生体肝移植が選択できた幸福

B型慢性肝炎から肝硬変・肝臓癌となり生体肝移植を受けることとなった医師によるブログ

医師2年目

2008-12-09 10:25:38 | 移植まで

医師になって1年が経過し、肝酵素の値も落ち着いていました。

どの科も2年目になると、地方の関連病院に1-2年の間トランク(修行)に出ることが多く、私の場合も県内のA病院へトランクへ行くこととなりました。

この病院では、オーベン(就職されている先輩の先生)が一人おられ、診療は2人で行っていました。

1)外来業務(治療後の患者さんの診察)

2)放射線治療(1日20人程度)

3)診断業務(CT・MRI・核医学)

4)病棟業務(腫瘍の患者さん20人程度)

上記の4業務で、7時に病院へ行けば、ルーチンワークとして7時ごろにはひと段落着く程度で、夜間の急変などがたまにある程度でした。

肝酵素も落ち着いており、順調に経過してしていましたが、半年たったときに、院内派閥の影響で、外科・呼吸器科を始め11人の医師が突然退職してしまったのです。

この後が、地獄の始まりでした・・・・

呼吸器科の40床・消化器科の腹部エコーなど、到底こなせないような業務が一気に舞い込んできたのです。

身分的に、異論を唱えることはできず、24時間体制で業務に当たるほかありません・・・

肝酵素は、見る見る上昇し、体重も85kgあったものが70kgに減少。昼休みに点滴をしながら業務を継続していました。

しかし、このままでは死んでしまうかもしれないと思った瞬間、早くやめなくてはならないと思うようになり、教授に面会の連絡を取りやめる旨を伝えました。

次の就職先も確保し、やめようとしたのですが、教授はそれをとめ、まず休みなさいと、退職願を保留し2ヶ月の入院へ・・・

肝硬変は進行し、残存機能は下がってきましたが、幸いにも日常生活は問題なくできる状態まで回復しました。

その後は、業務を調整し、結婚を機会に食生活の改善を図り10年以上変化なしで経過していました。

すっかり安心していた、今年の5月・・・とんでもないことが


医師1年目

2008-12-09 09:38:47 | 移植まで

学生時代にB型慢性肝炎の診断を受けていたので、主治医からはメジャーへの就職はやめたほうがいい!マイナーへの就職を勧めるといわれました。

アメリカの野球ではないのですが、一般の方に名前の通っている内科・外科などはメジャー・あまり名前の通っていない放射線科・麻酔科などはマイナーという表現をします。

内科・外科は、夜は遅く、若いころの給料の時給はセブンイレブン以下といわれ、体力に自信のない人には、きつい就職先でした。

今は、差別になるので使用されていないかもしませんが、医師不足が騒がれているのは、このメジャーに属する科においての出来事が多いようです。

とにかく、自分はそれまで放射線科がどんな医療業務をしているのかさっぱりわからない状態で、入局を決意しました(決して投げやりになっていたわけではありません)。

親からは、何で医大を卒業したのに放射線技師になるんだ!お前は落ちこぼれたのか?などといわれました。

そのころに、放射線科といえば患者さんの写真を撮る仕事と勘違いされていることが多く、どんな仕事をしているのか想像がつかなかったようです。

放射線科内には、大きく分けて以下の3業務があります。

1)放射線診断業務

  患者さんの写真をみて、病気の診断を行う

  放射線を使用した、血管造影や内視鏡治療などを行う

2)放射線治療業務

  放射線治療器具を使用して、腫瘍の患者さんの治療を行う

3)核医学業務

  放射性同位元素を使用した医療画像の診断、治療を行う

私は、2番の放射線治療分野を選択しました。そのころは放射線治療の技術が発展始めたころで、患者さんの数も少なく、副作用の強い治療と思われており、敬遠される業務内容でした。

