ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

さぬき市で人気のうどん店をインターネット調べて画像を編集してみました。

2016-01-29 | パソコン

去年の11月に高松市の屋島の家から 志度の畑に近いさぬき市の造田に移りました。
それまでの昼食は志度の畑に近いうどん店でしたが、造田に移ってからはさぬき市のいろいろな
うどん店に行くようになりました。
今まではセルフのお店が多くて、夕方には営業していないのですが 先日の夜に行ったお店が
良かったので さぬき市のうどん店をインターネットで調べました。 

さぬき市うどんランキングTOP39 (☆クリックするとインターネットのサイトにリンクします。

下の表にあるお店をクリックすると お店のサイトにリンクします。
☆水色太字のお店は良く行くお店です。


 

11位:門家 

12位:手打うどん まるたけ 

13位:たむら 

14位:亀城庵 志度店 

15位:こがね製麺所 志度店 

16位:大山製粉製麺所 

17位:麺喰 

18位:うどん亭いわせ 

19位:おかだ 

20位:松原うどん



21位:根っこ 志度店 

22位:若潮 

23位:いこい食堂 

24位: 

25位:若鮎 

26位:麦わら 

27位:松乃家生麺 

28位:野田屋 

29位:田村屋

30:はなまるうどん 志度店 

31:杉本 

32:嵯峨野 

33:うどん処 花林亭 

34:カメリア温泉 

35:春日温泉 

36:飛猿閣 

37:うどん亭いわせ 

38:はなみずき 

39:木下製麺  

 
  志度の畑作業の時の昼食は
 近くのうどん屋さんが多いで
 す。

 いつも行く店はセルフスタイル
 で
 夕方には閉店になります。
 一番良く行くのは「亀城庵」
 麺も出汁も好みにあい、惣菜
 とトッピングの種類が多くて
 お店も広いです。志度駅近くの
 「牟礼製麺」
和そばも中華そ
 ばもあります。
「根っ子 」は肉
 うどんかカレー
 うどんを食べ
 るときに行きます。
 
 
  

          

「源内」「若鮎」「麺喰」には何度か行きましたが セルフスタイルのお店でなくて作業着で行くのが
気が引けそうです。
讃岐のうどん屋さんには トッピングの具材に加えて「おでん」と「お寿司」などを置いてあります

 
 
  

 造田にある「溜」という
 お店には何度か
行っていま
 す。古い民家を改造して

 広いお店です。
 オープンした頃には

 段取りがわるくて行列でし
 たが
 今は順調に流れて
 います。

 ツインパル長尾へ温泉に行ったときに
 「うどん亭いわさ」で食べ
 た鍋焼きうどん
 は美味しかったです。お店
 の人気メニューのようで
 す。 「春日温泉」では
 うどんを食べなかったので
 すが さぬき市のベスト
 39には入っているので
 今度は何かを食べてみようかと思います。
 みろく温泉の付近には食事処がないのですが 途中に「まるたけ」というお店があって人気が
 あるようです。トッピングに「とり天」があって 「とり天」は ほかの店も出しているようです。 

  

  


約40年ぶりの寒波が来たという土日に志度の畑に行って来ました。

2016-01-26 | 志度の畑

1/15(金)の午前中には公民館の料理教室(2回目)があり、終わってから家内の運転で志度に
向かいました。
夕方には造田の家から5kmくらいのところにある長尾町の温泉に行って夕食と入浴にしました。翌日 1/16(土)と1/17(日)は寒い日で 風もあり粉雪も舞う天候でしたが防寒対策をして作業をしました。 1/17(日)の夕方には高松にいる家内の友人と3人で夕食をしてから大川町の温泉に行きました。 1/18(月)の朝には夜に降った雪に驚きましたが 天候は回復してきて昼前には吹田に戻ってきました。

 さぬき市は 大川町・津田町・志度
    町・長尾町
・寒川町が合併して出来た
 市で元の町ごとに
温泉があります。
 前回は寒川町にある「春日温泉」に行
 きました。
今回は金曜に長尾町の
 「ツインパルながお」という
温泉に
 行き、日曜には大川町の「ユートピア
 みろく」
という温泉に行きました。
 どちらも食事をするところがないの
 で、うどん屋さんと
中華のお店で夕食
 にしてから温泉に入りました。
日曜は
 天候が悪く 道には雪が少し積もって
 いて
お客さんも少なくて 男湯は私だ
 けでした。

