生体肝移植が選択できた幸福

B型慢性肝炎から肝硬変・肝臓癌となり生体肝移植を受けることとなった医師によるブログ

生体肝移植が選択できた幸福・・・

2008-12-20 13:43:55 | 移植まで
今回移植するにあたって、いろいろな偶然が重なって進めることができています。

1)偶然肝癌を自分で見つけたこと

 お手伝いに行っていた病院が、新規移転でなければ自分の体のCTなどとる機会に恵まれなかったこと。発見したそのときには、自覚症状も、採血上の変化もなく、この機会がなければCTをとることはなかったはず・・・

 テレビで、「風のガーデン」という番組に、尾形拳さんが出演していましたが、番組の内容も、若くして膵臓癌にかかった医師が病気をきっかけに、家族の絆を取り戻すといったものでした。その収録後、出演者である尾形拳さんが肝臓癌破裂により、急逝されたというニュースが、自分の術後間もないころにテレビで放映されました。
 自分の状態に重なるものがあり、”もし肝臓癌が発見されず、そのまま生活していたら・・”自分も、同じような経過をたどったのかなと思っていました。

2)医療費の問題が保険によって解決されたこと

以前にアップしましたが、偶然継続していた保険により自費での移植が受けれたこと。お金がなければ、借金もあるので移植までは踏み切れなかったかもしれません。

3)兄というドナーが快く承諾してくれたこと

兄弟の仲から、兄がドナーとなってくれたことが、今回もっとも表題にそった出来事かもしれません。もしかすると、兄に合併症が生じ、兄の家族を不幸にしてしまう可能性もあったので・・・これは私にとっては幸福なことですが、兄にとってはいたい思いや、大きな不安などさせてしまったので、幸福ではないのですが。

4)家族・職場の皆さんが協力してくれたこと

妻を始めとした、家族・親戚など、また、職場をあけてしまったので、穴埋めをしてくれた皆さんに感謝です。

5)自宅近くに移植できる環境があり、スタッフに恵まれたこと

自宅から10分の距離に移植できる病院があり、そのスタッフに恵まれたこと。

などなど、いろいろな偶然が重なり、今回移植となりました。

次回から、実際の移植のときの情報をアップします。しばらくは、妻の手記に沿った内容になります。

家族への説明

2008-12-11 10:05:48 | 移植まで

家族へ肝臓癌である事を、どう伝えたらよいか・・・

連休中は、家族で岩手県のけんじワールドへ旅行予定だったので、最後の旅行となってしまうかもしれないと思い、がんばって遊んできました

もともと、楽天的であったので、自分の気持ちの整理はついてきたのですが、家族にどんな風に説明したらよいか・・・

上の子は、説明すれば理解してくれるので、妻と一緒に説明してもよかったのですが、精神的に不安定にしてしまうので、妻だけに説明することに・・・

しかし、いつどのタイミングで言い出すかは、なかなか決まらなかった。

そうしているうちに、連休も終わりに近づいてタイムリミットが近づいてきました。

最後の日に、朝子供たちが寝ているときに説明を始めると、冷静でいようと考えていたのに、号泣しながら説明する状態に・・・

でも、”まず病院へ行って今の状態を把握してから考えましょう”と言われ、落ち着いたような気がします。 

連休明けに、消化器内科に受診し、採血・CT・シンチ・エコーなどを2週間かけて行いました。

病気を発見した関連病院でPETが始まり、ボランティアを集めていたので肝臓癌の症例として立候補し、撮影してもらえました。

 

その結果です・・・

S56にかけて約35mmの肝癌と思われる病変+その背側にも約17mmの娘結節

葉外側区背側辺縁にも約20mmの同様の病変を認める明らかな遠隔転移なし

 

腫瘍マーカー

AFP 33.9(0-8.5)

PIVKA 1021(0-40)

 

肝硬変の状態

child -Pugh分類 A

 

多発HCCの診断 T3N0M0 病期Ⅲ期 

 

