それにしても、最近、理解に苦しむような事件や事例が多すぎるように思いますが、どうしてでしょうか---素朴心理学による理解
最近になって多くなったかどうかは、時系列データによる統計的な吟味が必要ですが、実感としては、そうかもしれません。
そうした実感の背景には、理解できない特異なものほど、マスコミ報道が激しくなり、結果として記憶に残りやすく、また、記憶から引き出されやすいという心理的なメカニズム--利用可能性ヒューリスティックと呼ばれている---が働いているように思えます。このあたりは、心理学の一つの研究課題になっています。
それはさておくとして、特異な事件や事例に出会うと、それがなぜ起こったのかが知りたくなります。その「なぜ」は、事件や事例を引き起こした犯人や当事者の動機に向けられます。
なぜ殺したのか、
なぜいじめたのか、というわけです。
最近になって多くなったかどうかは、時系列データによる統計的な吟味が必要ですが、実感としては、そうかもしれません。
そうした実感の背景には、理解できない特異なものほど、マスコミ報道が激しくなり、結果として記憶に残りやすく、また、記憶から引き出されやすいという心理的なメカニズム--利用可能性ヒューリスティックと呼ばれている---が働いているように思えます。このあたりは、心理学の一つの研究課題になっています。
それはさておくとして、特異な事件や事例に出会うと、それがなぜ起こったのかが知りたくなります。その「なぜ」は、事件や事例を引き起こした犯人や当事者の動機に向けられます。
なぜ殺したのか、
なぜいじめたのか、というわけです。

「理解できない」というとき、この動機が共感できない、了解できないということだと思います。
共感や了解を支えているのは、その人の持っている「心理学」です。
なお、普通の人が自分の心の働きについて持っている知識や信念を素朴心理学と呼んで、アカデミックな心理学と区別します。
アカデミックな心理学の多くは、「普通の」人が持っている素朴心理学を「科学的に」研究するという構図になっています。
素朴心理学が豊かで有効であれば、心が「理解できる」ということになります。「理解に苦しむ」のは、あなたの「心理学」が世の中の動きに十分に対応できるほど豊かでも有効でもなくなっているということになります。
素朴心理学を豊かで有効なものにするのは、個人的な体験とアカデミックな心理学です。
心の修羅場をくぐり抜けた体験を知恵としてどれほど蓄積してあるか、アカデミックな心理学をどれほど学んでいるかが問われることになります。
もっとも、アカデミックな心理学そのほうに、現実をきちんととらえることのできる知見が蓄積されていなければ話になりませんが。この点の吟味が、実は、心理学会でも絶えず問われています。心をとりまく現実と切り結ばない心理学でいいのかということがアカデミズムの中でも問われ続けています。