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8章 コンピュータ・ゲームで楽しむ」認知と学習の心理学

2020-06-28 | 認知心理学

05/11/6海保博之


8章 コンピュータ・ゲームで楽しむ

8.1 書斎でのひそかな楽しみ
●一人こっそりマージャンゲーム
●昔覚えた遊びの復活

8.2 手軽さ
●遊ぶのに努力がいる
●遊びの面倒さこそ大事
●コンピュータゲームは子供にさせるな

8.3 即応性
●反応があるのはうれしい
●人間になじむ即応

8.4 上達する
●仕掛けを知る
●頭の使い方の上達

8.5 コンピュータゲームに熱中させるもの
●達成感
●」挑戦心
●集中力
●コントロール感

********
8章 コンピュータ・ゲームで楽しむ

8.1 書斎でのひそかな楽しみ

●一人こっそりマージャンゲーム
書斎に入ると、まずは、コンピュータを立ち上げる。そしてまずやることは、HPにその日の「認知的体験」を書くことと、麻雀の一人ゲームである。
1回およそ10分。これで頭をならしてから、おもむろに仕事にかかる。しかし、書斎を出るまでに、1回のゲームで済むことは、実はまれで、原稿が書けなくなってしまったような時、一段落ついて次の仕事にかかる時などにも、つい、ゲームのファイルをクリックしてしまう。時折、家内に見つかり、ばつの悪い思いをすることもある。

●昔覚えた遊びの復活
麻雀は大学生時代に覚えた遊びである。今考えると、よくあれほど暇な時間があったものと、びっくりする。しかし、友人4人とのゲームは実に楽しかった。さすがに、就職してからこれまでは、まったくしなくなった。時間もないし、仲間もいない。
それが、ある日、大学院生からコンピュータで麻雀ができることを教えてもらってからは、ほとんど日課の遊びになったのである。
いつでもどこでもできる一人麻雀ではあるが、それでも、自分なりにルールを決めて自己規制はしている。そうしないと、際限がなくやってしまう不安があるからである。そのルールは、「半チャン一回だけにする」「特定のパソコンだけでする」である。
それでも、このルールを破りたい誘惑にかられてしまう。ルール破りをして自己嫌悪に陥ってしまうことも、これまで何度となくある。
 それほどまでしてやってみたいと思わせるコンピュータ・ゲームの魅力はなんであろうか。3つ取り上げて、分析してみることにする。

コラム「麻雀救国論」*******
日下公人氏は、文藝春秋(05年8月号)のコラムで、「麻雀には運と理論とスピード(リズム)とがある」として、その効用を論じたあとに、こんな提案をしている。
1)少子化対策には麻雀を
 結婚しないのは伏せてあるパイをあくまで測定しようとするから婚期を逃してしまう
2)理論倒れを防ぐには高校から麻雀を
 理論やデータが集まってからでは遅い。運にかけることも必要。
3)公務員試験にも麻雀を
 自分がプレーヤーになってやってみなければわからない。
4)政策立案者はリズムがよい人にせよ
 物事を決めるには、待ったや早あがりなど複雑なリズムがある。
******


8.2 手軽さ

●遊ぶのに努力がいる
4人麻雀で一番苦労するのは、4人目を誘うこと。不思議に3人までは簡単にそろうのだが、4人目を見つけるのが難しいことが多い。遊びたい一心であちこちに頼み込むことになる。
ところが1人麻雀には、こうした煩わしさがない。やりたいときに誰になんの気兼ねもなくできる。
努力しなければならない遊びも世の中にはたくさんある。人集め もそうだが、わざわざ一定の場所までいかなければできない遊び、精巧な道具をそろえなければならない遊びなどなど。
それにくらべれば、コンピュータ・ゲームのこの手軽さは驚くべきことといってよい。

●遊びの面倒さこそ大事
話がいきなり飛ぶが、この手軽さ、遊びに入るまでのさまざまな面倒が障害になって遊びに消極的になりがちな高齢者には、うってつけの遊びの環境を提供している。高齢者の持っている残存能力の維持にも有効だと思う。ポルノ映画を見せて元気づけるのもよいが、こうした知的ゲームで頭を使ってもらうこともぼけ防止の対策としてあってよい。なぜ、ゲームメーカーはもっと高齢者向けのゲームソフトを開発しないのだろうか。市場としてはこれからどんどん拡大一方なのに。不思議でならない。
脳の活性化と称して、毒にも薬にもならない単純計算を高齢者にさせて喜んでいる現状にはなんともはがゆい思いである。

●コンピュータゲームは子供にさせるな
それに対して、子供がこうした手軽なコンピュータ・ゲームで遊ぶことにはまったく賛成できない。全面禁止にしたいくらいである。
遊びに友達をさそう。ことわれれる。落胆する。それでも別の友達に声をかけてみる。そうした過程で培われる社会的スキルは、子供が将来生きていくには必須である。
ゲームをする中でのさまざまな社会的交流も、遊びならではのものがある。勝負を競う遊びなら、勝つ喜びと同時に、負けた相手を思いやる気持ち、相手を出し抜く戦略を編み出すための知力も陶冶できる。
すべて手軽ではない。しかし、子供にとっては、この手軽でないさまざまな面倒こそ、学びの恰好の機会であり素材なのである。
こんな懸念もなんのその、ゲームメーカーは次々と新手のゲームを開発しては、子供の心を虜にしている。こんなことをしていると日本の将来が危ういとさえ思ってしまう。杞憂にすぎないことを切に願うものである。

8.3 即応性

●反応があるのはうれしい
クリックすると、ただちにコンピュータのほうからの反応がある。その反応速度は、人間の時間感覚からすると、はるかに速い。その早さに促されるようにして次の手を打つ。いつもコンピュータのほうから反応を催促されているような焦燥感さえ感じてしまうほどである。
オペラント条件づけの原理を応用したプログラム学習を開発したスキナーは、いくつかの学習原理を提案している。その一つに、即時強化の原理がある。学習者が何か回答したら、それに対して即座に正しいか誤っているかをフィードバック(強化)せよ、という原理である。
コンピュータ・ゲームには、意図的か否かはわからないが、この即時強化の原理が実に巧みに作り込まれているのがわかる。
相手が当たりパイを捨てれば、ただちにロンと表示される。その瞬間がたまらない。これが、捨ててからロンまで何秒かたったらどうであろうか。気が抜けてしまう。
即時強化の原理には、学習、遊びを継続させる強い力がある。次の強化を得たいがために次の反応を、そしてまた次の強化を得たいがために次の反応を、−−−−−という、継続性のある反応を促す強力な仕掛けになっている。

●人間になじむ即応
しかし、4人麻雀でのゆったりしたり、あせったりといった、あの人間的な時間のオーダーは一人麻雀にはない。次々とパイを捨ててはその結果をみるだけである。楽しみは、ほんのわずかな戦略上の工夫と偶然性の妙だけである。麻雀はそれだけでも充分に楽しい。
それはそれで結構なのだが、即応性にも怖いところがある。
コンピュータ・麻雀では自らの手を決めるまではどれほどの時間をかけても文句は言われない。それはそれでありがたい。問題は、ひとたび行為をすると、それに対してただちに反応があることである。その「ただちに」は、コンピュータの時間オーダーであるナノ秒(10億分の1秒)とはいわないが、ほとんど瞬時なのである。
人間に備わっている時間オーダーでは、瞬間とは20ミリ秒(1000分の秒)程度である。20ミリ秒ずらして、左右に何かをみせると、両者がほぼ同時に出たかのように見える。
実際は、何かの反応をしてから(継時的に)次の反応が出てくるのが自然なのだが、反応するとほぼ同時という感じでコンピュータが反応してくるのは、非常に不自然である。したがって、疲れる。
しかし、考えてみると、我々は、果てしなくスピードを追求してきた。

**図
  歩くよりも速い馬、馬より速い蒸気機関車、それより速い
  飛行機 エスカレータの速度
*****

コンピュータもまったく同じである。かつては、反応が遅くていらいらさせられた。因子分析という複雑で大規模な計算は、一晩がかりだった。それが、今は、秒単位で結果が出てくる。
速いことはそれほど悪いことではない。むしろ、うれしいことのほうが多い。しかし、コンピュータとのつきあいをより人間的なものにすることを志向するインタフェース設計では、人間の時間感覚のオーダーにコンピュータの反応のオーダーを合わせることがあってもよいかもしれない。コンピュータ側に少し待ってもらうくらいのインタフェースである。そんな時代になったのである。

8.4 上達する

●仕掛けを知る
コンピュータ・ゲームの魅力のその3は、上達である。
麻雀ゲームは、基本は、乱数ベースで全体が進行しているようであるが、その中にも、プログラマーによるいくつかの仕掛けがあるらいしきことがわかる。たとえば、捨てパイがおしくなる配パイがなされるとか、かんちゃん待ちのあがる確率が高いとか。こうしたシステムのくせがわかってくると、あまり負けないですむ。したがって、今では、3回に1回くらいはトップになれる。
もちろん、こちらの戦術上の進歩もある。いずれにしても、ゲームをすることでゲームに上達しているという感覚を持てるのはうれしい。それがさらなるゲームの継続を動機づける。かくして、いつまでたっても止められない。止めるつもりもない。

●頭の使い方の上達
上達には、運動技能の上達の意味で使うことが多い。しかし、目に見えないため、そして、無意識の世界で事が進行しているために見落とされることが多いが、認知技能(頭の使い方)の上達もある。麻雀ゲームの上達はこちらのほうである。
 運動技能の上達については、次章「テニスが上達しない」でじっくりと考えてみる。むろん、両者には共通するところも多いが、ここでは、覚えたり、考えたり、判断したりといった認知技能の上達について考えてみることにする。
 
コンピュータの麻雀ゲームは、自分の場合は、すでに4人ゲームで腕を磨いていたので、特別に上達したということはない。せいぜい、コンピュータ側のいくつかの仕掛けに対して対応することができるようになってきたに過ぎない。
しかし、4人でする本物の麻雀ゲームは、パイの名称から始まって、ルール、点数の数え方などまずは膨大な量の基本知識の記憶が必要とされる。にもかかわれず乱暴なことに、ごく基本的な事だけを教えてもらうとただちに実践である。当然、負ける。それがバネになって寝ても覚めても麻雀のことばかり考えている。したがって、上達も速い。ともかく、勝ちたいの一心である。動機づけは上達の原動力である。
そして仲間との実践(遊び)の中で学ぶことの凄さ。仲間とのやりとりの中で、その時その場で必要な知識を頭にたたき込んでいく。わからなければ聞く。教えてくれない時は場の中で自得する。そして最終的には、相手をたぶらかす言動などかなり高次の技能まで一気に自得することになる。
たかが遊び、されど遊びである。ここで習得した知識と技能を列挙してみたらゆうに一冊の本ができるのではないか。
その知識は、世の中にでても陰に陽に役立っていると思っている。

コラム「頭の中の知識の分類」***************
認知の科学は、知識の科学でもある。どのように知識を獲得し、貯蔵・更新し、さらに活用するかの科学である。
そこでは、知識を次のように分類している。

宣言的知識(——についての知識)
 ・意味的知識(一般性のある知識)
 ・エピソード的知識(いつどこで何があったについての知識)
手続き的知識(何かが出来ることーー技能——を支える暗黙の知
  識)
******************************

8.5 まだあるコンピュータゲームに熱中させるもの

  • 達成感
コンピュータゲームの制作者は人の心を読む天才ではないかと思うことがある。こうすればユーザが喜ぶということを知悉しているかのごとく、ユーザを夢中にさせる仕掛けを次々と繰り出してくる。
 それはさておき、さらにコンピュータゲームに夢中にさせる心理的な特性を挙げてもう少し考えてみる。この1割でも、教師が教材開発で使えたら、教室で子供はもっと授業に夢中になってくれるかもしれないとも思うからである。もっとも、子供はゲームでたっぷりとそうした趣向を経験ずみなので、ちょっとやそっとでは食い付いてこないかもしれないのだが。
さて、まずは、達成感から。マージャンゲームでも、「今日は勝つぞ」「今回は勝つぞ」という達成目標を立ててやる。一人マージャンでも自分にそう言い聞かせてからはじめるのがおかしい。
そして勝てば、してやったり、で気分が良くなる。負ければ気分は良くない。つい、もう一回、となりがちである。
ゲームやギャンブルには、勝ち負けという目標を立てられるので達成感も敗北感も簡単かつしっかりと味わうことができる。これが人を夢中にさせる。
さらに、敗北感が達成感をより一層際立たせる。負け続けてもそれはより高い達成感を味わうためのスパイスに過ぎない。かくしてギャンブル狂への道まっしぐらとなってしまう。
仕事ではこれほどはっきりとしかも短時間で達成感を味わうことはできない。へたをするとそれをまったく感得することができないままに終わってしまうことさえある。それを安易に補償するような機能がゲームやギャンブルにはある。

●挑戦心
達成感と挑戦心は、セットである。何かを達成しようと挑戦するからこその達成感である。挑戦心が強いほど達成感もある。
あまり達成目標が高かったり、あいまいであったりすると、挑戦心も湧きにくい。世の中の仕事の目標にはこんなものが意外と多い。しかし、コンピュータゲームでは、そのあたりが、実にうまく細工されている。
最終的な到達目標を知らせた上で、そこにたどり着くまでの目標に段階をつけるのである。まずは、ここまでがんばってみよう、というものをはっきりと見せるのである。それがクリアできたら次のより上位の目標をはっきりと示す。これなら、挑戦心もわく。
実は、これも、スキナーのオペラント条件づけから派生してきた行動形成の原理(逐次形成の原理)なのである。

図 逐次形成の過程

学校に行けない子供に、まずは、朝起きることができるようにする、次は食事をする、次は鞄に教科書などを入れる、次は、———というように、下位目標を一つずつクリアさせながら最終目標まで子供を導くのである。挑戦心と達成感とを巧みにコントロールする原理である。
この原理の巧みな点は、すぐそこに見える目標を達成するために挑戦心を刺激して、達成感を味わわせ、有能感をも高めるところにある。

  • 集中性
即応性のところで、何かをするとただちに何かが起こる仕掛けについて述べた。この仕掛けは、集中力の持続にも極めて効果的である。

コラム「注意の3x2特性」******
人の注意の特性には、次に示すような特性がある。

○選択 
 「自己コントロールができる」(能動的側面) 
   例 ラジオの音声に耳を傾ける
 「自己コントロールができない」(受動的側面)
   例 大音響のするほうを思わず向く
○配分
 「自己コントロールができる」 (能動的側面)  
   例 BG音楽を聴きながら勉強する
 「自己コントロールができない」 (受動的側面)
   例 携帯の内容のほうに注意が引き付けられる
○持続
 「自己コントロールができる」 (能動的側面)  
   例 眠くなってきたので喝を入れて注意を持続する
 「自己コントロールができない」 (受動的側面)
   例 同じ作業を長時間すると注意が持続しない
*******************

誰しもが悩まされるのは、注意が持続しないことである。仕事をしていても勉強をしていても、不本意に注意の集中力が低下してきて、能率が上がらなくなってしまう。
とりわけ、仕事や勉強が強制されたものであったり、興味関心がないものだったりすると、集中力はすぐに枯渇してしまう。
学校の1校時は、小学校では45分、中学高校だと50分、大学だと90分が普通である。授業を聞くような仕事だと、だいたいこのあたりが、注意集中の限界なのかもしれない。
しかし、コンピュータゲームでは、注意を絶えず引き付けておく仕掛けがあれこれたくさんあるので、飽きを感じないで済む。
その一つが、即応性である。何かするとすぐにそれに対する反応がある状況は、注意水準を絶えず高く保つのに効果的である。
2つは、画面の動き、変化である。絶えまなく何かが動き、新しい状況が出現する。それをとらえるのに、注意が必要となる。
3つは、動きと変化の偶然性である。予想しない動き、変化が注意をとらえる。
4つは、色彩の多彩さである。色は、原色や対比によって目立ちやすさを演出できる。目立つものには注意が引かれる。
コンピュータゲームが注意を集中させる仕掛けを挙げてみた。これにユーザのゲームに対する興味関心が加われば、おのずと注意が引き付けられて長時間にわたりゲームに熱中できる。
こうした仕掛けは、たとえば、教室で子供の注意集中を持続させたいような時に使うこともできる。ただし、これについては、コラムのような異論もある。

コラム「子どもに穏やかな学びの環境を」**********
ハーリー著「コンピュータが子どもの心を変える」(大修館書店)
よりの一節である。

———学習は確かに楽しいものであるが、同時に努力を伴うものであるということを忘れてはいけない。---色鮮やかなマルチメディアの世界に浸って「学習せよ」と子どもたちを奨励するのは、集中力と根気に欠ける精神を育成せよと言うに等しい。————
******************************

さらに、不本意に注意を持続させると、ストレス状態になることもあるので要注意である。かつて、テクノストレスというのが話題になったことがある。コンピュータで仕事をする人々があまり長時間にわたり集中した状態で仕事を続けたために、気がついたらストレス状態になってしまったのである。ゲームだけでなく、コンピュータそのものが注意を集中させるものになっていたのである。
今では、コンピュータを使った仕事の労務管理が徹底してきて、強制的に休憩を入れるようになってきている。

コラム「ネット依存症」******************
 オンラインゲームやチャットというのがある。自分ではしたことがないが、これにはまってしまい、四六時中それをしたり、
それが頭をはなれなかってしまうらしい。ネット依存症と呼ばれている。
 朝日新聞(05/12/2付)によると、中国・北京での約1万5千人の若者についての大規模な調査によると、ネット中毒の徴候のある者は23.5%にのぼっている。
中毒症状がひどくなると、「現実よりネット上でより幸せを感じる」ようになり、遅刻、欠勤など日常生活に支障をきたす。
みずからで使用時間と場所に制約を課す以外に方策はない。
****************************

  • コントロール感
 キーを押してもマウスをクリックしても画面がまったく変化しないようなことが、筆者のコンピュータでは実によく発生する。再起動をかければ現状回復ができることを知ってはいるが、つい、あれこれキーを叩いては画面変化を期待してしまう。
何かをしても何も起こらない環境は実に気持ちが悪い。
人間の行為は、環境を変えるための道具である。したがって、行為をしたらその目的に従って環境の変化が起こってくれないと、気持ち悪い。
何かをしたら何かが起こる環境を、応答的な環境という。子供の有能感を育てるのに大事だとされている。泣いても誰も応答してくれない。すばらしいことをしても誰も誉めてくれない。悪いことをしても誰も叱ってくれない。こんな環境は考えただけでもぞっとする。
コンピュータゲームには、過剰なまでの応答的な環境が用意されているのは、これまでに述べてきたことからもおわかりと思う。

コラム「熱中体験」****
チクセントミハイ、Mの熱中(flow)体験をここで紹介しておく。フロー体験とは、慶應大学教授・鹿毛雅治氏によると「時の経過や体の疲れなどを意識せず、その活動以外のすべてを忘れ、その活動に完全に没頭するという主観的な状態」である。その特徴は次のように整理される。
      ・時間を忘れさせる ・迅速なフィードバック
      ・技能のアップ   ・集中
      ・統制感      ・自己意識の喪失 
      ・自己目的化    ・時間感覚の喪失
まさに、コンピュータゲームに熱中している状態が、これであることがわかる。これをゲーム以外の勉強や仕事で体験できたらすばらしいことになる。
******************************











まさに降りなんとする!

