ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

志度の畑の風景です。(2021-12-10)レモンとサトイモの収穫をしました。

2021-12-11 | 志度の畑

12/9の木曜にレモンが黄色く色づいたのを収穫して、サトイモも掘り返して兄にゆうパックで
送りました。今週は暖かくて畑仕事がやりやすかったで
す。
今日(12/11)はタマネギにこやしをやりました。

 左の画像はエンドウの様子です。
 アーチ状の支柱 3か所とネットを
 2か所で育ってきたツルをわらに
 固定して育てています。
 もうかなり大きくなったところもあり、
 これからの生育が楽しみです。

 下の画像はログの近くに移植した
 エンドウの苗が根付いて、少し大きく
 なってきた様子です。

 

 


 左の画像は下段のエリアに作った畝にソラマメの種を
 11月の初旬に30粒撒きました。
 少し植えたのが深かったのか、気温が低かったからか
 なかなか芽が出てこなかったので心配してしましたが
 やっと芽が出てきて一安心です。
 下の画像は道の駅で購入したソラマメの苗を植えた分の
 様子です。上段のエリアにはビニールシートで風よけを
 設置しています。
  

    下の画像はタマネギの生育状況です。植えた時期がずれていますので
    大きさはまちまちで、小さいのは大きくなるか気がかりです。

  

 左の画像はサトイモの残っている分と収穫した分です。
 今年も多くの苗を植えたのですが、あまり大きく育って
 くれなかったので収穫量はまずまずのでした。

 下の画像はワケギです。私はワケギが好きなのでかなり
 植えています。もう何回か収穫してワケギ和えで食べました。
 まだ何回か収穫できそうです。

    

下の左の画像は ブロッコリー・ハクサイ・なばな・マンバの様子です。
少しずつ収穫し始めています。マンバは追加で苗を植えています。
下の右の画像はダイコン・カブ・ハクサイ・チンゲンサイの様子です。
 

    下の画像はニンニクの生育状況です。兄と弟がニンニクが好きなので 
    今年も多く育っています、ニンニクはうまく芽がでてくれます。

    

下の左の画像は 収穫した後のレモンの木と 収穫したレモンの様子です。
下の右の画像はキンカンとユズの様子です。

 

下の左の画像は 万両とリコリスの様子です。畑にあった分を家に植えたのにも紅い実が付きました。
下の右の画像は麦畑とスイセンとイチゴ畑の様子です。麦畑は家の近くの田に芽が出てきています。

 


四国八十八ケ寺の65番の札所としまなみ海道に行って来ました。(2021-12-5)

2021-12-07 | お出かけ

11/20 11/21に四国八十八ケ寺の24番から29番 39番から43番 54番から56番
の札所にお参りして全部のお寺を回ったと思っていたのですが 四国中央市にある
65番の三角寺が残っていました。家内の友人と一緒にお参りしてしまなみ海道を通って
耕三寺と平山郁夫美術館を見て、福山SAで昼食にして瀬戸内自動車道で帰って来ました。

 左の画像は12/5の日曜日に行った
 四国中央市の四国八十八ケ寺の
 65番の札所からしまなみ海道を
 通って耕三寺から福山SAから
 瀬戸内自動車道経由で多度津に
 寄ってから帰ってきました、

 下の画像はしまなみ海道です。

  


        下の画像は四国88カ所65番三角寺です。

    
  
 
第65番札所 由霊山 慈尊院 三角寺

  

 三角寺の歴史・由来

 江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」
 と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。
 伊予最後の霊場で、標高は約360m、平石山の中腹にある静かな境内。

 縁起では、聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために
 開創したと伝えられる。
 その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。
 さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と
 万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。
 この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、
 寺院名の由来ともなっている。
 また、嵯峨天皇の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、
 七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。

 だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、一部の堂宇を焼失した。
 現在の本堂が再建されたのは嘉永2年で、昭和46年に修復されている。

 本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰を仰いでいる。
 ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、
 子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。
 子供を授かった後に、 新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。

 三角寺の見どころ

  三角の池・薬師堂・延命地蔵菩薩立像(昭和52年再建。高さ7m銅造。)


        

    

         

    

        

    

 

 

         

        


   

      

         

    


四国八十八ケ寺の43番と54番から56番の札所に行って来ました。(2021-11-21 後半分)

2021-12-04 | お出かけ

11/21の朝早くに出発して午前中に宿毛市の四国八十八ケ寺の39番から43番の札所にお参りして、
午後からは今治市
の54番から56番の札所にお参りして夜遅くに帰宅しました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の39番から
 56番の札所の地図です。