 金曜の夕食の店は「うどん亭いわせ」という店で 鍋焼きうどんを食べたのですがおいしかったです。

 左の画像はインターネットにあった分をPhotpsc
 apeで編集しました。

 下の画像は私が撮った写真を編集したのと インターネ
 ットのブログに
載っていた記事の中にあったのを編集し
 たものです。

  
  


下の画像は日曜に行った 大川町にある「ユートピアみろく」という温泉と 志度にある夕食の
中華店
「四川」と 前回に行った「春日温泉」を編集したものです。

 
                 


1/25(月)に朝は昨晩に降った雪で真っ白でしたが、造田から志度にかけてはそれほどの雪でなくて
用意していたタイヤチエーンの世話にならずにすんでよかったです。

  

畑のソラマメが寒さで弱って倒れていたり エンドウもワラで寒さ対策をしていますが縮こまっている
感じです。 
今回は畑の手入れでなく 木の根元の草を取って土が見える状態にしました。

  

斜面に植えてある西洋スイセンの段々畑は草に覆われています。 
少し草を取り除いたらスイセンの芽が出かかっていました。

次回には草を取り払って下の画像のような状態にしようと考えています。

 

梅の花がチラホラと咲きだしています。寒い中 紅梅の花が咲いていてきれいでした。
切り取って水おけに入れていたスイセンが凍り付いていて 氷を割って持ち帰りました。

 


 1/22の昼は淡路のSAに寄って
 休憩し
 1/25の朝は淡路南PAで
 軽食にしました。
1/23(土)の昼
 食は「かあさん茶屋」で
 1/24
 (日)の昼食はいつもの「亀城庵」
 です。

  
  


今年初めてのお出かけは「大阪天満宮」・「天神橋筋商店街」・「お初天神」に行って来ました。

2016-01-21 | お出かけ

1/19(火)は寒い日でしたが JR吹田に9:30に集合して西梅田から南森町まで
行って「大阪天満宮」に参拝して「天神橋商店街」を歩き地下鉄で西梅田に戻り
「お初天神 」にも立ち寄ってから丸ビルにある食事の店まで行きました。
12名のメンバーは高齢者ばかりですが、かなりの距離を 歩きました。

 このお出かけでは行く先々で記念写真を
    撮るのが
 恒例で、撮影者が入らない時に
 は切り抜きで合成
するのですが、天満宮の
 入口前では若い人に撮って

 もらえました。
 天満宮の中で撮った写真が合成した

 分で 2枚の画像をPhotoscapeで編集しま
 した。 

 

 

 天満宮に近くに川端康成の生家があるということで
 立ち寄って ここでも記念撮影です。 
 大阪天満宮・星合茶屋にある「すべらんうどん」のお店は
 合格祈願の「すべらないうどん」(縁起物)で有名で
 受験生の孫に買われた人もしました。

  


大阪天満宮の近くに落語専門の定席「天満天神繁昌亭」あるます。
ここでも記念写真を撮って合成写真にしました


  

次に「天神橋筋商店街」歩きました。この商店街は南北2.6km、600店の日本一長い商店街で 各商店街は、地名にならって1丁目商店街なら「天1(てんいち)」、3丁目商店街なら「天3(てんさん)」という風な略称が用いらています。
有名だというコロッケを食べながら歩いていると昔の会社の者に声を掛けられて驚きました。
この人とは奈良の「正倉院展」でも会いました。
TV撮影をしているのも見かけたり、いろいろなお店でミカン・お菓子などを買ったりしました。
商店街には聞いたことがあるお店がいろいろとあったので写真を撮ってきて編集しました。

         

商店街の後は地下鉄で西梅田に戻り お初天神に行きました。
初めて行ったのですが思っていたより立派なところでした。
二人で撮るための顔出し看板もあり、右近の桜 左近の橘

を写真に収めて来ました。

露天神社(つゆのてんじんじゃ通称:お初天神)は、北区曾根崎にある神社で
大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真をを
祭ってあり、近松門左衛門が遊女「お初」と手代「徳兵衛」が「天神の森」
にて心中を遂げたことを 人形浄瑠璃「曾根崎心中」として発表したところ、
事件の神社は一躍有名となり、そのヒロイン「お初」の名前から以後
今日に至るまで「お初天神」と通称されている