2020-06-28 | 認知心理学
お昼頃、猛烈な雨予想。
それを予兆するようなどんよりとした、これまでみたことのないような雨雲。
このコロナ禍のおり、なにもなければよいのだが。

「後日談」
ほとんどふりませんでした。
青空もみえています。
よかったです。




7章 大学で教える 」認知と学習の心理学

2020-06-25 | 認知心理学
05/12/5海保博之
7章 大学で教える    p11

7.1 大学で教えて40年
●授業遍歴
  • 大学の授業

7.2 講義をする

●講義はしんどい
●内容と方法と熱意
●授業の技術
●熱意

7.3 授業を評価する
●授業評価花盛り
●授業評価をしてもらってわかったこと
●教員管理用の授業評価は危険
●生徒の反応を絶えずモニターする

7.4 演習と実習で鍛える
●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
  • 実習で「社会」を体験する

7.5 大学生の学習状況
●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
●学習への動機づけの低さ


*******

7章 大学で教える    p11

7.1 大学で教えて40年

●授業遍歴
 25歳で大学に助手として就職してこれまで40年弱、2つの国立大学で教えてきた。
最初は徳島大学教育学部。もっぱら心理統計や研究法と演習が中心であった。こうした技術的な内容の講義は内容が決まっているので比較的楽に出来るが、わかりやすく説明しないとまったく学生は理解できないので、その点にはいろいろ苦労した。その成果が後に、筆者のはじめての本「心理教育のためのデータ解析10講」として上梓された。
筑波大学に移ってからは、教職の教育心理学から始まって、認知心理学の講義をしたり、演習をしたりした。とりわけ、最初の3年間は開学当初で人手不足もあり、同じ内容の教職の教育心理学を1週間に4コマしたこともある。
ここではじめて、大学「教育」について開眼した。大型授業の受講生管理の技術を身につけた。今はやりの授業評価も実践してみた。視聴覚機器の活用もしてみた。コンピュータを活用した試験システムも開発してみた。そのいくつかは、後に紹介してみる。

●大学の授業
大学の先生は、年がら年中、教室で授業をしているわけではない。授業コマ数は、大学院も含めてだいたい週に5コマ程度が標準になっている。
その内訳は、筆者の場合、年によって違うが、だいたい2コマが講義、2コマが演習、1コマが実習(卒論指導も含む)といったところである。
受講生の数は条件によってさまざまである。筆者の昨年の授業を例にとれば、講義は人数が80名のが一つ、総合科目(年3回)は300名程度。演習は、学部(学類)が4名、大学院が5名(修士)、6名(博士)、実習は60名くらいだが、実習は、技官や大学院生が助けてくれる。
これに加えて大事な教育上の仕事として、論文指導がある。指導学生が多いと、かなりの時間をさくことになる。筆者の場合は、今年は卒論、修論各1名だけなので楽をさせてもらっている。多いときは博士論文の指導も含めて5名くらいになる年もある。
 
7.2 講義をする

●講義はしんどい
一番しんどいのは、学生にとっては実習、教師にとっては講義である。講義では、こちらがしゃべり続けなければ授業が成り立たない。したがって、しゃべる内容をあらかじめ用意しなければならない。これがしんどい。なお、実習は、学生が自分で時間をかけてあれこれやらなければ単位がもらえない。これもしんどいらしい。実習のレポートの締切が迫ると、演習のすっぽかしが起こるほどである。
さて、教師にとってしんどいほうの講義について、ここでは少し考えてみる。
教員になるための教職の授業のように、採用試験があるのである程度までは内容限定にならざるをえない授業は、3年くらいすると、話す内容もほぼ安定してくるので、あまり苦労しない。
ところが、自分の研究と直結している講義だと、どうしても欲が出て、新しいことを入れたくなったり、新しいテーマで話したくなる。これが楽しくもしんどい1年間になる。
講義でもう一つしんどいのは、人数の圧力である。
30人くらいまでだと、親密さを演出できる。学生と対話するような感じでの講義ができる。これが、50人を越えだすと不特定多数の奇妙な雰囲気が教室全体支配するようになってくる。学生に語りかけても無言、冗談を言っても無反応、試験情報だけは目を輝かせて聞くのである。私語こそないものの、これは講義する者にとってはかなりプレッシャーになる。
受講生が50人を越えると物理的なしんどさも格段に違う。出欠管理一つにしても、ちょっとしたミスが混乱を引き起こしてしまうことがある。たとえば、、署名式の名簿を回覧するルートがいつもと違ってしまったりすると、講義終了後にどっと学生が押し寄せてきてしまう。群衆の管理技術も必要になる。

●内容と方法と熱意
大学の授業に限らないが、吉田章宏氏によると、内容と方法と熱意の観点からみることができる。


図7・1 授業をみる3つの視点(吉田章宏「授業の心理学をめざして」国土社による) 


義務教育では、内容は学習指導要領でかなり厳しく規定されている。もっとも、最近では、文部科学省は、これは最低基準に過ぎないと言うようになってきているが。
大学では、教える具体的な内容にはまったくといってよいほど制約がない。アカデミック・フリーダムの伝統があるからである。あるのは、その講義が置かれるカテゴリーによる緩い制約である。「教職の中の」教育心理学と「心理学の専門コースの中での」教育心理学とでは、授業のねらいが異なるので内容も異なるはずであるが、どう異なるかは担当教官によって異なる。
昔は、教員帝国主義で、誰がどんな授業をするかはまったく教員に任されていて外からはうかがい知ることができなかったが、最近では、シラバス(講義概要)作成が普及して、講義内容もかなりオープンになってきた。それとともに、カリキュラムの体系も少しずつ整備されてきた。
いずれにしても、自分の研究直結の内容の講義をするのが、教員にとっても学生にとっても一番好ましい。しかし、そんな講義だけで済ますことができるほど、いかに大学とは言え、甘くはない。
教養的な講義もしなくてならない。こういう時は、自分の専門から遠い内容の講義になる。当然、講義内容の勉強も必要になるが、さらに、こうした授業では、講義技術にも意を払わないと、授業が成り立たないことがある。

●授業の技術
授業を成り立たせている要素技術は多彩である。話術、発問応答、言葉かけ、板書、資料作りと呈示技術、視線配り、机間巡視などなど。
大学の大人数講義では、この中でとりわけ大事なのは、話術、
板書、資料作りと呈示技術の3つである。
困ったことに、大学教員は、こうした要素技術を学ぶ機会がないのである。大学教員になるまでは研究一本やり。教員になったら、教員帝国主義で誰も教え方の技術を教えてくれる人はない。それでは授業がうまくいく試しがない。
その反省から、ようやくFD(faculty  development)と称して、教員の授業技術や次項でのべる評価技術を学ぶ機会が用意されるようになってきた。もともとうまく教えるたいとは思っていたわけであるから、FDで講義技術を身につけた教員がどんどん増えてくるはずである。そうなると、今度は学生の側がおちおちしていられなくなってくる。

●熱意
大学教員は研究論文の量と質でもっぱら評価される。講師から助教授、助教授から教授へと昇進するには、それぞれの段階で論文が5本くらいは必要である。それも査読された論文でないと高く評価されない。
したがって、どうしても授業より研究を優先することになる。悪いことではない。研究内容の貧弱化は、ひいては授業内容の貧弱化につながるからである。
しかし、この大義名分が、学会があれば授業は休講、わけのわからない休講も数知れず、アカデミックタイムと称して10分遅れの10分前切り上げ、試験はレポート一個で、といったずぼらな状況を横行させることになってしまっていたのが、少なくとも筆者の大学時代の授業であった。
それがここ10年前くらいから様変わりした。大学も、教育優先に大きく舵を切ったのである。文部科学省の行政施策による誘導が大きい。どの大学も競って教育に力を注ぎだしたのである。
教員も、昇進が研究重視でおこなわれるから研究、研究だったが、教育活動も昇進評価の対象になることがわかれば、もともと、学生に教えることが好きな人種なので、教育にも熱意を発揮する。とりわけ、年期の入った研究者は、年齢とともに研究力はどうしても低下してくる。ところが、膨大な知識の蓄積がある。それを若者に伝えたい気持ちは強い。
熱意なき講義は、内容がどれほど価値があり、また講義技術が卓越していても、学生を引きつけない。内容、技術、熱意が三位一体になってはじめてすばらしい講義になる。もっとも、コラムのようなケースもまれにはある。

コラム「価値のない内容を巧みに熱意をもって講義すると」*** 
アメリカでは、学生による評価の妥当性をめぐっての研究が盛んである。Dr. Fox(狐博士)効果は、そんななかから生まれた成果の一つである。
学生を相手に俳優を使って講義をさせる。ただし、その俳優にはあえて話の筋道はメチャクチャになるように、しかし、ユーモアやジェスチャーはたっぷりまじえて、おもしろおかしく講義するようにさせる。そして、講義が終わったら学生による授業評価をさせる。すると、学生の評価が全般的に高くなるのである。授業方法だけでなく、授業の内容までもが、すばらしいという評価をするというのであるから驚きである。
*****

7.3 授業を評価する

●授業評価花盛り
大学では今、教員の授業評価が花盛りである。アメリカの大学では、半世紀も前から実施されており、その心理学的な研究さえおこなわれてきている。
ざっとレビューをしてみるとつぎのようになる。
大別すると3つの研究領域がある。
第1は、評価システムの開発と、その妥当性(はかろうと意図したものが計られているか)、信頼性(もし同じ測定を何度もしたら、同じ結果が得られるか)の吟味に焦点を当てたものである。
評価の用具としては、もっぱら質問紙がもちいられているが、質問紙を構成する項目の選択、構造化をどのようにするか、さらに作成された質問紙が妥当性、信頼性を持つか、について、心理テストにおいて通常おこなわれる手順に従って吟味することが、主要な課題である。
第2の研究領域は、評価に影響する要因の査定、観点を変えれば、学生の評価メカニズムの解明に関するものである。
具体的には次のような要因をめぐっての研究、およびそれら複数要因間の総体的重みを決定しようとする研究がおこなわれている。
①授業形態による影響
受講している学生数や、選択か必須か、などによって、評価が変わるかが吟味される。
②授業方法による影響
内容のない授業を巧みな授業技術でおこなうことによって、学生を魅了するDr. Fox効果をめぐっての研究や、話し方、板書などの技術が評価を規定するか、が検討されている。
③成績認定の基準による影響
ゆるい基準は、果して好ましい評価をもたらすか、がもっぱらの関心である。
④教師―学生関係による影響
教師の考え方、性格、学生に対する態度と、学生のそれとがどのように交互作用して評価に影響するかが問題とされる。
 第3には、学生による授業評価のもつ意義、役割にまつわる研究で、次のようなことが問題とされている。
①管理上の意義。学生による評価を、教師の昇進、契約に際しての参考資料として利用することの問題点が論議されている。
②教授法改善上の意義。学生による評価データが教授法の改善にどのように役立っているかが吟味される。
③学生自身における意義。授業評価をすることの意義を学生はどのようにみているかが調べられる。

●授業評価をしてもらってわかったこと
筆者は、30年前、同じ内容の教職の授業を週4コマやっていた時、自分の授業で自分の講義についてのアンケート型の評価を実施してみたことがある。その結果が、図中に示されているグラフである。

図 専攻別授業評価の結果

個別の項目の結果はさておき、興味深いのは、同じ内容の講義でも、対象学生によって評価が異なることである。しかも、板書のようなかなり客観的に評価できるものでも、対象学生によって評価が異なっている。
教育心理学の中に、教授法の効果は、子供の適性によって異なるとするATI(Aptitude  Treatment   Interaction;適性処遇交互作用)という概念がある。筆者が得た結果は、まさにそれを授業評価の場で実証した形になっている。
この結果をみて、「紺屋の白袴」を痛く反省して、以後は、クラスによって少しずつ内容や講義の仕方を変えるように心がけたことがある。

●教員管理用の授業評価は危険
授業評価をして、へたな授業をする教員とのレッテルを貼られてしまった教員はどうするか。
そこでFDが登場して、なんらかの改善方策が採られるのが王道である。
ところが、必ずしもそうはならないことが多い。自己努力だけを期待して、それでも悪い評価が続く時は、昇進や昇給で差別されるというようになると最悪である。
さらに、学生からの容赦のない評価に授業意欲を減退させてしまうようことも起こりうる。評価に弱いのは学生だけではない。
こうしたこと以外にも、学生による授業評価の短所もいくつか指摘されてきた。たとえば、
・評価が甘くなる
・最先端の内容より説明しやすい内容や学生に受けの良い内容し
 か取り上げない
 ・学生を厳しく訓練しなくなる
今はまだ導入時の混乱、戸惑い、不慣れなどがあるように思う。これが定着してくれば、評価結果の有効活用も期待できる。しかし、アンケート型の授業評価が授業改善のすべてではない。

●学生の反応を絶えずモニターする
自分の授業がうまくいっているかどうかは、その時その場での学生の反応を見ていれば、かなりのところまで自分でわかる。
寝ている学生が多ければ、授業が単調になっているのかもと疑ってみる。ちょっとざわついたら、板書の文字がわかりにくいのかもと疑ってみる。学生の目が輝いていれば、その話題は興味を引くことがわかる。
さらに、これも筆者がかつて試みたことであるが、授業評価ノートを回覧して、何かあれば書き込むようにさせた。単位取得に関する希望が多いが、中には、真剣に講義内容についての質問が書かれていることもあって、参考になった。
要は、学生の気持ちを理解しながら、授業をすることである。そのスタンスを陰に陽に、絶えず学生にメッセージとして伝えながら授業をすることである。そうすれば、おのずと授業改善のヒントが日々の授業の中から得られるはずである。そう思って、自分は毎日の授業をしてきた。

7.4 演習と実習で鍛える

●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
昔の大学の演習は、原書講読だった。英語やドイツ語の文献や本を読むのである。今でもそのスタイルで演習をしている教員も結構いる。
筆者は、すでに25年前くらいから、そのスタイルの演習はやめている。演習は、専門の学習を通しての学生の発想力とプレゼン力と討論力の訓練の場にしたいとの思いからである。
こういうねらいの授業は、最近では、専門教育の中ではなく、教養授業の一貫としておこなわれようになってきた。結構なことである。しかし、もっと専門教育の中でも、専門知識の活用訓練とセットにしておこなうこともあってよいと思っている。ただ、ひたすら先生のお説拝聴スタイルから脱却するきっかけの場として演習を活かすのである。
この思いを実現すべく、あれこれ努力を続けてきたが、どうも今ひとつうまくいったという実感をもてないままである。筆者のこれまでのささやかな試みを紹介してみる。
「発想力」
「専門知識の過多は問わない。自分の頭を使って考えるように」をスローガンに、わかりにくい表現の具体例を発掘することを課題に課す。想定される具体例を報告することが多いが、時折、感心するような例を報告してくれることがある。こんな時は本当にうれしい。しかも、1学期より3学期のほうが、そんな時が多い。授業効果と勝手に思いこむことにしている。学生には力を発揮する場と方向性をうまく与えてやることの大切さを実感させられる。
「プレゼン力」
一番進歩が著しいのがプレゼン力である。回を重ねるごとにうまくなっていく。しかも、資料作りも、コンピュータを駆使して見事なものを作る。
アドバイスは次の3つ。
・最初に何を発表したいのかをはっきり言う
・口頭発表だけでなく資料(紙、OHP,パワーポイント)を用意す
 る
・資料の読み上げはしない
「討論力」
討論力は、質問力と応答力とからなる。演習で一番問題は、これである。学生の口が重くて、なかなか思いを口に出してくれないのである。
そこで、ここでも、斉藤孝氏の本から示唆を受けて、演習の授業の冒頭に、「質問遊び」をして、まずは、質問するにも技術があることを納得してもらうようにしている。
質問遊びとは、たとえば、一人が自己紹介をする。その内容について、3人が一つずつ質問をする。3人の質問が終わってから、そのうちから一つ、答えたい質問を選び、答える。これを繰り返すと、
質問にも質があることがわかってくる。それがわかってもらうだけでも大きい。それでも、ワンセンテンス質問を自発的にするくらいまでにしか到達しない。
討論力のほうは、手がつかない。最近の学生は、仲間とのつながりを大切にするので、甲論乙駁する討論のような危ない場には近づかない。丁々発止の議論を期待するのは無理。時折、挑発質問をするが、だんまりを決め込まれてしまうことが多い。今やってみたいと考えているのは、ディベート(debate)の導入である。

コラム「ディベート授業」*******
長年、ディベートを通常の授業に取り入れている信州大学の守一雄教授からいただいた授業案を紹介しておく。

平成17年度「教育心理学?」講義計画 担当講師 守 一雄・信州大学教授

第1.授業のねらい・内容      
 教育心理学という学問の課題、研究方法について学ぶとともに、小中学校の授業にそれをどう活かすかについて、講師による講義と受講生同士の討論を通 して多面的に学ぶ。

第2.授業のやり方                         ?B      
 受講者は2週間に1冊のペースで6冊の課題図書を読み、読後レポートを提出し、以下のようなテーマ(一部)の討論(ディ ベート)に参加する。
茂木秀昭『ザ・ディベート』(ちくま新書)を読んでディベートについてよく知った上で、第1回目には「ディベートの是非」についてディベートを行う。
11/04    (3)教育技術の法則化   ディベート?『授業の腕をあげる法則』    
12/02   (7)数学はなぜ難しいのか ディベート?『やりなおし基礎数学』
12/16   (9)実験研究の魅力 ディベート?『人はいかに学ぶか』     

第4.ディベート『3人制43分ディベートのやり方』
1.学籍番号により機械的に7〜9人のグループを作る。
2.各グループから3人ずつが「肯定派A(1-3)」と「否定派N(1-3)」になる。(「肯定派」が個人的に肯定的な意見を持っている人である必要 はない。しかし、肯定派になった以上は「肯定派」として意見を述べる。)
3.残りの1〜3人が審判陣となる。審判陣は「座長(必須:ディベートの進行を司る)」「計時係」「記録係(ディベート出席者のリストを作り、後で提 出する)」を分担する。
4.ディベートの時間配分は次の通りとする。(時間配分は使用可能な総時間に応じて変更可能であるが、一度決めた時間配分は厳守すること。)
(1)作戦タイム(5分)
(2)肯定派の意見陳述(A1)1分
(3)否定派の意見陳述(N1)1分 これをあと2回繰り返す
(8)作戦タイム(5分)
(9)否定派の尋問(N1・N2・N3)(5分)
(10)肯定派の尋問(A1・A2・A3)(5分)
(11)作戦タイム(3分) これをあと2回繰り返す
5.ディベートの終了後、審判陣は「肯定派」「否定派」のどちらがより説得力があるかを判定し、多数決で勝者を決める。判定が1対1に分かれた場合は 審判陣でジャンケン。

****************

 
 
●実習で「社会」を体験する
昔は、実習と言う時は、専門に入っていくためのプレ研究トレーニングである。実験や調査のミニチュア版を体験する場が実習であった。これは、今でも続いている。卒業論文、ひいては大学院での専門教育につながる大事な授業の一つである。
1単位あたりに費やす時間も講義、演習の1.5倍である。研究(実習)のプロセスを通して、その学問の研究スタイルや研究文化を体得することになる。
ところが、最近は、大学のキャリア支援強化の一貫としての実習をおこなうところが増えてきた。将来の就職を見越した社会の現場での実習である。
教育機関で過ごす期間がどんどん延長している。また、それに比例するかのように、コンピュータが作り出す仮想現実の世界に浸る時間も増えている。結果として、「現場」「実社会」に触れる機会がないまま、いきなり社会に放り出される。これでは、学生もたまったものではない。
その衝撃を緩和するために、学生のうちから社会の現場に出てみていろいろの経験、とりわけ将来の職業選択に役立つ経験をさせようとの趣旨である。キャリア形成プログラムなどと呼ばれて、文部科学省や厚生労働省も強力に後押してしている。
いずれも実習も実体験不足の最近の学生にとっては、その効果のほどははかりしれないものがある。

コラム「「働かない若者が増えている」******
働かない若者というようり、働けない若者も増えてる。いわゆる「引きこもり」である。これが今、日本では、90万人くらい。ちなみに、この80%が男性。
次は定職につかない若者、いわゆるフリーター。これが、217万人。日本で、赤ちゃんが1年間にうまれる数が117万人。その約2倍弱になる。
さらにニート(就職もせず、学校 にも行かず、職業訓練もうけていない人)が52万人。これは、大学センター入試を受ける人数とほぼ同じ。ニートをタイプにわけると
   目標がみつからないモラトリアム型 50% 
*     就職できない/したくない型 40% 
*     作家などをめざす夢追い型 10% 
(以上、文部科学省の2004年資料による)。
********

 
7.5 大学生の学習状況

●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
高等までの学習習慣の一つに、予習復習がある。これは、時には宿題という形を取ることもあるが、授業以外にも授業を理解するためのなんらかの補完的な学習が求められてきた。
その結果として好ましい学習習慣を身につけて大学に入学してくるはずであるが、大学に入学した瞬間から、この学習習慣はどこかに行ってしまう。ひどい場合は、受験勉強で仕込んできたはずの知識さえもどこかに置き去りか、と思わされるような時もある。
大学は、1コマの授業に予習復習を1時間ずつという建前になっている。したがって、1週間の受講可能なコマ数は、物理的に決まってくる。ところが、1,2年生くらいは、すべてのコマを埋めるように受講計画をたてる。当然、予習復習はできない。にもかかわらず卒業に必要な単位をなんなく取得していく。あまりの安易な傾向に、文部科学省も剛を煮やし、年間取得単位数の制限条項を設けるよう、大学を指導しはじめた。
ここにきて、学生のほうも、うかうかとしていられなくなってきた。それぞれの授業でさまざまな工夫がなされるようになり、学生側にもそれなりの努力(予習復習)が求められるようになってきた。

コラム「日本で一番勉強しないのは大学生!」******
 内閣府「第2回青少年の生活と意識に関する基本調査」(2000年)によると、学校外での勉強時間について、「家でほとんど勉強してない」と答える割合を、1995年と2000年とで比較すると、小中高大のいずれでも増加し、しかもその割合は、中学生より高校生、高校生より大学生となるにつれて増加し、2000年では、高校生では、39.7%、大学生では47.5%となる。
********