となり、その時点で生体肝移植の選択肢が始めて出現してきました。 

治療法の選択肢として

①動脈塞栓術+抗がん剤の動注 または 外科切除

②動脈塞栓術+抗がん剤の動注後に、ミラノ基準を満たしたら生体肝移植

 

いずれにしろ現時点での移植は、困難とのことで、肝動脈塞栓術と抗がん剤

の動脈注入法を行うこととなりました 


医師15年目

2008-12-10 13:07:02 | 移植まで

お仕事を手伝いに生かせていただいている、県内の関連病院が今年の4月に、新規移転となり、放射線関係の機器がすべて新しくなりました

連休明けより、業務開始にむけて機器の調整や予行練習など行っているときに、事件は起こりました

放射線治療機器も、CTで患者さん情報を立体的に把握し、治療計画を行い、高精度名治療を行うようになっていたので、だれかボランティアになって流れを見てみることになりました。

自分も肝酵素は10年間落ち着いていたのですが、画像系の検査をしていなかったので、”俺のCTを使って試してみよう”ということに。

治療担当の技師さんが、それでは撮影します・・・・

検査が終了し、自分で撮影結果を見てみると、軽度肝硬変の状態かな・・・

あれっ・・・

肝臓に何か、4cmぐらいの灰色の物体が・・・

職業柄、それが何を示すのかは瞬間的に理解できました。

隣に居た技師さんが、”どうですか?OKですか?”と確認してきたのに、”あっああ”と上の空の返事を。

しばらく、パニック状態・・・

このとき、技師さんも”なんか急に応答が悪くなって・・・”といっていた。

放射線科のオーベンの先生に、少し体調悪いので早めに帰らせてくださいとお願いしたところ、”まだ調整業務なのでいいよ”といわれ、早退。

帰りの高速道路では、どうやって運転して帰ってきたか、思い返しても思い出せないような状態でした(危なかった・・・)。

そのまま、連休に突入してしまいました・・・


医師2年目

2008-12-09 10:25:38 | 移植まで

医師になって1年が経過し、肝酵素の値も落ち着いていました。

どの科も2年目になると、地方の関連病院に1-2年の間トランク(修行)に出ることが多く、私の場合も県内のA病院へトランクへ行くこととなりました。

この病院では、オーベン(就職されている先輩の先生)が一人おられ、診療は2人で行っていました。

1)外来業務(治療後の患者さんの診察)

2)放射線治療(1日20人程度)

3)診断業務(CT・MRI・核医学)

4)病棟業務(腫瘍の患者さん20人程度)