 お昼はいつものようにKさんが
 予約してくれたお店です。

 お出かけのメンバーで3回目
 ですが個室でゆっくりでき

 お店の対応も写真を撮って
 くれたり、お祝いのケーキが

 あったりでよいお店です。
 上の写真はお店の人が撮って
 くれた分で、皆さんに

 プリントしてくれました。
 下の写真はお店の前で撮ろうと
 していたら 通りすがりの

 若い人が撮ってくれました。
 今日は始めと終わりに若い人が
 撮ってくれたので

 合成したのは4枚です。
 手早く作れるようになりまし
 た。
最初の乾杯ワインとビール
 が来てからの乾杯の写真です。
 お店の人が撮ってくれたので
 助かります。
 Tさんがカメのアクセサリーを
 メンバーにプレゼントしてくれ
 まして お店の人にも差し上げ
 たらとても喜んでくれました。

 

 
お店は丸ビルの大阪第一ホテル1Fにある「CARAT」です。
入口から個室の中などに歓迎の文字がたくさんあって 撮ってきたのを編集しました。
バイキングのメニューは豊富です。Kさんが撮ってくれた写真をまとめました。
プレートに乗っているのが初めに取ってきた分で、もう一回いろいろと食べて
ビールも飲んで満腹でした。

 

          

食後には去年の忘年会で出してもらったアンケートをKさんがまとめてくれていて
今年の行き先について話し合いをしました。
100回記念では一泊旅行とか 姫路城には行きたいとの意見がありました。
最後には忘年会でも見せていただいた見並さんのマジックです。

 


今回のことを いつものように長谷川さんがWordでまとめてくれまして 
それをPDF  Exchangerで画像にしました。

  

小椎尾さんのブログ : わくわくお出かけ・新年会。

ご覧ください。 (クリックするとリンクします。)


香川県(讃岐)の偉人についてのブログをまとめました。

2016-01-17 | パソコン

一昨年の暮れから昨年の初めに 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書きました。
(タイトルをクリックするとブログにリンクします。)
1回目は2014-12-24のブログ香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ香川川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
回目は2015-01-07のブログ川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷
回目は2015-01-29のブログ香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞 
回目は2015-02-05のブログ四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんが多度津の人と知りました。


・香川の偉人-久米通賢(くめ・みちかた)
香川県東かがわ市馬宿 生まれ。
安永9年(1780)-天保12年(1841) 62歳
江戸時代後期の技術者・科学者。
マルチな才能をもった「塩田開発の父」「坂出塩田の父」

船舵職人の子に生まれ、栄左衛門と称した。
子供のころから天文と地理に興味を持ち、手先が器用で粘土細工などが上手で、大阪見物にいったときには時計の修理をして困った人
を助けたという話しが残る。

19歳のとき大坂の間重富の門に入り、4年間、数学・地理・天文・測量を学ぶ。
文化3年(1806)高松藩から領内測量を命ぜられてこれを完成した。
そのときに使われた測量器械には、すべて久米栄左衛門(通賢)の名が入っており、
自らが製作したものであった。

文化5年(1808)に行われた伊能忠敬の四国測量に際して高松藩領の案内を勤めた。
文化6年(1809)には、高松藩「天文測量方」になり、「久米」を名乗るを許された。
海防に関心をもち、たまたま文化4年(1807)のロシア兵の択捉島侵略に 刺戟されて造兵に意を注ぎ全流水軍術に工夫を加え火器を備えた
戦艦の構想をまとめて 「戦船作積之覚」を藩庁に提出した。

また、銃器の改良についても従来の火縄銃に代えて燧石に接した鋼輪の回転によって
発生する連続火花によって点火する方法を考案し、輪燧佩銃・無敵鎗間銃を作った。

さらに天保10年(1839)には雷汞を完成して生火銃と称する雷管銃を 藩主に献上するまでになった。
技術者として通賢が製作したものとして、星眼鏡・地平儀・オクタント
・象限儀・風銃・水揚器・百敵砲などが知られている。