●学習への動機づけの低さ
最近は、高等学校での進路指導がかなり充実してきている。大学に入るにも、その先の職業までにらんだ進路指導になってきている。むろん、徹底した進学指導だけに絞っているところもあるが。
また、大学のほうも、オープン・キャンパスなどを実施して受験生に、模擬講義までして情報開示をしている。したがって、かなりの情報とそれなりの思いと覚悟を胸に秘めて大学のしかるべき学部・学科に入学してくるはずである。
しかしである。学生の学習意欲(動機づけ)は総じて低いのである。
30年前に推薦入学を筑波大学では全国に先駆けて実施した。当時、講義室にいくと、前列の席で目をらんらんと輝かしているような学生がちらほらいて目立ったが、だいたいが推薦入学の学生であった。最近は、どこもかしこも推薦入試をするようになったためか、そんな学生もあまりいなくなったような気がする。
講義室全体が最初から学びの場としては暗いのである。「さー勉強するぞ!」という気迫に乏しいのである。
教員は、まずは、この雰囲気を払拭することからはじめなければならない。
まずは、単位認定をどうするかをある程度まで明らかにする必要がある。学習目標を定めるのである。ただし、あまりすべての情報を開示してしまうと、そのことだけを目ざしての学習になってしまうので、好ましくない。試験成績、出席数、レポートなどできるだけ多彩で包括的な単位認定の仕方を工夫したほうがよい。
その上で、講義室の雰囲気を明るくする工夫をする。一番簡単なのは、隣どうしでの自己紹介である。それも何の細工もなくやると、30秒もしないうちに終わってしまう。もっとまずいのは、お互いによく知っているどうしだったりすることがあると、自己紹介は不要となってしまう。
そこで、斉藤孝氏推奨の「偏愛マップ」を使っての雰囲気作りと対話促進といった細工をする。

コラム「偏愛マップで講義室の雰囲気を変える」****
 斉藤孝による偏愛マップ法による相互コミュニケーションの活性化の手順を紹介してみる。
1)5分間、自分の好きなことを、キーワードでA4の紙に、関係の深そうなものは近くに配置して、マップ風に描き出す(全員)
2)2人一組になり、お互いのマップを見せあいながらお互いをよく知り合う。これを別のペアーでもやってみる
「追加実習」
 嫌いなもののマップを描き、同じことをしてみると、どうなるであろうか。
************

その上で、授業上の工夫についてのメッセージを伝える。その中に、学生の積極的な学習行為を促す工夫、たとえば、関連する具体事例のレポート提出、隣どうしでのちょっとした対話などを講義の中で求めることを伝え、随時実践する。
 こうした努力をして、学生の動機づけを高めないと、どれほど内容の良い授業をしてもついてきてもらえないのが、実情である。大学進学率50%弱。大学は教育機関として大衆化したのである。




【( )部分の言い方は適切?】

2020-06-23 | 認知心理学
【( )部分の言い方は適切?】遠足が楽しみで(寝れなかった)ことがある。[3級]
  1. (適切)
  2. 寝らなかった
  3. 寝られなかった
正解
C.寝られなかった

解説
可能表現の形に関する問題。下一段活用動詞「寝る」の可能の形は、未然形「寝(ね)」に助動詞「られる」を付けた、「寝られる」である。よって、C「寝られなかった」が適切な言い方。問題文の「寝れなかった」は、「られる」の代わりに「れる」を付けた、いわゆる「ら抜き言葉」である。近年、口語では広くこの形式が用いられているが、一般にはまだ規範的な言い方とは認められていないので、改まった場面や書き言葉で用いるのは望ましくない。
(問題、解答、解説は特定非営利活動法人 日本語検定委員会提供)




6章 本を作るーー情報編集」認知と学習の心理学

2020-06-22 | 認知心理学
05/11/1海保博之
6章 本を作るーー情報編集  

  • 43冊の本を作ってきた
●本作りの内容
●本ができるまで

6.2 本作りは楽しい
●論文を書くのとの違い
●表現上の工夫をするのが一番楽しい
●あれこれ構想をめぐらすのも楽しい

6.3 本作りも苦労はある
●原稿が集まらない
●バグが消えない

6.4本が読まれない
●本が読まれない
●知識の体系度が低下する
●頭が馬鹿になる


6章 本を作るーー情報編集力

6.1 43冊の本を作ってきた

●本作りの内容
硬軟、大小とりまぜてこれまで自分の名前が表紙に入った本を39冊作ってきた。とはいってもそのすべてが自分一人で書いたものばかりではない。単著本は16冊である。あとは、二人、三人との共著本6冊、編集本、つまり、自分がプロットと執筆者とを決めて書いてもらう本が14冊、共翻訳三冊という内訳である。別格(はじめての仕事)で、現在、心理学講座全19巻の監修と、さらに、心理学総合辞典の編集もしている。
目的から分類すると、啓蒙書が17册、専門書が16册(うち翻訳書3册)、教科書が10册、である。
本の形態から分類すると、文庫本が2冊、新書本が5冊、その他が36册である。

コラム「自著のリスト」*******
筆者の知的なバックグランドを知ってもらえるということもあるので、やや気恥ずかしいところもあるが、自著のリストを公開しておく。*は絶版である。

単著本(*は絶版)
●ミスに強くなるーー安全のためのミスの心理学(中災防新書)
●ミスをきっぱりなくす本(成美堂文庫)
●集中力を高めるトレーニング(あさ出版)
●学習力トレーニング(岩波ジュニア新書 
●心理学ってどんなもの (岩波ジュニア新書  
●くたばれ、マニュアル 書き手の錯覚、読み手の癇癪(新曜社)
●一目でわかる表現の心理技法—文書・図表・イラスト(共立出版)
●自己表現力をつける(日本経済新聞社)*
 ●説明を授業に生かす先生(図書文化社)
●失敗をまーいいかとする心の訓練(小学館文庫)
●連想活用術—心の癒しから創造支援まで(中公新書 )*
.●パワーアップ集中術(日本実業出版社)*
 ● 読ませる・見せる表現のコツ—わかりやすい文章・図表の書き方からイラスト・地図の描き方まで(日本実業出版社)
●こうすればわかりやすい表現になる—認知表現学への招待(福村出版)*
●「誤り」の心理を読む(講談社現代新書)*
●東スポの技法(ワニ出版)

共著本
●「発想支援の心理学」(松尾と共著) 培風館 
●ワードマップ ヒューマンエラー(田辺と共著)  新曜社
●人を動かす文章づくり—心理学からのアプローチ(山本と共著)(福村出版)
●Q&A 心理データ解析(服部と共著)(福村出版)
●人に優しいコンピュータ画面設計—ユーザ・インタフェース設計への認知心理学的アプローチ(加藤と共著)日経BP社
●1認知的インタフェース—コンピュータとの知的つきあい方ワードマップ(黒須、原田と共著)(新曜社)
****************************

●本ができるまで
  印刷技術や工程の話しではなく、出版社の企画会議のオーケーが出てから原稿を手渡すまでのプロセスについては、本書のケースでは、おおよそ次のようになる。
  • 執筆の依頼
本書はシリーズ企画なので、企画委員会が出来ている。そこからの依頼があっての執筆である。なお、すべての本が依頼執筆というわけではない。みずからが企画を立てて、出版社の編集者に売り込むこともある。筆者の場合はそのほうがずっと多い。言うまでもなく、持ち込み企画は、門前払いということもあるし、企画の修正もある。ちなみに、一般読者を対象とした新書などでは企画の段階ではねられることが多い。
なお、依頼された場合は、自分に書ける内容のものかどうか、執筆期間が大丈夫かが引き受けるかどうかのポイントになる。本書では、内容も執筆期間(足かけ2年)も問題ないので、タイトルの変更をお願いして引き受けることになった。
  • 構想を練る
おおまかな章立てを作るところが最初の難関である。本書の場合は、章間が独立しているので、それほど苦労しなかったが、多くの場合は、章間のつながりが一つのストリーになるようにするにはどうするかで苦労する。
3)執筆する
章構成が決まると、執筆しながらさらに細部にわたって構想を練り上げていくのが最近の自分のやり方である。ワープロが使えるようになってからは、ともかく、思い付いたことをどんどん打ち込んでいく。そうすると、次第に自分の考えもはっきりしてくる。書いては考え、考えては書くを繰り返すのである。
この段階で、章構成の変更もあるが、むしろ、節レベルへの細分化がおこなわれる。
昔は、こんなわけにはいかなかった。構想をきっちとさせてから、いざ正座でもして書き出すような感じだった。あげくに何枚も原稿用紙を無駄にしてなんとか完成にこぎつけるのが常であった。
  • 編集する
 出版社の編集者の側の仕事である。印刷に入る前に、編集者が入念なチェックをする。誤字脱字はもとより、文章表現のまずさ、さらに優秀な編集者になると内容の実質チェックまでしてくる。一度だけだけだが、あまりのチェックの凄さにおののいて、400枚の原稿を取り下げてしまったことがある。(別の出版社の編集にお願いして出版してもらい、今でも版を重ねている。)
  • 印刷校正をする
この段階が一番本作りでは楽しい。ここでも編集者や校正者とのやり取りはあるが、編集段階とは違って、穏やかなものである。
一番気を使うのは、ここでも誤字脱字である。ワープロ原稿なのでそのまま印刷に流れているはずなのだが、それでもかなりのミスが見つかるの常である。きちんと本の形にしてみると見えてくるミスもある。
余談だが、「ヒューマンエラー」の本で、どういうわけか、刊行後にミス発見が続出となってしまったことがある。なんと絵が1枚欠けてしまうお粗末まで。幸い、再版になったのでそこで訂正させてもらったが、「ミスの本でミス続出ではしゃれにもならないですね」とあちこちで言われ頭をかかえてしまった。

6.2 本作りは楽しい

  • 論文を書くのとの違い
20代後半から40代前半くらいまでは、もっぱら研究論文を書いていた。実験、調査をしてはそれを論文にするのである。「はじめに」「方法」「結果」「考察」「まとめ」の順に書くことが決まっているので、それにあわせて内容を書き込んでいくことになる。
話しの筋立てが決まっているし、表現のしきたり(リテラシー)もあるので、それに従えばよい点は楽であるが、問題は、仮説と実験、調査で得られたデータの質である。ここがつぼにはまっていれば多少は表現上のまずさは問題ではない。ましてや、読み手にとってわかりやすくするとか、読みやすいようにするとかいったことは、二の次である。
なぜなら、論文の読み手は、ごく限定された専門家である。日本で発刊される心理学の論文で、1編の論文が10人以上の専門家によって読まれるようなような論文はごくまれではないかと思っている。専門論文は、人数という点でも、また、多少の読みにくさやわかりにくさは自らで補ってくれるという点でも、読み手のことを想定しないで表現して良い文書の典型なのである。
  その点では、表現上の苦労はそれほどない。だから、学者の文章が外に出るとわかりにくいと思われてしまうのである。
しかし、本となると、たとえ専門書であっても、論文のような表現でというわけにはいかない。
専門書では、最低でも1000册程度の部数を発行する。新書や文庫になると万単位になる。当然、専門を同じくするような人々だけが読者ということにはならない。関連する知識が乏しい読者もいる。
想定読者を常に意識した表現を心がけなければならない。これが本の執筆と論文の執筆との際立った違いである。
ところが、編集本で何人かの方々に執筆を依頼すると、中には、論文まがいの原稿を送ってよこすことがある。相当しっかりした執筆指針や想定読者を執筆趣旨に書いて依頼しても、こういうことが起こってしまう。かくして、編集者泣かせ、読者泣かせの本ができてしまうことになる。

  • 表現上の工夫をするのが一番楽しい
教科書となると話がまた違ってくる。
教科書は書くべき内容がだいたい決まっているので、あとは、表現上の工夫だけである。最近の大学の教科書は、競うかのごとく、読ませる工夫、考えさせる工夫が凝らされているものが多くなった。他本との差別化をはかろうということであろう。それはそれで面白いし、大事なことではないかと思う。
こうした表現上の工夫の基本的な観点をここで挙げておく。
一つは、理解支援である。わかってもらうための工夫である。
難しい用語が出てきたら、解説したり、時には用語解説を巻末に設けることもある。事例を入れて理解を補強したりする。
2つは、動機づけ支援である。読もうという気持ちにさせる工夫である。情報満載感を与えない、イラストで親しみを出すなど。
3つは、参照支援である。事項や人名の内容を知りたい、全体がどんな構成になっているかを知りたい時に、そこへガイドする。もっぱら、目次、索引に趣向が凝らされることになる。
4つは、記憶・学習支援である。覚えることを助ける工夫である。演習問題を入れたり、大事なところを強調したりなど。
 繰り返すが、こうしたことにまったく頓着しないでよいのが、論文である。したがって、論文しか書いたことのなり人が本を書くと、えてして読者泣かせになってしまう。
そんなわけであるから、日本4大悪ドキュメント(文書)の一つに専門論文が挙げられてしまってもいたしかたないところがある。なお、あとの3つは、裁判の判決文、マニュアル(取扱説明書)、官庁文書である。


  • あれこれ構想をめぐらすのも楽しい
  単著本でも編集本でも、当然、どんな内容、構成にするかを考えることになる。すらすらといく場合もあれば、四苦八苦、生みの苦しみを味わうこともある。
いずれの場合も一番参考になるのは、過去に出版された類書である。教科書の場合はよほどのことがない限り、内容は類書とほぼ同じ、あとは前述したような表現上の工夫が勝負所となる。
新書や文庫本では、表現上の工夫はむろんのこと、専門外の読者を想定した内容をいかに構成するかに腐心することになる。
こんな時に強力な助けとなるのが、ワープロ(パソコン)である。
昔は、KJカードを使っていたが、今ではもっぱらワープロである。思い付いたことを、どんどん打ち込んでいく。キーワードが多いが、文章の場合もある。

コラム「KJカード」****************
今では、付せん紙が普及したので、KJカードを見かけることはなくなった。**年代、川喜田二郎?氏によって開発されたKJ法は、発想管理の技術として一世を風靡した。筆者の研究室には、その残骸がまだ引き出しのあちこちある。
KJ法は、構想を外化し、それを動かしながらさらに構想を洗練していく技術である。その最終的な形を例示しておくが、ここに至るまでの過程では、幾多の苦労がある。
なお、現在では、KJカードより、手軽で安価なpost-it(商標)のほうがよく使われるようになっている。

KJ法の例

*********

打ち込んだ用語や文章を見ると、また触発されて新たなアイディアが出てくる。同時に、章の構成もあれこれと考える。これをものによっては、1か月、2か月くらい繰り返すこともある。この期間の間に一週間くらいは集中的にやる。そして、ほっておく。
ほっておく間(孵卵期)が大事である。この時期には、無意識的な情報処理がなされていて、夜中や散歩中に新しいアイディアが出てきたり、雑誌やTVを見ている時に、新しい構想が閃いたりする。
最終的には、章構成を決めて、そこで書くことをざっとメモしたり、すでに打ち込んであるものを章ごとに分類して、構想は形のあるものになる。
しかし、これは筆者の場合に限るかもしれないが、いざ書き出してみると、また構想が変わることもある。というより、ともかく書いてみるのである。書くことによって思考が深まるので、また新たな構想が展開するのであるというようなこともある。
編集本の場合は、こういうわけにはいかないが、何冊かは、あとからしまった、これを入れておくべきだったとなったことがある。

コラム「本書の最初の章構成」********
本書は3度構想を練り直している。以下に示すのは、2度目のものである。本書の構成に活かされているところが随所にあるのがおわかりいただけると思う。。
目次 
1章 生活と社会の中の認知と学習
1ー1 家庭でーー習慣を作る
1ー2 学校でーー知力をつける
1ー3 会社でーー熟達する
1ー4 生涯でーー知性の劣化耐性をつける

2章 認知と学習の心理学
2ー1 認知と学習の心理学ってどんなもの
2ー2 認知と学習の心理学の実際
2ー3 他の心理学の領域との関係

3章 認知力をつける
3ー1 認知資源を蓄積する
3ー2 認知資源を節約する
3ー3 認知資源を活用する

4章 学習力をつける
4ー1 知識を高度化する
4ー2 動機づけを高める
4ー3 有効な習慣をつける
4ー4 熟達する

5章 認知と学習の心理学を世の中に役立てる
5ー1 わかりやすい文書を作る
5ー2 コンピュータとの交流を支援する
5ー3 エラー、事故を防ぐ
5ー4 学習する場と時期を設計する
*****************************

6.3 本作りも苦労はある

  • 原稿が集まらない
 本作りも楽しいばかりではない。とりわけ、編集本では、執筆者への依頼から、執筆主旨の理解、さらに、原稿集めまで、要所要所での気の抜けない仕事がある。
一番の難物は、締め切りまでに原稿を集めることである。
要するに、締め切り意識の欠如した執筆者の方々が多いのである。心理学研究者に特に多いらしい。社会に出て仕事をしている方々には、仕事をする上で納期は厳守である。ところが、大学で研究している我々には、自分も含めて納期意識を持って仕事(研究)をすることはあまりない。奇妙なことに、学生に対しては、レポート、卒業論文の締め切りはかなり厳格なのだが。
したがって、「いつまでにお願いします」とくどいくらいに言っても、まさに馬耳東風。締め切りまでに原稿がきっちりと届くのは3割くらい。あとは、催促に催促を重ねてやっと半年くらい遅れて、というようなことになる。最後の一人がいつ提出してくれるかで、以後の作業スケジュールが決まるのだから、最後の一人にはなるまい、との気構えで仕事をしてくれるば助かるのだが、最後の一人になっても悠然としている大物?もいる。
しかも、面倒なことに、締め切りを守るか守らないかは、原稿の質にあまり関係していない。図に示すように、締め切りを守る人(タイムリミット感覚のある人)と、仕事の完成度に腐心する人(ワークリミット感覚のある人)とがいる。それを組み合わせると、4つのタイプが出てくる。いずれのタイプが困ったちゃんかは自明であろう。
 


       完成度が高い
    職人的仕事   完璧主義的仕事

  守らないーーーーーーーーーー守る

    稚拙仕事    やっつけ仕事
       完成度が低い

図 ワークリミットvsタイムリミットを組み合わせると

  これ以上、この項を書き込むと、以後、編集本に協力してくれる人がいなくなってしまうといけないので、止めておく。

  • バグが消えない
 出版社側のスケジュールが立て込んでいなければ、原稿をデジタルデータで渡すと、最近では、1月もしないで第一校が送られていくる。そこから、また別の苦闘がはじまる。原稿の校正である。
単なる字句の校正なら簡単なことと思われるかもしれないが、これが意外と最後の最後まで残ってしまうことがある。執筆者も含めて3人くらいが慎重なチェックをしても誤字脱字が1個か2個残ってしまう。
全体が整ってくると、意味読みがどうしても優先してしまい、一字一句チェックがおろそかになる。そこで、自分では、2つの工夫をしている。一つは、最後のページから逆に見ていく方式、もう一つは、見開き2ページのマクロチェック、つまり全体をざっとながめることによるチェックである。いずれも、意味読みを防ぐための校正である。
一字一句チェックで泣かされるのは、日本語の2つの特性、一つは同音類義語の多さーー同音異義語も多いーー、もう一つは類似形対の多さである。

コラム「同音類義語」******
 次の文中にあるカタカナ語を漢字に直せ。昔、ワープロの変換精度をチェックするのに巷で使われていた。
「すばらしいキコウ記事を書くことで知られているキシャのキシャは、港にキコウして雑誌にキコウにする行政キコウについての原稿を郵便で送り、キシャせずにキシャでキコウのよい土地に住むキコウを訪ねるために出かけた。」

******************************

もちろん、こうした一字一句チェックのほかに、もっと本質的なチェックとして、内容、構成チェックもある。
第1校あたりでは、追加削除、構成の大幅な変更は可能である。最近はワープロで執筆しているので、かなり出来上がりイメージに近い形で原稿を渡せるのであるが、それでも本の完成イメージで校正原稿が出てくると、直したくなるところが出てきてしまう。
それは、執筆して終わった段階では、自己陶酔に陥ってしまい、チェック機構がうまく働かないためである。頭がホットになっていて、書いたものすべてがすばらしく思えてしまうのである。それが、1、2か月して読まされると、あらが見えてくる。冷静になれるからである。
ここで対応は二手に別れる。自分の場合のように、編集者の作業量が増えるのは気の毒という気持ちから、「まーいいか」精神を発揮して最小限の訂正にとどめる人と、徹底的に納得できるまで訂正を加える完璧主義者とである。だいたい、後者は、締め切りも守らない人であるが、しかし、皮肉ではなく、ワークリミットぎりぎりでの仕事の迫力ぶりは尊敬に値するところはある。

コラム「手書き原稿の校正のものすごさ」******
公開されている作家の生原稿を見る機会がある。その校正の凄まじさに圧倒される。
これは、司馬遼太郎氏の生原稿である。ワープロを使っての執筆とはまったく違った世界があるようだ。

