田町の道の駅たからだの里/戸川ダム公園で行われます。

 1985年、財田町をもっと活力のある、生き生きとしたものにする
 方策は
ないかと町役場に委員会が設置されました
 なかなか結論がでない中、重なる討議の結果、
 『之丞の先見性と実行力を学ぶ村おこし運動』という
 位置づけで
町民の手で、『諶之丞まつり』をやろうと
 いうことになったそうです。

 

   


香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷について調べました。

2015-01-07 | パソコン

昨年の暮れから 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べて

ブログに書き始めました。

1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢

2回目は2014-12-30のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶

今回は 香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父・漆聖」 玉楮象谷(たまかじぞうこく)について調べました。


 香川漆器が全国的に有名なことは、丸亀勤務に
 なった
友人が萄醤(きんま)細工を習って神戸の
 展覧会で
見たことや 親戚の人で有名な人がいて
 その作品が
何点か家内の家にあることなどで知っ
 ていました。

 左の画像は家にあって、たまにしか使わない銘々皿を

 デジカメで撮って 背景を付け直してPhotoscape 
 で編集したものです。 いろいろな虫が上手に
 彫ってあり、きれいなものです。 

 

 同じ植田如僲さんの作品で、高級な様で家に眠っている

 茶びつをデジカメで撮って編集したものと、インターネットで

 見つけた香川漆器の作品を合成したものです。

   


 玉楮象谷(たまかじぞうこく)は高松市に1806年に生ま
 れ、
明治2年(1869)に64歳で亡くなりました。

 玉楮象谷は、中国の彫漆を模した技法や、南方漆器の
 技法を 独自の技法に消化した作風を開拓、象谷塗・
 讃岐彫とよばれる 今日の高松漆器の源流をつくりあ
 げ、今日特産品として名高い 高松漆工芸の基礎を
 築き「香川漆芸の父」と称されます。

 讃岐漆芸は、高松藩の漆彫司 玉楮象谷に始まる。
 当時、江戸や京都では蒔絵が主流であったが、
 象谷は父からうけついだ篆刻の技術をふるい、
 あえて蒔絵によらず、京都の東本願寺や大徳寺に
 伝来していた堆朱、堆黒、存清など中国から舶載した
 唐物漆器、あるいは茶人の間で珍重された《キンマ手》
 とよばれる南方渡来の藍胎漆器に着目し、

 これらを摸して地方色豊かな漆器を作り出した。
 彫漆(ちょうしつ)、萄醤(きんま)、存清(ぞんせい)の
 三技法が その特色であり、彫漆は、色漆を厚く塗ね、
 文様を彫り表す技法。 萄醤は、剣と称する彫刻刀で
 文様を彫り、その彫り口に色漆を埋め、平らに研ぎ出す
 存清は、色漆で文様を描き、輪郭や細部に線彫りを
                          加える手法である。 


 香川漆器(かがわしっき)は、讃岐漆器あるいは高松漆器とも呼ばれることがある。 

江戸時代末期、玉楮象谷(たまかじぞうこく)は大陸伝来の彫漆(ちょうしつ)、蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)などの研究から 独自の技法を創案し、やがて香川漆芸の礎を築きあげた。

現在では彫漆、蒟醤、存清、後藤塗、象谷塗の5つの技法が国の伝統的工芸品に指定されている。 

玉楮象谷(たまかじぞうこく)によって確立した香川漆芸は彫刻刀や剣による彫りの技術と色漆の使用が
特徴であり、
蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)「香川の3技法」といいます。 

     

          

               

     


インターネットで調べていると「一角印籠」という面白い記事を見つけました。

象谷が34歳のときに殿様に献上した印籠は「一角印籠」と呼ばれるもので、高さ8.6センチ、幅5.5センチ、厚さ2.9センチの 偏円筒形の印籠表面に、なんと1086点の彫刻をしているそうです。
まさに神業としかいいようがありません。

象谷が彫ったけし粒ほどの動物たちは、今にも動き出しそうに生き生きとしています。

しかし、象谷の真価は微細な彫刻よりも独特の塗りの技法にあるといわれています。

ベンガラを混入した生漆を塗りこむ技法は象谷塗と呼ばれ、今日まで香川漆芸として受け継がれています。


この「一角印籠」の話から 母が好きだった浪曲に「左 甚五郎 千人坊主」が あり、京山幸枝若さんの名調子を聞いていると 話は途中で終わってしまいます。 
話の結末を知りたくて LPレコードを買いました。 
浪曲の中身が活字で見れて よく分かったことを思い出しました。 
その時のレコードは 今も残っています。
 
左甚五郎が5寸四角の板に 千人の坊主を彫る話を とても上手にまとめて書いてくれているブログを見つけて コピーして 
Word → PDF → JPG にしました。
 

香川県(讃岐)の郷土料理ランキング NO.1は「あんもち雑煮」だと知りました。

2015-01-01 | パソコン

去年の暮れに屋島の家で見た「リビング たかまつ」に「あんもち雑煮」の特集がありました。

私が子供の頃の雑煮は「あんもち」が主流で、大阪に来て香川県特有の料理だと知りました。

志度の人とカキを焼いて食べている時に 今でも「あんもち雑煮」が健在と聞きました。

 左の画像は「リビング たかまつ」を

 スキャナーで取り込み、ペイントブラシ
 で
編集しました。

 具材はあまり入れないようですが、

 ダイコンと金時ニンジンは必須の
 アイテムです。

 イリコだしで白みそは昔も今も
 変わりません。

   

