ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

葛城の麓を行く H31.2.9

2019年02月11日 21時24分59秒 | 日記
4世紀後半以降、高句麗の南下にともない、動乱の時代となる。

昔河内湖があったところは塩田で耕すのには難しい場所であったのではないか?農産物は塩害でやられてしまうのでは?

既成の伝統的豪族がいなかったこともあって、古市や百舌鳥古墳群のあたりは朝鮮半島出身の技術集団などがいたのでは?

百済に戦の援軍を送ったのは、日本が百済の配下であったような講座も多くあったのですが、

この講座では、朝鮮半島の高度な技術(特に鉄)の技術の見返りに軍隊として援軍を送っていたとされていました。

葛城王権の権力者である、葛城王の墓、宮室山古墳は国の力がないと200メートル級の古墳は個人の力では築造は困難ではないか?

葛城王権の王は大和王権からの派遣された人であったのか?

最古の国道である竹ノ内街道はその初期の形は縄文時代からあったそうである。

推古天皇の時代に難波と飛鳥を結ぶ大道を設置したという記事がある。

紀氏との関係深かった紀の川、吉野川を通る、南からの鉄資源の輸入ルートは最古の大道「竹ノ内街道」の整備により北のルートを取るようになった?

または河内湖があったころは河内湖を北上して木津川ルートで奈良に入ることが多かった。

佐紀楯列古墳群のあるところあたりから、奈良に入ったことになる。

難波津から入る鉄素材や朝鮮半島からの文物は大和川などを通り、竹ノ内遺跡のある倉庫群にいったん収められた。竹ノ内遺跡は一大物流センターであり奈良各地へ文物を送る拠点であった。

竹ノ内街道沿いには、朝鮮人の氏寺が建立されていることが多かったそうで、当時の技術者や倉庫で働く人が多かったことを示すのか。

倉庫では多くの物の流れを字が読める渡来人が務めることで、賄っていた?

難波の宮のあたりにもたくさんの倉庫群があったことは、昨今の調査でも発表されている。

葛城王家はその根拠地や墓を南から北へ移動させている。根拠地はみつかってはいないが今後の研究で発掘されることもあるのではという話でした。

北へ向かうということは竹ノ内街道に近づくということにもなる。しかし、竹ノ内街道までの場所にはどういうわけか、北上していない。


ここの博物館では前も言われていましたが、葛城王権が近づけない勢力、つまりワカタケル王の大和王権またはそれに近い勢力がここ「竹ノ内街道」の掌握をしていたということになる。

葛城王の勢力が衰える理由と関係があるのか?

竹ノ内街道沿いには、国から委託されて大道を管理していた勢力の古墳が並んでいるそうである。

大河あるところに叡智がうまれるといわれるが、日本には黄河や揚子江のような大河はないが、この「官道竹ノ内街道」はまさに当時日本の、高度な文物や技術が運ばれる拠点であり、先端文化を運ぶ叡智溢れる交通ルートであったのかもしれない。






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