サンプル  なし
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  • 本が読まれない
本を作る話から一転して読書の話になる。
折しも、「文字・活字文化振興法案」が05年7月20日に国会で成立した。読書週間の初日10月27日を「文字・活字文化の日」と定め、「言語力」を育むための各種施策を実施していこうとするものである。こんな法律を成立させなくてはならないほど、日本の言語環境は貧弱化してしまっているらしい。

コラム「文字・活字文化振興法案の条文を読む」********
 パラドックスなのだが、法律文章は、文章としては最も質が悪いことで定評がある。良い機会なので、ここで、法案の条文の一部(目的)を紹介しておく。

(目的)
第一条 この法律は、文字・活字文化が、人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承及び向上、豊かな人間性の涵養並びに健全な民主主義の発達に欠くことのできないものであることにかんがみ、文字・活字文化の振興に関する基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、文字・活字文化の振興に関する必要な事項を定めることにより、我が国における文字・活字文化の振興に関する施策の総合的な推進を図り、もって知的で心豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。




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以下、インターネットから統計数値を拾いながら少しこのあたりの事情を調べてみることにする。こんな時のインターネットは強力な道具である。
さて、不思議なことに、本や雑誌の出版の勢いは相変わらずなのである。一日150册もの新刊が発刊され、出版社の数もここ10年ほぼ4千社で横ばい、という具合である。新聞には本や雑誌の広告がない日はない。
ところが、本が読まれなくなったのである。年々、出版総額は下がり続けている。全国の本屋の数も減り続けて9千軒くらいにまで落ち込んでいる。
また、1か月で一冊も本を読まない子供が、小学校で7%、中学校で19%、高校生で43%(全国学校図書館協議会、04年度調べ)、読売新聞調査でも、50%となり、10年前より10%増となっている。
また、00年と03年に行われたOECDの大規模な学力調査によると、日本の高校生1年生の文章読解力が8位から14位に低下しているという結果も出て、教育関係者を不安がらせている。
情報化社会のまっただ中での活字文化のこうした貧弱化は、言語環境をいびつなものにしてしまう。とりわけ本を読まないとどういうことになるかをあらためて確認しておく必要がある。

●知識の体系度が低下する
まず第一に挙げておきたいのは、知識形成への影響である。
情報化社会である。本を読まなくとも、「知識らしき」ものは簡単に得られる。とりわけ、さきほ示したデータのように、インターネットに蓄積されている情報は、「苦労なく」得ることができる。
また、「さまざまなメディアを通して」世の中のこと(情報)をいながらにして手に入れることもできる。
本が知識獲得の特権的かつ効果的な手段である時代が終わったことは確かである。だから本が読まれなくなったのである。
しかし、これで良いのか。
  まず問題にしたいのは、「知識らしきもの」である。
本に書かれている知識が唯一知識に値するというつもりはまったくない。みずから心とからだを動かして獲得するエピソード知識や手続き的知識も立派な知識である。さまざまな知識がバランスよく頭の中に格納されているのが望ましい。

コラム「4つの知」**********

頭能知 身体知 感情知 世間知
すみ
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インターネットで得られる「知識らしきもの」も、その意味では貴重である。しかも、最近では、インターネット経由での出版物(電子本)も出てきたので、話しがややこしくなるが、今は、これは考慮の外におくことにする。
インターネット上の情報を、あえて「知識らしきもの」としたのは、知識にとって必要な体系性が、本——ここでは、教科書あたりをイメージしているー−—とは比較にならないくらい低いことがある。Bookは、 Basic  Organization   Of  Knowledge(A.ケイ)なのである。
  それは端的には、長さに現れている。インタネットで一冊の本の長さに匹敵するものが公開されているものをみたことはない。インターネット上では、知識の断片しか公開されていない。
それらを自分にとって意味のある体系だった知識にするには、どうしてもあらかじめ体系だった知識を本から仕込んでおく必要がある。体系だった知識があってはじめて価値が出てくるのが、インターネット上の情報なのである。
とりわけ、高校生くらいまでは、本を通しての体系的な知識の取得が必須である。それなくしては、より高度に体系化された知識の形成は無理というものである。
  次は、「さまざまなメディアを通して」である。これは読書にとって大敵である。
  情報化社会は、ビジュアル化優位の社会である。テレビ、DV、さらにインタネットによる動画配信など、目で見て楽しんだり、直感的に理解したりする情報が家庭に押しているのが現状である。
 
コラム「若者は映像志向」**************
  やや古いデータであるが、1986年——日本での情報化社会への入り口あたりの時期になる−—新入社員1400名に「あなたは、文字志向ですか、映像志向ですか」「理論的ですか、感性的ですか」と問うたら、次のようになった。(旧・太陽銀行調べ)
    文字志向  映像志向     理論的  感性的
男性  20。9% 79。1%   20。9% 70。1%
女性  31。7% 68。3%   18。9% 81。1%
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机に座って頭を使っての知識獲得よりはるかに楽である。最後に問題にしたいのは、「苦労しなくとも情報が手に入る」ことである。
レポートでも、インターネットから情報を拾ってきてそれを編集することで(カット&ペーストすることで)仕上げるようなことがかなり普及?しているらしい。
  この点は、頭の能力陶冶の観点からもさらに考えてみる必要がある。

●本を読まないと頭が馬鹿になる
  読書することは、本(の著者の知識)と読者(の知識)とが知的に格闘することである。「苦労なくして」勝てるわけがない。
読めない字や意味不明の単語があれば、辞書に頼ってでもなんとか自分でわかろうとがんばる。納得がいかないことが書かれていれば、疑問の声を挙げる。そして、別の本などにあたってみることもある。
 このような本との知的格闘は、頭の中での総合的な情報処理を要求する。
持てる知識のフル動員、さらにイマジネーションや推論の自在な展開、時間を忘れての集中などなど、知的資源を十全に出しきっての情報処理が行われるのが読書である。
これが頭を鍛える。ぼんやりとTVドラマを見ている時の頭の活用と比較してみてほしい。イマジネーションを働かせるまでもないし、使う知識は断片的でよいし、集中しなくともよいし、という具合で頭を鍛える情報環境にはほど遠い。こんなものを相手に一日中時間を潰していたら、頭はどうなるか。押して知るべしであろう。


















5章 研究する」認知と学習の心理学より

2020-06-20 | 認知心理学
05/10/31海保

5章 研究する 10p
5.1 こんな研究をしてきた
●基礎研究からスタート
●基礎研究はなぜ大事なのか
●基礎研究から応用研究へ
●応用研究だけはだめ

5.2 知の生産をする力
●発想力
●企画力
●実行力
●解析力
●表現力

5章 研究する

5.1 こんな研究をしてきた

●基礎研究からスタート
今にして思うと、なんであんなつまらない、毒にも薬にもならない研究をしていたのだろうと思う。謙遜ではない。こうした思いは、多かれ少なかれ多くの基礎研究者の述懐にはあるのではないかと思う。
筆者の場合の研究のスタートは、卒業論文である。カタカナ文字の見易さの順位づけをして、その順位を規定する形態的な要因を見つけだそうとした研究をしてみた。指導教官からの天下りテーマであった。「メッシュ化された片仮名文字の見易さの規定要因ーー重回帰分析による検討」として学会の機関誌に掲載された。
その後、文字認識をもっと幅広く、パターン認識の文脈で吟味してみたくなり、「形の知覚に関する多変量解析的アプローチの現況」さらに「無作為図形の分類作業における手がかり利用の方略」といった論文を書いてみたりした。 
そのうち、漢字という日本古来の素材が形音義という複合した情報を一つの文字に内蔵した興味深いパターンであることに気づき、漢字の形音義を日本人や外国人がどのように処理しているかに興味を持った。
そして、「漢字情報処理機制をめぐって 」「教育漢字の概形特徴の心理的分析」「先天盲の漢字存在感覚と漢字検索過程 」「漢字の機能度指数開発の試み」 「日本語の表記行動の認知心理学的分析 」
といった論文を書いてみた。
これ以外にも、学生と一緒にやった概念形成に関する研究もある。
ここまでが、筆者の基礎研究時代の研究内容である。研究生活に入っておよそ20年間がたっていた。

●基礎研究はなぜ大事なのか
いずれの研究も、それでどうなるの、という研究ばかりである。しかし、だからといってそこに費やされたコストもすべて無駄だったのかと、問いつめられれば、即座にいくつかの反論をしたくなる。
まず、個人的なメリットを挙げるなら、基礎研究は、リサーチマインドを体得するのに絶好の場を提供する。ここでリサーチマインドとは、研究者としての心がまえ、さらに言うなら心理学の研究文化である。これは、夾雑物のない純粋な研究環境のもとで興味にあかせて脇目もふらずに、そして周囲、とりわけ指導教官などとの議論などを通して一定期間——大学院5年間くらいが一つのめどーー研究に没頭することで体得できる。時折、大学院の3年編入で他大学からやや異なった研究文化を身につけた学生が入ってくると、あらためて、我が研究室の研究文化の存在に気がつかされる。
さらに、個人的なメリットを挙げるなら、研究者としての力量アップである。研究は、個人でおこなうにしても、一大知的プロジェクトである。そこでは研究のアイディアを生み出すための発想力、それを調査や実験として具体化するための企画力、それを実際におこなう実行力、結果を分析する解析力、そして得られた結果を外に向かってアピールする表現力が求められる。基礎研究は、研究テーマを限定することで、こうした力量を訓練する恰好の場を提供する。これについては、さらに次項で考えてみる。
次に基礎研究の社会的意義を2つほど挙げておく。
一つは、人材養成機能である。どんな人材が養成されるかは、上述の個人的メリットの2つである。心理学の研究文化や心理学的な知的素養が外部でどれくらい役立つかは時代によって変わってくるが、すくなくとも、心理学化している現在の社会(斉藤環氏による)では、至る所で役立っていると思っている。

コラム「心理学化化した日本社会」*****
斉藤環氏の本(「心理学化する社会)PHP)の「はじめに」から、心理学化した日本社会の様相を摘記してみる。
・どの書店でも、心理学書のコーナーが設けられている
・女子高校生がなりたい職業の第二位がカウンセラー
・社会事象の分析に精神分析的手法を持ち込むのが流行
・動機のはっきりしない犯罪についてのコメントを心理学者に求めるようになった
・癒しブームの中核に臨床心理学がある
・トラウマ(精神的外傷)インフレーションが小説、映画、TVで発生
 さらに、これに追加するなら、心理学の制度化がある。あちこちの大学に心理学部ができ、さらに、医療心理士、臨床心理士の国家資格化の動きなどである。
******

基礎研究の社会的意義その2は、基礎研究の知見が積み重なると、そこからおのずと出てくる鍵概念や理論が、心理学の場合なら、人間の営みの不思議を説明したり解き明かしたりする機能を果たすことが多い。それは、後述する応用研究が寄ってたつ、いわば知識のインフラになる。

●基礎研究から応用研究へ
およそ20年の基礎研究の期間が突然終わることになったのは、当時、日本IBM(株)の大和研究所の人間工学のセクションでマニュアル(取扱説明書)評価の仕事をしていた加藤隆氏(現在、関西大学総合情報学部長)から、認知心理学の立場から、マニュアルをもっとわかりやすくする方策がないかと相談されたのがきっかけだった。
どんなことをしたかというと、認知心理学の知見をベースにして、「ユーザはマニュアルをこんな風に読んでいる」
マニュアルを読んでいるときにこんなことを頭の中でしている」だから
「こんなふうにマニュアルを書いてくれるとわかりやすくなるはず」
という提言をしてみた。
その時にはじめて、基礎研究も捨てたものではないということに気が付いた。基礎研究をきっちりとやってきてよかったとあらためて思った。
 その成果は、「ユーザ読み手の心をつかむマニュアルの書き方」(共立出版)「一目でわかる表現の心理技法(共立出版)として出版し、今でもまだ版を重ねている。

コラム「マニュアルをわかりやすくするための指針****
 提言の内容をもう少し具体的に言うと、マニュアルのユーザ支援機能を5つ設定して、それぞれについて、たとえば、こんなことを提言してみました。
1)操作支援(操作を指示する表現はどうすべきか)
・1文1動作で
・操作ー結果ー操作のサイクルを示す
2)参照支援(情報を探しやすくする)
・出来上がり索引を使う
・目次はユーザのタスクを考えて作る
3)理解支援(わかりやすくする)
・操作の目標を先に示す
・専門用語の使い方を慎重に
4)動機づけ支援(読んでみたいと思わせる)
・出来上がりを最初に示す
・実益を感じさせる
5)学習・記憶支援(覚えるべきことを覚えやすくする)
・基本操作を習熟させる
・実用的な練習問題を提供する
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●応用研究だけはだめ
 応用研究は、研究の目的がわかりやすいのが特徴の一つである。「マニュアルをわかりやすくする研究」と言えば、誰にもただちに納得してもらえる。なお、これが基礎研究ともなると、テーマはわかってもらえたとしてもその意義まではまず無理である。時には指導教官とも理解してもらえないために衝突することさえある。
応用研究のわかりやすさは、ただちに、その結果の有用性を問われるところにある。ところが、心理学の応用研究一つでわかること、そしてその結果の有用性の程度は、ごくごく限定的である。ここでも基礎研究と同じで、たくさんの研究の積み上げが求められるのである。ところが、ここで基礎研究と違うところが出てくる。
基礎研究は、他の多くは膨大な研究群の詳細な吟味から次の実験が計画され実施される。ある研究とそれを踏まえた次の研究との間に、論理的にしっかりとしたつながりがある。そのつながりがあるからこそ、理論が出てくるのである。
ところが、応用研究は、その時その場で解決を迫られていることがテーマとして取り上げられる。研究間の論理的な関係はあまり問わない。単純化して言うなら、計算のできない子供をできるようにするのはどうするかの方策を探すのが応用研究、なぜ計算ができないのかにまで立ち返って研究するのが基礎研究なのである。
この違いは大きい。だから、基礎研究は必要なのだ。だから、基礎研究でのトレーニングが大切なのだ。

5.2 知の生産をする力

●発想力
研究は仮に一人でやるとしても、一大知的プロジェクトである。そこではどんな能力が必要なのであろうか。研究の構想から研究の終了までの段階で必要とされる5つの能力を考えてみることにする。
まず、発想力から。
発想力がまず試されるのは、卒業論文の時である。それまでの受け身的な学習から一転して、積極的な学習への転換が求められのが、卒業論文である。
研究室文化の違いによって、テーマの選択から研究の実施まで、学生の自由にさせてくれるところと、かなり制約がかかるところとがある。心理学の多くの研究室はだいたい学生の自主性を尊重するところが多い。
ところが、この自主性がしばしば物議をかもす。一つは、学生の自主性にまかせると、ぎりぎりまですべてにわたって「自主的に」やろうとするため、12月の締切までの研究の時間管理がうまくいかなかったり、指導忌避のためとんでもない研究をしてしまったり、実験や調査で思わぬ迷惑を他人にかけてしまったりといったことが発生しがちである。これは時には指導教官の指導不足、ほったらかしとして非難されることにもなる。
もう一つの物議は、テーマ選択にかかわるものである。
心理学のような学問では、自然科学のような学問とは違って、自分の個人的な心的体験が研究テーマになることが実に多い。とりわけ、はじめて研究(のまねごとを)する卒論のようなケースで、自主的にやらせると、自分の心的体験を持ち出せてきてテーマにしたいということになる。たとえば、
・無意識の世界はどうなっているか
・錯視はどうして起こるのか
・夢をみるのはなぜか
・人の性格は変えられないか
いずれも心についての問題意識としてはあって当然のテーマである。しかし、それが卒論のテーマにふさわしいかとなると、首をかしげてしまう。
テーマが大きすぎてとても卒論では無理なもの、今の心理学の知見、常識からして答えられないものが多いのである。
そこでよくやる指導は、学生の問題意識、知的好奇心を大切にしながら、現実的な研究テーマに落とし込むために、関連する研究雑誌から自分の考えているテーマに最も近いものを見つけさせる作業である。これによって、一気に学生は研究の現実の厳しさを知ることになる。
卒論におけるテーマ設定の話になってしまったが、研究する際の構想力の話に入る。
構想力の核には、知的好奇心が必要である。卒論の場合は、これが個人的な心的体験から発するものが多いが、心理学の研究者ともなると、仮にそこから発したとしても、それを学問的な探求に値するものにまで昇華しなければならない。それが研究者の構想力というものである。知的好奇心から沸き上がったきたテーマが過去の心理学の研究成果の中で練り上げられて仮説のレベルにまで精選されなければならないのである。そのためには、寝ても覚めても頭がそのテーマで占められている長くつらい状態を経験することになる。
この段階で、振り落とされてしまうテーマはごまんとある。自分自身で振り落とすものもあるし、仲間との議論の中や指導教官の「つまらないね」の一言で振り落とされるものもある。文献検索ですでにやられていることがわかることもある。研究遂行の上で一番しんどい段階と言ってもよいかもしれない。
この段階でぐずぐずと時間を無駄にしてしまうこともある。ただ、長い目でみれば、この段階でのぐずぐずは、そのプレッシャーに負けない強い知的好奇心があれば、将来、大きく花開くこともある。

●企画力
構想力は頭の中だけで展開されるから、どれほど奇想天外であっても、また壮大であってもいっこうにさしつかえないが、企画となると、とたんに、お金、時間、労力といった現実の壁に直面することになる。企画力は、いわば、自分の思いと現実とをつなぐインタフェースである。
とりわけ研究費については、最近の日本の競争的な研究環境を推進する強い圧力のもとでは、しかるべきところにあらかじめ申請して獲得しなければならないようになってきている。その申請書を作るところで、企画力が試される。
申請書作りは、論文を書くのとは違って、構想のすばらしさ、独創性、意義などを審査者にアピールすることが主眼になる。
 
コラム「科学研究費申請書」******
日本の科学研究者なら誰もが知っていて、一度や2度は


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もっとも、卒論程度の小さい研究なら、だいたい実験・調査計画という定番のスタイルがあるので、それほどは苦労せずとも企画できる。それでも、現実の制約は至る所で出てくる。
最近では、金、時間、労力に加えて、研究倫理の制約が強くなってきている。とりわけ、人を被験者にする心理学の研究では、あまりの制約の厳しさに、やや根をあげているようなところさえある。
たとえば、
 ・事前に、研究目的について充分な説明をして同意をえること
・子供相手の研究では、保護者の同意をあらかじめ得ること
・研究への参加はいつでも取りやめることができることを事前に通知すること
・被験者に不快体験をさせないこと
いずれにしても、こういした現実の壁を一つ一つ乗り越える力が企画力になる。

●実行力
企画力とセットになっているのが、実行力である。企画しながら実行し、実行しながら企画を練り直すのが普通だからである。
大言壮語ばかりで実行が伴わないタイプの人もいるし、逆に、充分に企画案を練り上げる前にあれこれやってみるタイプの人もいる。自分はどちらかというと、後者である。
いずれにしても、およそ、最初の構想とは無縁とも思えるような実に地道で時間のかかるルーティン・ワークが求められるのが、この段階である。
心理学の場合には、とりわけ、実験や調査協力者を探すのが大変である。卒論の最盛期になると、心理学の専攻生は引っ張りだことなる。協力することで、心理学への理解が深まるし、明日は我が身なのだから、と言って協力させてはいるが。
これ以外にも、実験セットの組み立て、調査票の設計という知的な実行力が試される段階もある。

●解析力
調査研究の場合は、収集されたデータからねらい通りの結果が得られているどうかを解析する力仕事がさらに待っている。
最近ではコンピュータのパッケージソフトのおかげで、ルーチンになっている分析は、入力作業さえ終われば瞬時に結果を出してくれるようになり、解析コストは著しく低下した。
しかし、いつもルーチン的な分析ばかりで済むわけではない。データの中から自らの目で発見する力も必要である。コンピュータ解析が普及したため、データをきっちりと見る前に分析してしまうような傾向があって、データから何かを発見する力が格段に低下してしまったように思う。
心理学の研究では、人をみることに加えてデータをみることも大事なのである。

●表現力
研究の成果は、外部に公開することが義務づけられている。最もポピュラーなものが学会発表。これは、学会員ならだいたい誰でもその学会で発表できる。年に一度は開催されるので一番早く公開できる。時には、海外にまで出かけて発表することもある。最近は、科学研究費で海外出張が認められたこともあって、実に多くの日本人研究者が気楽に海外の学会で発表するようになった。

コラム「研究者の表現力、我彼の違い」********
 橋田浩一氏が認知科学会のニューズ・レター(一九八八年、第九号)に、「JAICA八七参加記」と題して、こんな話を載せている。締めくくりの事例として引用させていただく。
 「Johan de Kleer が Computers & Thought Award という賞をもらって、記念講演をやりました。……非常に面白く聞ける話をしておりましたが、後によくよく考えてみると、実は学問的には得る所がなかった、……しかしこれは逆に、いかに彼の presentation が巧妙であったかを示すものであり、彼の業績に対する評価もひとつには(いや一重に)この能力の故である……これに対して日本人の発表はうまいとは言えません。……迫力に欠けると言うか、どうも見劣りがします。……語り口の巧妙さによる説得力は研究そのものの質の重要な部分を占めるわけで、この説得力がその研究に対する共鳴を呼び、そのさらなる進展につながるのです。 
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しかし、研究者としての業績として評価されるためにには、さらに、学会で発行されている学会誌に発表しなければならない。これがなかなかしんどい。仲間による審査(ピア・レビュー)が結構厳しいからである。これが研究者としての評価につながっていく。評価されるのを嫌ってか、論文を投稿しない研究者まがいの大学院生も多いのが気になっている。



