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ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

  ワカタケル大王と纏向の宮  

2015年11月30日 21時21分00秒 | 日記
この題で昨日、桜井まほろばセンターでの講演会を聞いてきました。

ワカタケルについては今月3回もあちらこちらと勉強に行きました。

纏向とどんな関わりがあるのかも興味ありました。

古事記の雄略段に

三重の采女の歌として、

纏向の  日代の宮は

朝日の  日照る

夕日の  日がける宮

竹の根の 根垂る宮

木の根の 根蔓る宮

・・・・・・・・・

という歌を詠み、命が助かった采女の歌があるそうです。

新築祝いの席で采女が落ち葉が杯に入ったことを知らずに天皇にその杯を出してしまって、怒った天皇が采女に刀を当てた瞬時に読んだ歌。

纏向の宮を置いたのは、垂仁、景行両天皇であり、景行天皇の纏向日代の宮をほめる歌になるそうです。


雄略と景行天皇の息子ヤマトタケルは同じタケルという名前を持っている。

日本を西伐、東伐し、

武勇猛々しい人として、今も語られている人になります。景行天皇も筑紫へ親征しており尊崇の念があったのでしょうね????


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ワカタケル大王の時代  雄略天皇の専制

2015年11月26日 19時21分34秒 | 日記
雄略天皇は一言で言うと信長のような革新者であったようです。

信長って革新的で残酷で、既成の勢力を嫌うようなイメージがあるのですが・・・

近つ飛鳥博物館は京阪線からは3回も乗り換えてからバスに乗り継ぎます。1日がかりとなりました。

この前は要領を得ず、敷地内に入ってからも博物館らしきものが見当たらず近くを歩くおじさんに博物館はどこですかと聴く始末。おじさんもあの道をずっと行って、階段を降りたら、見えてくるというお話のあと、すいませんなと謝ってました。おじさんが悪くないのにね。気の毒がられてしまいました。
山道を歩いて15分くらいかかりました。山は群集墳になっていることにあとから気がつきました。
5時過ぎに博物館を出るともう暗くなっており、暗い山道を一人で歩くのはおばちゃんになっても怖いものでした。石棺など置かれた群集墳の中をひたすら歩き、ようやくバス停へ・・・本数も少なくしばらくバスを待ってようやく帰途につけることができたので、今回は2回目なのでどうにか行けました。
古墳女子なんて言葉がありますが、ここの博物館は古墳の中にありますので、古墳女子は見ごたえがあるのでは?
もっと先をハイキングすれば、用明天皇陵や推古天皇陵、聖徳太子のお墓がある叡福寺などがあります。

ともかくここが、橋本さんが文楽と同様補助金の対象から外そうとしたのが、少なからずわかったような・・・


汗を拭きながらも、ようやく博物館に到着し、もうすでに講座ははじまってましたが、お話を聞くことができした。

館長さんのお話なので、はいりきれない人人人。

部屋の前に置かれているテレビで聴くこととなりました。

ワカタケル大王の文字が刻まれた鉄剣が、埼玉の稲荷山古墳から見つかり、古代の天皇はいたのかいなかった のか本当のころはどうなのか?

わからない中で、雄略天皇は実在していた方のようです。

皇位継承者等の身内や縁戚につながる一族の大臣を殺戮し、残酷なイメージもありますが、首長連合体制であったヤマトを雄略以降専制化されたようです。葛城氏との縁戚関係が太い大王なのに、残忍にその一族を壊滅するのは、保守的で身動きのとれない既成勢力だったからなのか???


