ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

Picasaウェブアルバムに裕次郎の歌を追加しました。

2015-02-25 | パソコン

今迄に何回も YouTubeからCraving Explorerでパソコンにダウンロードした歌謡曲を

Windowsムービーメーカーで編集して Picasaウェブアルバムに登録してきました。

今回 裕次郎の曲をYouTubeからまとめてダウンロードした分を、3つのアルバムに

編集して、今までに2つ登録していたアルバムに追加しました。

  (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの裕次郎にリンクします。)


一つ目のアルバムは裕次郎が入院後の映像の分で、7曲を23分くらいに編集しました。

曲名は ①粋な別れ ②夜霧よ今夜もありがとう ③港町涙町別れ町 ④恋の町 札幌

⑤夕陽の丘 ⑥くちなしの花 ⑦旅姿三人男 で、⑤は浅丘ルリ子 ⑥と⑦は渡哲也とのデュエットです。

  (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの1番目にリンクします。)

     


二つ目のアルバムは裕次郎の歌 10曲を35分くらいに編集した分で、

曲名は ①北の旅人 ②ブランデーグラス ③二人の世界 ④こぼれ花  ⑤錆びたナイフ

     ⑥俺は待ってるぜ  ⑦雪国の町 ⑧口笛が聞こえる港町 ⑨夕陽の丘 ⑩地獄花 です。

     曲の背景画面に裕次郎は出てきませんが、⑨夕陽の丘 の背景は映画のシーンになっています。

  (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの2番目にリンクします。)

     


三つ目のアルバムは裕次郎が他の人の曲を歌っている 8曲を28分くらいに編集しました。

曲名は ①小樽のひとよ ②霧にむせぶ夜 ③君こそわが命 ④カスバの女 ⑤東京の夜

     ⑥北斗七星 ⑦赤坂の夜は更けて ⑧東京ナイトクラブ で、

曲の背景画面に裕次郎は出てなくて ほとんどが風景の画像です。

     ⑧東京ナイトクラブ は 八代亜紀とのデュエットです。

   (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの3番目にリンクします。)

     


四つ目のアルバムは前からアルバムに登録してあった分で、 5曲を15分くらいに編集してあります。

曲名は ①おれの小樽 ②恋の町 札幌 ③夕陽の丘 ④赤いハンカチ ⑤サヨナラ横浜 です。

   (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの4番目にリンクします。)

     


五つ目のアルバムも前からアルバムに登録してあった分で、 8曲を15分くらいに編集してあります。

曲名は ①北の旅人 ②俺の小樽 ③赤いハンカチ ④二人の世界 ⑤思い出さがし 

     ⑥銀座の恋の物語 ⑦ブランデーグラス ⑧夕陽の丘 です。

   (★下の画像をクリックすると Picasaウェブアルバムの5番目にリンクします。)

     


今迄に 歌謡曲をPicasaウェブアルバムに登録してきたブログは以下のものです。

2014-10-24 Youtubeから取り込んだ懐かしい歌謡曲をPicasaウェブアルバムに載せました。

2014-07-10 Youtubeからダウンロードした歌謡曲をPicasaウェブアルバムにまとめ直しました。

2014-01-16 Picasaウェブアルバムに美空ひばりの歌をWindowsムービーメーカーで編集して登録しました。

2014-01-09 Youtubeからダウンロードした歌謡曲をPicasaウェブアルバムに再登録しました。


2月のわくわくお出かけは高島屋史料館と黒門市場に行って来ました。

2015-02-19 | お出かけ

2/17(火)の9時に12名がJR吹田に集まって、東梅田から地下鉄に乗り。
南森町で乗り換えて日本橋に着き、高島屋史料館までの途中に黒門市場があり、
その商店街を通って行き開館時間のちょうど10時前に着きました。

  大阪日本橋の電気街にある高島屋の東別館。
  もともとは松坂屋の店舗で、大阪店が天満橋に
   移転した
  後に高島屋が買い取り別館として
 使用しています。

  現在はデパートではなく、一階にテナントが
 入り、
2階以上は高島屋の本社事務所と
 史料館があります。

 全体的にはルネサンス様式を基調とした装飾が
 少なめの
  外観ですが、内装もエレベーター周り
 の装飾や階段に
  大理石が惜しみなく使うなど、
 百貨店らしい上質な仕上げ
  になっています。

