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大学時代」自分史

2015-01-25 | 自分史
大学進学率 20%弱の頃(1960~1967年の大学生、大学院生の時代)
数からしてもエリート
日本の政治、体制への異議申し立て役としての大学生
ノンポリも含めて、ほとんどの学生が
政治的、
思想的、
哲学的でした。
心のどこかに自分たちが日本の未来をつくるという心意気が潜在していた。
司馬遼太郎がこんなことを言っています。
「思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的にも飢え、精神的にも飢えている状態が必要なのですね。飢えているからこそ、壮大なフィクションの中に入ることができる」
実感です。



初の海外

2015-01-11 | 自分史
 38歳頃というのは、研究者として油の乗り切った頃である。海外での10か月は、油に火を注いでくれるはずとの強い期待で出かけた。
 ところがである。英語がぜんぜんだめ。話を聞き取ることができないのだ。実は、こんなときのため、ということで英会話は大学生の頃からおりにふれ勉強はしてきた。英文の研究論文も1日に何編も読んでいた。英検1級の資格もとっていた。
それがネイティブとの会話ができないのである。このショックは、衝撃的だった。すっかり外出恐怖症になってしまった。
 余談だが、そんな話を日本から来た英語のしまおか先生にしたら、へんに自信をもって海外にくる人にそういう人が多いこと、しかも、高校の英語の教員の海外研修でかえって自信喪失に陥ってしまう人が多いとのこと。大いに納得したものだった。
 そうなると、勢いつきあうのは、日本人仲間ばかり。


運、不運

2014-11-22 | 自分史
大学生、大学院生の7年間は、なんとかしのげたが貧乏ではあった。
というわけで、生家での育ちは、運・不運で言うなら、不運だった。
言うまでもないが、この不運の中で学んだこと、身に着けたことは、
今から振りかえれば、ごまんとあるが、一言でいうなら、世間とのつきあい方ではないかと思う。



自分史

2014-09-22 | 自分史
●幼少期(昭和22年頃)小学校期((昭和24年~昭和30年)」

もちろん、保育園、幼稚園の経験はありません。

戦争が終わったのが、昭和20年ですから、私は保育園、幼

稚園にはまったく無縁でした。


ちなみに、就園率は、昭和25年で8.9%です



就園率は、昭和45年あたりで50%を超え

平成21年度になると80%になります

自分史余話

2014-09-21 | 自分史
日経の「わたしの履歴書」の内容の精度には驚嘆する。まったくの推察であるが、ライターやリサーチャーがいるのではないか。あそこまで過去がきっちりとわかるはずはないからである。

お恥ずかしい話であるが、自分の生まれた年1942年10月の社会情勢をはじめて知った
真珠湾攻撃が1941年12月なので、戦争真っ只中だったのだ

自分史は自分と社会とを同時に振り返ると面白い



試験」自分史

2014-09-17 | 自分史
高校入試は記憶がないが、大学入試、大学院入試に、不思議に、これは駄目だと思うほど絶望的な出来だったという記憶がある。それだけに、合格の掲示をみたときの記憶はまさにフラッシュバルブ記憶である。
とりわけ、東京教育大学教育学部心理学科の発表掲示を見に行ったとき。自分の番号をみつけて、書類をもらおうと事務室にいった。応対した事務の人の風袋まで今思い出せる。その彼が、封筒をひっくり返しながら、「うーん、ないですね」。「え!!」。「あ、あったあった。こっちにあった」。そのときの事務官の顔も思い浮かぶ。


生まれ」自分史

2014-08-04 | 自分史
昭和17(1942)年生まれ
戦中生まれ世代(真珠湾攻撃1941年12月8日、以後に生まれた世代。1941年 - 1946年生まれ)です。
もちろん、なんの記憶もないですが、2歳のときに肺炎で死にかけたことがあったらしい。
でも学校はいつも皆勤でした。


事故体験」自分史

2014-08-01 | 自分史

かなり際どい事故は2件。
一つは、高校生のころ、自転車での通学をしていたとき
後からきたダンプの後輪にひっかけられ転倒。
巻き込まれていたらどうなったことか。

もう一つは、大学生のころ。千葉駅まで自宅から30分の自転車通学。
夜遅く帰宅途中、それも無灯火だった。
なんとおすし屋の出前の自転車と衝突。賠償金が5千円くらいだったと思う。
相当のスピートだったので怪我をしなかったのが不思議。

自転車は恐いが、便利。
ただ、ここ30年くらい、車に乗るようになったからは、まったく自転車には
のっていない。乗るのが恐いくらいになってしまった。
さらに、最近では、自転車による加害事故も怖い


ネガティブメモリばかり」自分史

2014-07-16 | 自分史
自分史をぼちぼちと書いている
年寄に自分史をすすめる人も多い
回想療法なるものもある

しかし、これって考えものではないかと思い始めている
ともかく、だまっていると、
ネガティブなことばかりが思い出されてしまうのだ
ブログ公開なので、
あえてうれしかったこと、楽しかったこと、さらに事実を思い出して
書くのだが、実はネガティブメモリのほうがはるかに多いし、
事実にしても実に選択的なのだ

先月、恩師を囲んで会に出た
その一人が、昔、お宅に子どもと一緒にお邪魔してねーとか
娘がお世話になってねーとか
盛んに思い出話をするのだが、自分にはまったく記憶がない