 



4章 コンピュータで仕事をする 」認知と学習の心理学

2020-06-19 | 認知心理学
05/12/3海保博之

4章 コンピュータで仕事をする  6p

4.1 コンピュータとともに40年

●ドッグイヤで進歩するコンピュータとともに
紙テープにプログラムやデータを打ち込んで、それをコンピュータに読み込ませて因子分析の計算をしていたのが、大学院に入った1965年頃のことである。
それがすぐにIBMカードという当時とすればしゃれた入力媒体にとって変わり、実にたくさんのプログラムを作っては遊んでいた。なお、このカード、裏側メモに使ったりすると便利なので、まだ我が研究室にはかなりの枚数が残っている。

図1 IBMカード

それも束の間、すぐに、TSS(time sharing system)が導入されて、今のようなコンピュータ端末に直接打ち込んで大型コンピュータとやりとりしながら仕事をするようになった。
この間、わずかに、10年くらいである。コンピュータの進歩はドッグイヤ(犬の1年は人の7年に相当)と呼ばれるくらい急速であった。

●コンピュータにはまる
心理学の研究にとって、コンピュータは研究上の道具でしかないのだが、その道具をいじるほうが、はるかにおもしろい。すっかりはまってしまった時期がある。
なお、心理学の研究におけるコンピュータ利用には、実験装置として刺激の呈示と反応の計測に使う、データ解析に使う、さらに、例は少ないが、コンピュータでモデルを検証する(コンピュータ・シミュレーション)のに使う。
閑話休題。それまでの大型コンピュータ(メインフレームと最近では呼ぶ)とは、まったく設計思想が異なるマイクロコンピュータが普及するようになる。一方では、心理学の研究者としての仕事もしなければならない。いつまでもコンピュータにはまっているわけにはいかない事情が出てくることになる。年齢的は40代である。

コラム「コンピュータによるデータ解析とともに」*****
 1985年に同僚の中田先生に依頼されて書いた記事である。重複するところもあるが、参考のために、一部を省略して掲載しておく。

体験的データ解析小史

 懐古談をする年ではまだない。しかし、データ解析、コンピュータに関しては、すでに懐古談をしてもよい状況にはある。こ領域での新しい進歩に追いついて行けないという主観的感じを持つからである。
 このことを痛切に実感したのは、61年3月に発売される「心理・教育データの解析法10講(応用偏)」(福村出版)の編集作業を通じてであった。そのなかの何講かは自分が一度は使ってみたいと常に思っていた手法であったので、原稿をいただくのを心待ちにしていた。しかし原稿を読んでみると、どうしてもわからない。著者との何度かのやりとりのうちに、結局は自分の方が″頭が悪い″ことに気づいた次第である。
 「データ解析の手法についての知識は大学院時代のままでストップする」と言われている。専門家は別として、おもしろい手法があったら使ってみよう程度の研究者の場合には、確かに、この通りだと思う。
 閑話休題。データ解析に触れたのは、今も昔も心理学専攻の学生の誰でもがそうであるように、心理統計の授業であった。昭和38年、東教大で故岩原先生のしごきにきたえられた。その時に使った教科書「心理と教育のための推計学」(日本文化科学社)がボロボロになってまだ本棚にある。いまの多くの学生諸君と同じように、統計が科学的推論の唯一の道具であるかの如く錯覚し、ともかくよく勉強した。
 大学院修士課程に入ってすぐ、因子分析の勉強をしたのを覚えている。手回し計算機を脇に置いてサーストンの重因子法を解いた。同時に応用数学科が管理していたHIPAC(HITACか?忘れた)というコンピュータのところにかよい、なんとか因子分析のプログラムを作ろうと大変な苦労をした。
 なぜ苦労したか。いい教科書がない、相談できる人がいない、数学的知識がない、の「ない、ない」づくしだったからである。こうした状況を救ってくれたのが、42年度に開講された故水野先生(統数研)の「多変量解析」の講義であった。まさに、頭にしみ込む講義であった。そのまま本として出版されても通用する内容であった。先生にもそのお気持ちがおありであったようだが、確かその年の秋頃かと思うが、芝先生の「相関分析法」(東大出版)が出版されてしまい、「遅かりし」ということになった。
 43年4月から徳島大学に赴任した。紙テープ入力のTOSBACを使いまくった。その残骸をつい最近思い切ってすてた。もっぱら、水野先生のノートと芝先生の本に頼って、多変量解析の手法をパターン認識の実験データの解析に使った。
 49年頃かと思うが、水野先生を通して、SPSSの移植のための科研のグループに入れていただいた。時々京大での講習会、研究会などに参加したが、まだそのすごさは実感できなかった。
 50年に筑波に移った。TSSに驚かされ、パッケージプログラムに衝撃を受けた。SPSSにのめり込むまで時間はかからなかった。知ったかぶりで、全学の先生方対象の講習会の講師までするほどの熱の入れようだった。それに比例して、フォートランを使ってプログラムを書くことをほとんどしなくなってしまった。ここから力の衰えが始まった気がする。結果の解釈、そしてそれのみをわかり易く説明することがまわりから期待されるようになてきた。それに合わせているうちに確実に力が落ちてきた。
 いまやSPSS、SASのいずれにも、ほとんどふれることのない日々を送っている。こんな人間が、データ解析の本を編み、そして61年度はなんと、8年ぶりのデータ解析の授業をする。さていかなることになるか。不安ながらも楽しみにしている(1981年1月29日Z)


***********

●何が何やらわけがわからない
メインフレームのメンタルモデルが頭に染みついてしまったため転移が効かなくなってしまったのと、新しく登場したマイコンの進歩はバタフライイヤと呼ぶにふさわしいほどに猛烈に速いためキャッチアップしていけなくなったこともあって、操作の仕方も含めてすっかりコンピュータのことが理解できなくなってきた。50歳代はじめの頃である。
それでも、コンピュータなしの仕事は考えらないので、する仕事を限定してなんとか「コンピュータ落ちこぼれ」にならないようにがんばってはいるが、60歳代に突入した今、もはや大学院生の助けなしには、思い通りの仕事ができなくなってきている。

4.2 インタフェースの世界に足を踏み入れる

●認知工学とは
それでも、無謀にも、コンピュータのインタフェース設計にわかりやすさを作り込む研究に偶然のきっかけから取り組むことになった。認知工学という新しい分野に挑戦してみることになったのである。
インタフェース設計上の認知工学的な課題の一つは、ユーザの認知機能の特性に配慮した画面をいかに作るかである。プアーユーザとしての自分の体験と認知心理学の知見とを総動員して、「こうすればユーザにとってわかりやすいインタフェースになる」という提言を作り上げては本や論文で訴えてみた。
設計技術者は、システム設計のほうにしか目がいかない。それを使うユーザのことは後回し、という風潮が強い中で、それなりのインパクトを与えることができたと思っている。

●インタフェースにおけるわかりやすさとは
ここでやや立ち入った話しになるが、ユーザにとってのわかりやすさとは何かについてどのように考えるかを簡単に紹介しておく。
わかりやすさは、情報を処理する場面で、次の3つの要件のすべてかいずれかを満たすことである。
 一つは、既有知識があること。たとえば、コンピュータの画面の右下に、ゴミ箱のアイコンがある。不要なファイルはそこに捨てることができる。この一連の操作は、非常にわかりやすい。なぜなら、「不要なものはゴミ箱に捨てる」という既有知識が使える(転移できる)からである。
 2つは、情報の処理コストが低いことである。既有知識があることと密接に関連するが、たとえば、「カネオクレタノム」と表示されるのと、「金をくれた飲む」と表示するのとでは、明らかに処理コストは違う。(ちなみに、「金をくれ頼む」あるいは「金送れ頼む」と表示してもよい。)
3つは、文脈による制約である。情報処理をおこなう文脈の中に、するべきことが作り込まれていることである。たとえば、マウスには、その形態から、片手でにぎって人さし指か中指でクリックする動作を自然に誘うようになっている。
 以上をまとめると、わかりやすさは次のような形で定式化できる。

わかりやすさ=f(既有知識 X 情報の処理コスト+文脈の制約)

 ここで、「X」は、いずれかがゼロだと両方がわかりやすさに貢献しないことを意味している。たとえば、豊富な既有知識をもっていても、それを必要な時にタイミングよく思い出せなければ、無駄になる。また、「+」は、いずれかがゼロであっても、一方だけでもわかりやすさに貢献できることを意味している。
 
4.3 メールで仕事をする

●まずはメールを開ける
最近は、研究室に入るとまずすることが、メールを開けることである。
これが習慣のようになったのは、それほど古いことではない。これも20年前くらいだと思うが、研究者仲間で非常に使い勝手の悪い、junetという電子メールが使われ出したことがある。「海保さん、メールを入れたから読んでくれる」という電話がかかってきて当惑したのを覚えている。
それからインターネットの普及で、電子メールはもはや研究者のインフラよりも大学生活のインフラとして使われるようになった。
たとえば、1学期の授業で、「中高生のための認知心理学基本用語集」を受講生に作らせる課題を課した。割り当てられた用語の解説をメールで送ってもらい、それをホームページ上で公開するのである。
受講生80名。全員がこの課題をなんなくこなした。一人として、私はメールができません、と言ってこなかったのである。
電車にのっても、半数くらいは携帯メールをしている時代である。これくらいのことで驚くほうがおかしい。
さて、自分のメールとのつき合い方の続き。
研究室では、画面に向かって仕事をすることが多い、というよりほとんどの時間がそうである。スムーズに仕事が出来ているときは、何も問題はないのだが、ちょっとつまったり、考えたりしたい時がある。あるいは、学生が来室して仕事が中断されたりすることもある。そんな時、つい、メールを開けてしまうのである。そして、一時、メール処理に熱中してしまうのである。
こうなると、本業ほったらかしになってしまう。こういう日々が今、続いている。それほどまずい状況だとは思わないが仕事に集中できない自分に嫌気がさしてしまうこともある。
しかし、電話での強制的な中断よりははるかにましではある。メールのおかげで、電話が極端に減ったのは本当に助かる。電話に限らないが、デスクワーカーにとって外部からの強制的な中断は、仕事の大敵である。いつでも居眠りができる静謐さが必要なのだ。

●メールリテラシー
ここでメールのしきたり(literacy)について少し考えてみる。これには、基本的に2つの見方があると思っている。
一つは、「郵便モデル」。メールをかつてのはがきや封書による郵便でのリテラシーをモデルに考えるものである。
拝啓、謹啓、前略などの挨拶言葉にはじまり、敬具、敬白、早々などの終わりの挨拶言葉で締めくくるものである。今ではほとんど見られなくなったが、かつてはメールでも結構あったし、自分でも先輩、恩師にはこうしたメールを送ったこともある。
形式はともかくとしても、今でも、いわゆる堅苦しいメールをもらうこともあるが、それらはだいたいが郵便モデルに従ったものである。しかたなく、こちらも堅苦しいメールで返事をすることになる。
もう一つは、「対話モデル」。メールによるやりとりを、あたかも相手が目の前にいて話しているかのようにするのである。
対話であるから、文字で書くものの、全体の基調は話し言葉である。郵便モデル保持者からすると、とてもではないが、我慢ができないような無礼なしろものとなる。
現在は、携帯メールが普及して、対話モデルによるメールリテラシーが圧倒的に優勢である。そのリテラシー、どんな特徴があるのだろうか。

●ボーダレス性
メールなら、たとえば、アメリカの大統領にも雲の上のような存在の人にも、アドレスさえわかれば、気楽にメールできてしまうようなところがある。
あるいは、海外の研究者にも論文の不明なところを気楽に尋ねることもできるし、その逆もある。
さらに、夜中の寝室にも居間にも、時間に関係なくメールが打たれてくる。
メールは、年令、国境、公私、場所、時間などありとあらゆるところに伝統的にあったボーダー(仕切り)をあっさりと乗り越えて、コミュニケーションさせてくれる。

●瞬時性と応答性
アメリカ在住の日本人研究者と仕事上の打ち合わせを何度かしたことがある。また、アメリカ在住の卒業生から大学院に入るので推薦状を書いてくださいと頼まれたことがある。
いずれもメールである。びっくりするのは、ほとんど瞬時に相手に届き、瞬時に返事が返ってくることである。このスピードは人間わざ?とは思えない。
 こうしたコミュニケーション環境になれるてしまうと、返事がほしいメールが1日たっても無応答だと、いらついてくる。2日も返事がないと、あれこれと心配したり、よからぬことを考えたりしてしまう。
筆者の場合は、朝昼晩の3回に限定しているが、それでも気になるメールを待っているような時は、この禁を破ってしまうことが多い。ひどい時には、メール対応の合間に仕事をしているような錯覚に陥ることもある。
こんな状況になってしまうことを恐れて、我が家には、まだインターネット回線は引いていない。実に心穏やかに、落ち着いて仕事ができる。

●ビジュアル性
対話モデルでメールを送る人にとって、文字は邪魔である。もっと気楽にメールをしたい、もっと親密さをメールに出したい、と思う。
そこで、工夫されたのが、絵文字である。
筆者は使ったことはないが、もらったことはある。若者の間では必須の仕掛けらしい。携帯のデータとしてもすでに入っているらしい。
ビジュアル化はこれ以外にもある。
文章が極端に短くなり、字詰め(1行の文字数)の一目でみることができる、20文字程度の文字数になっている。
こうした文字環境の変化への不安もあるのか、「文字・活字文化振興法案」(6章参照)なるものまで作られるようになった。最近の若者は、モードチェンジが巧みにできる能力に長けているので、メールはメール、文章書きは文章書きというようにモードにふさわしい表現ができるようになるのではないかと楽観している。

コラム「絵文字を覗いてみる」**********
携帯メールやブログで使われている絵文字の例である。びっくりするくらい創造的だと思う。絵文字(icon)には、言葉の字義通りの理解を和らげる働きや親密さを高める働きがある。しかし、文字コミュニケーションに慣れた旧世代には、戸惑いがある。
なお、この類の絵文字は、特に、emoticonと呼ばれているらしい。Emotion(情動)とiconの合成語であろう。

オリンピックって、もう終わったんでしたっけ?
期待に副えて金メダル(σ・∀・)σげっちゅーな人も、期待に副えず敗退な人も、これっぽっちも期待されてなかったのにメダル(σ・∀・)σげっちゅーな人も、みなさんお疲れ様でした。
北島の「気持ち゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!ちょー気持ち゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!」ってのが、嫌でしたが。
だって、わざとらしいんだもの。
コメント、言い方、表情…何回見てもゲンナリ。
キャラ作りすぎなんじゃボケェ!( ゚д゚)、ペッ
http://bomb.prof.shinobi.jp/Latest?1より

○以下は、女子大生に、作ってもらったメール例
こんにちは(^^)☆毎週、先生の講義を楽しみにしてます(*^^*)もう二学期も終わりで、講義も終わってしまうのが寂しいです……(><)
二学期も終わり、ということで、もうすぐテストですね(・・;)認知心理は理系っぽい内容で難しいので、テストはちょっと不安です(>-<;)。あんまり難しくないテス
トだと良いのになぁと思ったりしてます(^^;)頑張って勉強するので、あんまり難しくないテストで、お願いしますね(>人<)ではでは、失礼しました(・ω・)ノシ
****************************

●保存・検索性
最後に、メールの利点をもう一つ。
メールは意識せずとも、保存できて、必要に応じて引き出せるようになったことは助かる。
郵便だとまず住所録への転記、郵便そのものの保存——形式が異なるので実に保存がしにくいーーーが必要となるが、メールなら、ほっておいても保存ができ、必要な時に一発で検索ができる。
メールを使って以来、まったく削除していないという人も知っている。筆者の場合は、受信メールは、2か月間保存、送信メールは、用件のある人なので、原則、削除しない、という方針でやっている。





3章 書く」認知と学習の心理学より

2020-06-18 | 認知心理学
05・10/29海保博之


3章 書く

3.1 書くのが好き
●書けなくて七転八倒
●書くのが大好き人間に大変身

3.2 書くのがつらいのはどうして
●書くのは面倒
●思いの世界と表現の世界とのギャップが大きい
●書くことを制約するリテラシーが面倒
  • あらたまったお膳立てが必要

3.3 書くことが好きになるために
●書けなくとも困らない?
●ともかく書くこと
●自分を出す
●読み手を意識すること
●外的制約を課す

3.4 文章作成環境が格段に良くなった
●「原稿用紙」はまもなく死語
●ワープロがもたらしてくれたこと
  • 自己表現の場が広がった


3章 書く

3.1 書くのが好き

●書けなくて七転八倒
今でもしっかりと覚えているが、書けなくて七転八倒したのは、はじめての大作?「メッシュ化されたカタカナ文字の視認性」という卒業論文を書いていた時であった。
内容は、実験報告でごくオーソドックスなもので、大作とはいってもその当時の自分にとっては、ということで、400字詰原稿用紙でわずか50枚程度のものであった。にもかかわらず、机に向かってうんうんうなっていた。よほどつらかったとみえて、40年もたっているのに、その光景は今でも自宅の勉強部屋の状況とともにしっかりと目に浮かぶ。
フラッシュバルブ記憶である。

コラム「フラッシュバルブ記憶」******
自分自身の一生の記憶を自伝的記憶という。その中で、フラッシュバルブ記憶は、誰しもがいくつかはかかえているはずの記憶である。強い感情を惹起された場面が、あたかも写真のフラッシュをたいて写したかのように記憶されている現象である。
感情にはポジティブ(うれしい、楽しい)とネガティブ(悲しい、つまらない)があるが、いずれも、強い感情が惹起された時の場面が記憶に強く残る。
筆者のフラッシュバルブ記憶の例。
・大学入試の合格発表で自分の番号を見つけ、事務の窓口に手続の書類をもらいにいったら、その番号ありませんよ、と言われた瞬間。(実は相手のチェックミスだった。)
・祖母が亡くなったことを中学校の教室で担任からつげられた瞬間。
・アームストロング船長が月に第一歩を踏みだした瞬間のTV視聴をしていた場面
こうしたフラッシュバルブ記憶が、人が過去をふり返る時の里程標になっているのであろう。
******************************

●書くのが大好き人間に大変身
それが、書くのが大好き人間になってしまったのである。きっかけは、今にして思うと、23年前のアメリカでの在外研究ではなかったかと思う。
英語が聞き取れない、したがって話せないままの10か月はつらいものがあった。そのうさをはらすためであったのだろう。アメリカ滞在記録のようなものを書いては大学院生に郵便で送っていた。週に1,2回は書いて送っていた。それを保管しておいてもらい、帰国してから、それを掲載するための「Compter & Cognition」というA4の裏紙を使ったニューズレターを毎週発行するようにしたのである。そして、さらにその中に、「認知的体験」と称して、自分の頭の中で起こったことや考えたことなども短い記録として掲載するようにしたのである。2章にその一部を紹介した。
これによって、文章を書くおもしろさを知った。そして、書けば書くほど書くことが楽しくなることもわかった。
それで勢いがついて、これもアメリカ滞在経験の中で頭にひっかかっていた安全やヒューマンエラーに対する考えの我彼の違いを、講談社の現代新書に書くという冒険に挑んでみた。原稿用紙300枚くらい、研究論文のスタイルとはまったく違った表現への初挑戦をしてみた。
これで、人にわかってもらい納得してもらう表現とはどういうものかをしっかりと体得した。
これが、自分の表現のいわばブレークスルーになったと思う。まったく書くことが苦痛でなくなったのである。それどころか、書いていないと不安でしかたないような気分になることさえあった。それは今でも続いている。

3.2 書くのがつらいのはどうして

●書くのは面倒
書くのが好きか嫌いかと聞くと、どちらかの返事がただちに返ってくるほど、「書く」ということについての意識は一般には高い。そしてその意識の高さの多くは、自分が思うように書けない体験によるところが大きいように思う。さらに言うなら、圧倒的に、「書くのが嫌い」と答える人のほうが多いはずである。
コラムに一つの関連データを挙げておく。

コラム「書くのが好きな人と嫌いな人」*****

科学技術庁の調査 あり
*****

 

●思いの世界と表現の世界とのギャップが大きい
 では、なぜ書くのが嫌いになるであろうか。
/明日、東京に行く/という思いを文章で表現してみる。
「明日は東京に行く」「東京は明日、行く」「明日行くのは東京」「東京に行くのは明日」——————。
というように一つの思いにいくつもの文章表現ができる。逆に一つの文章表現でもそれが意味する思いの世界は必ずしも一つではない。思いの世界と表現の世界との間には、渡らなければならない川と、選択を求められる幾本もの橋がある。
この川の広さと、選ばなくてならない橋の数の多さに気が付くと、書くのがおっくうになったり、神経質な人では、書くのが怖くなってしまうことさえある。