       


高島屋は約100年前から横山大観
たちの
「日本美術院」と深い交流が
あり、多くの
画家の作品を所蔵して
います。

3Fにある史料館には常設の展示が
あり、
自由に見ることが出来ます。
今回の特別展示も入場無料ですが、
ガイドをお願いしてくれていて、
高島屋の
歴史と多くの作品について
の詳しい説明
が聞けて良かったです。 

 

 


  

 展示されている作品の中でも、横山大観の
 作品が
 多くて 特に左の「蓬莱山」は
 250号の大作です。

 とても大きいので吊り下げられずに
 下の方は
 巻かれています。
 かなりの年月をかけて作った作品が
 高島屋に
 寄贈されていて、時価も
 相当な額のようです。

 下の絵は 大観が四代飯田新七の別荘
 「呉竹庵」で杉戸に竹を描いたものです。

   

 

 

右の作品は横山大観と下村観山の
「竹の図」です。

 大観と観山は明治31年の日本美術院の
旗揚げ
以来、行動をともにした二人です。 

日本美術院は岡倉天心を中心に横山大観、
下村観山、菱田春草らが作りましたが、
経営難で苦労した際に、高島屋の支援で
再興されたとのことです。 

 
  左の作品は平山郁夫の
「ペルセポリス炎上」
1976年 )です。
  平山郁夫は東京芸大学長などを歴任し、
 1996年から2009年まで
 日本美術院の
 理事長を務め、その発展に
 大きく寄与しました。

 1976年の「平山郁夫シルクロード展」
 を
 きっかけに、以降 高島屋にて
 頻繁に個展が
開催されました。

 この絵はちょうど後期の展示で
 見ることが
できました。 

 

 

 

右の作品は吉田善彦が(岐阜県の薄墨桜)
描いたものです。
この作品も一際 目を引く立派なもので、
桜の花がひとつひとつ丁寧に描かれている
のは
見事なものです。

 

 

 

 

 左の作品は常設展示されている法隆寺の国宝
 「玉虫厨子」(模造)で、昭和8年から制作に
 かかり、
五干数百匹の玉虫を使うなど多く
 の方々の努力
と長い歳月をかけて
 昭和35年9月に完成した
実物大のものです。

 中央の作品は常設展示されている平櫛田中
 「有徳福来尊像」木彫の大作です。
 この像は平櫛田中氏が高島屋のために
 5年の
歳月を費やし、104歳の時に制作され
 た作品です。

 高島屋の包装紙はバラの花の模様です。
左から昭和30年のころ、昭和55年のころ、現在のもので、右側にあるのは昭和34年秋、洋画家高岡徳太郎
の発案により、クリスマスセールの装飾用のマスコット人形として誕生したローズちゃん。
基本形は「頭でっかちで大きな出っ尻」です。
その後、歳時記に合わせたローズちゃんや各店のご当地ローズちゃん、ご案内係の制服を着たローズちゃん
などが誕生しました。 

 

 10時の入館前に入り口付近で撮った
 集合写真
です。恒例になった合成ですが
 手早く出来るように
なりました。
 見学の後では、ずっと熱心に説明して
 いただいた
係りの人が写真を撮って
 くれました。

 本当に詳しく、熱心に話をしてくれまして
 有難うございました。


史料館を出た後は、黒門市場に行きました。
私は市場で買う好物は大体 決まっていて
いろいろのものをすこしづつ買いました。
中国からの観光客らしき人が多かったです。
今迄に日本橋の電気街に来た時に、
黒門市場を
目にしたことはありますが、
市場の中に入ったのは
初めてです。

 


">

 黒門市場のある日本橋2丁目
 から西に向かって、難波の方に
 ある「ニューミュンヘン」で
 昼食
です。ビール組 8人と
 食事組
 4人のテーブルに
 分かれましたが
 どちらも話が
 弾んで、ゆっくりと
すごせまし
 た。
食事の途中と、店を出る時
 に
お店の人が撮ってくれて編集
 せずに済んで 少し楽です。
 ビール組は店の名物の鳥の
 から揚げと ウィンナーとピザで食事組はそれぞれ定食を頼みましたが、美味しかったです。


