雄略天皇は一言で言うと信長のような革新者であったようです。
信長って革新的で残酷で、既成の勢力を嫌うようなイメージがあるのですが・・・
近つ飛鳥博物館は京阪線からは3回も乗り換えてからバスに乗り継ぎます。1日がかりとなりました。
この前は要領を得ず、敷地内に入ってからも博物館らしきものが見当たらず近くを歩くおじさんに博物館はどこですかと聴く始末。おじさんもあの道をずっと行って、階段を降りたら、見えてくるというお話のあと、すいませんなと謝ってました。おじさんが悪くないのにね。気の毒がられてしまいました。
山道を歩いて15分くらいかかりました。山は群集墳になっていることにあとから気がつきました。
5時過ぎに博物館を出るともう暗くなっており、暗い山道を一人で歩くのはおばちゃんになっても怖いものでした。石棺など置かれた群集墳の中をひたすら歩き、ようやくバス停へ・・・本数も少なくしばらくバスを待ってようやく帰途につけることができたので、今回は2回目なのでどうにか行けました。
古墳女子なんて言葉がありますが、ここの博物館は古墳の中にありますので、古墳女子は見ごたえがあるのでは?
もっと先をハイキングすれば、用明天皇陵や推古天皇陵、聖徳太子のお墓がある叡福寺などがあります。
ともかくここが、橋本さんが文楽と同様補助金の対象から外そうとしたのが、少なからずわかったような・・・
汗を拭きながらも、ようやく博物館に到着し、もうすでに講座ははじまってましたが、お話を聞くことができした。
館長さんのお話なので、はいりきれない人人人。
部屋の前に置かれているテレビで聴くこととなりました。
ワカタケル大王の文字が刻まれた鉄剣が、埼玉の稲荷山古墳から見つかり、古代の天皇はいたのかいなかった のか本当のころはどうなのか?
わからない中で、雄略天皇は実在していた方のようです。
皇位継承者等の身内や縁戚につながる一族の大臣を殺戮し、残酷なイメージもありますが、首長連合体制であったヤマトを雄略以降専制化されたようです。葛城氏との縁戚関係が太い大王なのに、残忍にその一族を壊滅するのは、保守的で身動きのとれない既成勢力だったからなのか???
鉄剣は九州でも見つかっており、ヤマトの支配体制は強化される時代でもあったのでしょうか。
九州のウリテは参事せし典曹人と書かれ高い身分だったという、埼玉のヲワケは若いころはワカタケルの大宮を守っていたことを記念して刀を作った。
講座では岡ミサンザイ古墳が雄略天皇(ワカタケル)の陵ではというお話もありました。
父の市辺忍羽皇子を殺戮されている仁賢、顕宗兄弟が雄略陵をあらすことにしたけど、やはり死んだ人の陵をあらすのは良くないと兄が思いとどまったことが古事記に書かれている。
ワカタケル大王の王宮については、初瀬朝倉宮であり、要衝の地に宮を置くものであり、東北、関東、伊勢などに繋がる地であるところとなるようで、現在発掘調査が進められている脇本遺跡ではないかとのことでした。
脇本遺跡は5~7世紀の遺構が見つかっており、複数の施設があったそうです。
伊勢の斎宮として赴く大来皇女の「泊瀬斎宮」(はつせいつきのみや)が営まれた場所としても注目されているようです。
講座が終わると、博物館を閲覧。
ワカタケルの名前の書いた鉄剣のレプリカなどがありました。
帰りはこの前より1本早いバスに乗ることにしました。
特別展の写真は撮れませんが、その他の場所で写真を撮ってもよい場所がありました。
円筒型埴輪です。このはにわって古い時代(西殿塚古墳にもあった)からあるのですね。聖なる場所との境を表すのでしたか?今城塚古墳の案内に書いていたような・・・裏覚えですが・・・
石棺です。並べておかれています。
この博物館は安藤忠雄さんのデザインの博物館で、とてもゆったり歩けます。
大仙陵(仁徳天皇陵)の小型モデルです。陪塚などもあります。四角形の墓や墳丘など身分で違っていたのでしょうか?
群集墳も撮影してみました。こういう山道は一人では怖いですよ。この日はまだ明るいうちでしたので、犬の散歩する人もちらほらいました。
群集墳は職業集団かとの見方ですのでこのあたりも昔は渡来人が多くいた地域ですから、職業集団もいたのでしょうね。
今日は明るいうちに帰るので、写真を撮る余裕があります。
レプリカの石棺が置かれています。
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