ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

大岩山日石寺(不動明王磨崖仏の見学)

2014年10月31日 15時04分28秒 | 日記
この前の富山ツアーでは、大岩山日石寺の見学もあって、あちらこちらと観光地を発掘している旅行社も大変だなと思いながら、お寺を回りました。

意外に大きなお寺でした。

行基が建てたそうです。

また今度塔の写真を掲載してみます。

行基は社会福祉事業に尽力されたのではなかったですか?

近鉄奈良駅の噴水にある像も行基だったような・・・

お寺検定にでそうなので、あとで調べてみます。


このあと、北前船廻船問屋の森家を見ました。秋篠宮様も来られたことがあるようで、案内役の人が張り切って案内されてました。

でも、金沢駅に急がないと間に合わない状況なので添乗員さんは長い解説に途中、早くお願いする旨伝えてました。

京都の宮大工をよんで作らせたそうで、力が入ってました。現在は市が管理されているようで、案内人も市の職員さんのようでした。

楽しい旅も終わり、金沢からサンダーバードに乗って帰途へ・・・

北陸新幹線もできるようで、北陸の各観光地は東京からの観光客も増えることを期待しているようでした。

近畿方面はまだサンダーバードでないといけないようで、早く新幹線が近畿から北陸へ行けるようになったら、もう少し北陸が身近になるのではと感じつつ、旅は終着駅大阪へと向かうのでした。




それにしてもお寺検定の結果がまだ届かないのはどうしてかな?

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富山称名の滝 山里の梢の錦

2014年10月27日 20時32分57秒 | 日記
      

おわら風の盆の舞台となる八尾の観光会館で、祭りの山車をみました


      

日本の道百選に選ばれた道

      

称名の滝は薄く梢が赤青黄色と色づくころとなり、山里の秋を堪能しました。

おわら風の盆は再来年から土日開催となるようで、楽しむなら来年の平日来て下さいといわれてました。

きれいな踊りで、一度見てみたいです。

本当女一人旅しても来たい祭りです。

自分のために踊るので、商店街も全てしまって、お店の人も祭りに参加するそうです。

こんな片田舎で素敵な祭りと遭遇したら、思い出に残る旅行となるでしょう。

添乗員さんのおすすめは、夜行バスで来ることだそうです。ツアーでくると10時までに旅館に帰らないといけないそうで、夜行バスだと、観光客向けでない10時からの本格的な祭りを見ることができるそうです。


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五箇山へ 山里の秋を見つけました

2014年10月21日 18時28分54秒 | 旅行
連休は五箇山へ行ってきました。

晴天で気持ちのいい日でした。

五箇山と翌日はおわら風の盆の町を散策。など織り交ぜたツアーです。

1日目は五箇山に・・・

梢にはちらほらといろづきを迎えようとしている木々があり、紅葉になるころには美しい山里の風景となるのだろうと想像しながら、白川にに比べるととても小さな村ですが、わらぶき家屋を楽しんできました。

塩硝や蚕で昔は生業を立てていた村のようです。

江戸時代は流民による塩硝の生産をしていたようです。(てっぽうに関係するので極秘の生産なのかな・・・)


    

今は村の人たちによるお土産やや食道、喫茶店などされていました。

    

里の秋も、旅行者によるにぎわいを見せていました。水彩画を描いている人がたくさんいました。

山間のやや谷合に山村はあり、バスから降りると5分ほど下り坂を歩きました。

    

夜は玄猿楼という旅館でごちそうを頂きました。

懐石風になっていて、食べやすいものばかりでした。なべははもとマツタケが入っていました。美味。

お刺身もこういうツアーは乾いていることが多いのですが、切ったばかりのようでした。

真ん中にある鮭はいままで食べた中で最高に美味しい鮭でした。

旅行中じいちゃんが富山生まれであったことを思い出しました。

じいちゃんは父が15歳の時に亡くなったので、私は会ったことはないのですが、富山は懐かしい感じがしました。


  







帰ってきてから、図書館講座の科目終末テストの申し込みをしてなかったことを思い出し、テキストをあわてて読み、レポートをなんとか徹夜で昨日かきあげ、ようやく本日WEBによる提出と試験申し込みができました。






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あおによし 奈良に行ってきました。

2014年10月15日 00時07分16秒 | 旅行
奈良に行ってきた。

いつもの講座を聞きに・・・

1時の講座が始まる前にお昼ご飯を食べた。(お昼の日替わりランチ780円)





お刺身、から揚げ、自家製豆腐のあんかけ、赤出汁がついてこの値段でした。


本日の南円堂の法句経です






1限目は「維摩詰所説経」巻中です。このような内容でした。

巻に出てくる意味

(実相 すべてのものの ありのまま、真実)

(法要 真理の本質。佛教の肝要)

