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ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

手白香皇女と大王の系譜 大和青垣・龍王山麓の巨大古墳をめぐる

2015年11月08日 19時38分42秒 | 旅行
奈良学文化講座で開催された講座とその後のハイキングに参加し、かねてより行ってみたかった手白香皇女の墓と大和の古墳をを見てきました。

午前は10時から奈良文化会館で「手白香皇女から考える-古代王権と継体天皇」という内容で講座をされました。

講師は水谷先生でした。お名前から女性なのか男性なのかどうなのか実態が楽しみでしたが、男性でした。

よく継体天皇のことをネットで探していると、お目にかかるお名前の有名な先生でした。

手白香皇女の墓は宮内庁書陵部が認めている西殿塚古墳ではなく、今城塚古墳出土の埴輪と同じ窯で焼いた埴輪が出土している西山塚古墳ではないかと言われているそうです。

延喜式では衾田墓(手白香皇女墓)については倭の山辺郡にあり、東西二町、南北二町。墓守はない。山辺の道まがり、岡上守兼。

岡上陵はどの陵かはわかってはないですが、この陵の墓守が兼務して手白香皇女の墓守をしていたそうです。山辺の道匂という原文ですが、まがりと字を間違えたのではということでした。


何故手白香皇女は古市古墳群ではなくオオヤマト古墳群に葬られたのか?(白石太一郎 「后妃の古墳」「古墳の語る古代史」)

「継体が入り婿として、手白香を介してヤマトの王統との継続性を主張するには、その妃手白香の墓を始源期のヤマト王権の大王たちの墳墓の地である、奈良盆地東南部の大和古墳群に営むほうがより効果的だったのであろう。」

入り婿としての血脈の弱さを手白香皇女を介してより強固にするため、日本(ヤマトという名前の由来となったここ、三輪山や奈良盆地の麓であるこの地でなければいけなかった。手白香皇女が正当なヤマト王権の血筋として、知らしめるためにこのヤマトの地に墓を置いたということになる。)

私見を加えると、西殿塚は卑弥呼の後継者であるトヨの墓ではないかといわれている。(280年ごろの墳墓と言われているので、手白香とは時代的には合わない)230年ころが卑弥呼の時代であり、箸墓古墳が卑弥呼であったとすると、その次世代の後継者の墓がこの西殿塚古墳となるそうです。)
この講座のあとに行った、東殿塚と西殿塚はあたかも最初に並べて造営するように作られているそうで、こんな山の上で、どちらも地ならしをしてその上に墳丘をつくっているそうです。たくさんの地方等から来た人員によってつくられているそうです。そして、東殿塚は祭祀のために作られた墳墓であり、発掘品の中には祭祀で使用するようなものがいくつも出土しているという。トヨは祭祀をつかさどり、巫女のような存在でしたが・・・年代的には卑弥呼やトヨの時代は神功皇后の時代でもありましたが・・・)

この2つの墓は古来女性の墓という伝承はあっても、年代も下ると、トヨと手白香皇女の墓がどちらであったのか、古代の伝承されてきた墓と歴史上確かに存在し、王朝の移り変わりの大事な役割を果たした皇女の墓との区別もつかなくなったのか・・・日本の根幹の地である大ヤマトのこの地に隣り合わせの墓をもち、または意識して近くにしたのか(山を歩いて10分、15分位離れた距離)、大伴氏の失脚などでその後、はっきりとした所在がわからないまま、当時の人がどれだけ継体天皇の出自や手白香皇女の結びつきを理解していたのか、新聞もなく伝聞だけの社会で言い伝えなどにより真実とは違って伝えられてしまったのでは???また一般の人がまだ文字も広がってない時代にここが皇女の墓との認識を持つことができたのかどうか・・・稚拙な私の私見。

西山塚古墳の近くに菅原神社があり、そこは古墳の上に神社があり、昔の資料によるとこの古墳は横穴式石室を持ち、6世紀初頭の造営時期で、手白香皇女と時代を一にする人となります。盟主の墓と案内の先生が言われてました。このあたりを本拠地とするのは大伴とか、物部氏の勢力圏であり(午前の講座でこのあたりの勢力範囲を示す氏の名前による)、継体擁立に携わった大伴氏やその他、皇女に関わる人のお墓かな???
西山塚を守るような場所にあるので、かなりの縁があるのかどうなのか・・・・

写真は西山塚古墳です。





近くには畑や柿の木がありましたが、周壕などは築造当時のままです。金魚が泳いでいました。


手白香皇女は継体よりも早くに亡くなったのでは?と午前中の講座で言われていました。

継体はここ西山塚古墳に来たことがあったかもしれませんね。

奈良に20年入れなかった、または入らなかったといっても、このあたりは大伴、物部の勢力範囲ですので来れたでしょう。墓も建造できているのですがら・・・

東殿塚古墳はかなり小高いところにあり、大和三山、行燈山古墳、箸墓古墳、遠くは藤原京が見渡せる場所にあります。ここから夜、祭祀のためにかがり火を焚いて、厳かな儀式を行えば、民は畏怖の念を抱いたでしょう。勝ってな私見。





