ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

讃岐弁の話ーその1

2011-12-28 | パソコン

私の郷里は香川県ですが、定年後には志度で畑仕事をし始めてから

良く帰省するようになりました。

今年はいつもより多く帰ったかと思い、何回かを調べてみました。

その結果は次のような表とグラフのとおりで 

32回、93日と約1/4を志度で過ごしていました。

元の会社の上司だった人が志度に来てくれたときに、一緒に食事をした

高松にいる家内の友人が「~しまい」と言うのを聞いて、帰ってから

メールで意味を聞かれました。

そこで讃岐弁をインターネットで調べていると、良いサイトがありました。

ほべりぐデータベース 讃岐弁ch (みんなで作った方言データベース)

http://hougen.atok.com/dialect/showtop.sv?did=15 


讃岐弁だけでなく、沢山の方言が集められています。
 

その中から まず1pと2p分をまとめてみました。 

これから時々、讃岐に関する記事と一緒に載せたいと 思っています。

    

「讃岐男に阿波女」

結婚をするとき、夫にするなら性格の温和な讃岐(現在の香川県)の男が、

嫁にするならよく働く阿波(現在の徳島県)の女がいいという意味である。

徳島県境に近い村落では、香川県側へ徳島県の山村の女性が多く嫁いで来ている

ところから生まれた言葉であろう。


讃岐(香川県)と阿波(徳島県)のことをまとめた記事がありました。

平安時代の「和名抄」(930年頃)という書物によれば、

讃岐(香川)の国にはすでに22,000haに相当する水田があったらしい。

これは現在の香川県の耕地面積の実に6割に相当する。

讃岐米。飯依比古の名のごとく香川は昔から米どころであった。

しかし、この国には致命的な欠陥があった。水が少ないのである。

「讃岐には河原あっても河はなし」。平野が多い割に山が浅く急峻、

もともと雨の少ない瀬戸内気候に加え、降った雨は即座に海に流れ出してしまう。

したがって、溜池の数、約16,000。密度では日本一である。

この溜池をめぐる水利慣行の複雑さ、厳しさは、余人の想像を超える。

池も「親池」、「子池」、「孫池」と緻密かつ広大なネットワークを形成し、

各自の水田への配水時間は、線香の燃える長さで決めたという。

「水ブニ」、「香の水」、「ゆる抜き」、「加減抜き」、「走り水」、「かけ流し」、

「切り落とし」、「寒の水」、「どびん水」、「水引きさん」、「証文水」・・・。

おそらく地元以外では意味の通じないこうした水利用語の多さは、

この地域の水に対するただならぬ桎梏[しっこく]を語っていよう。

ともかく、水利をめぐる村々の紛争は、記述するのも嫌になるほど多い。

昭和48年の「高松砂漠」という言葉を記憶されている方も多かろう。

田も畑も枯れ果て、工場も長期間ストップした。

真夏の暑い盛りに、二週間以上も風呂に入れなかったという。

四国三郎吉野川は、高知、愛媛、徳島の3県を流れているが、香川県を通ってはいない。

大河のない地域の宿命と言えなくもない。

讃岐が渇水の歴史だったとすれば、阿波、つまり徳島は洪水の歴史だったと言ってもいい。

吉野川は、ほとんど毎年、台風が来るたびに氾濫し、大蛇のように荒れ狂った。

史上最大といわれる大洪水は慶応28

河口の徳島市から上流の池田町まで、吉野川沿いに拓けた狭長な平野は、

すべて泥海と化してしまった。死者37,000人。

家も、牛も馬も、収穫前の農産物も、すべて海へと流出した。

記録上、最古の洪水は仁和2年(886年)。

江戸時代、万治2年(1659年)から慶応2年(1868年)の約200年間に、

阿波では約100回の洪水を記録している。2年に1回の割ということになる。

明治、大正、昭和も変わりはない。ダムや近代的な堤防工事が完成した近年でさえ、

昭和50年、51年、平成2年、5年に、氾濫被害を出している。

大きな果実吉野川は、天下に名だたる暴れ川でもあったのである。

讃岐では、渇水をめぐる紛争の歴史。

逆に、山一つ越えた阿波では、洪水のための堤防づくりをめぐって、

厳しい掟[おきて]や悲惨な闘い、あるいは義民達の多くの悲話が残されている。

したがって、この国は水田をあきらめ、藍作で大きな財をなした。

藍商人は阿波大尽などと呼ばれ、全国の豪商として贅の限りをつくしたという。

しかし、米を作れぬ農民の暮らしは哀しい。

米どころ香川に水はなく、有り余る水に苦しむ徳島では米がとれぬというこの矛盾。

阿波徳島では、田植え時、山一つ越えて讃岐の田に女性や農耕牛を貸し、米を得たりした。

また、藍の収穫時には讃岐香川から出稼ぎの男が徳島にやってきた。

「讃岐男に阿波女」ともに良く働き、相性が良いという意味の俚諺[りげん]であるが、

阿波徳島の女性にとっては讃岐の米農家に嫁ぐことが夢だったのかも知れない。


12月のお出かけは京都の和菓子作り体験でした。

2011-12-27 | お出かけ

12月のわくわくお出かけは京都の甘春堂での和菓子作り体験で、

2組のご夫婦がこられて、9名の参加でした。

お店の近くに三十三間堂があり、皆で見学しました。

私は初めてで立派な仏像が沢山あって感心しました。

建長元年(1249)火災で焼失した三十三間堂は、文永三年(1266)後嵯峨上皇

により再建供養された。

このお堂は、南北に118.2m・16.4mの長大な木造建築で、

内陣の柱の間数が観音ゆかりの三十三であることから、

巷間には「三十三間堂」と通称されてきた。

 ここに中尊千手観音坐像ほか1030余体の国宝・重文の尊像を納められている。 

 お堂の中央に、左右の千体観音立像にかこまれて安置されているのが、

国宝千手観音坐像 である。像高は335cm、桧材の寄木内割造りで

玉眼(水晶材)
を嵌入、全身に漆箔を施している。

中尊の造立は、建長三年(1251)
七月白河法勝寺で着手、

同六年正月二十三日に完成した。

作者は大仏師湛慶で小仏師康円と康清を率いてことに当たったが、

この中尊を作ったときすでに82
の老齢だった。

 