吉田さんのブログ : わくわくお出かけ  ご覧ください。(タイトルをクリックすると リンクします。) 

稲垣さんのブログ : わくわく お出かけ~!! 高島屋 美術館に~!!   ご覧ください。

稲垣さんのブログ : 黒門 市場あたり~!!  ご覧ください。


私が育った多度津町についてインターネットで調べて見ました。

2015-02-15 | パソコン

香川県の偉人について調べていくうちに、私が生れ育った多度津のことを

インターネットで調べて昔の記憶をたどったり、現在の町の事を知りました。

 2/14(土)に多度津町特産の「白方かき」
 をPRする
「第6回白方かき祭り」が、
 多度津町西白方の白方漁協
で行われ、
 新鮮な生カキやカキ料理を求める大勢の

 家族連れらでにぎわったそうです。
 香川県産のカキで初めてブランド化した大粒で
 良質な
「白方かき」をPRし、販路拡大に
 つなげようと開催した。

 市価より2、3割安い新鮮なカキを目当てに
 町内外から
約5千人が訪れ、開場前から
 長蛇の列をつくった。


 今年はさぬき市や岡山県の産地で記録的な不漁となる中、「白方のカキ」は例年通りの出来栄えで、むき身のパックは
販売開始から40分余りで完売。会場では家族連れやグループらが熱々の焼きカキや
カキフライなどを頬張り、冬の味覚を堪能していた。

 

以前から山田下の交差点にある香川の地酒 西野金陵
の看板が気になっていました。
今回 讃岐の観光案内やインターネットで金陵のことを調べて、多度津工場の写真をGoogleの
ストリートビューで切り抜き、
2012年に
初詣のブログて使った画像と合成しました。

山田の伊射奈岐神社に奉納されています。
調べた記事の中に、
金陵の多度津工場の近くにある
「八幡の森」のことが
書かれていました。
子どもの頃にそこの湧水が冷たくてきれい

だったことを思い出しました。

「八幡の森 ほたるの里」は、葛原正八幡宮の奥にあり、
「金陵の多度津工場」はその裏手にあります。
このあたりはきれいな湧き水が豊富だったので、
金陵の工場もここに作られたそうです。
「八幡の森」今でも暗い感じのする森である。
またこの森の中には、いつもコンコンと自然に湧き出る泉があるので、特に夏などはこの冷い湧水で、
旅人は顔を洗ったり、
呑んだり、馬にも飲ませたことであろう。
古い本で金比羅絵図にも書かれている程、この森は昔から有名な森である。 

下の画像はGoogleのストリートビューで切り取った分とインターネットから見つけたものです。

        


 10年前に亡くなった母は善通寺の生まれ
 で、
家の前に見える大麻山のふもとに
 平照寺(首山観音)があります。 
 弟が車で母と私をよく連れて行って
 くれて
 先日 聞くと今でもお参り
 しているそうです。 

 場所を確認したら、三豊郡高勢町とのこと
 でした。
 そにある石の碑は多度津の大工一同が
 普請
し、その中に祖父の名前があることに
 弟が気づいて

 写真も撮ってくれています。
    

 弘法大師が一夜で建てたと言われている
 通称「首山の観音さん」。
 首から上の病気や目・鼻などの病封じ、
 また子授けや入学祈願などを祈る参拝者が
 多く訪れ、線香の煙が絶えません。 


 私の家から小学校までの間にあった小川に
沿って
歩くと機関区へ出た。その附近の家を官舎と呼んでいて国鉄の官舎で、近くには機関車の釜で燃えかすになった石炭の山が築かれ、コークスを拾う小母ハン達の姿をよく見かけたものだ。
手前の小川にはどじょうや小鮒がいた。
この小川は鉄道に沿って鴨の踏切の近くまで延び、そこで曲がって線路の下を流れていた。場所によってはシジミが取れたりした。
大雨の後では希に鯉にもお目にかかったが、
あれは私の家の近くにある「大森」の池から
逃げ出したものと思われる。

 大人が本気でうなぎの穴釣りをしているの
にも
出会ったりした。
 この間 弟に聞くと、大森の池は今でも
 あって
養殖池になっているそうです。
 小川の近くにあった 通称「鉄砲池」
 には兄と
行って、小さな竿に大きな鮒が
 かかったことを
覚えています。
 その池も埋め立てられて、どこだったか
 分からず
ウナギの穴釣りを見かけた記憶も曖昧です。
 左の画像はインターネットから取り込んだもので
 たしか大きなみみずを使っていました。