藩の財政の立て直し、測量技術を生かした干拓工事や塩田開発、
砂糖製造業者の保護育成、港の工事などのほか、マッチや精米機の考案なども手がけた。

とくに、わが国最大の製塩地よいわれる坂出塩田は文政9年(1826)
通賢の努力によって開発されたのがはじまりである。


財政難の高松藩に財政立て直しの計画書を提出し、その中心事業が塩田開発であり、藩はこの計画を採用し、通賢は普請奉行(開発責任者)に任じられる
しかし開発費用が藩からの資金では不十分で、通賢は私財を投じ、自分や親戚の財産がなくなるほどの努力で、工事の完成を迎えた。
文政12年に完成した坂出塩田は、高い技術と独自の工夫をこらした「久米式塩田」とも呼べるもので、通賢の名を藩外にも広め、「塩田開発の父」と称された。
私財を使い果たし貧困の中でも技術者として様々な研究を続け、国産マッチの先駆けともいえる「ドントロ付木」などの発明品が今に伝わっている。 

久米通賢生誕地(香川県東かがわ市馬宿) 旧宅は四国村(四国民家博物館)に移築されている。

塩釜神社・香川県坂出市常盤公園内に上記の銅像がある。
鎌田共済会郷土博物館で 通賢の業績や発明品を見ることができる。


久米通賢墓所(香川県東かがわ市馬宿)のそばには紀功碑が建てられ、近辺には「久米通賢通り」という通りがある。


 ・香川の偉人-向山周慶(さきやま・しゅ
  うけい)

 1746年に讃岐国大内郡湊村(香川県東
  かがわ市湊)生まれ

 1819年に74歳で死去。
 讃岐糖業の始祖として白砂糖作りを確立
 し、「讃岐糖業の父」と称される。
 高松藩医・池田玄丈について医術を学ん
 だ。
 その頃、第5代高松藩主・松平頼恭は、
 砂糖生産に注目し、
 玄丈に研究を命じていた。
 16歳で周慶は、玄丈から砂糖精製の研究を託され、
 以後30年間にも及ぶ苦難の歳月を経て、
 1790年はじめて白砂糖の精製に成功
 した。
 1803年白砂糖の製法を確立し、
 大坂で讃岐の和三盆糖として名声を高め
 た。
 左の画像は高松市松島町にある向良神社
 です。
 向山周慶さんと関良助さんから一字ずつとっ
 て、神社の名前がつけられました。
 関良介さんは薩摩の人で、医者の向山周慶
 さんが関良助を助けたことに
 恩義を感じた良助が国禁の砂糖キビの苗を
 持ちだし、周慶のもとへとどけ、
 砂糖きびが讃岐の国に根づいたと伝えられ
 ています。


   向山周慶の記念碑        関良介のお墓
   


 ・香川の偉人-玉楮象谷(たまかじぞうこ
  く)
 高松市に1806年に生まれ、
  明治2年(1869)に64歳で亡くなりました。

 玉楮象谷は、中国の彫漆を模した技法や、
 南方漆器の技法を 独自の技法に消化した
 作風を開拓、象谷塗・讃岐彫とよばれる
 今日の高松漆器の源流をつくりあげ、
 今日特産品として名高い 高松漆工芸の
 基礎を築き
 「香川漆芸の父」と称されます。

 讃岐漆芸は、高松藩の漆彫司 玉楮象谷に
 始まる。
 当時、江戸や京都では蒔絵が主流であった
 が、象谷は父からうけついだ篆刻の技術を
 ふるい、あえて蒔絵によらず、京都の東本
 願寺や大徳寺に伝来していた堆朱、堆黒、
 存清など中国から舶載した 唐物漆器、あ
 るいは茶人の間で珍重された《キンマ手》
 とよばれる南方渡来の藍胎漆器に着目し、
 これらを摸して地方色豊かな漆器を作り出
 した。彫漆(ちょうしつ)、萄醤(きん
 ま)、存清(ぞんせい)の
三技法が その
 特色であり、彫漆は、色漆を厚く塗ね、
 文様を彫り表す技法。 萄醤は、剣と称す
 る彫刻刀で
文様を彫り、その彫り口に色漆
 を埋め、平らに研ぎ出す
 存清は、色漆で文様を描き、輪郭や細部に線彫りを加える手法である。 


