私の郷里は香川県ですが、定年後には志度で畑仕事をし始めてから
良く帰省するようになりました。
今年はいつもより多く帰ったかと思い、何回かを調べてみました。
その結果は次のような表とグラフのとおりで
32回、93日と約1/4を志度で過ごしていました。
元の会社の上司だった人が志度に来てくれたときに、一緒に食事をした
高松にいる家内の友人が「~しまい」と言うのを聞いて、帰ってから
メールで意味を聞かれました。
そこで讃岐弁をインターネットで調べていると、良いサイトがありました。
ほべりぐデータベース 讃岐弁ch (みんなで作った方言データベース)
http://hougen.atok.com/dialect/showtop.sv?did=15
讃岐弁だけでなく、沢山の方言が集められています。
その中から まず1pと2p分をまとめてみました。
これから時々、讃岐に関する記事と一緒に載せたいと 思っています。
「讃岐男に阿波女」
結婚をするとき、夫にするなら性格の温和な讃岐(現在の香川県)の男が、
嫁にするならよく働く阿波(現在の徳島県)の女がいいという意味である。
徳島県境に近い村落では、香川県側へ徳島県の山村の女性が多く嫁いで来ている
ところから生まれた言葉であろう。
讃岐(香川県)と阿波(徳島県)のことをまとめた記事がありました。
平安時代の「和名抄」(930年頃)という書物によれば、
讃岐(香川)の国にはすでに22,000haに相当する水田があったらしい。
これは現在の香川県の耕地面積の実に6割に相当する。
讃岐米。飯依比古の名のごとく香川は昔から米どころであった。
しかし、この国には致命的な欠陥があった。水が少ないのである。
「讃岐には河原あっても河はなし」。平野が多い割に山が浅く急峻、
もともと雨の少ない瀬戸内気候に加え、降った雨は即座に海に流れ出してしまう。
したがって、溜池の数、約16,000。密度では日本一である。
この溜池をめぐる水利慣行の複雑さ、厳しさは、余人の想像を超える。
池も「親池」、「子池」、「孫池」と緻密かつ広大なネットワークを形成し、
各自の水田への配水時間は、線香の燃える長さで決めたという。
「水ブニ」、「香の水」、「ゆる抜き」、「加減抜き」、「走り水」、「かけ流し」、
「切り落とし」、「寒の水」、「どびん水」、「水引きさん」、「証文水」・・・。
おそらく地元以外では意味の通じないこうした水利用語の多さは、
この地域の水に対するただならぬ桎梏[しっこく]を語っていよう。
ともかく、水利をめぐる村々の紛争は、記述するのも嫌になるほど多い。
昭和48年の「高松砂漠」という言葉を記憶されている方も多かろう。
田も畑も枯れ果て、工場も長期間ストップした。
真夏の暑い盛りに、二週間以上も風呂に入れなかったという。
四国三郎吉野川は、高知、愛媛、徳島の3県を流れているが、香川県を通ってはいない。
大河のない地域の宿命と言えなくもない。
讃岐が渇水の歴史だったとすれば、阿波、つまり徳島は洪水の歴史だったと言ってもいい。
吉野川は、ほとんど毎年、台風が来るたびに氾濫し、大蛇のように荒れ狂った。
史上最大といわれる大洪水は慶応2年8月
。
河口の徳島市から上流の池田町まで、吉野川沿いに拓けた狭長な平野は、
すべて泥海と化してしまった。死者37,000人。
家も、牛も馬も、収穫前の農産物も、すべて海へと流出した。
記録上、最古の洪水は仁和2年(886年)。
江戸時代、万治2年(1659年)から慶応2年(1868年)の約200年間に、
阿波では約100回の洪水を記録している。2年に1回の割ということになる。
明治、大正、昭和も変わりはない。ダムや近代的な堤防工事が完成した近年でさえ、
昭和50年、51年、平成2年、5年に、氾濫被害を出している。
”大きな果実”吉野川は、天下に名だたる暴れ川でもあったのである。
讃岐では、渇水をめぐる紛争の歴史。
逆に、山一つ越えた阿波では、洪水のための堤防づくりをめぐって、
厳しい掟[おきて]や悲惨な闘い、あるいは義民達の多くの悲話が残されている。
したがって、この国は水田をあきらめ、藍作で大きな財をなした。
藍商人は阿波大尽などと呼ばれ、全国の豪商として贅の限りをつくしたという。
しかし、米を作れぬ農民の暮らしは哀しい。
米どころ香川に水はなく、有り余る水に苦しむ徳島では米がとれぬというこの矛盾。
阿波徳島では、田植え時、山一つ越えて讃岐の田に女性や農耕牛を貸し、米を得たりした。
また、藍の収穫時には讃岐香川から出稼ぎの男が徳島にやってきた。
「讃岐男に阿波女」ともに良く働き、相性が良いという意味の俚諺[りげん]であるが、
阿波徳島の女性にとっては讃岐の米農家に嫁ぐことが夢だったのかも知れない。