●書くことを制約するリテラシーが面倒
 書くということは、書かれたものを他の人が読むことが前提になっている。そのため、膨大な守るべき規約(リテラシー)がある。
表現に自由度がある一方では、文法、語彙にまつわるリテラシーは膨大である。それを守らなければ、読み手には言いたいことが伝わらない。
ここで再び、別の形で思いの世界と表現の世界とのギャップに悩まされることになる。自分の思いを正確に伝えたいがそれができないもどかしさを痛切に感じてしまうことになる。
余談になるが、セミナーや授業で、アメーバーのような絵を見せて、これを一方向無線で相手に描かせるとするとどう表現するか、という実習を隣同士でしてもらうことがある。これをすると、いつまでたっても説明が終わらないペアーが多い。できるだけ正確に描いてもらおうとして詳細な情報をたくさん相手に伝えようとするためである。
正確さ中毒と呼んでいるのだが、このように、自分の思いーーこの場合は、説明するものが外にあるので、それほど多彩な思いがあるわけではないのだがーーを正確に相手に伝えたいとの思いが強すぎるのも、それが出来ないがゆえの表現嫌いを生む背景になっているように思う。

●あらたまったお膳立てが必要
書くためには、さあー書こうという気持ちになることからはじまって、最近はコンピュータが多いが、書くために必要な道具、さらに、書く内容によっては各種の資料が必要となる。
いずれもお膳立てをするには、それなりの努力が必要となる。その努力が書くことから人を遠ざける。
ところが、書くのが苦にならない人にとっては、このお膳立てが書こうという気持ちを高めるのに役立つのである。コンピュータを立ち上げ、ファイルを開けて、それまでに書いたものを眺めているうちに、次第に気持ちが乗ってくるのである。お膳立てが集中儀式のようなものになっているのである。

3.3 書くことが好きになるために

●書けなくとも困らない?
作家になるわけではない。論文を書かなければならない研究者になるわけではない。あらたまった手紙も書くことも少なくなった。あまり書くこと、あるいは書けることの必要性を感じないかもしれない。
しかも、高度情報化社会の特徴の一つは、あらゆる情報がビジュアル化されるところにある。文字より絵を使い、文章より図解を多用し、論理よりも感性に訴えることが優先される。
あれやこれや考えると、何も苦労して書けるようになるための努力は不要ではないか、と思ってしまうかもしれない。
しかし、文字が発明されたのが、紀元前3千年頃。それ以来このかた、文字を使った表現は社会の至る所に深く広く普及してきた。今コンピュータの出現で前述のような表現環境の激変にさらされているが、5千年もの文字使用の歴史を考えれば、高々50年のこの変化をあまり過大に考えてはいけないかもしれない。
話しがすっきりしなくて申し訳ないところがあるが、実は、高度情報化社会には、誰もが情報発信者になれる、というもう一つの特徴がある。それを手軽に?やるには、学校教育で長年の間培ってきた文字を使った文章表現である。
最近はやりのブログ。公開日記のようなものであるが、普及速度が凄い。これほどまでに自分を表現したい人が日本の社会にいたのか、と思ってしまう。しかし、まことに結構なことだと思う。これに乗り遅れないためにも、文章が書けることは強力な道具になる。
さらに、書くことは、書くことによる頭の陶冶という面もある。学校教育を考えても、文字、とりわけ、漢字習得からはじまって、どれほどの文章を書かされてきたことか。それは、書くことが世の中に出て大事という認識もあるが、書くことによって論理力を陶冶したいとのねらいもある。
さて、文章は、時間の流れの中で書かれる。その流れの自然さを支えるのは、論理とその表現である。たとえば、
「————。そして、−−−−」となれば、時系列。
「————。ゆえに、————」となれば、結論。
「————。しかし、−−−−」となれば、逆。
文章間のつながりを、こうした言語表現を活用して作り出したり、さらには、もっとマクロなレベルでは、事実を並べて、結論を引き出したりする。論理がしっかり表現されていれば、読む人を納得させることもできる。
論理は、頭の中での営みであるが、それを文章で表現することで、論理を明解なものにせざるをえなくなる。論理不明を意識させ、されに強固な論理構築の必要性を認識させるのも、書くことによってである。

●ともかく書くこと
何はともあれ、仲間ができて自分ができないことがあるのは気持ちが悪い。そこで、どうれば書けるようになるかを自分の体験を踏まえていくつか提案してみる。
まずは、ともかく何でもよいから、毎日、書いてみることである。ブログはその点で恰好の表現の場だと思う。
その日の出来事を記す。たったそれだけでも、最初は何を書いて何を書かないかで苦労するはずである。
最初は、メモ程度でもよい。ともかく毎日書くと決める。これによって、頭の働きの回路に「書くための回路」をあらたに作り込むのである。この回路ができてくれば、パソコンの画面が立ち上がったら書き出すようになる。立ち上がりの画面に、書き込むためのファイルが大々的に見えるように細工をしておくのも一計である。
習慣とは恐ろしいものである。ひとたびできあがってしまうと、それをしないと気持ちが悪くなる。しかも、最初はあれほど苦労したのに、習慣になってしまうと、ほとんど3む(むりなく、むだなく、むらなく)でできてしまう。こうなればしめたものである。
筆者のメール受信箱には、毎日更新するメルマガが送信されてくる。内容は、ビジネスマン向けの仕事術である。分量は1000字くらい。無料である。
「何を好き好んで、こんな苦労を」と思うが、書くことで自分を鍛えるための苦労なのであろう。

コラム「毎日配信される無料メルマガ」************
kougai氏のメルマガの一部である。

   ◇◇毎日スキルアップ通信☆彡 ◇◇
   ◇◇   2005.10.31         ◇◇


 先週、ある国際機関の職員と5日間一緒に仕事をした。
 仕事の合間に、その職員は国際機関の仕事の内容やこれまでの経歴をkougaiに話してくれた。

 彼の話を聞いているうちに、以前から気になっていた「大人のための
超スピード勉強法」が読みたくなった。

 どうしてその本が読みたくなったかを、ちょっと長くなるが説明した
い。

 まず、彼の話をしよう。
 日本に本部を持つ国際機関は少ない。
 彼が所属する国際機関は、東京に本部を持つ数少ない国際機関の一つ
で、彼はアジア各国から派遣されたスタッフとともに働いている。

 事務総長、部長など上役に当たるスタッフは日本人で、外務省など国
からの天下りまたは派遣で来ている。部長の下には、企画立案から事業
遂行まで実質的に業務を行うディレクターが配置されている。ディレク
ターは各国から派遣された職員で構成されている。その中で彼は唯一の
日本人だ。他のスタッフは、それぞれ自国のことを気にして仕事をすれ
ばよいが、彼は、上司の面倒から、国内関係機関との調整、総務、財務、
企画・立案と何から何まで背負わされ、毎日朝の3時から4時まで激務
が続いているという。

 以前は、石油の元売会社に勤めていた。
 彼は、系列会社の売上増につながる企画立案やコーチング等を行って
いた。
 ところが、旧態依然とした本社と系列会社のシステム、古い営業スタ
イルに限界を感じ、会社に勤めながら英会話や経営学などを猛勉強し、
MBAの資格をとる。その後、会社を辞め、現在の国際機関に転籍した
という。前の会社に在籍した頃も、仕事と勉強を両立させるため、睡眠
時間を毎日3時間程度までに削っていたという。

 彼が私の職場にやってくる直前まで忙しく働き、彼から届いた最終調
整のメールの日付は、当日の午前3時を指してあった。その日の午前中
に飛行機でやってきて、そのまま超ハードな仕事ぶりを間近で見ること
になる。おまけに、夜は1時まで一緒に飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。
「メルマガ書いているので帰る」なんてとてもいえない。彼のみなぎる
ようなエネルギーに圧倒されてしまった。


 ずいぶん、前置きが長くなってしまった。

 先週紹介した「プロ経営者の条件」の折口雅博氏もそうであったが、
忙しい人ほど、将来のための投資に時間を割いているように思える。

 つまり、忙しいことを言い訳に、自己のスキルアップや独立のための
準備開始を先送りしていないということだ。

 本日、この特集の後に紹介するkougaiのメンタル面での軍師「和出博
さん」も、きっぱりと会社に見切りをつけ、これまでに習得した知識と
経験を活かして新しい世界で事業を展開している方だ。


******************************

●自分を出す
次にやるべきことは、表現の中に自分を出すことである。けんちゃんの絵日記に自分の気持ちや思いをちょっとずつ入れるのである。
自転車で転んだという出来事でも、いつどこでどのようにして転んだのか、それでどうしたのかを書くのは、けんちゃんの絵日記。 
自分を出すとは、たとえば、転んだ時にどういう気持ちだったか、さらに転んだ原因は何か、どうすればこれから転ばないで済むかにまで思いをはせて書くのである。
大げさに言うなら、これが自己表現である。この自己表現が、表現者として一人前になるためには、必須である。
 書いて自己を表現しようとすれば、自然に、自己そのものも芳醇なものになっていく。
野花を見ても、その美しさを言葉で表現する、あるいはしようとすることで、自然に野花に対する気持ちが豊かになる。自民党圧勝のニュースを聞いたときの思いを表現することで、政治に対する意識も深まってくる。

図 感性と信念と自己表現

よくある誤解は、「表現したい自己があっての自己表現」というものである。この誤解が、書くことにためらいのある人々を書くことから遠ざけてきたようなところがある。
自己は誰にもそれなりにある。すでに3歳頃から自己は形成されはじめるのである。そして、それを表現したい気持ちもまた誰にでもある。三歳児は反抗という形で自己を表現する。
それを書くという手段を使うことでやってみるのである。その時に、まず自分の気持ち、思いを書いてみるのである。書くことで、気持ちや思いがはっきりと形をなしてくるからである。書かないでいると、いつまでたっても自己が曖昧模糊としたままで、本当は芳醇な自己をもっていながら、それに気がつかないままになってしまう。

●読み手を意識すること
3つ目は、読み手意識である。
書くことは自己表現ではある。自分を外に出すことが大事である。ではなんのために。
それは、一つは、自分自身のためである。自分の気持ちや思いをはっきりさせるため、さらに論理力を鍛えるためである。
もう一つは、読み手への発信である。書くことに限らないが、表現は、結果として自分以外の誰かに届くことも前提にすることになる。
著名作家のメモ書きや執筆日誌が後世になって発見され公開されることになる。だから、あなたの日記も読み手を想定して書くようにとまでは言うつもりはない。
読み手を意識して書くのは、書く内容の質を高めるためと、表現効果を高める技法を高めるためとである。
いつまでもけんちゃんの絵日記ではだめ、自分を出すようにという話はした。その際に、誰に対して自分を表現するかを意識してみると、さらに、その内容にも表現の仕方にも磨きがかかる。
これは、自分を他人との関係の中で相対化すると言ってもよい。あるいは、自分の気持ちや思いをより社会的な文脈の中に位置づけるためと言ってもよい。
最初は、隣の友達を意識して書けばよい。それを時折、世の中一般や子供を読み手にしてみる。
今、認知心理学の授業で、学生に、中高校生用の認知心理学用語解説集を作らせる課題を与えている。あえて「中高校生」と読み手を限定することで、読み手によって表現内容や表現の仕方を変えることの大切さを実感してもらいたいとの趣旨である。学生の動機づけを高めるために、HPでも公開している。

コラム「認知心理学の用語を中高校生用に解説する」***
比較的よく知られている用語「****」を学生が解説したものを挙げてみる。「具体例を挙がる」「日常用語で解説する」「たとえを活用する」とよいことを指示してある。なお、ビジュアル表現は今回は使わないことにした。
以下、「アイコニック・メモリ(iconic memory)」を3人の学生が解説したものを紹介する。どれがベストの解説か。

○HA君の解説
 友達と話をしている時に、全く意味のわからない単語が出てきたらどうしますか?大抵の場合、その単語を鸚鵡返しにして意味を尋ねると思います。考えてみると不思議な事で、どうして意味も分からない単語を喋る事が出来るのでしょう。
 私たちは、ほんの短い間であれば、色や音などの外部からの刺激を、意味も何も関係なくそのままの形で自分の中に留めておく事ができるのです。これを認知心理学では「感覚記憶」と呼んでいます。アイコニック・メモリーは、視覚情報の感覚記憶です。
 スパーリング(1960)が行った実験の中で、いくつかの意味の無い文字列をごく短時間被験者に見せてその直後に復唱させたところ、一部の文字だけ復唱させる方が、全部の文字を復唱させるよりも正解率が高い事が分かりました。これは、全部の文字を復唱する場合、復唱している間にどんどん文字を忘れていってしまう事を示しています。更に、文字を見せてから復唱させるまでの間の時間が0.5秒を超えると両者の正解率に差が無くなる事が分かり、この事からアイコニック・メモリーは1秒以内に消えてしまうものである事が明らかになりました。

○PK君の解説
 アイコニックメモリーとは、感覚記憶(知覚された情報が短期記憶として次の処理を行うため選択されるまでの間、一時的にその情報を保存しておくこと。視覚、聴覚、触覚、嗅覚など、各感覚ごとに保存様式は異なっている。)のうちの、視覚情報(目から入ってくる情報)に関するもののことであり、容量は大きいのだが保存される時間が短く、約500ミリ秒しか保存できないといわれている。また、聴覚的な情報(耳から入ってくる情報)はエコイックメモリー(聴覚的感覚記憶)といい、処理容量は小さいのだが、保存時間がアイコニックメモリーより長く、約4秒から5秒の保存が可能であるとされている。これらの保存された情報がアイコンと呼ばれている。しかしこのように一瞬で消えてしまう情報でも私たちは、興味を引くものには眼を向けるし、その結果、注意をむけられた一握りの情報だけが短期記憶として保存される。
 これはナイサー(Neisser,U)による用語で、スパーリングは視覚的情報貯蔵(visual information storage)と呼んだ。

○YM君の解説
 記憶には大きくみて短期記憶と長期記憶があります。短期記憶をつかさどるのは、アイコニックメモリとワーキングメモリという2つのメモリです。見たり聞いたりしたものは、そのままの生の記憶として、アイコニックメモリにはいります。しかし、ここに入った記憶は、数百ミリ秒という、一桁以下の短い時間しか貯蔵できません。これは次々に新しい事象が目・耳・鼻・口・皮膚といった五感を通じて入ってくるので、長く貯蔵する必要のないものが多く、記憶内容はすぐ次々に揮発することが必要だからです。なので、アイコニックメモリはとてもこわれやすいものであるということができます。ここが強い人は、一瞬見たものの細部を言い当てられます。この、アイコニックメモリという考え方は、スパーリングという人が、実験をして、1960年に打ち出したものです。スパーリングの実験では、観察者へ、短い時間に、3〜16字で構成されている英数字が、提示されます。そして観察者はその後、提示された、目に見える表示の中の、文字の部分集合(3つか4つの連続した文字)を特定する報告を行います。この実験によって、スパーリングは、短い間隔の追提示において、提示された文字の全体から、何の関連もなく無作為に思い出すよりも、このように部分集合的に思い出す方法の方が、観察者はものごとをよく覚えているのだということを明らかにしました。この記憶が、アイコニックメモリです。
*********

 
 実は、大学に入るまで、学生の書くものは、試験の答案はもとより、感想文にしても研究レポートにしても、先生が読み手である。ひたすら、先生のためだけの表現をしてきたのである。そこから解き放されて、もっと広く、社会に向けて自己表現を展開していくことが学生には必須である。

●外的制約を課す
最後は、書くに当たって、字数、タイトル、図表の有無、締切など、外的な制約を課すことも大事である。
制約があってはじめて内容の厳しい精選ができる。書く前にこうした制約を自分に課すのである。自分はこれまで、依頼されたら、かなり無理そうな内容であっても、ともかく引き受けて頑張って書いてきた。それがよかったと思っている。
表現はそれが頭の中に留まっている限り、自由奔放に展開される。そういう一時期が表現には必要であるが、それにまかせていては、いつまでたっても、まとまった表現として具現化しない。400字で明日までという制約が課せられて、ようやく表現が形になる。
一番のおすすめは、新聞や雑誌などへの投稿である。もっと大規模になると、各種懸賞論文などへの応募もある。
なお、今年の総合科目で出した試験問題は、「21世紀の知的挑戦のための教育的課題」というタイトルで、新聞の論説欄に原稿を求められたら、という前提で1500字程度で書け、というものであった。

3.4 文章作成環境が格段に良くなった

●「原稿用紙」はまもなく死語
 25年前頃、論文執筆のために、図に示すような大量の400字詰の原稿用紙を自分用に作成した。その残骸がまだ研究室に大量に残っている。ワープロで原稿を書くようになってからは、まったく使用していない。

図 400字詰原稿用紙のサンプル

 原稿用紙こそ使用しないものの、昔の習慣とは恐ろしいもので、今でも、「原稿用紙何枚」という換算の仕方を使っている。たとえば、自分の感覚として、「原稿用紙10枚なら軽い」「原稿用紙20枚はややきつい」、本となると、だいたい原稿用紙300枚が目安という具合である。
最近増えているのは、「10000字でお願いします」のたぐいである。ただちに、原稿用紙25枚、うーん、ちょっとしんどいなー、となる。
それでも、さすがに、最近は、ワードの標準仕様が単位になりつつある。この原稿は、1行30文字、1頁38行で書いているが、10000字だと、これで何頁か、と考えるようになってきている。
不思議に、原稿用紙25枚だと、うーんとなるが、ワードの標準仕様だと、8.8頁とぐっと数値が減るので、これならなんとかなるかなー、と考えてしまうことが多い。馬鹿げたこととは思うが、数値感覚とはこんなものである。
いずれにしても、あと5年もすれば、「原稿用紙」という言葉は死語になっているであろう。

●ワープロがもたらしてくれたこと
27年前の1978年東芝の森健一氏のグループがはじめて今のワープロの原型になるものを製作して世に出した。筆者36歳の時である。もちろん、当時は100万円以上の高額機器で手が届かない。しかたなく、タブレット入力式のコマスという、少しはワープロ機能が組み込んであった電子タイプライターのようなものを使って、学位論文を執筆した。
ワープロが自分のまわりで一気に普及したのは、それから5年後くらいである。
英文タイプが打てるようになっていたので、ローマ字入力で日本語文章を作成した。これは実に楽しかった。ミスタイプしてもカーソルを戻して打ち直せばよい。段落の入れ替えも、カット&ペーストで一瞬のうちにできてしまう。
なによりうれしいかったのは、原稿をかく前の構想段階。いつもはここであれこれ逡巡したり、あーでもない、そして、あれこれ参考資料をぱらぱらめくりしたりしながら、悩んだりするのだが、これがワープロの画面に思いつきや資料をどんどん打ち込んでいくうちに、自然に構想が形になってくるのである。構想のかなり初期のうちから、進歩感をもって原稿の執筆ができるようになってきたのである。
もっともコラムのような問題もあるようだが。

コラム「思考の想起固定化の問題」*********
  原稿書きや研究の構想を練っている段階では、論理的思考よりは、連想思考のほうが大事である。連想思考は、だいたいは、頭の中で展開される。あっちに飛んだり、まったく同じところを堂々巡りをしたりで、とりとめがない。
ワープロが出てきて困ったことは、こうした連想思考をワープロを目の前にしないとやらなくなってしまったことである。形にならない頭の中での連想思考より、ワープロにどんどん打ち込んで思いを固定していけば、いずれそれらが活かせるという気持ちが強くなる。
悪いことではないのだが、目に見えるものに思考が固着してしまい、発想が自由奔放に展開しなくなってしまうのである。
時にはパソコンを離れて、自由に連想を楽しむことも大事である。
************

 
●自己表現の場が広がった
webで誰もが簡単に情報発信者になれる時代になった。本当に驚きである。小学生でも自分のHPを作成して公開している。自分もアクセス数10万を超えたHPを公開している。
そして、今、ブログ。自分ではやっていないが、すでの膨大な数のブログが公開されているらしい。話題のブログ、ベストテンなどもある。
情報発信環境、さらには自己表現の発信環境がこのように格段に良くしてくれた技術者には心から感謝しておきたい。あとは、これをどう活かしていくかである。
 


母は直情的で、---

2020-06-16 | 認知心理学
母は直情的で
まっすぐな人間だった。
自分が「こう」と思ったら「こう」で、それがまちがっているかどうかは関係なかった。
その思い込みに理屈はなかったけれど、確固たる信念はあった。
(永田淳「文芸春秋7月号)