鉄剣は九州でも見つかっており、ヤマトの支配体制は強化される時代でもあったのでしょうか。

九州のウリテは参事せし典曹人と書かれ高い身分だったという、埼玉のヲワケは若いころはワカタケルの大宮を守っていたことを記念して刀を作った。


講座では岡ミサンザイ古墳が雄略天皇(ワカタケル)の陵ではというお話もありました。

父の市辺忍羽皇子を殺戮されている仁賢、顕宗兄弟が雄略陵をあらすことにしたけど、やはり死んだ人の陵をあらすのは良くないと兄が思いとどまったことが古事記に書かれている。

ワカタケル大王の王宮については、初瀬朝倉宮であり、要衝の地に宮を置くものであり、東北、関東、伊勢などに繋がる地であるところとなるようで、現在発掘調査が進められている脇本遺跡ではないかとのことでした。
脇本遺跡は5~7世紀の遺構が見つかっており、複数の施設があったそうです。
伊勢の斎宮として赴く大来皇女の「泊瀬斎宮」(はつせいつきのみや)が営まれた場所としても注目されているようです。


講座が終わると、博物館を閲覧。

ワカタケルの名前の書いた鉄剣のレプリカなどがありました。

帰りはこの前より1本早いバスに乗ることにしました。

特別展の写真は撮れませんが、その他の場所で写真を撮ってもよい場所がありました。

    

円筒型埴輪です。このはにわって古い時代(西殿塚古墳にもあった)からあるのですね。聖なる場所との境を表すのでしたか?今城塚古墳の案内に書いていたような・・・裏覚えですが・・・


    

  石棺です。並べておかれています。

この博物館は安藤忠雄さんのデザインの博物館で、とてもゆったり歩けます。

    

    

  大仙陵(仁徳天皇陵)の小型モデルです。陪塚などもあります。四角形の墓や墳丘など身分で違っていたのでしょうか?

    





群集墳も撮影してみました。こういう山道は一人では怖いですよ。この日はまだ明るいうちでしたので、犬の散歩する人もちらほらいました。
群集墳は職業集団かとの見方ですのでこのあたりも昔は渡来人が多くいた地域ですから、職業集団もいたのでしょうね。

    

今日は明るいうちに帰るので、写真を撮る余裕があります。

    

レプリカの石棺が置かれています。

    


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「宿場町枚方を考える会」主催  「継体天皇と古代の淀川水運」講演を聞いて

2015年11月21日 18時38分14秒 | 日記
 
この前のメセナ枚方会館でおこなわれた宿場町枚方を考える会」主催の

講演会を聞いてきた。

「継体王朝ー地方豪族出身か王族の末裔かー」

「継体・欽明朝の内乱はあったのか」

という題名での講演はあっと驚く資料と結論であり、勉強になりました。


1.継体天皇の出自を探る
2.5世紀における2つの王統の確執
3.允恭王統による淀川水系の掌握
4.河内政権と淀川水系

継体は応神天皇の5世の孫であり、允恭天皇の后に継体の祖祖父と兄弟の女性が嫁いでいる。

記紀の成立は8世紀初頭となるので、当時の権力者は藤原家となっている。このころ王族とよばれる人は4世から5世に変わった時期でもあるらしい。

允恭帝において、后を出せる家であり、また淀川水系の通行に関する利権の掌握にも関わっている。

后の妹(衣通織姫)も近江坂田から允恭天皇に嫁いでいる。

坂田いる姫の元へとお召の使者が赴いているが、その使者は中臣氏の祖先となる人物となっている。

今回の講座は資料に忠実に遡れば、継体は允恭帝の后を出した家柄であり、応神天皇5世の孫が手白香皇女へ入り婿のような形で皇位を継いだということを意味するのではというお話でした。

継体の父系の実家で言えば、允恭と手を結ぶことで、淀川の利権の拡充ができ、允恭にしてみると淀川水系の利権に関わり、その富の掌握という意味でも
この縁は大きな意味を持っているのかな???


記紀はある思想的立場をもって貫かれているそうです。驚きでした。

仁徳、履中、反正、顕宗、仁賢、欽明を是とし、允恭、安康、雄略、継体、安閑、宣化を非とする立場にあるということです。

記紀が成立したのは8世紀初頭で、当時の権力者は藤原氏、当時の天皇も継体の血筋から続いて
いるのに、どうしてそんな立場で書かれたのか・・・・不思議に思いました。

まだ、その立場にある一族の子孫が朝廷にいたのか、不思議ですね。




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西殿塚古墳はトヨの墓? トヨは神功さん?

