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ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

「名家の娘ソヒ」  完成されたストーリー

2015年10月29日 20時49分15秒 | 韓国ドラマ
「名家の娘ソヒ」の26巻をみました。

最初の出だしは何か暗く陰鬱としてましたが、日韓併合の目まぐるしく変動する時代を背景として、両班の生まれであり広大な土地を所有する名家に生まれたソヒの波乱にとんだ生涯のお話でした。

「萬江」の時代よりも下ることにはなりますが、や白丁、常民などの身分社会の絶えない差別意識や鬱屈した朝鮮の人たちが暮らす時代です。

白丁って動物や獣以下の扱いを受けた、身分社会の底辺にいる人ですかね?

よくわかりませんが・・・

息苦しいドラマの中で、唯一恋の咲かせたソヒの母と下男キムファン

ソヒの母は下男と外出の折、雨にあい一夜を過ごすことになる。2人はなにもなかったのですが、当時の世情ではそれは許し難いこと

2人は蔵に押し込められることになりますが、キムファンの本当の母であるソヒの祖母によって蔵のカギは外され逃げることになる。

キムファンの惜しみないソヒの母に向けられた愛は、見ていて心打つものがありました。娘ソヒを残してきた母にとっては、逃避行中も娘のことを思う日々でした。キムファンはそんな彼女をいとおしく、愛情を注いで彼女のためには何でもできる人でした。

体を壊したソヒの母は暮らしていた山小屋でなくなり、キムファンは彼女の墓を山つつじが咲き乱れるところにつくり、いつまでも立ち上がることができません。山つつじはソヒのために山つつじのお菓子を作りたいといっていた彼女のソヒへの愛情を深くさせたお花でした。

詩的な愛情表現ってよく韓国のドラマにありますが、このドラマも涙ぽろぽろでした。

この俳優さんが私大好きになりました。「トンイ」でチャンシビンの兄を演じた、悪役の人です。

父を亡くし、母もなくなり、ソヒは祖母と2人で生きることになります。広大な土地を、羨望した遠縁の叔父の悪巧みにより祖母なき後は叔父が家にいつくようになり、土地の権利書も取り上げられるはめに・・・

再起を誓い、土地の人とともに満州へと向かうソヒ・・・



ソヒはこの後、両班とは結婚せず、身分のかけはなれた人と一緒になる。この時代の身分制度を打破し、新しい時代へ進む朝鮮の歴史が書かれていました。

夫の深い愛情に育まれる中、ソヒは母が真剣に一人の男性を愛し、本当の愛に生きたことを知る。


この小説は読んでみたいと思いました。今までのドラマの中では完成度が高いドラマでした。

日本のことは大層悪者に仕立てあげられてました。満州から平城まで線路をひいたのは日本であり、日本の血税でもって小学校を4000も建てられたことには触れてもいませんことは残念でした。悪役は日本に忠誠を誓った朝鮮の巡査部長という設定でしたので・・・


日本よりの人はことごとく解放の日にみんなにフルぼっこされ、かなりひどい仕打ちでした。

ドラマはここまでで終わっていました。身分解放に重きを置いたドラマですし、最後日本に取り上げられそうになったソヒが最後まで守った土地は、いままでソヒとともにいた小作たちに分け与えていました。

これより朝鮮戦争へと続くので、波乱の歴史の幕開けにすぎませんが・・・

いいドラマでした、もう少し日本側の史実に基づいていればいいのですが・・・こればかりは無理ね・・・



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四条センター  10月17日

2015年10月27日 19時36分28秒 | 日記
この日は佛教大学四条センターの講座へ

紀氏についてでした。


紀臣は倭の平群谷の紀里(現生駒郡平群町上庄付近)を本拠とする豪族。半島で軍事・外交に活躍した一族。


紀ノ川下流域の遺構や古墳はこの紀臣による古墳群。

5世紀は盟主古墳が欠落する。盟主古墳の欠落は政権がヤマトから河内に移動、交代をあらわしているのか?

茅原大墓古墳、新沢千塚古墳があるのみ。

大型古墳の登場は6世紀以降、再び登場となる。

記紀の紀氏は軍事、海民的性格がうかがえる。

紀氏は紀氏集団から紀臣と紀直に分岐した。紀臣は奈良に進出して中央豪族になった。分岐の時期は奈良に6世紀後半、5世紀初頭などいろいろ説あり。



それにしても紀氏は紀貫之の祖かな?

疑問に思いました。

意外にこの時代の倭は海を越えて半島との交流が活発なのですね。

日本書記には応神3年 百済王が無礼だったので、紀角宿祢が百済に使わされ、辰期王を廃し、阿花王を擁立したと書かれている。

信憑性があるそうで、倭は王を変えられるほど半島に力があったのかと不思議に思う次第です。





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畝傍山の麓を行く

2015年10月23日 22時10分57秒 | 日記
この前の日曜日は畝傍山御領駅でおりてまたまた、橿考研の講座をききました。

題は「最古の人物埴輪と茅原大墓古墳」についてでした。

発掘にあたった、桜井市教育委員会の方が講師でした。

今回調査されたのは纏向古墳群に位置する、茅原大墓でした。

箸墓と三輪山の間に位置する古墳です。

大王との関わりを下に築造しうる墳丘規模であるそうです。

4世紀中ごろに大王を輩出した勢力の系譜。同時期の同地域では最大の古墳

茅原大墓で発掘された最古の人物埴輪の展開と情勢はいかに?