 
象谷の最高傑作一角印籠

天保十年(1839)象谷が34歳のときに高松藩9代藩主松平頼恕に献上した印籠は「一角印籠」と呼ばれ、彼の神業的な彫りの技術を現しています。
高さ8.6cm、幅5.5cm、厚さ2.9cmの偏円筒形鞘に、1,086点の彫刻をしてあるのです。
鞘には池に生えた蓮の絵を彫っていますが、中に彫刻してある生物の種類と数は、蓮の葉55枚、
花が30、大湖石2個、池の中や石の上に亀が343匹、かに443匹、蛙41匹、ひきがえる4匹、
葉や茎にかたつむり27匹、とんぼ24匹、蝿9匹、蜂4匹、蝶26匹、玉虫2匹、いなご3匹、
こおろぎ2匹、かまきり4匹、くも18匹、けら2匹、むかで5匹、
かぶと虫1匹、このほかに雀19羽、鷺7羽、ひすい10羽、せきれい2羽、がちょう3羽です。

なんと生物だけで999の多数にのぼり、すべてを合わせると1,086点になります。
このように細かな細工のできる人は、全国でも珍しいはずです。しかも象谷のけし粒ほどの動物たちは、
一つ一つが生き生きとしていて今にも動き出しそうなのです。

この一角印籠は現在重要美術品に認定され、象谷の彫りの技能を代表する作品となっています。
しかし、象谷の真価は、微細な彫刻よりも独特の塗りの技能にあるともいわれます。 

 香川漆器(かがわしっき)は、讃岐漆器あるいは高松漆器とも呼ばれることがある。 
現在では彫漆、蒟醤、存清、後藤塗、象谷塗の5つの技法が国の伝統的工芸品に指定されている。
確立した香川漆芸は彫刻刀や剣による彫りの技術と色漆の使用が特徴であり、
蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)「香川の3技法」といいます。 

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 ・香川の偉人-大久保 諶之丞(おおくぼ 
  じんのじょう)

 1849に三豊市財田町で 大地主であった
 大久保森冶の三男として生まれる。
 1891(明治24年)、42歳で死去。
 
 1872(明治5年)、財田村吏員、その後郡
 吏員等を
経て、1888年(明治21年)に
 愛媛県会議員、翌年、
香川県が愛媛県から
 分離し香川県会議員となる。 

 私財を投じて道路・橋梁を整備、奨学資金
 の貸付け、
病院建設への資金の寄贈等又、
 讃岐鉄道・北海道移住
などを提唱・実行す
 る。道路開発に情熱を傾け「四国新道開発
 の父
」と称される。

 北海道移住・開拓などにも私財を投じ、
 北海道洞爺湖町では「開拓の父」と称され
 る。

 北海道開拓移民には自ら資金を出し、毎年
 数百人を
 北海道に移住させた。

 左の画像は財田「たからだの里」に建つ
 諶之丞の胸像



 


大久保が育った財田は、阿讃山脈のふもとに位置しています。
隣の徳島県や高知県に行くためには、険しい猪ノ鼻峠を越えていかなければなりませんでした。
大久保は幼い頃から、人々が踏みわけ道程度の曲がりくねった道を苦労して峠越えしている様子を見て
育ちました。

讃岐の発展、四国の発展のためには、人々が容易に往来することができる道をつくることが必要であるとの
大久保の思いはこうして形成されました。

 香川県財田町と北海道洞爺村とのつながりは、明治20年(1887 年)5月10日、洞爺村開拓の父と
慕われる大 久保之丞が心血を注い だ「北海道移民計画」に共鳴し、香川県財田村を中心とする22戸
76 名の一団が 原始の洞爺に移り住んでから約120年、これらの人たちの 努力が実を結び、原始の大地は今は、豊かで美しい土地に姿を変え、人々 はいきいきと暮らしています。 開拓の第一歩が印されて以来、洞爺村には財田町との縁故の人達も数 多く、これらの方々にあっては途切れることなく交際がもたれていまし たが、両町村の組織的な交流は行われていませんでした。
このような状況のなかで昭和49年に財田町から町長と町議一行が 来村され、
「祖先を同じくする縁故を基にして、
今後さらに友好を深め 産業、教育、文化その他の交流を図りながら両町村発展のため、
友愛に よる姉妹町村の盟約を結ぼう」との話がもち上がり、洞爺村議会で「盟 約調印」が決議され、
昭和50年4月1日に姉妹町村盟約の調印を行い、 
財田町と洞爺村の姉妹の契りが結ばれ、
以後30有余年にわたり活発な 交流活動がなされてきました。