多度津の医院について調べた中の記事に町には4人の医師(山本、是澤、高畑、塩田)と3人の歯科医(島田、横田、小野)がいたとあり、私の家は高畠醫院にかかっていました。
待合室にあった古い扇風機と年取った先生の記憶です。
往診に来てくれていたことと、父を看取ってくれたのも大先生でした。
右の写真はインターネットから見つけた高畠醫院と旧楽天堂医院とGoogleのストリートビューで切り取った分をPhotascapeで合成しました。 

下の写真はインターネットで「GEの扇風機」で
見つけたもので、高畠醫院の待合室に有ったのは
たしかGE製だったとの記憶です。 

       


一昨年の8月に東京スカイツリーを見た後に多度津の中学の時の友達に会った時に、
多度津町の埋立地にある川田工業の四国工場で
東京スカイツリーの先端を作ったと聞いたので
インターネットでそのことを調べてみました。
スカイツリーの先端にある避雷針で、川田工業はスカイツリーを作った企業の一つでした。

        


寒波の中で、志度の畑仕事をしてきました。

2015-02-13 | 志度の畑

1/30(金)に朝一番の高速バスで志度に行き、
2/1(日)の夕方のバスで
吹田に戻ってきました。
今回の作業はプラムの剪定とアジサイの周囲を片づけなどをして、
斜面の
水仙畑の整理とミカンなどの根元にワラを敷いたりしました。

 斜面の畑には会社時代の上司が送ってくれた
 西洋水仙を植えてあり、毎年 少し遅くになって
 から
花を咲かせてくれます。段々に置いてある
 木が傷んで、去年 兄が修復して
くれました。
 寒い日だったので、完全防寒着で作業をすると
 すぐに暑くなってきて脱ぎました。

 
右側は去年の3月ころの写真です。

志度の畑には昔からの水仙がいろいろとあります。
今咲き出しているのは、小ぶりな白い花の水仙で
す。
 スズラン水仙の場所があって、毎年 少し遅れて たくさん咲いてきれいです。
今は芽が密集して大きく成りかけています。
手間を掛けていないのですが球根は元気です。  斜面の西洋水仙は咲く時期がかなり遅くて、
今回の
手入れで草を除けていくと芽を出し始めて
いました。


 

 斜面に植えてあるミカン・ブルーベリー・ブドウなどの
 木の
剪定をして、根元を整地してワラを敷きました。
 コヤシもやった方が良かったと思って、次回の仕事で
 す。
 畑のえんどうに白い花が咲きだしていました。

 去年 植え替えをしたイチゴにも白い花を見つけまし
 た。
 今年はイチゴがどれくらい生るのか楽しみです。

   

 


 冬の畑の野菜はゆっくりと育っているようです。
 マンバは少し摘み取ってきました。
 二畝に植えてあるニンニクはしっかりとしていま
 す。
玉ネギは早生の方が大きくなってきていま
 す。
晩生はまだまだこれからのようで、少し土の
 表面を
耕して来ました。
 そら豆も少し大きくなっていて、支柱を考えなく
ては
 いけなくなりそうです。


  今回の食事について、記憶のあるうちに書き留めておきます。
1/30(金)のお昼はJR志度駅ちかくの「牟礼製麺」で
いつものように肉うどんとおでんを食べました。

1/31(土)は近くの「根っこ」というお店でカレーうどん
を食べた記憶です。

1/30(金)の夕食はバイクで屋島に戻って、
「coco壱番屋」でカレーを食べました。
お昼もカレーで、夕方も同じだったのは手軽だからです。

   