被葬者の性格は

4世紀の奈良盆地東南部を代表する首長

同時期の同地域で唯一大王とのかかわりを有した人物と推定されるようです。

このお墓の盾持人の全長は69㎝)盾部分は47㎝となるそうです。





休憩がはいり、次の時間は橿考研博物館の方のお話でした。

「なぜ人のかたちの埴輪は創られたのか」という題でのお話でした。

日本書記や古事記に書かれている、天皇等が死んだおり、近習たちを生きたまま陵墓の周りに埋めた。数日死なず昼夜泣きわめき、遂に死んで腐り、犬や鳥が集まってきてかばねを食べた。天皇は泣く声を聞いて悲しみ、殉葬は痛ましく、古来の風習とはいえよくないので今後は協議して殉葬を止めるよう臣下たちにいった。

垂仁記 日本書紀


人のかたちの埴輪はつまりは、一緒になくなった天皇等の近習の代わりに墓のまわりに埋め立てたものともいえる。

盾持つ人など墓域を警護する役割を担う人の人のかたちの埴輪といえる。



今回も古代史は興味をそそり、楽しく拝聴しました。また来月も行きたいと思ってます。


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百済寺 秋の風景

2015年10月19日 17時46分52秒 | 日記
百済寺の近くに行ったので写真をとりました。

自治会の催し物をしており、にぎわってましたが裏の食堂、講堂のあたりは夏草の名残が生い茂ってました。

東西の塔跡のあたりは人がたくさん集まってました。



           


とてもここは落ち着く空間です。

昨日は橿考研博物館が行っている人型埴輪は何故つくられたのか  を聞いてきました。

またアップします。考古学って謎だから楽しいですね。空想の幅が広がります。



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白鳳展(奈良国立博物館)を見て、そのあと京都へ考古学からみた古代豪族物部氏の講座

2015年10月09日 19時26分35秒 | 日記
先月19日は奈良国立博物館120年記念特別展白鳳 花ひらく仏教美術、愛らしく美しい、みほとけの時代と題する展示を見に行った。白鳳仏はやさしく素朴で好きな仏様が多いこと。
薬師寺の月光菩薩も来てました。腰の括れと曲線をまた見れてとても感激でした。

興福寺にある仏頭は一番の傑作だと思いますが、今回は出展されてませんでしたが、お隣の国宝館に行けば近くで見ることができます。

全国にまだ様々な白鳳仏があるのかと驚きでした。


その後、写真の定食を食べて、京都へ(仏大四条センターへ)



おつくり定食です。800円でコーヒーがついてました。(消費税込)




南円堂前の法句経です。

それから京都の四条センターへ向かいました。

「考古学からみた古代豪族物部氏  -石上神宮は物部氏の武器庫?」という題での講座でした。

先生は大阪府教育委員会からこられてました。

物部氏と大伴氏は互いに大連職であり、職種も軍事警察で活躍。

大伴金村失脚後は欽明以降は物部氏が警察と軍事を兼務。物部氏のヤマトでの本拠は(布留)

私の住まいの近所に残る古墳は普賢寺古墳であり、継体天皇の時代のものだそうです。(近所には茨田堤もあり)

継体天皇が淀川水系で絶大な力をもった背景には堀江の通行管理を掌握し、淀川を渡る船から通行代を徴収し、莫大な権利を握っていた?

ヤマトには継体即位に反対する勢力があり、大和川、淀川の交通を規制してこれを阻害。

堀江の通行阻害は大和への物流を滞らせ、継体勢力への恭順を余儀なくされた。

など、講座でお聞きした内容は驚くばかりでした。

管理については欽明天皇時に大伴金村の失脚で、物部氏に移行した?という説もあるそうです。その後蘇我氏へ・・・
 
大伴氏の失脚により物部氏が台頭したといえるのかも。大伴氏と物部氏でしたらはるかに大伴氏の方が古代力があった勢力だったそうですが・・・

古代史はわからないから面白いのかも・・・

男性がミステリアスな美女に魅かれるような・・・

早く文字が見つかり解明されるといいですね。

でも、最初に大王へのお話を持ち込んだのは倭彦王でしたが、この方も地元の地方を掌握して大王に相応しい方だったのかな?

何故継体は2番手だったのか疑問です。

今までの血脈と違う大王を擁立するのだったら、力のある臣下が即位してもおかしくないのに、しなかったのは何故なのかな?

不思議だらけだから面白い・・・





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