上記の4業務で、7時に病院へ行けば、ルーチンワークとして7時ごろにはひと段落着く程度で、夜間の急変などがたまにある程度でした。

肝酵素も落ち着いており、順調に経過してしていましたが、半年たったときに、院内派閥の影響で、外科・呼吸器科を始め11人の医師が突然退職してしまったのです。

この後が、地獄の始まりでした・・・・

呼吸器科の40床・消化器科の腹部エコーなど、到底こなせないような業務が一気に舞い込んできたのです。

身分的に、異論を唱えることはできず、24時間体制で業務に当たるほかありません・・・

肝酵素は、見る見る上昇し、体重も85kgあったものが70kgに減少。昼休みに点滴をしながら業務を継続していました。

しかし、このままでは死んでしまうかもしれないと思った瞬間、早くやめなくてはならないと思うようになり、教授に面会の連絡を取りやめる旨を伝えました。

次の就職先も確保し、やめようとしたのですが、教授はそれをとめ、まず休みなさいと、退職願を保留し2ヶ月の入院へ・・・

肝硬変は進行し、残存機能は下がってきましたが、幸いにも日常生活は問題なくできる状態まで回復しました。

その後は、業務を調整し、結婚を機会に食生活の改善を図り10年以上変化なしで経過していました。

すっかり安心していた、今年の5月・・・とんでもないことが


医師1年目

2008-12-09 09:38:47 | 移植まで

学生時代にB型慢性肝炎の診断を受けていたので、主治医からはメジャーへの就職はやめたほうがいい!マイナーへの就職を勧めるといわれました。

アメリカの野球ではないのですが、一般の方に名前の通っている内科・外科などはメジャー・あまり名前の通っていない放射線科・麻酔科などはマイナーという表現をします。

内科・外科は、夜は遅く、若いころの給料の時給はセブンイレブン以下といわれ、体力に自信のない人には、きつい就職先でした。

今は、差別になるので使用されていないかもしませんが、医師不足が騒がれているのは、このメジャーに属する科においての出来事が多いようです。

とにかく、自分はそれまで放射線科がどんな医療業務をしているのかさっぱりわからない状態で、入局を決意しました(決して投げやりになっていたわけではありません)。

親からは、何で医大を卒業したのに放射線技師になるんだ!お前は落ちこぼれたのか?などといわれました。

そのころに、放射線科といえば患者さんの写真を撮る仕事と勘違いされていることが多く、どんな仕事をしているのか想像がつかなかったようです。

放射線科内には、大きく分けて以下の3業務があります。

1)放射線診断業務

  患者さんの写真をみて、病気の診断を行う

  放射線を使用した、血管造影や内視鏡治療などを行う

2)放射線治療業務

  放射線治療器具を使用して、腫瘍の患者さんの治療を行う

3)核医学業務

  放射性同位元素を使用した医療画像の診断、治療を行う

私は、2番の放射線治療分野を選択しました。そのころは放射線治療の技術が発展始めたころで、患者さんの数も少なく、副作用の強い治療と思われており、敬遠される業務内容でした。

治療技術の進歩や、周辺機器の発展に伴い腫瘍のみに放射線を集中し正常細胞への被爆を下げることが可能となり、いまや切らないで治す夢の治療として脚光を浴びています。

何せ、人気のない科でしたので入局は5年ぶりで医局の先生方も風変わりな先生があふれていました(麻生総理の言葉ではありませんが・・・)。

しかし、久しぶりの新入医局員であったので、非常にかわいがってもらい、多忙な日々をすごしましたが、3ヶ月目に肝酵素が上昇し入院となってしまいました。

つづく


インターフェロン治療

2008-12-09 09:37:38 | 移植まで

インターフェロンによる治療は、免疫力を人為的に上昇させ、ウィルスを排除し抗体を作る仕組みによります。

私が使用したのは、1本6万円を1日2本で月・水・金と投与するものでした(このころは、いろいろな方法が、使用されていた)。

最初余裕で投与を受けると、直後には少し違和感のある程度で、余裕じゃんと思っていると、2-3時間後に突然の発熱(39-40度)と悪寒・関節痛が出てきます。

週3回のインフルエンザのような感じです。

とてもじゃないので(授業も受けていたので)、投与後すぐにボルタレン座薬(解熱・鎮痛薬)を投与し、風邪程度で済ましていました。

しかし、金銭的にもとんでもない状態となってしまいました。月144万の30%が6ヶ月間。高額医療で返還されましたが、すごい金額がかかりました。

この結果は、残念ながら効果なしでした・・・・


肝生検

2008-12-09 09:30:12 | 移植まで

1回目の入院後、肝酵素が正常化し体調も落ち着いたため、内科の先生から説明がありました。

君の場合、B型肝炎の中でもHBe抗原が陽性で、HBe抗体ができていない活動性が高くなる可能性の強い状態であるので、インターフェロンによる治療を行い、HBe抗体ができた状態(センコンバージョン)に移行させましょう。と

