やまと道の会の講座とそのあとのハイキングへ行ってきました。
携帯を忘れてしまい、せっかく快晴のハイキング日よりの写真が撮れずじまいで残念した。
講座は大津の皇子のすべてでした。先生はこの数枚の冊子で大津皇子の卒論が書けるといわれていました。
大津皇子も文献に残っている研究資料は限られているということでしょうか。
講座のあとはいよいよハイキングです。
竹ノ内街道と横大路の交わるところを歩きました。
この辺りは芭蕉の弟子が住んでいて、芭蕉も訪ねてきて、しばらく滞在したことがあるようでした。
俳句の句碑を見てから、當麻寺へと向かいます。
當麻寺は創建当時の対の塔が残っている唯一のお寺だそうです。その他いろいろ古いものがあるお寺で、たいそう先生はお好きなお寺のようでした。
それからいよいよ鳥谷口古墳へ
悲劇の皇子 大津皇子の墓ではないかといわれている墳墓です。
當麻寺から歩いて20分位でしょうか。今度はゆっくり来てみたいと思います。
永井路子さんの「裸足の皇女」折口信夫さんの「死者の書」を読んでいたので、複雑な気持ちもありました。
大津の皇子は容顔美麗で文武両道に秀でていて、草壁皇子の次に皇太子になる資格がある皇子でした。
母の太田皇女の身分は高く天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘である越智郎女との間にできた皇女であった。持統とは同母の姉妹であり、早世しなければ、十分太田皇女の方が姉でもあり、持統より早く皇后になった人であったかもしれない。
突然謀反人とよばれ、翌日自刃しなければならなかった、まだ若き青年の心はどうであったのか・・・
思いめぐらすと複雑なものがこみ上げてきます。
姉の大伯皇女は大津皇子の件で伊勢の斎宮を解任され奈良に戻ってきますが、その後の消息は不明だそうです。
乙巳の変の年に生まれた持統天皇はどうして天武と自分の血筋にこだわりすぎて、結局天智系の天皇にその後皇統をゆだねることになってします。もう少し、ゆとりある心で接していたら、天武系の天皇は現在ものこっていたでしょうにね。
携帯を忘れてしまい、せっかく快晴のハイキング日よりの写真が撮れずじまいで残念した。
講座は大津の皇子のすべてでした。先生はこの数枚の冊子で大津皇子の卒論が書けるといわれていました。
大津皇子も文献に残っている研究資料は限られているということでしょうか。
講座のあとはいよいよハイキングです。
竹ノ内街道と横大路の交わるところを歩きました。
この辺りは芭蕉の弟子が住んでいて、芭蕉も訪ねてきて、しばらく滞在したことがあるようでした。
俳句の句碑を見てから、當麻寺へと向かいます。
當麻寺は創建当時の対の塔が残っている唯一のお寺だそうです。その他いろいろ古いものがあるお寺で、たいそう先生はお好きなお寺のようでした。
それからいよいよ鳥谷口古墳へ
悲劇の皇子 大津皇子の墓ではないかといわれている墳墓です。
當麻寺から歩いて20分位でしょうか。今度はゆっくり来てみたいと思います。
永井路子さんの「裸足の皇女」折口信夫さんの「死者の書」を読んでいたので、複雑な気持ちもありました。
大津の皇子は容顔美麗で文武両道に秀でていて、草壁皇子の次に皇太子になる資格がある皇子でした。
母の太田皇女の身分は高く天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘である越智郎女との間にできた皇女であった。持統とは同母の姉妹であり、早世しなければ、十分太田皇女の方が姉でもあり、持統より早く皇后になった人であったかもしれない。
突然謀反人とよばれ、翌日自刃しなければならなかった、まだ若き青年の心はどうであったのか・・・
思いめぐらすと複雑なものがこみ上げてきます。
姉の大伯皇女は大津皇子の件で伊勢の斎宮を解任され奈良に戻ってきますが、その後の消息は不明だそうです。
乙巳の変の年に生まれた持統天皇はどうして天武と自分の血筋にこだわりすぎて、結局天智系の天皇にその後皇統をゆだねることになってします。もう少し、ゆとりある心で接していたら、天武系の天皇は現在ものこっていたでしょうにね。
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