2015年11月13日 20時48分59秒 | 日記
ハイキングは5時には柳本の駅に着きましたので、短距離で負担がありませんでした。

西殿塚古墳の写真をアップ

  

男女が埋葬されているのではないかとご案内の先生が言われてましたが・・・

宮内庁書陵部が定期的にお墓を調査しているそうです。

  

  

  


大和は国のまほろば、本当美しいところですね。

  

280年ごろの陵ですので、そのころ活躍していた人物はトヨ 神功皇后と同一人物?

最近博物館や講座など行ったりするなかで、3人の方が上のような意見をいわれていました。

古代日本は女性が活躍していたとは・・・頼もしいですね。

墳墓とよぶものの初めは箸墓古墳だそうです。

卑弥呼の墓としたらこれまた、広大な陵をもつ女性首長がヤマトを統一したでになっていたということでしょうか。

古代はいろいろ謎を秘めていて、これから解明されるといいですね。生きているうちにわかるといいですね。

図書館で借りてきた古代に関しての本は20年前のものでしたが、箸墓は3世紀後半と書かれていました。

今は卑弥呼が活躍した時代は230年ごろと推定されるようで、古代研究も進歩されているのですね。247年に亡くなったといわれる卑弥呼の墓を10年かけて築造したとすると3世紀半ばとなるようです。

「帝王の娘スベクヒャン」から興味が飛躍して武寧王、継体天皇、手白香皇女、箸墓古墳、西殿塚古墳、手白香皇女のお爺さんワカタケルまでいってしまってましたが、11月はまだまだ講座が詰まっていて、興味があるうちに足を運んでみようかと思っています。


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手白香皇女と大王の系譜 大和青垣・龍王山麓の巨大古墳をめぐる

2015年11月08日 19時38分42秒 | 旅行
奈良学文化講座で開催された講座とその後のハイキングに参加し、かねてより行ってみたかった手白香皇女の墓と大和の古墳をを見てきました。

午前は10時から奈良文化会館で「手白香皇女から考える-古代王権と継体天皇」という内容で講座をされました。

講師は水谷先生でした。お名前から女性なのか男性なのかどうなのか実態が楽しみでしたが、男性でした。

よく継体天皇のことをネットで探していると、お目にかかるお名前の有名な先生でした。

手白香皇女の墓は宮内庁書陵部が認めている西殿塚古墳ではなく、今城塚古墳出土の埴輪と同じ窯で焼いた埴輪が出土している西山塚古墳ではないかと言われているそうです。

延喜式では衾田墓(手白香皇女墓)については倭の山辺郡にあり、東西二町、南北二町。墓守はない。山辺の道まがり、岡上守兼。

岡上陵はどの陵かはわかってはないですが、この陵の墓守が兼務して手白香皇女の墓守をしていたそうです。山辺の道匂という原文ですが、まがりと字を間違えたのではということでした。


何故手白香皇女は古市古墳群ではなくオオヤマト古墳群に葬られたのか?(白石太一郎 「后妃の古墳」「古墳の語る古代史」)

「継体が入り婿として、手白香を介してヤマトの王統との継続性を主張するには、その妃手白香の墓を始源期のヤマト王権の大王たちの墳墓の地である、奈良盆地東南部の大和古墳群に営むほうがより効果的だったのであろう。」

入り婿としての血脈の弱さを手白香皇女を介してより強固にするため、日本(ヤマトという名前の由来となったここ、三輪山や奈良盆地の麓であるこの地でなければいけなかった。手白香皇女が正当なヤマト王権の血筋として、知らしめるためにこのヤマトの地に墓を置いたということになる。)