それでも書くのが好き
書くことがないので書き続けると思いますが
人の過去なんて、他人にはなんの意味もない
それでも君は書くのかと問わないでください 笑い






手術」自分史

2014-07-12 | 自分史
手術

 これまで手術は3回。
 最初が、ヘルニア。小学校6年生くらいのとき。手術のことはまったく記憶にないが、父の部下2人がお見舞いをもってきたのだけ覚えている。不思議なもの。
2回目は、足の膝にできた肉腫。高校2年の頃。当時マラソンをしていた。運動障害ではないかといわれた。けずった。手術そのものはどうということはなかったのだと思うが、麻酔によって尿が出なくなり導尿が気持ち悪かったのを覚えている。また、ラーメンを食べて胃痙攣をおこしてしまった。1週間くらい入院したが、そのとき、隣にいた県庁の職員の人がおもしろい人だった。いいなずけ(確か、彼がそういっていた)がつきっきりで看病していた。
3回目は、20年前、鼻たけとりの手術。脳に近いところだったので、手術そのものもまた手術後のガーゼの交換などもとてもつらかったのを覚えている。
さて、次はどんな手術か。



最初の給料]自分史

2014-07-10 | 自分史

1968年(昭和43年)に、大学院博士課程を1年で中退して徳島大学教育学部の助手として就職した。学生から公務員へと身分が変わったのだが、2,3枚の書類を提出しただけで、公務員研修などまったくなしのまま、すぐに教壇に立った。
びっくり仰天したのは、最初の給料。その頃は手渡しだった。
3万円を切っていた(と思う)。家庭教師のアルバイトと奨学金、そして低学費で結構金銭的にはゆとりのあった大学院の3年間だったので、これには本当に驚いた。でも、もう壊すという官舎がキャンパスの隅にあったので、その1間を借りて住むことでなんとかしのいだ。
でも今にして思えば、先輩の引きで国家公務員になれたのだから、感謝感謝、そして幸運だった。


大学での学び」自分史

2014-07-02 | 自分史



大学自治が金科玉条の時代だった。
それに守られた自由な気風に満ちていました。
授業も、
・毎年同じテキストで、1年に7pしかすすまないドイツ語購読の先生
・毎回15分遅れてきて、15分早く終わる先生
・自分のテキストを買えば、単位をあげるという体育の先生
・西洋史でギリシャ時代の入り口だけで終わる先生

でも、逆にそのおかげで、勉強はしました。ごっそり本を買いました。
そして、仲間・先輩から貴重なことをたくさん学びました。
伴侶も見つけることができました。
これらが大学時代の基調な財産でした。
学費も1万くらいでしたから、まる儲けでしたね。

大学、大学院時代」自分史

2014-06-30 | 自分史
大学、大学院時代7年間(昭和36年(1961)年 ~昭和42年)
60年安保と65年全共闘とのはざま世代

「参考」
60年安保世代
「参考」1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し1月19日に新条約が調印された。
○プレ全共闘世代(1965-1971年)大学生だった世代
「参考」
全共闘運動は、1965年早稲田大学にて入学金、授業料値上げをめぐって理事者側と学生が対立し「全共闘」(全学共闘会議)と呼ばれる学生運動が萌芽します。
68年初めから69年にかけて、東大・日大闘争に併行して自然発生的に、「燎原の火のように」[2]全国の大学へ広がった。
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大学進学率 20%弱
数からしてもエリート
日本の政治、体制への異議申し立て役としての大学生
ノンポリも含めて、ほとんどの学生が
政治的、
思想的、
哲学的でした。
心のどこかに自分たちが日本の未来をつくるという心意気が潜在していた。
司馬遼太郎がこんなことを言っています。
「思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的にも飢え、精神的にも飢えている状態が必要なのですね。飢えているからこそ、壮大なフィクションの中に入ることができる」
実感です。
一方、便利さと豊かさを謳歌している今の日本
寅さん映画の監督・山田太一氏は、こんなことを言っています。
「便利さは感受性をのっぺりさせるし、
豊かさは活力を奪うーー
(山田太一)
いずれも箴言だと思います。

教師さまざま」自分史

2014-06-27 | 自分史
中学校段階(昭和30年~33年)高等学校時代(昭和33(1957)~昭和36年)

高校進学率が40%くらいのときです。
ちなみに、今、大学進学率53%ですから、昔の高校でかかえた諸問題が大学で起こっていることに酷似しているのではないかと思います。

ここでは、両極端の教師。
まず中学校
無免許英語教師の話。
代講でみえた英語の教頭先生が教壇にたった。
「起立>[「courtesy」(礼儀)>着席]
教頭先生、微妙な顔。その表情、今でも思いだせます
やがて、無免許が発覚したらしく、いつのまにかいなくなりました。

一方、高等学校。
中学校とは真逆のすごい先生、生徒がいた
・新学期第一回目、私の信条」を延々と披露する数学の先生
・堂々と政治的(反体制的)論陣を張る社会科の先生
・文豪作品を欠点を自慢げに講釈する国語の先生
・自作物理実験教材をフル活用して楽しませてくれた先生
・部活でもトップ、勉強でもトップがクラスに一人や2人はいた

とても知的で自由な学校でしたが、個人的には、家庭的な諸問題もあり、劣等感との戦いの日日でもありましたが、お蔭でメンタルタフネスを身に着けてと思います。

それにしても、この頃の進路選択
まだ、家、あるいは家業を継ぐ、という考えが強かった
兄は農業高校へ
次男の私は、普通高校へ
ごく自然にでした