 

  

国宝 風神・雷神像

教義・信仰に発した解釈が、より日本化された尊容を示し、鎌倉彫刻の

面目躍如とした名作で、迫真の気勢はここにきわまったといえよう。

以後の両神のイメージを固定化した記念碑的な傑作である。 

   


昼食は近くのうどん屋さんで、にしんそば・いなりずしなどですませて

まだ時間があったので店の近くにある豊国神社に立ち寄りました。

  


甘春堂は慶応元(1865)年創業の京菓子の老舗で、

扱う和菓子は数多く、季節感にあふれた美しいものが多い店です。

  

甘春堂の和菓子教室は13時から約1時間半くらいで、干菓子を一つと

生菓子3つを作りました。

終わった後に抹茶で1つ食べて残りはお土産です。

 

先生の指導で用意されてある生地と餡をのばしたり、丸めたりして

形を作っていくのですが、なかなかうまく出来ませんでしたが

最後の「きんとん」はなんとかうまくできて良かったです。

終わってから先生と一緒に写真も撮りました。

  


今回でいままでの「わくわくお出かけ」は一旦 終わりにして

来年から再スタートします。

吹田に戻って タンポポで寿司とオードブルでの忘年会を

実施しました。


師走の一週間を振り返ってみました。

2011-12-03 | パソコン

 11月のお出かけは24日(木)神戸花鳥園で、

その後の一週間にはいろいろとイベントなどがありました。

25日の午後には上本町にある大阪国際交流センターで

開かれた大阪社会福祉大会に行って、その後高速バスで高松に行き

琴電の潟元にある家内の実家に泊まりました。

26日の午後は先日ガンで亡くなった親戚の人の49日法要が

丸亀市であり、夕方からオークラホテル丸亀で食事会でした。

ホテルは丸亀ボート場の前で、ちょうどナイターが開催されていて

賑やかでした。

  

食事の時の隣席には亡くなった人の奥様のお姉さんで、高知の足摺の方から

来られていました。夏にお見舞いのときに会ったことがあり、いろいろと話を

してくれました。80歳ですが今年ニュージーランドに行ってきたとマフラーを

首にまいて見せてくれましたので、携帯電話で写真を撮りました。

食事が終わり、丸亀から特急で岡山に行き新幹線で帰ってきました。


27日の日曜には公民館で福祉委員会の「ふれあい広場」がありました。

受付の担当でしたが、来場者が50人ほどと少なかったので

もっとPRの必要性を感じました。

28日の月曜は午前中が公民館のパソコン講座の2回目で、年賀状の

宛先作成の勉強でした。

午後はふれあい茶話会で、最初には吹田警察から来た元気な人が

お年寄りの交通安全についての話があり、

それから小物つくりをやって、皆さん喜んでいました。

  


28日(火曜)の午前中は孫の幼稚園の楽器演奏と劇を見に行きました。

5歳になってしっかりしてきていて、先生の指導力に感心します。

北千里にある幼稚園の近くの街路樹が紅葉して綺麗でした。

   

  

楽器の演奏をデジカメの動画で撮って、YouTubeにアップしました。

先生が前で手を振って指導していて、終わったら子ども達に挨拶を

させました。

MVI 4237

MVI 4245


28日(火曜)の夜には恒例の年1回の会社のOB会が塚口で

あり、その前に伊丹にいる人の家に行ってパソコンを見てきました。

OB会には20人ほどが集まり、年金や健康管理の話などで

盛り上がりました。

飲み会の後はいつもの4人で麻雀を終電近くまでやりました。

雀荘に多くのお客さんが来ていて驚きました。


30日(水曜)の午前中は2・3歳児の育児教室のお手伝いで

午後には佐井寺小学校のパソコンクラブで4・5・6年生に

EXCELで来年のカレンダー作りを教えました。

上手に出来た子もいます。

夕方と夜には年配の人にパソコンを教えました。


12月1日(木)の朝早くにJR高速バスで志度に行き、

畑仕事をしました。

昼食はJR志度駅近くの牟礼製麺所で肉ウドンの大を食べ、

夕食の買い物に屋島のスーパーマルナカに行くと「新生マルナカ」の

飾り付けがあり、TVでもマルナカがイオングループになったとの

放送が流れていました。

畑には収穫できる野菜があり、荷造りをして宅急便で送って

2日(金)の夕方に高速バスで大阪に帰って来ました。

柚子の実が黄色になっていて、半分ほど収穫しました。

沢山の南天の木があって、実が赤くなってきて綺麗です。

夏に沢山の実が成ったプラムの樹がすっかり葉が落ちて

枝ばかりになっています。


今日 3日(土曜)は午後に先日奥さんをガンで亡くした友達と

久しぶりに会って来ました。

家の近くの街路樹が紅葉して、銀杏の葉が沢山散って黄色のじゅうたんの

ようになっています。

マンションから見える紅葉の景色を写真に撮りました。