(菩薩の法式 什曰く神通変化諸威儀をいう成り)




文殊菩薩が病に伏せる維摩を訪ねるところ(実は病はなく、問答に答える人を招くように維摩が仏に願ってきてもらっている)


仏、文殊師利に問疾を命ず

その時、仏は文殊師利に告げたまえり。「汝、維摩結に行啓して疾を問え」

文殊師利は仏にもうして言えり

「世尊よ、彼の上人は詶対為し難し。深く実相に達し、善く法要を説く。弁才滞ること無く、智慧礙げ無し。一切の菩薩の法式をば悉く知り、諸仏の秘蔵にして入ることを得ざる無し。衆魔を降伏し、神通に遊戯す。其の慧と方便と皆な既に度するこをを得たり。然りと雖も、当に仏の聖旨を承けては、彼に詣りて疾を問うべし」

是に於いて、掌中の諸菩薩・大弟子・釈・梵・四天王等、是の念を作せり。

今、二太士、文殊師利と維摩結とともに談ぜんとす。必ずや妙法を説かん。と。

即時に八千の菩薩と五百の声聞と百丈の天人は皆な髄従せんと欲せり。


文殊さんはどう問答にお答えになるのでしょうね。


2限目は今年のテーマである命でした。

奇しくも「いのち」のアビダルマという題でした。

アビ とは対する分析する、解釈するという梵語の意味 ダルマとは教え、法  法について、すぐれた法、教えの解釈という意味

世親の弟子の安慧は瞑想の際、一つの対象に対して心を集中するため。会話やディベートにおいて相手からの質問に答えるための専門技術のために、アビダルマの知識が必要」と五蘊論釈がある。

この講座で命とは俱舎でいう命根で解釈される意味を説かれていた。

五根がその対象である五境と接触することで生じる認識、それ自体「心」というものである。眼根が外界にある青の極微と接触すると、私たちの内部に「青という認識」が生じるが、その認識そのものを「心」と呼ぶ。
心イコール認識である。仏教では「認識」とは言わずに「識」と呼ぶので、正式に言うなら、心イコール識ある。
そして、それはまた別名「意」とも言われる。
「心=意=識」である。

つまり、見えないものが見え、聞こえないものを聞く、これが命というものである。

という結論になるようです。

縁起によって成り立つ世界=命である。



難しい講座でした。

それでもみなさん熱心に聞いておられ、居眠りする人もいませんでした。

私は少し眠たかったですが・・・


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ピダムについて調べてみました

2014年10月09日 18時12分08秒 | 日記
ピダムについて調べてみた。

ドラマは史実ではなく創作が、特に韓国ドラマには多いので、差し引いて考えないといけないところがある。

ピダムという人物は善徳女王の時代に実在した人物のよう。

真骨と推定される貴族。

キムユシン列伝、「三国史記」善徳女王条に出てくる。

生年、父母など出生に関する事項、業績については記録が全くない。

645年に和白会議の首座であることと、そのころ新羅最高官職である、上大等についていた。

もちろん任命したのは善徳女王であるのでしょう。

任命されているということは、貴族勢力を抑える力もあり、善徳女王側に近い人間であったとも推測される。

ピダムは唐が百済戦での援軍条件として、女王を廃して唐の王室から新王をたてることを迫った時、任命されている上大等に関わらず、親唐派の先頭にたった。「女性君主は国を治めることができない」と反乱を起こした。

その後、城をとりまいたキムユシンによって刺殺された。

彼の9族はすべて滅ぼされた。この乱に連座して死亡したものは30人といわれる。


ということで、彼は善徳女王条その後即位する真徳女王条、ユシン列伝に名前があるだけで、歴史から消えているというのが事実である。

善徳女王はこの乱の途中で死亡している。乱は10日あまりで鎮圧された。

善徳女王が任命したのだから、絶大な信頼をしていた者と推定するけれどこのような仕打ちはとても衝撃だっただろう。

ピダムという名前は当時新羅で興隆されていた佛教に関係する名前のように思われる。善徳女王もドラマの中でお寺を建てて晩年はそこに隠居したいとも言っていた。

ピダムは佛教に厚く帰依した人物ではないかな?(私の推定)  説一切有部派

貴族ということでは王族とも親戚であったろうし、真骨として王につける身分であったとも容易に推測できる。

王様の隠し子というドラマの設定もあながち考えられるかも・・・




新羅について調べていたら、新羅の第4代脱解王は日本人だったそうな・・・

当時は国境などないのだから、好きなところへ行き好きなところで生きられた時代でもあったのかな・・・



追記
金春秋はこのころ日本に来ていたそう
「質」として  あの頃後進国の日本が質をとれるのでしょうか?どういう約束があったのでしょうね。
日本書紀に春秋はよく笑っていたと書かれているそうです・


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