 ・香川の偉人-景山甚右衛門(かげやま・じんうえも
  ん)
  安政2年(1855)4月14日-昭和12年(1937)10月18
  日 83歳 
  香川県仲多度郡多度津町の回船問屋に生まれた。
  明治から大正時代の実業家、政治家。
 「讃岐鉄道の父」と称される。 

 19歳で家業を継ぎ、明治23年(1890)に
 讃岐鉄道(現JR四国)を、
 翌年には香川県内最初の多度津銀行を創設。

 また、四国水力電気(現四国電力)の社長を務めた
 ほか、衆院議員としても活躍した。

 20歳のとき上京して見た新橋~横浜間の鉄道に驚愕し、
 香川にも鉄道を開業するという構想を立て、
 丸亀~多度津~琴平に至る讃岐鉄道を設立して、
 開業させた。

 
■讃岐鉄道
横浜で蒸気機関車を見た甚右衛門は、これからは乗客や物資を「速く・大量に・時間通りに」運べる鉄道の時代であることを痛感、讃岐鉄道を興します。
この甚大なプロジェクトの資金を支えたのは、多度津七福神を中心とした多度津の豪商たちでした。
景山甚右衛門は、七福神の一人ではあったものの年若く、資金の面というよりも、
都会からの情報と実務を請け負い、資金あつめにも奔走したようです。
が、なにぶんにも、まだ、海のものとも山のものともわからない「鉄道事業」に対し、
理解をえるためには相当な苦労があったようで、船とか、馬車とか、既存の交通機関からの妨害もありました。

■多度津銀行
明治24年、、甚右衛門は多度津七福神の資金を集め、それを運用して事業を推進するために作られた
「多度津銀行」の頭取となります。多度津銀行は、昭和16年 国の政策により、
百十四銀行と合併されるまで手堅い経営を続けたそうです。


■讃岐土木株式会社
明治30年、当時、田圃が広がるまちだった善通寺に「陸軍第11師団」の建設が決まり
甚右衛門は土木会社を作り、土地造成、建設工事まで一貫してできる組織作りをし
善通寺に西洋建築を作っていくわけですが現場は地元の棟梁たち。
初めてみる西洋建築に、なかなか技術がついていかず、何度も工期延期の届けをだしながらの作業だったとか。

このレンガを使った大規模な西洋建築づくりによって、観音寺にレンガ工場ができさまざまな産業が根付いていきます。

■四国水力電気
エネルギーの供給に対する思いは強く、明治29年、坂出の鎌田勝太郎らと讃岐鉄道沿線に電力供給の申請をしていました。
同じエリアにあった西讃電灯の営業成績がふるわないと見た甚右衛門は、明治40年、自ら社長となって
多度津七福神とともに経営にのりだし、明治43年「四国水力電気」と改名、福沢桃介を社長に迎え

(福沢桃介は、四国電力はもとより、木曽川の水力発電、中部・関西地区での電力事業を展開
「日本の電力王」と呼ばれる)自分は副社長となって辣腕をふるいます。


■屋島登山鉄道株式会社
鉄道-銀行-近代建築-電力と進めていった多度津の甚右衛門が次に考えたのが「高松」。
大正8年、多度津七福神、坂出の鎌田勝太郎、高松の細谷宗次郎たちと
高松に、讃岐鉄道よりも早く、高松からこんぴらに参拝客を運ぶための準備をはじめます。
昭和2年には、屋島登山鉄道株式会社をつくりケーブルカーが走ります。
甚右衛門は、高松市周辺に高速電車(コトデンの前身)とケーブルカーを運行させ、
人々が大きく動き、さぬきが繋がっていくプロジェクトを始動させますが当時の技術では、なかなか実現することは難しかったようです。


今回の志度行きでは町営の温泉に行ったり 八幡浜まで行ったりして来ました。

2016-01-12 | 志度の畑

1/8(金)の午前中には公民館の料理教室があり、終わってから家内の運転で志度に向かいました。
夕方には造田の家から5kmくらいのところにある寒川町の温泉に行って夕食と入浴にしました。
翌日 1/9(土)には早朝から親戚の人と一緒に250km先の愛媛の八幡浜市に行ってきました。
1/10(日)には多度津から弟が来てくれて、エンドウのネット張りとプラムの剪定をしてくれました。
1/11(月)の午前中には斜面のミカンの木の根元を整地したりして、午後に吹田に向かいました。