1章 記憶の衰えと馴染むーー記憶力」認知と学習の心理学より

2020-06-16 | 認知心理学
認知と学習の心理学 知の現場からの学びのガイド /培風館/海保博之


総合評価 3.00 (1件)
1,760円メーカー: 培風館 発売日


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05/10。27

1章 記憶の衰えと馴染むーー記憶力

1.1 講義中の記憶障害に悩まされる
●一部しか思い出せない
●名前が思い出せない

1.2 ぼけに対応する
●認知症にはなりたくない
●ぼけに対応する

1.3 高齢者は結晶性知能で勝負する
●2つの知能
●一度覚えたことは忘れない
●高齢者の持っている暗黙知を活用しよう
●処理速度が落ちるので要注意
●高齢者は抑制が効かない

1.4 覚えられない
●覚える力も低下する
●さらにこんな記銘力の低下がある
●マクロ情報は大丈夫





1章 記憶の衰えと馴染む

1.1 講義中の記憶障害に悩まされる

●一部しか思い出せない
講義ではよく板書をする。「意識、英語でーー」と黒板に書こうとすると、最初の3文字conくらいは出てくるが、あとが続かない。「おせん」の「お」を漢字で書こうとすると、さんずいだけは書けるが、右のつくり(旁)のほうが出てこない。
いずれも部分再生現象である。誰にもいつでも起こるが、加齢とともに頻度は確実に増える。学生には、講義の開始時にこうしたことが起こるかもしれないのでお許しを、そしてできればお助けを、とここ5年くらいはあらかじめ宣言することにしている。しかし、学生はあまり教えてくれないので、最近では、電子辞書をかかさず教室に持っていくようにしている。
講義では、つい余計な事をしゃべってしまうことが多い。話しているうちに、どんどん余計な事が思い出されてしまうので、あらかじめ準備してないことも話してしまう。それが講義をする自分の楽しみでもあるし、聞いている学生諸君のほうも、そんな話しのほうにむしろ関心を持ってくれることもあるので、こうしたぶざまなことになってしまうリスクはあるが、やめられない。

●名前が思い出せない
 もう一つ、授業に関連して困っていること。それは、学生の名前が覚えられないことである。
名前だけではない。場所名、物名など固有名詞が思い出せなくなると、まぎれもなく高齢者の仲間入りである。
1学期も終わり頃、ようやく学生の顔と名前が一致した頃、夏休み。2か月間の休みが終えて新学期。さすがに顔だけは馴染みのある学生がそろうが、肝心の名前が出こない。出てきても、別の学生の名前だったりしてしまう。
家では、家内も同じような状態なので、2人して、「あれそ
れこれ」会話になってしまうが、いつものことなので、それでとりたてて不便は感じない。
たとえば、「ほら、あの、自衛隊で切腹して死んだ作家の本で、
、なんとかの宴という本、どこにあるかなー」「あーあの本
ね。なんとかの宴ではなくて、宴のなんとかじゃなかったかなー。
えーっと、そうそう、その作家の名前、東海道の駅の名前にあったよね!」 そして、ややしばらくして、もう探すのを忘れた頃に「三島由紀夫の“宴のあと”」がふっとした拍子に思い出す。
喉まで出かかる現象(ど忘れ)である。
肝心の固有名詞は出てこないが、その周辺的な事柄は結構思い出す。よく知っているという感じが強くあるので、思い出せないと残尿感にも似た気持ちの悪さを伴う。

コラム「漢字のど忘れ対策」****************
漢字について自分で実行しているど忘れ対策は、以下のようなことである。ワープロを使うようになってかなりひどい状態になっている。
「ど忘れ状態に入ってしまった時の対策」
○思い出せることをどんどん書き出してみる
○一時的に思い出すのをやめる
「日常的など忘れ対策」
○画数の多い漢字は、細部まで正確に書いて覚える
○熟語で覚える
○手書きの機会を増やす
****************

1.2 ぼけに対応する

●認知症にはなりたくない
高齢者の記憶の衰えにまつわる自分の体験を2つ紹介してみた。記憶は、知性(認知機能)の中核である。これがやられると、知性全体の働きがおぼつかなくなる。
新しい名称として一般に使われるようになってきた認知症も、主訴になるのは、記憶障害である。家族の名前が思い出せない、食べたことを忘れてしまう、外出すると自分の家に戻れないなどなど。
その恐ろしさは、想像するだに恐ろしい。脳機能の障害であることはわかっているから、いずれそれなりの治療方法もみつかるはずであるが、今のところどうにもならない。

●ぼけに対応する
認知症は困るが、普通にぼけてもそれほど仕事に支障をきたすわけではない。衰えてきた能力をカバーする方策があれこれあるからである。
一つは、外部の記憶支援の方策を活用すること。
これは誰もがそれと意識せずともおこなっている、紙やノートに書く、整理の仕方を工夫するなども、これである。最近では、電子辞書やインターネットも加わった。「宴」と「自衛隊」と「作家」くらいを検索システムに打ち込めば、あっさりと「三島由紀夫」が出てくる。
2つは、やはりそれなりの認知的な努力と工夫である。
記憶の衰えを自覚したら、それを補う努力と工夫が必要である。無駄な努力や工夫もあることはある。しかし、最初から無駄と思い込んでしまって何もしないのは、ますます状況を悪くする。
記憶するための体験的なノウハウは持っているのだから、それをフル稼働させるのである。
頭は使えば使うほど、それも酷使すればするほど、良くなる。今はやりの小学生がやるような計算訓練や頭の訓練でもよい。自叙伝の執筆でもよい。ともかく頭を使うことである。
さらには、記憶力アップの工夫をあれこれしてみる。学生の顔と名前が一致しなくなったら、写真を撮らせてもらって覚える。折りにふれて思い出してみる。書いて覚える。場合には、語呂合わせ、意味づけなどの暗記術を使ってみる。

****コラム「暗記術」
 2005年7月4日、原口證氏(59)が円周率83431桁の記憶を達成し、ギネスブックに載った。
円周率は、無限小数であることから、こうした暗記術の素材としてはもってこいのところがある。かつては、友寄英哲氏の4万桁の暗記がよく知られていた。
それにしても、こんなことをして何の得になるの、という疑問はつきまとうが、知的大道芸の一つと考えれ、それはそれで意味があるのだと思う。
自分では、円周率記憶術を携帯電話の番号を覚えるのに使っている。「縄で肉をしばって、婿が組に届ける」である。名詞部分が2桁の数字列の読みに対応するものとなっている。円周率記憶では、
これを延々とやるのである。
************

1.3 高齢者は結晶性知能で勝負する

●2つの知能
知能がどのような因子で構成されたいるかについては、いろいろの説があるが、最近よく使われているのが、結晶性知能と流動性知能という分類である。
結晶性知能とは、知識にかかわる知能、流動性知能とは課題解決にかかわる知能である。
 知能のこの分類が便利なのは、両者が比較的独立していて、たとえば、高齢者の知能は、流動性知能に関しては劣化しているものの、結晶性知能のほうは、特別な記憶障害にでもならない限りそれほど劣化しない、というような話しができるところにある。

●一度覚えたことは忘れない
知能に関しては結晶性知能は高齢者でもそれほど劣化しないが、さらに、加齢とはほとんど無関係に高い水準に維持されている記憶の領域もある。
たとえば、歩いたり自転車に乗ったりといった運動技能、あるいは、読み書きそろばんといった認知技能は、身体の機能障害を起こさない限り、かなり高齢になっても維持されている。
こうした運動技能や認知技能を支えている知識が、手続き的知識と呼ばれている。
手続き的知識の習得には、膨大な練習時間が必要とされる。しかし、ひとたび一定の段階まで出来るようになれば、その巧拙こそあれ、あとはほとんど一生できるのが普通である。シニアテニス大会などをのぞいてみると、びっくりするほど高齢の方々が楽しそうにゲームをしている。
手続き的知識の特徴は、最初こそ、あれこれと言語的な指示や手取り足取りによる教授が必要であるが、次第にそうした教授内容を意識せずとも、むりむだむらなく(3む)できるようになることである。これが知識の暗黙知化である。
 こうした暗黙知に支えられた技能のレパートリをどれだけ若いうちに身につけたかが、老後の生活の豊かさを左右するといってもよいようなところがある。

●高齢者の持っている暗黙知を活用しよう
ここでやや話しが大いに飛ぶことになるが、リストラや団塊世代の退職の話題とからめて、高齢者の活用について一言。
うれしいことに、中高年者を対象としたリストラの嵐が吹きすさんだ5年前とは少しずつ情勢が変わってきたようだ。団塊世代の大量一斉退職の時期を迎えて、企業では、退職年令に近い高齢者の力量がようやくわかってきたらしい。なんとかもう少し企業にとどまってくれないかと言い出すようになってきた。高齢者がその企業の中で長年にわたり蓄えてきた暗黙知をもう少し活かしてほしいというのである。
暗黙知は、暗黙なので、言葉ではっきりと表現できないところがある。技能にはマニュアルとして残せる部分と、いわく言い難しの暗黙知の部分とがある。その暗黙知の部分はその人がいなくなると企業の現場からもなくってしまう。それは困るというのである。

コラム「現場力が落ちてきた!」****
 日経ビジネス(04年3月8日号)による「製造業の工場長227人を対象にした調査」の一端を紹介してみる。
○「現場の力が落ちていると感じている」かと聞かれて
  そう思うと答えたた割合が 54。2%。
その背景としては
○「技術の伝承や教育体制の不備で、働く人に充分な知識や経験を  与えられていない」を指摘する割合が 71。7%
*************************

工場火災、石油タンク火災など、信じられないような「想定内」工場災害が多発しているだけに、企業としては事は深刻である。
暗黙知の継承は、OJT(on the job trainng)しかない。その人と一緒に仕事しながら、見よう見まねで覚えていくしかない。その人がいなくなったら困る。そのことに企業が気が付いたのである。
 現場力の再構築が焦眉の急であるとして、作家で元旋盤工の小関智弘氏は次のような味わい深い言説を披露している。
 「大量生産の時代は、人間は”マイナス要因”でした。まあ、人間はなまけたがるし、不平は言うし、おしゃか(不良品)は出すし、できるだけ排除した方がいい。ーーーところが、多品種少量ですぐれた製品をつくるには人間の技と知恵が不可欠です。人間を”プラス要因”としてとらえ直す。町工場が持っていた”現場力”を見直す動きが、大企業の現場にも出てきています。」(朝日新聞朝刊、05年1月12日付け)

●処理速度が落ちるので要注意
高齢者の交通事故がどんどん増えている。若い頃に身につけた運転技能である。いつまでも運転できるはずとの思いは強い。この思いは、前述したように心理学的には間違いではない。しかし今度は、「ただし」と言う話しをしなければならない。
高齢になっても結晶性知能はあまり劣化しないのに対して、流動性知能は低下してくることはよく知られた事実である。
ところが最近の研究によると(ディアリ「知能」岩波書店の基づく)、これら2つの知能よりももっと根源に情報の処理速度の因子があるらしいことがわかってきたのである。そして、高齢者は、この情報処理速度が遅くなるがゆえに、知能全体、とりわけスピードを要求される流動性知能でより得点が低くなるらしいということがわかってきたのである。
言われてみれば当たり前のこの事実は、2つの点で重要である。
一つは、時間さえかけることができるなら、高齢者の知能劣化という事実は消えてしまうかもしれないということ。じっくりと時間をかけて解いてよいなら、問題解決でも高齢者でも若者に負けないくらいの力を発揮できるのかもしれないのである。
もう一つは、逆に、即応が要求される状況では、高齢者は能力的に太刀打ちできないということ。瞬間の判断と動作が随所で求められる車の運転のような状況は、高齢者にとっては非常にリスクが高いことになる。
この点を自覚できれば、高齢者も能力に応じた生活を楽しむことができるし、そうすべきだと思う。

  • 高齢者は抑制が効かない
高齢者の認知特性に関してもう一つ。2005年9月に開かれた慶応大学での日本心理学会のワークショップで、都立老人総合研究所の権藤先生からお聞きした話し。
それは高齢者の認知特性にはもう一つ、抑制力が下がってくるということである。何でも取り込んでしまったり、あれこれ考えてしまったり、思い付くものをどんどん口に出してしまう傾向があるらしいのである。
体験的には納得しがたいところがあるが、まわりの高齢者を見ていると思い当たるところがある。たとえば、
  • しゃべりはじめると止まらない
  • 用語や名前などの混同が起こす
  • 行動する時にあれこれやってしまう



1.4 覚えられない

●覚える力も低下する
記憶には、覚え込む(記銘、符号化)と蓄えておく(貯蔵)と思い出す(想起、脱符号化)の3つの局面がある。これが三位一体で機能しているときに、記憶が十全に活動していることになる。
これまでは、もっぱら加齢に伴う想起機能の劣化の話しをしてきたが、さらにもう一つの難敵、記銘力の劣化とも馴染まなければならないという話しをここでは取りあげなければならない。
TVも新聞も比較的よく見たり読んだりする。時勢に遅れているという不安を感じることはあまりないのだが、それでもいつ頃からか、ニュータレントの名前はもとより顔も昔ほど鮮明には記銘できなくなってきた。音楽などは、いつ聞いても耳に新しい。
前向性健忘という記憶障害がある。たった今見聞きしたことをただちに忘れてしまう病気である。したがって、与えられる情報はいつもいつも新情報ということになる。
筆者の加齢に伴う記銘力の劣化といっても、そこまでひどくはならないが、加齢に伴って新しいことを覚える力が落ちるのは、筆者のような知識を売り物にして生活している人間にとってはつらいものがある。

●さらにこんな記銘力の低下がある
 さらに、個人的な記銘力低下の事例をいくつか。
・電話番号を耳で聞いたあとメモしようとしても、うまくすべて の数字を再生できない。
・本を読んでいて、「前者はーー」と書かれると、もう一度1,2行戻って対応を確認しないとだめ。
・数品の買い物の合計の暗算ができない。
・TVのクイズで時間制限のあるものは、問題を理解することからして間に合わない。
いずれも、一時的な記憶(短期記憶)、つまり高々20秒程度の間呈示される情報の記憶の性能が落ちているためである。

●マクロ情報は大丈夫
一時的な記銘力の低下は確実であるが、しかし一方では、たとえば、本を読むことを考えてみると、記銘力の低下を補う機能がきちんと働いていることも実感できる。
本を読むには、本に書かれている内容を次々と取り込むことになる。その表面的な字義通りの情報の取り込みの効率は確かに悪くなっている。
しかし、それを補うかのような機能が間違いなく働いている。
その一つは、連想機能である。本の中の一つの言葉、文、あるいは、マクロな内容、いずれについても、関連知識が刺激されて連想が活発に起こり、字義通りの意味をはるかに越えた世界を味わうことができる。充分な関連知識のない若者にはこれは無理である。
もう一つは、マクロ情報についての取り込みと処理の効率は、かなり良いということである。
本で言うなら、概要、全体構成、主張のポイントなどについては、そうした情報を処理するノウハウも知識が豊富なので、それほど苦労しない。
たとえば、目次をじっとながめれば、概要や構成はつかめる。はじめにと終わりにや要約をしっかり読むと、著者の主張や言おうとすることがつかめる。いずれも、関連知識が豊富な高齢者ならではの認知方略の発揮である。





 

認知と学習の心理学——知の風景 はじめに

2020-06-15 | 認知心理学
古ーい本の草稿が見つかりましたので、
1章ずつ連載していきます。
なお、完全原稿ではありません。
図表もないし、コラムなどは本文なしということもあります。
あくまで草稿ということでざっと読みしてください。

05/8/11海保  

培風館 認知と学習の心理学——知の風景

はじめに

  • 知の現場で働いて40年
認知の心理学、認知の科学の研究者のはしくれとして40年働いてきた。
最初は、文字認識の研究から入り、漢字情報処理の研究を経て、実験室の外に出て、取扱説明書をわかりやすくする研究、インタフェースの研究、さらにヒューマンエラー研究を行ってきた。
基礎研究からはじめて実践研究へという研究者としての一つの典型的な歩みであった。
大げさな言い方になるが、これは、知の生成の現場である。
また、24歳で徳島大学の助手として働かせてもらって以来、大学での教育にも携わってきた。それは、まさに知の消費と流通の現場であった。
こうした個人的な知的体験の中味を紹介しながら、そこから発展して自由自在に、知をめぐって論じたり、考えてみたりすることが、本書の主旨である。
テキストではない。個人的な思いを込めた「認知と学習の心理学」にしてみたつもりである。

●誰に読んでもらうか
読者対象として想定したのは、大学2年生くらい、あるいは、認知科学や認知心理学ってどんなものとの興味を抱いている隣の専門家の方々である。
そうした読者が、本書を読んで、みずからの知と、社会における知についての関心を深めていただき、本シリーズの2部で構想されているより専門的でオーソドックスな認知心理学および学習心理学の学びへと進んでいただければ、言うことなしである。

2005年8月11日
******

  • 本書のねらい
 知の包括的な科学である認知科学が登場してから半世紀あまりが過ぎた。この間、知的マシーンとも称せられるコンピュータの驚異的な進化に引きづられて、人の知について研究してきた認知心理学も、研究上のドグマ(立場)を幾度か変えながらも、膨大な知を蓄積してきた。
本書では、認知科学と認知心理学とをベースに、今社会で起こっている知をめぐる風景の変貌について自在に論じてみたい。
とやや大げさな言い方になったが、自分の知的な体験をベースに縦横に「知」について論じてみたい。

このことによって、本シリーズでの本書の位置づけにふさわしい「認知と学習の心理学」への招待にもなるし、また、そこで蓄積されてきた知の活用の例示にもなるのではないかと思う。

認知と学習の心理学」連載はじまり

2020-06-14 | 認知心理学
古ーい本の草稿が見つかりましたので、
1章ずつ連載していきます。
なお、完全原稿ではありません。
図表もないし、コラムなどは本文なしということもあります。
あくまで草稿ということでざっと読みしてください。


05/11/20海保



1章 記憶の衰えと馴染むーー記憶力
●講義中の記憶障害に悩まされる
●一部しか思い出せない
  • 名前が思い出せない

1.2 ぼけに対応する
●認知症にはなりたくない
  • ぼけに対応する

1.3 高齢者は結晶性知能で勝負する
  • 2つの知能
●一度覚えたことは忘れない
●高齢者の持っている暗黙知を活用しよう
●処理速度が落ちるので要注意
  • 高齢者は抑制が効かない

1.4 覚えられない
●覚える力も低下する
●さらにこんな記銘力の低下がある
  • マクロ情報は大丈夫

2章 ミスとともにむーーミス耐性力 11p

2.1 ミスだらけの毎日
  • ドジ日誌
●ドジ日誌を書いてよかったこと

2.2 魔の一瞬
●ヒヤリハット
●魔の一瞬を作り出すもの

2.3 ミスしながらいきいき生きる
●ミスは成功のもと
●ミスが成功をもたらす
●考えどころその1「失敗についての知識を豊富に」
●考えどころその2「強すぎる正解志向は要注意」
●考えどころその3「失敗と共存する」
●考えどころその4「失敗体験を通して失敗に強くなる」
●考えどころその5「失敗を”まあ、いいかにする”心の訓練をする
●失敗に強い人、弱い人
***

3章 書くーー情報生成力

3.1 書くのが好き
●書けなくて七転八倒
●書くのが大好き人間に大変身

3.2 書くのがつらいのはどうして
●書くのは面倒
●思いの世界と表現の世界とのギャップが大きい
●書くことを制約するリテラシーが面倒
  • あらたまったお膳立てが必要

3.3 書くことが好きになるために
●書けなくとも困らない?
●ともかく書くこと
●自分を出す
●読み手を意識すること
●外的制約を課す

3.4 文章作成環境が格段に良くなった
●「原稿用紙」はまもなく死語
●ワープロがもたらしてくれたこと
  • 自己表現の場が広がった

4章 コンピュータで仕事をするーー知的道具活用力

4.1 コンピュータとともに40年

●ドッグイヤで進歩するコンピュータとともに
●コンピュータにはまる
●何が何やらわけがわからない

4.2 インタフェース研究
●認知工学とは
●インタフェースにおけるわかりやすさとは

4.3 メールを開けるのが楽しみ
●まずはメールを開ける
●メールリテラシー
●ボーダレス性
●瞬時性と応答性
●ビジュアル性
●保存・検索性

5章 研究するーー創造力
5.1 こんな研究をしてきた
●基礎研究からスタート
●基礎研究はなぜ大事なのか
●基礎研究から応用研究へ
  • 応用研究だけはだめ

5.2 知の生産をする力
  • 発想力
●企画力
●実行力
●解析力
●表現力
******
6章 本を作るーー情報編集力

  • 43冊の本を作ってきた
●本作りの内容
●本ができるまで
6.2 本作りは楽しい
●論文を書くのとの違い
●表現上の工夫をするのが一番楽しい
●あれこれ構想をめぐらすのも楽しい