それに先立って、現在の肝硬変の状態を肝生検という検査を行い正確に評価しましょう。

アシアロシンチという核医学検査も行いましょう(詳細は別にアップします)。

アシアロシンチは、注射後に寝ているだけで、画像ができて現在の肝細胞の残存について評価できる検査ですが、特に副作用もなく終了しました。

しかし、肝生検は、皮膚からエコーガイド下に細い針を刺して、肝臓を直接刺し組織をとってくる検査でした。

麻酔をするので、痛くありませんよ。と、内科の先生は満面の笑みを浮かべて説明したのを覚えています。

余裕で構えていたら、麻酔のチクッとした感じの後、生検針が肝臓の表面に達したとき、なんともいえない重苦しい感じが襲ってきました。

体性痛(骨折・傷などの痛み)には、慣れていたし我慢できたのですが、内臓痛(臓器の表面の痛み)は、吐き気を伴うような重い痛みのため、我慢できませんでした。

終わって、イヤー痛かったです。といったら、1回目は若い先生がさしたので、組織が取れていなく、もう一回!という展開に。

えーっ!! といっても、まな板の上の鯉状態・・・・

お願いします・・・

おえーっ・いたっ!! 2回目は取れていました。

その日は、ベッド上安静。これが腰が痛くなって、予想以上につらい。翌日は速攻でトイレにいってすっきりしました。

検査結果は、軽度肝硬変状態で活動性あり。アシアロシンチは、非常に悪い残存機能です・・・。

結果をみて、唖然としてしまいましたが、選択肢がないので、インターフェロンによる治療を開始しました。


最初の症状 part5と3兄弟

2008-12-02 10:23:03 | 移植まで
入院中の話に戻ります。

この時の入院は、特に痛い処置もないし、治る病気と思っていたので、社会に戻れるのだろうか?という不安だけでした。

退院した後、また普通の生活に戻るには、大して時間はかかりませんでした。

しかし、この病気は出産時に感染した事でキャリアーになるので、それを聞いた母親は、ひどく自分を責めていました。

しかし、その時代には、スクリーニングもなく、しょうがなかった事なので、私は全く責めるつもりはありません。

3兄弟の真ん中ですが、弟もキャリアーでしたが、このときからインターフェロンなどの治療によりHBe抗原が陰性化し、現在元気にしています。

兄は、小さい頃急性肝炎として発症し、HBs抗体ができ直ってしまいました。

それで、今回の移植のドナーになってもらいました。

写真は、手術直前に撮ったもので、兄(左)・自分(中)・弟(右)です。

最初の症状 part4

2008-12-01 15:00:23 | 移植まで
医師になってから、このときの経験が役にたったような感じがします。

よく、医者も病気してみれば解るんだ、という言葉を耳にします。

自分が、病気になって、患者さんの気持ちが理解できるようになったかと言うと……無理でした。

患者さんの体の痛み・心の痛みは、今でも解りません。

しかし、病気という言葉が与えるプレッシャーやストレス・治療以外の部分で欲している事などが、少し解るようになったと感じます。

それをふまえて、患者さんの話をちゃんと聞いて、うなずくだけで、ありがとうと言われることが多くなりました。

特に、腫瘍の治療を受けている患者さんに、いじめている訳でもないのに、号泣される場面が多くなり、困ってしまう事もあります。

余りに、横柄な医者がいれば、ちょっと病気の辛さを味わってもらって欲しい時もありますが、お医者さんは、健康な状態で診療に当たって欲しいと思います。

今は、医師不足で問題になっていますので…

最初の症状 part3

2008-11-30 16:11:17 | 移植まで

入院生活もある程度落ち着くと、点滴以外の時間は思いっきり暇になります。

前回もアップしましたが、入院した病院は田舎の病院でしたので、入院患者さんの平均年齢は60-70歳程度。

朝4時には、皆さん行動開始し・夜8時には就寝で真っ暗という状態。

さすがにこの生活リズムには、なかなかなじめませんでしたが、不思議と2週間もすると、このリズムが当たり前で、社会の生活の時間帯など気にならないように変化しました。

暇な時間は、ロビーでおじいちゃん・おばあちゃん達と あの先生は・・・・ あの看護師は・・・・ 外来は・・・・など病院の品評会が始まります。

自分が医学生であることは、伏せていたので隠し事なくお話できました。

このときの経験が、後に大いに役立つこととなるとは、思っていませんでした。