 

市町別のランキングを見ると西の方が上位で東になると率が低くて、
小豆島は
あんもち雑煮ではなさそうです。

私の育った多度津町は率が高いです。

 

  市町村合併でかなりの町がなくなり、新しい市の名前
  になっていて
まだ十分には把握できていないです。

  

 

 


あん餅・白餅・両方の餅がそれぞれ 1/3くらいで、あん餅の中には「塩あん」もあるようです。

あん餅雑煮の味付けは「白みそ」が多数派ですが、
白餅雑煮では「すまし」が「白みそ」よりも多いです。

  

 お雑煮の具材ランキングを見ると

 ダイコン・金時ニンジンは上位にあり、

 すまし派には「かまぼこ」が入っています。

 「あん餅雑煮」は伝えて行きたい郷土料理の

 第一位とのことです。

 二位が「しょうゆ豆」 三位が「まんばのけんちゃん」

  

 「今後、伝えていきたい郷土料理」の

 ランキングです。

 

 「しょうゆ豆」は香ばしく煎ったそら豆
 をしょうゆ・砂糖などでつくったタレに
 漬け込んで味付けした、さぬき(香川)
 では昔から各家庭で作られていた
 郷土料理です。

 「しょうゆ豆」の特色として、いわゆる
 普通の「煮豆」と違い、はじめに煎る
 ことから、軽く噛むと口の中でポロッと
 くだける歯ごたえが楽しめます。
左の記事は以前にブログに書いたのを  Word→PDF→JPGにしたものです。


今でも志度の畑には まんばが育っていて
 暖かくなってくると大きな葉になりますが
今はちぢこまっている感じです。


香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶について調べました。

2014-12-26 | パソコン

前回のブログで香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢について書きました。

今回は讃岐を代表する特産品だった「砂糖」「塩」「綿」が「讃岐三白」の一つの

「砂糖」を産業化した向山周慶(さきやま・しゅうけい)について調べました。

 東さぬき市白鳥町にある向良神社です。
 江戸時代の人、向山周慶さんと関良助さんから
 一字ずつとって、
神社の名前がつけられました。

 向山周慶さんは白砂糖の国産化に日本で初めて
 成功した人で 
関良介さんは薩摩の人で、医者の
 向山周慶さんが関良助を助けたことに
恩義を
 感じた良助が国禁の砂糖キビの苗を持ちだし、
 周慶のもとへとどけ、
砂糖きびが讃岐の国に
 根づいたと伝えられています。


 その砂糖が和三盆といわれて、
 独特の風味が今でも重宝がられています。

    向山周慶の記念碑    関良介のお墓

    

  向山周慶は1746年に讃岐国大内郡湊村
 (香川県東かがわ市湊)生まれ
  1819年に74歳で死去。

  讃岐糖業の始祖として白砂糖作りを確立し、「讃岐糖業の父」と称される。

  高松藩医・池田玄丈について医術を学んだ。

  その頃、第5代高松藩主・松平頼恭は、砂糖生産に注目し、玄丈に研究を命じていた。

  16歳で周慶は、玄丈から砂糖精製の研究を託され、以後30年間にも及ぶ苦難の歳月を経て、
  1790年はじめて白砂糖の精製に成功した。

  1803年白砂糖の製法を確立し、大坂で讃岐の和三盆糖として名声を高めた。


向良神社にある顕彰の碑に書かれている碑文の写真と、
その内容をWORD → PDF → JPG画像にしたものです。


 左の写真は屋島の四国村に展示されている砂糖を
 作っていた小屋を
紹介しているものです。

 今ではこのような小屋は残っていませんが、
「和三盆」づくりが東讃の方で残っているよう
 です。

    

最近は通りませんが、志度から大阪に帰るときに国道11号線に和三盆のお店(ばいこう堂)があり、
立ち寄ったことがあります。

とても上品な感じのする甘さのお菓子で、私の口に合うようなものではなく 
たまにしか食べることはありません。

和三盆の作り方と お菓子の写真をインターネットで調べてPhotoscapeで編集しました。

 

 

 

  


 2012-2-10の
 ブログ : 
 讃岐弁の話ーその2
 に餡入り餅の雑煮のことを
 書いています。

 日本の各地でいろんなお雑煮が
 ありますが、私が子供の頃には
 甘い餡の入った餅のお雑煮が
 普通で 母親が皆の希望を
 きいては 白いのが何個 
 赤いのが何個とたくさんの
 お雑煮を作っていました。

 昔 砂糖が高級品だったころに
 せめて正月くらいは甘い餅を
 食べたい
ということから
 始まったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 2012-1-10のブログ : 讃岐の食べ物の話ー1 志度のカキ焼き

 2012-1-10のブログ : 讃岐の食べ物の話ー2 白方のカキ

  に讃岐の冬の味覚と言うことで、観光大使になってカキのことを書いています。  
 その記事をWordに貼りつけて、編集してからPDF→画像にしました。