 39番の延光寺がある宿毛市の
 小さな喫茶店でモーニングを
 食べました。
 40番の観自在寺と41番の龍光寺
 と42番の仏木寺と43番の明石寺
 にお参りしてから宇和島市の
 喫茶店で昼食にしました。

 近くの道の駅に寄ってから 
 今治市にある54番の観自在寺と
 55番の龍光寺と56番の仏木寺
 にお参りしてから 夕食を豊浜
 SAで食べて帰宅しました。

        

下の画像は四国88カ所39番延光寺・40番観自在寺・41番龍光寺・42番仏木寺
        ・43番明石寺・54番延命寺・55番南光坊・56番泰山寺です。

        


         下の画像は四国88カ所 43番明石寺です

         

   第43番札所 源光山 円手院 明石寺

   

 明石寺の歴史・由来

 明石寺が所在する西予市宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、
 宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、
 多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。
 明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。

 まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。
 6世紀の前半、欽明天皇の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった
 千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。
 のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から
 12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。

 弘仁13年には弘法大師がこの地を訪ねている。
 荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇に奏上して勅命を受け、
 金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。
 その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。
 建久5年、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、
 また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。

 以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、
 また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

 明石寺の見どころ 
 神仏習合・本堂・しあわせ観音像
(客殿の裏にあり、身の丈2m余、長い袂着物姿で、左手に水瓶をもつ慈悲深いお顔の観音さま。)

      

   

      

         

            


        下の画像は四国88カ所 54番延命寺です

        

   第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺

   

 延命寺の歴史・由来

 今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている
 近見山という標高244mの山がある。
 この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。

 縁起によると、養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる
 不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。
 弘仁年間になって、弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、
 「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。
 この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との
 間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。

 その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、
 享保12年に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。
 この間、鎌倉時代の文永5年、華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に籠り、
 初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。
 「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、
 上下2巻に記されている。

 寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、
 境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。

 延命寺の見どころ

 山門・火伏せ不動尊・越智孫兵衛の墓(阿方の庄屋であった越智孫兵衛は、農民の窮乏を救い、
 享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられる。)

        

                  

   

      

         


        下の画像は四国88カ所 55番南光坊です

        

   第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊

   

 南光坊の歴史・由来

 四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。
 正式には光明寺金剛院南光坊という。
 今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と
 深くかかわる歴史を有する。

 推古天皇御代二年甲寅(594)に勅により大三島に造立されて。
 其の後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大宝三年(703)風波のため祭祀が
 おろそかになるのを憂いて当地に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した。
 弘法大師は四国巡錫の時別館参拝し、坊で御法楽をあげられて四国霊場第五十五番札所と定めた

 のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、
 南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。
 慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、
 また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。

 さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と
 脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。

   太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。
 現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

 南光坊の見どころ

 大通智勝如来・川村驥山の菅笠・金比羅堂(讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る堂。)

                

             

   

      

         

   

      


      下の画像は四国88カ所 56番泰山寺です

      

   第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺

    

  泰山寺の歴史・由来

 泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。
 弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。
 蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、
 人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。
 この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり
 修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

 大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、 
 感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。
 この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。
 「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、
 亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。

 寺はその後、淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、
 塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。
 だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、
 大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。

 泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、
 『八宗綱要』を撰述した凝然(1240〜1321)が誕生した地とされている。

 泰山寺の見どころ

  土砂加持・不忘の松・地蔵車(本堂斜め前。石塔に丸い輪があり、
  これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれる。六道は、地獄・餓鬼など衆生が背負う六つの迷界。)

        

               

   

      

         

   

        



 11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の
 札所にお参りして、「駒季」というお店で
 昼食にしました。
 私はうなぎ丼
 家内は刺し身定食でした。

 朝食は 
小松島市のコメダコーヒーで
 モーニングにしました。
 
 室戸市のランチで調べると
 金目鯛のどんぶりが人気でしたが
 予約ができませんでした。

 

 

 

 11/20の午前中に室戸市の24番から26番の
 札所にお参りして、午後からは香南市
 ・南国市の25番から29番の札所に
    お参りしてから宿毛市のホテルに
 泊まりました。
 ホテルで聞いた近くのお店で夕食に
 しました。カツオのたたきは一人前しか
 ありませんでした、
 若い人が多くて賑やかでした。

 

 

 