治療技術の進歩や、周辺機器の発展に伴い腫瘍のみに放射線を集中し正常細胞への被爆を下げることが可能となり、いまや切らないで治す夢の治療として脚光を浴びています。

何せ、人気のない科でしたので入局は5年ぶりで医局の先生方も風変わりな先生があふれていました(麻生総理の言葉ではありませんが・・・)。

しかし、久しぶりの新入医局員であったので、非常にかわいがってもらい、多忙な日々をすごしましたが、3ヶ月目に肝酵素が上昇し入院となってしまいました。

つづく


インターフェロン治療

2008-12-09 09:37:38 | 移植まで

インターフェロンによる治療は、免疫力を人為的に上昇させ、ウィルスを排除し抗体を作る仕組みによります。

私が使用したのは、1本6万円を1日2本で月・水・金と投与するものでした(このころは、いろいろな方法が、使用されていた)。

最初余裕で投与を受けると、直後には少し違和感のある程度で、余裕じゃんと思っていると、2-3時間後に突然の発熱(39-40度)と悪寒・関節痛が出てきます。

週3回のインフルエンザのような感じです。

とてもじゃないので(授業も受けていたので)、投与後すぐにボルタレン座薬(解熱・鎮痛薬)を投与し、風邪程度で済ましていました。

しかし、金銭的にもとんでもない状態となってしまいました。月144万の30%が6ヶ月間。高額医療で返還されましたが、すごい金額がかかりました。

この結果は、残念ながら効果なしでした・・・・


肝生検

2008-12-09 09:30:12 | 移植まで

1回目の入院後、肝酵素が正常化し体調も落ち着いたため、内科の先生から説明がありました。

君の場合、B型肝炎の中でもHBe抗原が陽性で、HBe抗体ができていない活動性が高くなる可能性の強い状態であるので、インターフェロンによる治療を行い、HBe抗体ができた状態(センコンバージョン)に移行させましょう。と

それに先立って、現在の肝硬変の状態を肝生検という検査を行い正確に評価しましょう。

アシアロシンチという核医学検査も行いましょう(詳細は別にアップします)。

アシアロシンチは、注射後に寝ているだけで、画像ができて現在の肝細胞の残存について評価できる検査ですが、特に副作用もなく終了しました。

しかし、肝生検は、皮膚からエコーガイド下に細い針を刺して、肝臓を直接刺し組織をとってくる検査でした。

麻酔をするので、痛くありませんよ。と、内科の先生は満面の笑みを浮かべて説明したのを覚えています。

余裕で構えていたら、麻酔のチクッとした感じの後、生検針が肝臓の表面に達したとき、なんともいえない重苦しい感じが襲ってきました。

体性痛(骨折・傷などの痛み)には、慣れていたし我慢できたのですが、内臓痛(臓器の表面の痛み)は、吐き気を伴うような重い痛みのため、我慢できませんでした。

終わって、イヤー痛かったです。といったら、1回目は若い先生がさしたので、組織が取れていなく、もう一回!という展開に。

えーっ!! といっても、まな板の上の鯉状態・・・・

お願いします・・・

おえーっ・いたっ!! 2回目は取れていました。

その日は、ベッド上安静。これが腰が痛くなって、予想以上につらい。翌日は速攻でトイレにいってすっきりしました。

検査結果は、軽度肝硬変状態で活動性あり。アシアロシンチは、非常に悪い残存機能です・・・。

結果をみて、唖然としてしまいましたが、選択肢がないので、インターフェロンによる治療を開始しました。


退院後3日目です。

2008-12-08 17:24:17 | 退院後

三日目になりますが、発熱などの症状は落ち着いています。

上腹部の、違和感もかなりなじんできました。

夜も、横向きになって寝ていることができるようになってきました。

胆汁漏のところに入っていたチューブの傷口もかさぴたになり、もう少しで消毒も不要になりそうです。

体調も戻ってきたので、移植時の写真など整理し、まとまってきましたので、ブログにアップ開始しようと思います


退院後2日たちました

2008-12-07 10:20:21 | 退院後
退院して2日経過しましたが、発熱などなく順調に経過しています

昨日、近くのレンタルビデオ店(徒歩5分)あるっていってきたら、店内で少し貧血気味になってしまいました。

まだ体が、十分に回復していないのに無理したからでしょうか

まあ、少しずつ回復していくように、リハビリしていきます


今日、退院しますV(^-^)V

2008-12-05 08:41:45 | 胆管炎に対する治療(3回目の入院)
お陰様で、胆管炎の熱も下がり肝酵素も改善傾向にあるようなので、今回はPTCDをしないで退院の許可が出ました。

前回の退院期間が5日間だったので、今回はまず一週間を目標に帰ります。

凄くウレシイ気持ちなのに、不安も強いかな?複雑な気持ちです。

あんまり長く病院にいると、病院が生活の場所みたいになって来ちゃうので、気をつけないと…

ドナー(兄)から パート2

2008-12-03 15:46:30 | ドナー(兄)・家族のコーナー
さて、医学技術の進歩はすごいもので、「生体肝移植」なるものができるようになりました。

その事を知った時、「いずれは」やるんだよな、という意識は持ち続けていました。

だから、わたしにとっては悩むことではなかったのです。

50歳ぐらいで‥‥。と考えていたら、その時期は突然やってきました。

肝硬変から「肝臓ガン」に進行し、「移植」が現実になりました。

だから、悩むことではなかったです。

わたしが提供しなければ、三男が提供したでしょう。

最終的に、なぜ、といわれれば、「当たり前」という考えだったのです。

あえていうなら、次男の子どもたちの「未来」のために70%、次男の奥さんのために20%、そして、本人のために10%でしょうか。

なにより、突然の事態ではなかったこと、来るべき事態であったことが大きいと思います。