1/31(土)の夕食は屋島の家の近くにある
「屋島食堂」で好みの惣菜でした。

朝食は前回にサービス券をもらったパン屋さんの
パンを食べました。


  2/6(金)に家内の運転で、高松にいる息子の部屋を掃除に行く家内の友人と一緒に

志度に行き、2/8(日)の夕方に雨が降ってきて少し早くに吹田に戻ってきました。

今回の作業は前回に剪定したプラムとアジサイの枝を燃やしたり、隣家のスダチを全部

採ったりしました。多度津から弟が来てくれたので、大きな竹を何本も切り倒して笹は燃やしました。

 ダイコンやマンバを取り除いたところを耕運機で
 耕して、2畝を一か所と 1畝を二か所作りまし
 た。
いつもの種苗店でジャガイモの種イモえを
 購入しました。 男爵とメークインを5kgずつ
 です。
2月の末頃に植える予定で保存しておきま
 す。
今回の収穫は隣家からいただいたダイコンと
 マンバ
 それと全部を採り終えてなかったスダチ
 を採りました。
家内は3回目のベッタラ漬けに
 取り組むようで、朝市でも
ダイコンを買ってきま
 した。
スダチは完熟でヒヨドリが突きに来ていま
 す。
半分に切って絞り機でジュースにしました。

   


 志度の畑に咲きだしていた早咲きの種類の水仙を
 摘み取ってきました。この種類が一番多くて、他
 にも黄色や大きめの花が
咲くのもあります。
 梅の蕾が大きくなってきて。チラホラと咲きだし
 ています。
去年は実がずいぶん多く生り、梅干が
 たくさん出来ました。

    
 鉢植えの紅梅を畑に植えたのが、
  根付いて花をさかせていました。
     


今回の食事についても記憶のあるうちにメモしておきます。2/6(金)お昼ころに淡路SAに着いてコーヒータイムです。
明石海峡大橋が一望できる場所で良い景色です。
家内の友人との3人なので、一番大きなサイズを買って分けて飲みました。
後でインターネットでサイズについて調べてみました。一番小さいSサイズは236mlで Shortで、次に大きなMサイズは354mlで Tall と英語です。Lサイズは473mlで Grande、 LLサイズは591mlで
Venti とこれもイタリア語です。
Trentaという916mlのものもあるそうです。右の画像は「スターバックス」と「淡路SA」で検索して見つけた画像を Photoscapeで編集しました。 
2/6(金)の夕食は高松にいる家内の友人とお母さんの4人でJR高松駅前にあるホテルクレメント
高松にある
中国料理のお店「桃煌」で食べて美味しかったです。



 

 

         

 

 2/7(土)の昼食は弟と家内の3人で近くに
 ある
 回転寿司でゆっくり食べました。
 夕食は簡単に済ますということで、屋島に帰る
 途中の
11号線沿いにあるうどん屋さんに寄っ
 て、家内は
 「しっぽくうどん」 私はまた
「肉うどん」で 讃岐の
うどん屋には定番のおでん
 を少し食べました。
 土日の朝食は「ゲルン」のパンで、
 日曜の昼食は朝市で買ってあった「バラ寿司」
 でした。
 日曜の帰りには淡路SAに寄って 軽食でした。
 SAの売店は改装中で規模が小さい状態です。
 土曜の夕食で行ったホテルクレメント高松の
 画像です。

      


四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんが多度津の人と知りました。

2015-02-05 | パソコン

昨年の暮れから 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書き始めました。
1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
回目は2015-01-07のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷
回目は2015-01-29のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞 

今回は「四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんが、私の生まれ育った多度津町の人と知り
昔の多度津のことについて インターネットで調べました。

 明治22年2月に、現在の四国鉄道の前身ともいうべき鉄道・私鉄讃岐
 鉄道を創立して、四國で初めて、多度津を起点として、琴平・丸亀・
 後に高松までを汽車を走らせた。


 また同24年には、多度津銀行を町内で初めて創立、同31年には西讃
 電燈(後に現在の四国電力KK)を創立するなど、常に公益事業に
 力を入れた。


 一方、また国政にも参與し、衆議院議員に4選したこともあり、数々
 の功績に対し元、四水本社(現在多度津電報局のところにあった)
 前に、氏の生存中に等身大の銅像が建立され 戰時中、金属強制回収
 で供出されたが、元社地へ昭和43年10月25日、四水発祥地碑と並ん
 で立派な胸像が建立された。


 なお香川県では、氏の功績を稱え、昭和36年11月、善通寺市にある
 香川県護国神社内にある、先賢堂に祭神として、菅原道真公や、
弘法大師や、本県の先賢者と共に祀られてある。