6.3 本つくりも苦労はある
●原稿が集まらない
●バグが消えない

6.4本が読まれない
●本が読まれない
●知識の体系度が低下する
●本を読まないと頭が馬鹿になる

  • ******
7章 大学で教えるーープレゼン力   p11

7.1 大学で教えて40年
●授業遍歴
  • 大学の授業

7.2 講義をする

●講義はしんどい
●内容と方法と熱意
●授業の技術
●熱意

7.3 授業を評価する
●授業評価花盛り
●授業評価をしてもらってわかったこと
●教員管理用の授業評価は危険
●生徒の反応を絶えずモニターする

7.4 演習と実習で鍛える
●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
  • 実習で「社会」を体験する

7.5 大学生の学習状況
●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
●学習への動機づけの低さ

8章 コンピュータ・ゲームで楽しむーー知的娯楽力

8.1 ひそかな楽しみ
●一人こっそりマージャンゲーム
●昔覚えた遊びの復活

8.2 手軽さ
●遊ぶのに努力がいる
●遊びの面倒さこそ大事
●コンピュータゲームは子供にさせるな

8.3 即応性
●反応があるのはうれしい
  • 人間になじむ即応

9章 テニスをするーーー運動技能力

9.1 テニス歴40年
●職住近接がテニスをする余裕を
●楽しむだけのテニス
  •  練習嫌い
●上達しない
●うまい人ほど練習する

  •  なぜ練習が嫌いなのか
●練習すれば上達する
●競争のほうが楽しい
●練習そのものが嫌い

  •  それでもうまくなりたい
●知は力なり
●見よう見まね
●ずるさで勝負

 


10章 ドライブするーー安全保持力

10.1 三大趣味の最後はドライブ

●中年になってはじめてマイカー
●ドライブが趣味
●行動範囲が広がるのは楽しい

10.2 ドライブで事故をしないコツ

●これほど道路が整備されているとは
●魔の一瞬
●危険を予知する
●スピードを出さない
●注意を自分で管理する
●注意特性から人を分類してみる
●上達する
●仕掛けを知る
  • 頭の使い方の上達

8.5  まだあるコンピュータゲームに熱中させるもの
●達成感
●挑戦心
  • 集中性
  • コントロール感

**********

9章 テニスをするーーー運動力

9.1 テニス歴40年
●職住近接がテニスをする余裕を
●楽しむだけのテニス
  •  練習嫌い
●上達しない
●うまい人ほど練習する

  •  なぜ練習が嫌いなのか
●練習すれば上達する
●競争のほうが楽しい
●練習そのものが嫌い

  •  それでもうまくなりたい
●知は力なり
●見よう見まね
●ずるさで勝負





学生の知的生活のパワーアップ術(古ーい講演要旨)

2020-06-07 | 認知心理学

02/12/5



      学生の知的生活のパワーアップ術

        ---認知心理学からの提言---



       海保博之(筑波大学「心理学系」)

概要**************************************************************

 情報化社会での知的生活をパワーアップするには、頭の中にある内的資源と、頭の外にある外的資源とのバランスのとれた活用が鍵となる。インターネットの活用に見られるように、外的資源の爆発的な増加はこのバランスを著しく破壊し、そのために知的生活の混乱がみられるのが現状である。

 本講演では、情報化社会における知的生活の中核になっている情報収集力、情報編集力、情報表現力の3つの力をつけるために、内的、外的な知的資源をどのように活用すればよいかを軸に認知心理学の立場から考えてみる。

*****************************************************************



序 コンピュータが引き起こした知的革命をめぐって



●有史以来、外部の知的資源を爆発的に増加させたことが、3度あった。

1)1度目は、文字の考案。紀元前3千年頃,「楔(くさび)型文字」である。備忘官(王家の家系や業績を記憶する人)が不要になり、情報の固定化、記録ができるようになった。

2)2度目は、活版印刷の発明。15世紀中頃、グーテンベルクの発明した活版印刷である。情報(当時は聖書)の共有範囲が爆発的に拡大した。

3)3度目は、1937年、コンピュータ・ABCマシーンの開発である。それ以来ほぼ半世紀、知的環境を革命的に激変させた。



●コンピュータがもたらした現在の知的環境の3つの変化 

1)誰もが情報発信者に

  小学生でもインターネット上のHPで不特定多数に発信

2)仮想世界の肥大化

  仮想世界の4つの特徴

   ・現実世界の一部を拡大・強調する--編集機能の高度化

      見せたい現実だけを劇的に見せられる

   ・思惟世界を見えるようにする--情報のビジュアル化

      星の動きもシミュレーションできる

   ・多彩かつ臨場感のある間接経験を提供する--間接経験の豊潤化

      けんかも仮想世界で

   ・時間的・空間的な制約が緩い--制約の緩和化

      いつでもどこでも

3)情報の保存、流通の大規模・低コスト化

  「ギガ」(10億)単位での情報保存と流通がお茶の間に

●コンピュータの3つの知的支援機能が誰でもいつでも使える環境になった

1)情報収集・蓄積支援  例 ネット検索・256MBのフラッシュ・メモり

2)情報編集支援  例 コピー&ペースト

3)情報表現支援  例 パワーポイント



●こうした知的状況を踏まえて、本講演では、3つのことを基本原則とした、知的生活のパワーアップ術について提言してみる。



基本原則1「頭の内と外の往復を活発に」

       内的資源と外的資源、内化と外化のバランスのあるやりとり

       実習 円周率の記憶---頭だけを使った記憶術

           3.14159265358973238---

基本原則2「心の身体性にも配慮を」

       シンボル操作に加えて身体に作り込まれた知も大事

       実習 空書--からだ(外化/内化機関)の記憶

          ・カタカナの「イ」と「ニ」でできている漢字は?

          ・「イ」と「ロ」と「ホ」でできている漢字は?

       例 宮大工・西岡常一氏の箴言 

基本原則3「強靱な心より”しなやかな心”作りを」

       心のくせ(法則性)にかなった科学的なパワーアップ術を

       洗脳やエセ宗教や精神改造とは一線を画す

       ・自分で自分を知りコントロールする力(メタ認知力)を   
       ・心についての知識を豊かに

       ・自分の心を知り、そこからちょっと踏み出す

         「現在の自分」と「こうありたい自分」

          とが適度に重なるくらいのところで

*

第1 情報表現力(編集した情報を外に向かって発信する)



情報表現力には、

・自分の頭の中で、自分の気持ちと思いを表現する力(自己表現力)

・その表現を外に向かってわかりやすく表現する力(外部表現力)

の2つがある。両者は一体である。

そのために、情報をいかに収集し、いかに加工するかを考えることになる。

「先に情報表現ありき」である。情報爆発の時代に情報に流されないためには、このことの認識は重要である。



●提言1「感性と信念に磨きをかける」ーーー内部表現力を高める

自己表現が求められる時代になった。ということは、自己作りが大事ということになる。豊潤な自己作りには、感性磨きと信念磨きがポイント。



○感性を磨く

感性とは、気持ちを知性化したもの(感情を、イメージや言葉でシンボル化すること)。感性は、状況との直感的・即応的なかかわりをガイドする。

感性を磨くには

・あいまいさ耐性をつける

・知的好奇心を旺盛に

・言葉、イメージを豊富に  

○信念を磨く

信念とは、状況とかかわるための自分なりに構築した認識のためのモデル。このモデルは、状況の心理的な複雑さを減少させる。

信念を磨くには

・哲学、教養に裏打ちされたものにする

  俗流信念(例「誰からも好かれるべし」など)は人生を暗くするので要注意

・何にでも自分なりのものを

・異質の信念にふれる



●提言2「わかりやすく表現する」ーー外部表現力を高める

表現の受け手が誰で、どんな目的で、どんな状況なのかをきちんと認識した上で、次のようなことに配慮することによって、わかりやすい表現にする。

○全体概要、意味、目標を先に

 実習「目標を言わないと、わけがわらない」

○専門用語の使い方に注意する

 実習「専門用語は100の説明を一つの言葉で済ますことができる」

   「スクイズ場面」を「スクイズ」という言葉を使わないで説明する

○メリハリをつける

・見た目のまとまりと意味のまとまりを一致させる(区別化)

 実習 「kaneokuretanomu」を漢字かな混じり文で書くと

・大事なものに目がいくようにする(階層化)

 例 「文字サイズ、項番、書き出しをうまく使う」 

○ビジュアル化する  例「文書にもメリハリが必要」



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第2 情報収集力(目的にあった情報を収集する)



情報爆発の今、漫然とした情報収集は情報の海に溺れてしまうだけに終わってしまう。大事なことは、

・なんのための情報収集かをはっきりさせること

  ここで、「自己」が問われる

・頭の中にある知識からの情報収集も充分にすること





●提言3「外の情報に負けない」---外部情報の活用のコツ

web情報空間には、膨大な情報が蓄積され、誰もがそれに簡単にアクセスできるようになった。無目的に、この情報空間に入り込むと情報の海の中で埋もれてしまう。目的意識をもった情報空間との付き合いが必須である。

 例「”海保”をインターネットで検索すると」

●提言4「頭の中の知識を活性化する」---内部情報の活用のコツ

生まれてからこれまで、膨大な知識を頭の中に貯蔵してきている。この知識にも、情報収集の網をかけてみることが、”自己”表現につながる。そのためには、記憶の底に埋もれてしまっている知識を目覚めさせる(活性化)させることが必要。

○知識の活性化とは

実習「”どうきょう”を10回繰り返して言う」

  「日本で一番人口の多い市はどこ?」

○知識を活性化するための方策のいくつか

・連想マップを作る

 実習「情報から連想することを絵にすると」

・人と一緒に

 例「ブレーンストーミング(brain storming)5つの原則」

   「批判厳禁」「質より量」「自由奔放」

    「人のアイディアとの結合」「論理性無視」

・読んだ本、記録したノートのぱらぱらめくり



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第3 情報編集力(情報を目的に応じて加工する)



目的に応じて自分なりの情報空間を作りだすのが編集力である。

料理で言うなら、素材(情報)をいかに料理(加工)するかである。素材の選別にも、料理にも、レシピに従いながらも自分なりのものを出せること、これが編集力である。



提言5「具体と抽象の往復をする」

現実(具体)に縛られると大局が見えなくなる。抽象に行き過ぎると、現実が見えなくなる。そこで、具体と抽象の間の往復をすることになる。これは、収束的思考と発散的思考をうながし、情報の編集を豊潤なものにし、さらに、創造的なものにさえする。

例1「コンセプト・ワークとプロトタイプを同時に---物作り」

例2「抽象的な話になるときは、”たとえば(例)”を随所に---説明」

例3「無理なら、適度に抽象的な世界を見せる--視覚表現」 









提言6「物語を作る」

人生至るところ物語である。レポート一つにも、自分なりのシナリオ(物語)を作り込むことで、はじめて発信するに値する情報になる。

例1 「起承転結」の作り込み

 京の五条の糸屋の娘(起)  姉は十七 妹は十五(承)

     諸国諸大名は弓矢で殺す(転)糸屋の娘は目で殺す(結)

例2 夏目漱石の「坊っちゃん」が内館牧子脚色でドラマになると

   そこには、同じ原作でも、内館氏なりの物語性がある。



おわりに

 コンピュータのユビキタス化(ubiquitous;いつでもどこでも)は今後ますます進む。情報も知的活動もどんどん外部へと移転しつつある。だからこそ、自分の知的生活を豊潤なものにするには、自己作りを心がけ、自分の内なる知識を豊かにし、内外のバランスのとれた知的活動をすることが必要となる。

 本講演ではそのために有効と思われるいくつかの提言をしてみた。



本講演に関連する海保の参考書

「連想活用術」中公新書

「説得と説明のためのプレゼンテーション」共立出版

「一目でわかる表現の心理技法」共立出版

「くたばれ、マニュアル! 書き手の錯覚、読み手の癇癪」新曜社

「自己表現力をつける」日本経済新聞社

「認知研究の技法」福村出版










注意管理不全とヒューマンエラー

2020-05-30 | 認知心理学
00/3/2 海保  心理学ワールド原稿 2000年7月号
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注意管理不全とヒューマンエラー

●はじめに
 注意には、自分でコントロールできる部分と、自分ではコントロールできない部分とがある。その隙をねらうかのようにして、注意不全は、人にエラーをさせ、時には事故を起こさせる。
 本稿では、エラー低減のための、注意の内的(自己)管理力および外的管理力を高める方策について考えてみる。
●注意特性から人を分類してみる
 注意には、持続性と1点集中性という特性がある。一定時間、所定の仕事に一定量の注意を注ぎ続けるのが持続性、一つのことに利用可能な注意量のすべてを注ぐのが一点集中性である。
 注意のこの特性に着目して、図1に示すような、人を類型化する図式を作ってみたことがある。タイプ判別のためのチェック項目も作ってみたが---「工作が好き」「ゲームが好き」など---、2つの軸ごとに、「あなたは、一点集中するほうか、それとも、あちこちと注意を拡散させるほうか」「あなたは、注意が長く続くほうか、それとも、続かないほうか」と個別に聞いてタイプ分けすることもできる。図中の数字は、そのような聞き方をしたときの、大学生50名のタイプ別の人数割合である。ちなみに、筆者は、気配り型である。
<<<<図1が入る>>>>
 注意とヒューマンエラーを考えるときにも、この類型は役立ちそうである。たとえば、
①真剣勝負型の人は、一つのことにのめり込んでしまい視野狭窄(きょうさく)   を  起こしが ち。思い込みエラーを   しがち。
②一発勝負型の人は、リスク管理がへた。   つま らない(と思った)仕事ではたる   みによるミ スをおかしがち。
③気配り型の人は、その時々の状況に左右   され て見逃しやうっかりミスをしがち。
④じっくり型の人は、即応性に欠けるので、   緊 急事態への対応が遅れがち。

 自分を知り自分なりの対応を考えること---これが注意の自己管理---は、エラーを減らすには必須である。このタイプ分けは、その一助になると思っている。

●注意管理システムを作り込む
 注意はすぐれて内的な認知資源ではあるが、ヒューマンエラーとの関係を考えるとき、注意を個人の中だけに閉じ込めて考えてしまうと、話がうさんくさくなる---とは言ってもあとでこの話をすることになるのだが---。事故が起こると、当時者の「たるみによる」うっかりミスが原因との報道がしばしばなされ、それで誰しもが納得して事は治まってしまうようなことになりがちでる。しかし、これでは、次の事故防止につながる有効な対策は生み出されないままになってしまう。注意管理をもっと「場」の中でも考えてみる必要がある。
 たとえば、前項で注意特性に着目した類型を紹介してみたが、作業をチームとして行なうようなケースでは、注意特性のタイプという点から人を作業内容に合わせて割り付ける。
 細部の詳細にわたる面倒な仕事には真剣勝負型の人を、仕事の段取りや時間管理には気配り型の人を、長時間の監視業務にはじっくり型の人を、故障診断には一発勝負型の人を割り当てるというように。
 あるいは、注意特性のタイプを考慮したメンバー構成にすることもありうる。
 さらには、作業の進行過程で、メンバーの注意状態に目を配り適切な指示や作業管理をする人を用意するといったようなこともある。
 このような、いわば、チームという「場」の中にチーム全体の注意管理を最適化するための仕掛けを組み込むことで、個人による注意の自己管理の不全を補うわけである。

●注意管理を支援する情報環境を作り込む
 もう一つの「場」は情報環境である。
<<<イラスト2をここに>>>
 情報環境に過度に注意管理支援の仕掛けを組み込むとうるさがられたり、慣れられてしまったりで、喚起機能を果たさなくなってしまう。「適度さ」についての案配に難しいところはある。

●注意の自己管理を最適化する
 再び、話しが注意の自己管理に戻る。注意は、ある程度までは、自己管理できる。集中しようと思えば集中することができる。注意力が落ちてきたら、「がんばって」注意力を高めることができる。注意にはこうした能動的な側面があるので、注意の自己管理の話が出てくることになるし、事故が起こると、自己管理不全が個人の過失責任として法律的な罪にも問われることになる。かくして、注意の自己管理力の向上が求められることになる。
 とはいっても、そのための有効な方策がそれほどあるわけではない。また限界もある。この点の認識をしっかり持たないと、「安易な」精神論か「カルト的な」自己鍛錬の話しになってしまう危険性がある。
 さて、ごく当たり前の方策の一つは、注意の特性についての知識を豊富にすることである。たとえば、「易しい課題をするときより難しい課題をするときのほうが、注意レベルは低めにする(ヤーキーズ・ドドソンの法則)」ということを知っていれば、そうした場に遭遇すればそれなりの対策を自ら工夫することができる。特定の場に固有の体験的な知識もあるし、心理学の研究から得られた普遍的な知識もある。心理学者の啓蒙的な活動が求められるところである。
 これに関連してさらに、こうした知識を実践できる形にする方策も身につける必要がある。知識は使えてこそ有効性を発揮する。そのためには、一定の訓練プログラムで教育を受けるのが一番であるが---とはいっても、注意管理に特化したプログラムの存在は寡聞にして知らないのだが---、誰もがいつでもそんな機会をもてるわけではない。日常の場で意識的な試みをすることで、知識を手続き化していくしかない。
 そのときのポイントは、今自分の注意状態がどのようになっているかをきちんととらえること(モニタリングすること)、そして、それに応じた注意資源のコントロールをすることである。
 たとえば、スピード負荷がかかっていて、「あわてている」ので---これがモニタリング--必要な要素動作を省略してしまう恐れがある。指差呼称をしながらやっていこう---これがコントロール---となればエラーも減るはずである。なお、ここで、省略エラーや指差呼称が、前述した知識になる。知識の有無、そしてそのタイミングよい運用がいかに大事かがわかる。
 筆者の場合は、車の運転時にこうしたことを心がけている。あるいは、定期講読している車の雑誌に載っている危険予知課題は必ず挑戦し、知識の活性化に務めている。

●指差呼称を使う
 注意の自己管理の最適化の決定打とも言ってもよいものが実は一つある。指差呼称である。指で指して自分のするべきことを口に出して確認する行為である。いろいろの作業現場で導入されて効果をあげている。
 注意のような内的過程は、自分の内部だけで管理するには限界がある。限界を越えると、管理不全が発生する。そこで、指を動かす行為や呼称という形で外部にだし(外化し)、注意管理をより完全なものにしようというわけである。
 なお、指差呼称には、確認以外にも、チームで仕事をしているときには情報の共有にも役立つ。仲間が今何に注意を向けているかがわかるからである。
 さらに、行為の意識化にも役立つ。慣れた行為は自動的に実行されるが、時には、ある要素行為がうっかり飛ばされてしまったり(省略エラ-)、別の類似した行為をしてしまったりする(実行エラー)ことがある。それを防ぐために一つ一つの要素行為を意識化させる契機として指差呼称を使う。

●注意の心理工学の領域を作る
 安全工学という分野がある。安全をもっぱら機械・システムにいかに技術として組み込むかを研究している。たとえば、
①多層防護  故障や事故が起こってもそ   れが拡大にないように幾層にも障壁を設け  る
②フェールセーフ(fail-safe) 故障して   もそ れを補完するものを用意しておく

 これにならって、注意の心理工学とというべき研究領域があってもよいと思っている。
 よく知られているフール・プルーフ(fool-proof)という仕掛け。大事なことをするときにはそれなりの心理的・行動的なコストが必要になるようにする仕掛けである。押しながら回さないといけないガス栓、安全装置をはずさないと打てない銃などに作り込まれている。
 こうした仕掛けが考案されたのは、人の注意と行動の信頼性の低さを工学的な技術で対処しようとしたところから生まれた。これが、注意の心理工学の一つの研究分野である。前述した情報環境の設計のところで述べたようなことも、これに入る。人の注意特性に配慮したインタフェース設計である。
 注意の心理工学のもう一つの分野は、注意の自己管理の技術化である。危なっかしい話しになりがちではあるが、「場」を限定すれば、「合理的な」技術になりうるものがありうるはずである。たとえば、集中力を高める、あるいは逆にリラックスするための各種技術は、スポーツ訓練の場で生み出され実践され効果をあげている。生理現象を援用した技術は、とりわけ有望な技術になっていくように思う。安全第一が要求される「場」でも、注意管理の技術を蓄積している。それらの有効性を実証することと理論化することとが当面の課題であろう。最終的には、注意管理を教え訓練するための教育プログラムを開発することになる。

●おわりに
 「注意1秒、怪我一生」というように、一瞬の注意管理不全がエラーや事故につながってしまう。注意に限らないが、一瞬をコントロールするのは、至難の技である。そこが一般の人の関心を引きつけるところであるし、研究者の挑戦心を刺激する。
●引用文献と参考文献
Lindsay,P.H. & Norman,D.A.1977 「情報処理 心理学入門ll注意と記憶」 サイエンス社
海保・田辺 1996 「ワードマップ・ヒュー  マンエラー---誤りからみる人と社会の深  層」 新曜社
海保博之 1998 「人はなぜ誤るのか---ヒュ  ーマンエラーの光と影」 福村出版
海保博之 1987 「パワーアップ集中術」   日本実業出版社