 11/21の39番の延光寺がある宿毛市の
 小さな喫茶店でモーニングを
 食べました。
 40番の観自在寺と41番の龍光寺
 と42番の仏木寺と43番の明石寺
 にお参りしてから宇和島市の
 喫茶店で昼食にしました。
 お店のお勧めランチ ミニハンバーグ
 を食べましたが 美味しかったです。
 今治市の三か寺を回ってから夕食は
 香川県に入って豊浜SAでステーキ定食
 を食べました。

 

 左の画像は11/20の夕食後に
 行った宿毛市のリゾート温泉です。
 夜は9時まででしたが 
 良かったです。
 ロビーに宿毛市の観光地や偉人の
 パネルがありました。

 11/21の昼食後に今治市に向かう前に
 道の駅に寄って少し買い物を
 しました。

 ちょうどコスモスが見ごろで
 宇和島市の三間町にたくさん
 咲いていてきれいでした。

       


四国八十八ケ寺の39番から42番の札所に行って来ました。(2021-11-21 前半分)

2021-12-03 | お出かけ

11/21の朝早くに出発して午前中に宿毛市の四国八十八ケ寺の39番から43番の札所にお参りして、
午後からは今治市
の54番から56番の札所にお参りして夜遅くに帰宅しました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の39番から
 56番の札所の地図です。

 39番の延光寺がある宿毛市の
 小さな喫茶店でモーニングを
 食べました。
 40番の観自在寺と41番の龍光寺
 と42番の仏木寺と43番の明石寺
 にお参りしてから宇和島市の
 喫茶店で昼食にしました。

 近くの道の駅に寄ってから 
 今治市にある54番の観自在寺と
 55番の龍光寺と56番の仏木寺
 にお参りしてから 夕食を豊浜
 SAで食べて帰宅しました。

        

下の画像は四国88カ所39番延光寺・40番観自在寺・41番龍光寺・42番仏木寺
        ・43番明石寺・54番延命寺・55番南光坊・56番泰山寺です。

        


         下の画像は四国88カ所 39番延光寺です

         

   第39番札所 赤亀山 寺山院 延光寺

    

 延光寺の歴史・由来

 土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。
 現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。
 時代は平安中期、延喜11年のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。
 僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。
 この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6㎝、口径23㎝の小柄な鐘で、
 明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、
 国の重要文化財に指定されている。

 縁起を寺の起源にもどそう。
 神亀元年に行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、
 これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。
 当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、
 また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。

 弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間で、桓武天皇の勅願所として再興、
 日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。
 このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

 延光寺の見どころ

 眼洗い井戸・延宝8年建立の石碑・大赤亀の石像(竜宮城伝説を象徴しており、
 赤い大きな亀が背中に鐘を乗せた姿をしている。仁王門をくぐった右手にある。)

        

         

   

       

 


        下の画像は四国88カ所 40番観自在寺です。

        

  第40番札所 平城山 薬師院 観自在寺

    

 観自在寺の歴史・由来

 愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、
 「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。
 寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、
 真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。

 縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇の勅命を受けてこの地を訪れ、
 1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、
 十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。
 このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、
 舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。

 平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇とともに親しく行幸され、
 御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。
 こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで
 「平城」とも呼ぶようになっている。
 
 寛永15年、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、
 「薬師院」の院号を授かっている。
 このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。
 だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として
 旧観の回復につとめ、法灯を守っている。

 観自在寺の見どころ

 本尊と脇侍・「南無阿弥陀仏」の名号宝判・本堂(昭和39年、全国の信徒の浄財だけで再建。)
 ・大師堂(平成5年、総檜の宝形造りで、回廊では四国八十八ヶ所のお砂踏ができる。)

        

          

       

   

        

            


      下の画像は四国88カ所 41番龍光寺です。         

      

  第41番札所 稲荷山 護国院 龍光寺

   

  龍光寺の歴史・由来

 宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10㎞ほどのところが三間平野。
 地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、
 往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。

 その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。
 この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。
 境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。

 縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人が
 あらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。
 大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、
 その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。
 このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、
 「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。

 創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、
 明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。
 新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、
 その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。

 三間平野は四季折々の草花が美しく、毎年11月ころにはコスモス祭りが開かれる。

龍光寺の見どころ

 本尊と脇侍・「南無阿弥陀仏」の名号宝判・本堂(昭和39年、全国の信徒の浄財だけで再建。)
 ・大師堂(平成5年、総檜の宝形造りで、回廊では四国八十八ヶ所のお砂踏ができる。)

      

          

          

   

      



       下の画像は四国88カ所 42番仏木寺です。

      

   第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 仏木寺

     

 第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 仏木寺

   仏木寺の歴史・由来

 牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。
 ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。
 近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、
 牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。
 往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて
 動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。