現在の国鉄四国鉄道の始まりは、明治23年に、讃岐鉄道会社が、多度津町の景山甚右衛門さんによって
創設され、多度津を起点として、東は丸亀町、続いて高松まで延長。南は琴平町までを、外国製の汽車を
買入れて走らせたのである。


多度津町について、インターネットで調べていくと「多度津町資料館」に多くの写真や
記事があり、多度津全体を描いた絵地図がありました。

左の絵は多度津町全体の昔の様子が分かる鳥瞰図で、右の画像は現在の町内地図です。

  
多度津駅前から西に向かってすぐに学校・警察署・町役場があり、町並みを通り過ぎると
多度津港に着きます。
その近くに桃陵公園があって子どものころの遊び場で良く行ったことが記憶にあります。

  多度津港は金比羅さんにお参りする人が
 近くの琴電参宮電鉄で行くことなどで
 賑わっていましたが、今は何でも高松に 
 移って昔の面影はなくなっています

   

昭和の初期くらいの多度津港の写真をみつけて、Photoscapeで編集しました。

当時は海岸線もきれいで、何か所かの海水浴場もあったのですが昭和40年代から
埋め立て工事が行われて 今は様変わりしてしまいました。

           


香川県立桃陵公園のはじまり

  昔は、この公園一帯の地は「桃山」または、桃山公園と呼ばれていて、
 多度津のお殿様の別荘もあった処である。

 山上からの眺めは、天下一品の稱がある。
 波静かな瀬戸内の風景は、実に一幅のパノラマを見るようである。

 昔の桃山が、県立公園に指定されるまでには、矢張り、公園としての施設全般について改善、改良、
 開発も必要だし、
又、政治面に於いても大いに関係がある。
 これを開発して、県立桃陵公園に編入させたのは、今井浩三さんという町長さんで、昭和5年9月
 から2ヶ月に亘って、
毎日、善通寺師団の工兵隊から何百人もの兵隊さんが出動して、爆破演習の
 名目で、公園登山道の大岩を切取って
道をつけることに、この町長さんは、交渉に成功したのである。

 翌6年には山上ドライブウェーも開通し、同年6月21日には、嘗ては国定教科書にも搭載された
 有名な「一太郎やーい」の
銅像を建てた。 
(註・この銅像は、戰争中、強制供出で取り去り、今のは、コンクリト造にブロンズしたもの)

 また一方、全山に「桜」数千本を植え、見晴らしに展望台を設けたり、子供遊園地、動物の飼育
 なども完成し、
名前を「桃陵公園」と稱した。
 今は全山これ桜!桜で、4月の満開頃には毎日2・3万人の人出で、大混雑をする。

 昭和22年8月、この公園は、町民待望の、県立公園に指定され、
 昭和45年春、子供遊び場の拡張、施設の充実と、相俟って、県下一、桜の名所となった。

 この功労者、今井町長さんは、生前、町民の手によって公園入口広場に等身大の
 銅像が建てられている。

 左の画像は桃陵公園に登るスロープと
 かって琴平電鉄が走っていたトンネルの
 様子と、今井町長の銅像をGoogleの
 ストリートビューで撮ったものを編集
 しました。

 子供の頃の記憶に桃陵公園で国体の
 ボクシング
が行われことがあり、
 調べてみると昭和28年の
10月に
 第8回の国体だったようです。

 


「一太郎やーい」の銅像は、明治37年からの日露戦役に
多度津港から出陣する善通寺師団の息子に手を振って
声をかけているものです。

有名になって一時国定教科書にも搭載されていたそうで、
昭和6年に銅像となって桃陵公園の展望台に建てられました。

 桃陵公園からみえる讃岐平野の眺望は讃岐富士が良く
 見えて
きれいです。

      


 桃陵公園の入り口付近に琴平参宮電鉄の駅がありました。
 コンクリート造りの立派な建物で、ここから乗って親戚の
 ある
善通寺や金比羅参りにいったことがあります。

 多度津の港へ船で来て、さぬき金比羅さんへ、お詣りする人
 を輸送する
多度津から琴平へ直通電車が、大正13年10月
 9日、琴平参宮電鉄KK
に よって、琴平から、多度津鶴橋
 まで初めて開通し、
翌14年2月26日には桃陵公園山麓の
 トンネルが開通したので、
更に路線延長により、東浜の桃陵
 公園口に、多度津駅を開設した。