私見を加えると、西殿塚は卑弥呼の後継者であるトヨの墓ではないかといわれている。(280年ごろの墳墓と言われているので、手白香とは時代的には合わない)230年ころが卑弥呼の時代であり、箸墓古墳が卑弥呼であったとすると、その次世代の後継者の墓がこの西殿塚古墳となるそうです。)
この講座のあとに行った、東殿塚と西殿塚はあたかも最初に並べて造営するように作られているそうで、こんな山の上で、どちらも地ならしをしてその上に墳丘をつくっているそうです。たくさんの地方等から来た人員によってつくられているそうです。そして、東殿塚は祭祀のために作られた墳墓であり、発掘品の中には祭祀で使用するようなものがいくつも出土しているという。トヨは祭祀をつかさどり、巫女のような存在でしたが・・・年代的には卑弥呼やトヨの時代は神功皇后の時代でもありましたが・・・)

この2つの墓は古来女性の墓という伝承はあっても、年代も下ると、トヨと手白香皇女の墓がどちらであったのか、古代の伝承されてきた墓と歴史上確かに存在し、王朝の移り変わりの大事な役割を果たした皇女の墓との区別もつかなくなったのか・・・日本の根幹の地である大ヤマトのこの地に隣り合わせの墓をもち、または意識して近くにしたのか(山を歩いて10分、15分位離れた距離)、大伴氏の失脚などでその後、はっきりとした所在がわからないまま、当時の人がどれだけ継体天皇の出自や手白香皇女の結びつきを理解していたのか、新聞もなく伝聞だけの社会で言い伝えなどにより真実とは違って伝えられてしまったのでは???また一般の人がまだ文字も広がってない時代にここが皇女の墓との認識を持つことができたのかどうか・・・稚拙な私の私見。

西山塚古墳の近くに菅原神社があり、そこは古墳の上に神社があり、昔の資料によるとこの古墳は横穴式石室を持ち、6世紀初頭の造営時期で、手白香皇女と時代を一にする人となります。盟主の墓と案内の先生が言われてました。このあたりを本拠地とするのは大伴とか、物部氏の勢力圏であり(午前の講座でこのあたりの勢力範囲を示す氏の名前による)、継体擁立に携わった大伴氏やその他、皇女に関わる人のお墓かな???
西山塚を守るような場所にあるので、かなりの縁があるのかどうなのか・・・・

写真は西山塚古墳です。





近くには畑や柿の木がありましたが、周壕などは築造当時のままです。金魚が泳いでいました。


手白香皇女は継体よりも早くに亡くなったのでは?と午前中の講座で言われていました。

継体はここ西山塚古墳に来たことがあったかもしれませんね。

奈良に20年入れなかった、または入らなかったといっても、このあたりは大伴、物部の勢力範囲ですので来れたでしょう。墓も建造できているのですがら・・・

東殿塚古墳はかなり小高いところにあり、大和三山、行燈山古墳、箸墓古墳、遠くは藤原京が見渡せる場所にあります。ここから夜、祭祀のためにかがり火を焚いて、厳かな儀式を行えば、民は畏怖の念を抱いたでしょう。勝ってな私見。





東殿塚を後ろにしてヤマトを摂りました。この日はとても天気もよく、歩いていて気持ちのよい日でした。

木々の葉は薄紅葉ではありましたが、おだやかな気候のなか、秋の奈良を楽しみました。



ここから山辺の道、中山古墳、黒塚古墳、柳本駅へと・・・



中山古墳です



黒塚古墳の周壕です。やや紅葉となっております。


前日から楽しみにしていた講座なので、なかなか寝入るのに時間がかかり、久しぶりに子供の頃の遠足前のウキウキ感でした。

6.7キロのハイキングにしては、短い距離というのも助かりました。

ようやく行き方もわかったので、今度は自分のペースでゆっくりとお弁当を持参して、西山塚古墳に行ってみたいと思っております。



黒塚古墳の上から撮った写真です。



ついでに昼のサービス定職です。810円消費税込でした。

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