 大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。
 誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、
 光を放っているのを目にした。
 よく見ると、これは大師が唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、
 三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。
 大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。
 大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。
 これを本尊として安置し、「一カ山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した
 『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。

 その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめ、
 鎌倉時代には宇和島領主・西園寺家の祈祷、菩提寺となるなど隆盛を誇った。
 戦国時代には戦乱に災いされるなど、苦難の道を余儀なくされたが、
 再建に励んで面目を一新し、活気に満ちている。

 仏木寺の見どころ

  本尊・大日如来像・家畜堂・鐘楼堂(四国霊場では珍しい茅葺の屋根。元禄時代に再建されたもの。

        

        
   

      

   

    

       


四国八十八ケ寺の27番から29番の札所に行って来ました。(2021-11-20 後半分)

2021-12-01 | お出かけ

11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の四国八十八ケ寺の24番から26番の札所にお参りして、
午後からは香南市・
南国市の25番から29番の札所にお参りして、宿毛市のホテルに泊まりました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の24番から
 29番の札所の地図です。

 午前中に24番から26番の札所
    にお参りして、昼食は室戸市
 の「駒季」というお店に
 行きました。午後からは27番の
 最神峯寺がある安芸郡安田町へ
 行った後 香南市の28番大日寺
 南国市の29番国分寺に行き
 宿毛市の秋沢ホテルで宿泊
 しました。


       
下の画像は四国88カ所24番最御崎寺・25番津照寺・26番金剛頂寺
        ・27番神峯寺・28番大日寺・29番国分寺です。

        


        下の画像は四国88カ所 27番神峯寺です。
 
        
    

   第27番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺

 神峯寺の歴史・由来

 神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。
 幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、息子の出世を祈願し
 往復20kmの道のりを21日間日参したという話は、いまも伝わっている。

 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。 
 聖武天皇の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。 
 その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。

 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、
 本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。
 明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。
 だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、
 苦難の道を歩んで今日にいたっている。

 昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、
 夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。

        

   

                      

   

      

         

    

        

   

      

         


         下の画像は四国88カ所 28番大日寺です

         

   第28番札所 法界山 高照院 大日寺

   

 大日寺の歴史・由来

 境内には四季折々の花が咲き、巡拝者の目を楽しませてくれる。
 早春にはサンシュユの花、3月彼岸ごろにはしだれ桜、本坊前のコブシの花、
 10月中旬から十月桜や万両が見頃を迎える。

 縁起によると、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、
 堂宇に安置して開創されたと伝えられる。
 その後、寺は荒廃したが、弘法大師が四国を巡教された弘仁6年、末世の人々の安泰を祈り、
 楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。

 以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間からは 
 土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。
 明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した
 本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。

 行基菩薩作とされる金剛界大日如来坐像は、高さが約146㎝の寄せ木造りで、四国では最大級。
 また、脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、これも高さ約172㎝と大きく、
 ともに国の重要文化財に指定されている。
 また、大師ゆかりの楠の霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ、奥の院とされている 。
 その楠は明治初めの大風で倒れたが、跡地に一堂を建てて安置している。
 この霊木は、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされている。
 薬師堂の脇には、土佐名水40選にも選ばれた大師御加持水が湧く。

大日寺の見どころ 本堂・大師堂
            ・野市百人衆(武将・長宗我部軍の遺臣たち100人を使って水田を開拓させた。 
             彼らは土佐郷士の初めとなった。)
            ・龍河洞(日本三大鍾乳洞のひとつ。全長4km。)

   

      

        

        

        


       下の画像は四国88カ所 29番国分寺です

       

   第29番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺

   

 国分寺の歴史・由来

 土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之が浮かんでくる。
 とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることは
 あまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国衙は、国分寺から北東1㎞ほどの近くで
 「国分寺共々土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・経済・文化の中心地であった。

 聖武天皇が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。
 土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。
 歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。

 縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年のころで、
 毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。
 その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた 。
 以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。

 本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部国親元親親子が、永禄元年に再建。
 外観は柿葺き、寄棟造りで天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、
 室町時代の特色が見られる。現在国の重要文化財に指定されている。
 また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で建立され、
 現在の仁王門は昭和の初めに再建され、二層造りである。
 1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史跡に指定され、
 杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれる。

 国分寺の見どこ

 国指定文化財・金堂・庭園、句碑(本堂を背にして、春は桜・牡丹、初夏には紫陽花、
 秋には萩と、心やすまる参道、創建当時の七重塔の心柱をささえた礎石、杉苔の美しい庭園が広がる。