 この東浜附近は、当時としては珍らしい洋風駅舎が町の
 真中にあって、
相当 町は賑っていた。
 その後、高松―琴平間にも電車が走るようになり、
 客も次第に減り、從来の複線を単線にした。
(昭和28年4月25日)

 更に時代の推移には抗し難く、同社はバス路線運転に切りか
 え、
昭和38年9月15日、ここに多度津の町から電車は
 姿を消したのである。

 この近くにあった大きな旅館の子が同級生で一度集まりを
 しました。

        


 実家の近くに四国八十八カ所の第77番札所
「道隆寺」
があり、古くから行われている
 鴨市があります。
植木や野菜の苗などが売られて
 いて、何度か行きました。

 その後、市立は多少変って来て、農機具なども
 展示される
ようになっているが、昔からの鴨市は
 今でも相当な賑いを
呈しているそうです。
 この春市は、塩屋市・海岸寺市と続き、最終が
 金倉寺市で終り、それから麦刈りに忙しくなる。
 亡くなった母がお寺の伽藍でハトにエサをやって
 いる
写真があったので、貼りつけてみました。

 私達の小学生時代には、春と秋のお彼岸の中日には、「七ヶ所まいり」があり、
 弁当をさげて、友達と、
おまいりした。七ヶ所めぐりの寺々は 
  ●第71番 弥谷寺
  ●第72番 曼陀羅寺 ●第73番 出釈迦寺
  ●第74番 甲山寺 ●第75番 善通寺 ●第76番 金倉寺 ●第77番 道隆寺


 多度津小学校の歴史は古く,明治5年頒布の学制に
よって,硯岡小学校として授業を始めました.

その後,多聞院や旧多度津藩倉庫などを校舎としたりしていましたが,明治20年の小学校令によって,硯岡小学校を多度津尋常小学校と改め,明治21年には,大通町(現JR多度津工場)に校舎を新築しました。大正15年になって,栄町の現在地に移転し,
新校舎が建設されました.

さらに,昭和3年には鉄筋コンクリート造2階建て大講堂が新築落成し,郡内一の規模を誇りました.
昭和47年には老朽化したということで取り壊されて,新しい校舎が建設されました。

多度津町立多度津中学校は、鉄筋コンクリート建築物の耐用年数の目安となる建築後50年以上が
経過しており、現在その改築事業を実施中だそうです。

私が中学生の時に多度津町・白方・四箇が統合されて鉄筋の新しい学校で学びました。
一学年に10クラスはあったように思います。

インターネットで調べていると多度津小学校の
創立100周年記念誌「硯丘の百年」 に兄の名前を
見つけました。兄は三歳上で昭和15年
(皇紀2600年)生まれで、
昭和27年の卒業生です。
各組53~55名で東西南北の組み分けです。
兄は北組で担任の岡田先生の話は今でも
出てきます。先生は美術が専門で兄は絵が上手で
油絵もやり始めていたと思います。
版画で表彰されたことを覚えていて、兄は今でも
保管していました。その絵を貼りつけてみました。

今でも東京出会う 私の親友の兄の名前や母に90歳のお祝いを 持ってきてくれた
町長さんの
名前を見つけました。


 浜には、夏が来ると小屋がけが出来た。仕切の簾を巻き上げると二つの貸席が大きな一つの貸席にもなるように出来ていた。どの店にも、関東煮(おでん)、かき氷、あめゆ、それにいり豆(大豆)を袋に入れたものを売っていた。子供達はその袋をフンドシに結びつけ、泳いでいる間に、潮水でふやけ適度に味のついたのを袋から取り出して食べたものだ。ここでは何といっても「あめゆ」である。底のあついそり身のコップになみなみとついでくれたあのあめゆは、生姜がきいていて、泳ぎ疲れた少年の咽喉に優しかった。

 多度津のあった中華そばの店「上海軒」の味が懐かしくて、多くの人から話を聞きます。
大正堂は町の中央にあった友人の店で、いつも忙しく餡をつくったり 餅を搗いたりしてた
風景が記憶にあります。


 インターネットで調べた時に参考にさせていただきましたホームページです。
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