 寒川町にある「春日温泉」に初めて行きまし
 た。
売店にあった野菜が安いのでついたく
 さん買って
夕食は食堂で食べました。
 お風呂も休憩場所もゆっくりしていて、
 入浴料も
安いのでまた来ることになりそう
 です。

  


  八幡浜市の住民投票の応援に高松市から7名が応援に行くこと
 にあり、6時ころに車で行きました。
 八幡浜市には数年前に弟たちと湯布院に行ったときに立ち寄った
 だけでしたが、今回ビラ配りを手伝って町のことが見れてよかったです。

 八幡浜市ではまずミカンが有名で 美味しかったので買いました。
 それとびっくりするくらい大きな大根が安くて買ったり、昼食に食べた
 「ちゃんぽん」も名産だそうで 「じゃこ天」も買って来ました。 

 

  

 八幡浜市の 

 「福島の木幡仁さんの講演会ビラを撒きに、
 香川などから応援に来て頂いた方々と。
 半日で2000枚ポスティング完了!

  


前回に一畝作って植えたエンドウの苗が大きくなってから必要になるネット張りを弟と一緒に
やりました。 支柱を3本打ち込んで横に棒を取り付けて立派なネットが出来ました。

 

 最初に植えたエンドウの苗は少しずつ大きく
 なってきていて
 自分のツルで支えるよう
 になってきました。

 プラムの木が大きくなって上の方の実は
 とりにいこともあり
弟に大胆に剪定して
 もらいました。

 年を取ると高所作業が苦手です
  

志度の畑は3月になってから植える予定のジャガイモまでは作業がない状態です。
タマネギが順調に大きくなってきていて、マンバもたくさん植えてあるので収穫が
楽しみです。ソラマメもかなり植えてあり、大きくなってきています。 

 

     

     

  今年はスイセンの花が早く咲いて
 前回にもたくさん採ってきたのですが
 今回も持ち帰りました。
 近くに紫のきれいな花が咲いていたので 
 撮ってきました。
 畑の近くにある椿の木はかなり古い木で
 多くの花が咲きます。 


今年 最初の志度行きは親戚の人のお葬式があって急に行ってきました。

2016-01-08 | 志度の畑

1/2に東京から吹田に戻ってきた晩に 高松の親戚の人が亡くなったとの知らせがあり
1/3の朝に家内の運転で志度に向かいました。102歳と高齢の方ですが 暮れには元気だった
とのことです。4日がお通やで5日のお葬式の後 吹田に戻ってきました。 

 今回 隣家の畑からエンドウの苗を間引いて
 新しく一畝を作って植えました。
 耕運機で耕して 畝を作ることも 
 苗を植えるのも
 竹で支柱を作って 
 ワラで固定するのも上手に
なりました。
 前に植えたエンドウは順調に育ってきて
 いてツルで
固定できているのもあります。
 今回 植えた分のネットは次回にでも
 設営します。
ソラマメも大きくなって
 いて 虫が付いているようでしたので
 スプレー式の噴霧器で殺虫剤を
 散布しました。

  

これから大きく育ってくれるようにと タマネギとバンバの畝に肥やしを撒きました。 
草も取ってきれいな畝になりました。

          

 ホウレンソウは種をばら撒き過ぎて 密集していて 
 少しずつ
 間引いて ようやくホウレンソウらしく
 なってきて 少し採って
きました。

 イチゴは寒さに強いようで 白い花を咲かせていて
 実も
 付きだしています。

   

 

 

 

 

 


マナの花が黄色く咲いていました。 今年は暖冬でスイセンももうかなり咲いていて 
家内はたくさん採ってきて友達に配りました。
去年の暮れに上野動物園で見かけた たしが越前スイセンの写真も撮っていたので編集しました。

 

南天と万両の赤い実もきれいです。 今年は南天が少ない感じですが 
正月も終わって 採ってきませんでした。

          


  今回の食事ついて書き留めて
 おきます。

 3日の夕食は家の近くにある
 「桜や食堂」
に行きました。
 日曜だったので大勢におお客さんで
 賑わって
いました。
 マルナカ長尾店で弁当・惣菜や果物
 を買うのが
多くなってきて 家での
 夕食と朝食が増えました。
 お昼はだいたいうどん屋さんです。
 造田のある「溜」といううどん屋
 さんは新しい店でいつも多くの
 お客さんが入っています。
 志度にある「亀城庵」がいつも行くうどん屋さんです。
 今回は両方に一回ずつ行きました。 


