ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

黒滝村を歩く  錦秋の秋を楽しむ

2018年11月30日 12時38分55秒 | 日記


昼は、いのしし汁を用意いただきました。持ってきたおにぎりと一緒にいただきました。

おかわりをしました。3ばいもお替りをしている人もいました。

地元のこんにゃくもはいっており、この後行く道の駅ではこのこんにゃくを買う人が多かったです。



温泉までの道はたくさんの紅葉を楽しむことができました。

こういうお店もない、なにもない村もいいのかも・・・

大阪に暮らすとすべて、近所で買い物など賄っているので、何も店が見当たらないここでの生活はどんなに不自由だろうなんて思いますが、暮らしてみると物のない、店のない生活も慣れたらいいものかもななんて・・・

老後はこういうところもいいのかも・・・

移住のパンフレットも入っていました。若い家族向けのようですが・・・子供手当や保育園など充実しているようです・・・









温泉に到着すると、そばには黒滝村役場の旧役場が移設されていました。

モダンな建物です。




道の駅では柿を買って帰りました。

秋の日のよい一日でした。



横になりましたが、神社の写真も入れておきます。

いろいろ講座を行くと、村社、郷社、官幣大社など消された神社の名前を見ることもあり興味はつきませんが、
こちらも郷社が消されていました。






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黒滝村の深山道  秋の風景

2018年11月29日 18時18分00秒 | 日記
洞川のあたりから、米投峠越えをしてきました。

やや曇りがちでしたが、それでも雨は降ってきていませんでした。






山々が一面に広がります。杉も植林でしょうか、かなりの杉林を歩いていきました。






トンネルを抜けるとそこは、黒滝の村が一面に広がりました。


秋の1日でした。つづく



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米投峠を歩く  黒滝村の秋

2018年11月26日 15時15分14秒 | 日記
去年、黒滝村の吉野山のハイキングに参加したからなのか、今年も案内状がきました。米投峠を行くツアーです。

下市口で、受付を済ませて、バスに乗り込みました。バスは3台もあったようです。

洞川で、下車して、米投峠までの坂道を上りました。県道といっても細く急な斜面でした。

ようやく何回目かのカーブを曲がったところにトンネルがあり、案内の人がこのトンネルを抜けると坂道になり楽になると言われていました。

トンネルは真っ暗で、向こうの世界は、紅葉の里山となっているのがみえました。

とっても楽な坂道を下って、ずいぶん景色のいいところも通りました。

色とりどりの深山路を歩いて、里山を抜けました。

黒滝村の村役場近くまで来ると、恒例のいのしし汁を用意いただいていました。

お替りOKなので2杯もお替りしました。

昼食を済ませて、去年も行った、温泉へ向かって4キロもあるきました。

また写真をアップします。


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広開土大王

2018年11月22日 12時56分22秒 | 日記
韓国ドラマの「広開土大王」を見ました。

男性的な主人公の生涯でした。

倭も若干かかわっていました。

好太王碑文に書かれた時代の話です。

あの頃の倭はどのような時代を迎えていたのでしょうね。

朝鮮半島まで行ける時代なので、航海技術などあったのですね。

意外に活動範囲が広いので驚きです。

葛城襲津彦が朝鮮まで行って、鉄の技術者を日本に連れてきた時代と重なっている。

謎の4世紀後半、朝鮮を舞台に繰り広げらえるお話でした。

主役の男性は無茶好みのタイプでした。ワイルドな男性でした。


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葛城の麓を行くH30.11.10

2018年11月15日 00時08分43秒 | 日記
葛城歴史博物館へ行ってきました。

「ワカタケルの防衛軍」という題でした。

ヤマトタケルの伝説は雄略天皇のころに完成したらしく、この二人のタケルの伝記はダブっているところもあるのではないかと・・・

私も思っています。


この講座では甲冑や武具などのお話が多かったですが、見せるための武装をされていることを強調されていました。

いかつく見せるための武装・・・

主要な街道や、ワカタケルの宮である大和朝倉の宮を守る護衛軍は、甲冑を身に着け、大王の宮や主要な道や海につながる交通の要衝に兵士を配備していた。
このころ馬に乗りやすいように小札の甲冑を身に着ける人もいた。それは大王から配布されたものであったであろう。

そのあたりの古墳にはわずか数メートルの古墳のものでも甲冑が埋められているものもある。


私はこう思います。

まだ大和が首長連合国家であったころ、地方からくるものたちをこの甲冑を身に着けたいかつい兵士たちがいる峠や道を通ることで、大和の威厳を見せつけた?まだ大和に服従していない国を、統一していくための手段としてであった?

よく博物館には古墳から発掘された甲冑が飾られていますが、戦がたくさんあったのかと思っていました。見せるための甲冑でしたら、それもありかな?

韓国ドラマで「広開土大王」を今見ていますが、400年前後のお話で、倭 もどき も出てきています。

そのころの日本は大和王権が統一は先であり、連合国家がたくさんあった。

百済と手を結んだのはどの連合国だったのか?
百済と結んだことで統一を早めたのではないかと、ふと考えました。強力な先進国家と手を結ぶことは流通面や、軍事面でどの国にも負けない先進性を持つことを意味する。

百済と日本てどんな関係だったのか?よく言われていますが

百済を味方につけた首長連合国家が力をつけたことは間違いないのではないかと思いました。



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