年の暮れと新年を東京で過ごし 美術館と明治神宮と皇居の一般参賀に行きました。

2016-01-07 | 旅行

孫の大学受験で大阪に帰って来ないので、娘が福井の実家に行く間を家内が世話をすることになり
私は30日に東京駅からまず上野公園に行って 31日には中学時代の友人と昼食をして
1日には家内と明治神宮に初詣に行き、2日には皇居の新年一般参賀に行きました。

 東京に行って時間があれば上野公園に
 行きます。

 新幹線で隣になった人が中国から来た
 人だったことのも
あり、東京国立博物館
 の「始皇帝と大兵馬俑」を
見ようと
 思いましたが、どの美術館・博物館は
 年末と年始
の休館日でした。
 開館していたのが「上野の森美術館」で
 シカゴ ウェストンコレクション 
 肉筆浮世絵-美の競艶

 
 アメカの日本美術収集家、
 ロジャー・ウェストン氏の所蔵品
 の中から、厳選された約130点の
 肉筆浮世絵が展示されます。
 ウェストンコレクションは肉筆浮世絵の
 個人コレクションとしては
  
世界有数の規模と質を誇り、勝川春章、喜多川歌麿、歌川豊国、
葛飾北斎、河鍋暁斎などの絵師たちによる一点ものの貴重な作品が、里帰りし初公開されます。
江戸初期から明治にいたるまでの肉筆浮世絵の歴史が系統だてて紹介され、
江戸美人たちによる美の競艶が楽しめます。 

 

 上野公園にはたくさんの
 美術館・博物館があります。

 東京都立博物館と
 国立科学博物館の写真を
 撮って編集しました。
 東京都美術館では1/16
 から ボッティチェリ展 が
 あり国立西洋美術館では 
黄金伝説展が開催中です。

           


  今年は孫が大学受験で
 頑張っています。

 家内と明治神宮にお参り
 して、お守りも買いました。
 原宿駅からすぐのところです
 が、広さと人の多さに
 驚きました。明治神宮は
 初詣の参拝者数が毎年
 日本一で今年も約310万人
 だったそうです。
 湯島天神にもお参りを
 しようと
JR御徒町駅から
 歩いていきましたが
最後尾
 はこちらという長い行列に
 圧倒されましてあきらめました。

孫は1998年の12月に生まれて 小学校から東京です。 2000年の4月に王子動物園で撮った写真と
2004年の4月に上野動物園で撮った写真を見つけて合成しました。
今は身長も私より大きくなり、小さいころの写真を見ると懐かしい記憶がよみがえります。

          


  2日の皇居新年一般参賀に初めて
 行きました。
東京駅から大勢の人
 に並んで進みます。
手荷物検査が
 あり、ペットボトルの飲み物も

 廃棄です。
 10時と11時にはお出ましになる
 皇族の方が多く
12時でしたので
 少なかったです。

 写真の撮影は前の人が邪魔で
 うまく撮れません。

 後でインターネットから見つけた
 分も合わせて
いろいろと編集しました。
 帰りも坂下門が混雑中で、桔梗門からという案内でしたが 結構混んでいて時間がかかり ました。 

      

            


 東京での食事を書き留めて
 おきます。

 30日の夕食は娘の住んでいる
 武蔵小金井駅
の近くにある
 中華店に行き、孫用に持ち帰
 りも
注文しました。
 31日の昼食は小田急の経堂駅
 近くの焼き肉屋で
中学時代の
 友人と食べて、夕食は家で
 家内と孫の
3人です。
 1日の湯島天神を中止の後に
 御徒町駅近くがアメ横


上野駅まで歩き、お昼は新大久保まで行って
韓国料理のお店に入りました。
夕食は福井から帰ってきた娘たちと外食しました。


2014-06-24 のブログ Google アートプロジェクトから浮世絵画家の作品を集めました。

Picasaウェブアルバムに江戸時代の浮世絵画家 5人の作品をインターネットから取り込んでPicasaウェブアルバムに登録した
ことが書かれています。 ( 
喜多川 歌麿 : 葛飾 北斎 : 歌川 国貞 :  歌川 広重 : 歌川 国芳 )

今回の上野の森美術館に展示されていた作品をインターネットで取り込んで編集しました。