東殿塚を後ろにしてヤマトを摂りました。この日はとても天気もよく、歩いていて気持ちのよい日でした。

木々の葉は薄紅葉ではありましたが、おだやかな気候のなか、秋の奈良を楽しみました。



ここから山辺の道、中山古墳、黒塚古墳、柳本駅へと・・・



中山古墳です



黒塚古墳の周壕です。やや紅葉となっております。


前日から楽しみにしていた講座なので、なかなか寝入るのに時間がかかり、久しぶりに子供の頃の遠足前のウキウキ感でした。

6.7キロのハイキングにしては、短い距離というのも助かりました。

ようやく行き方もわかったので、今度は自分のペースでゆっくりとお弁当を持参して、西山塚古墳に行ってみたいと思っております。



黒塚古墳の上から撮った写真です。



ついでに昼のサービス定職です。810円消費税込でした。

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瓜割の滝の水でコーヒーを

2015年09月26日 21時37分48秒 | 旅行
瓜割の水でコーヒーを飲んだ。

名水百選に選ばれているそうで、ピリッとしておいしかった。

  

この後は梨狩りに行って梨を堪能。

1日中バスに乗ってあちらこちら。

滋賀の高島から安曇川を通り、瓜割の滝、梨狩り、福井美浜でご飯を食べてから岐阜養老あたりのファッション工房をめぐって帰途へ。

偶然にもこの前の継体天皇のゆかりの地を通過してきたわけでして、意外に大阪、京都へ出るのは近かったのかも・・・

美濃に抜けるのもそれほど距離があるわけでもなかったでしょう。

高島から対岸の息長真手王の本拠地へも船を使えば行き来は簡単のようです。

今度は継体が即位された、樟葉の宮跡地に行く予定となっております。



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限りなく透明に近いブルー 秘境ツアー

2015年09月22日 21時21分01秒 | 旅行
お盆に長野へのバス旅行に行ってきました。

限りなく透明に近いブルーの阿寺渓谷や山里の人の行かない渓谷を旅してきた。

なぜって申し込みが遅く、このツアーしか残っていなかったというのが本音でしたが、行ってみて自然に触れることができる、もう今後年齢を重ねると、秘境の連続すぎて絶対いけないツアーでありまして、この機会に行けてよかったツアーとなりました。







昔の中山道を通り、○○宿があったところなど京都を目指して歩いた人がいたのかと感無量。

でもバスのなかでも山また山のとどめなしの連続風景。

旅人はこの風景のなかを何カ月もかけて歩いたのでしょうね。







マイナスイオンの中、さわやかな渓谷のある不思議な奥地へと案内されました。由木美林だそうです。



険しい岩が連なる渓谷でして、近くまで行きましたが、かなり大きな岩となっていました。どうできたのでしょうね不思議です。

寝覚床



松代ロイヤルホテルに泊まり、おいしいバイキングに舌鼓でした。

翌日は奥裾ダム、戸隠森林植物園、鏡池などを周りました

白樺やダテカンパなど高地ならではの木々がありました。



雨だったので写真も雨風景で掲載はしてませんが思い出に残るツアーでした。

都会の雑踏をしばし忘れて人間の本来求める自然の風景を満喫しました。



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大王の陵 歩ける継体天皇陵を行く

2015年09月06日 00時06分33秒 | 旅行
日本の初代天皇 継体天皇陵といわれる今城塚古墳にお盆休みに行ってました。

一度行ってみたかったので念願がかないました。

高槻は淀川をはさんで枚方と対岸となり、距離的にはバスと電車を乗り継いでも1時間ちょっとで行ける距離です。

こんなに天皇陵が近くにあるのにあまり、人もなく、散歩のご老人やサッカーをする子どもたちに出会った位でお盆のお休みといっても混雑することもありませんでした。




お盆の14日、うだるような暑さでした。




念願の継体天皇陵に到着。駅から迷い迷い来たので30分ほどかかりましたが、眼前に見る継体天皇陵は大きな古墳でした。



高槻北口から今城塚古墳前までのバスもあったようです。この前の橿原考古学博物館の高槻職員のお話では摂津富田から歩くというお話でしたので、バスを利用しませんでしたが・・・帰りは高槻北口までバスで行きましたが、かなり迂回をするコースですが暑さに対しては助かりました・・・



陵墓は以前は畑や水田となっており、現在までに80%は市が購入することができたそうです。








埴輪の配置はほぼ発掘状態と同じように並べているらしいです。

建物の前に何かしら巫女的な祈りをする女性が筆頭として、数々の従者をしたがえているように見えます。



埴輪はすべてレプリカです。



この埴輪は宮内庁に認められている継体陵といわれている太田茶臼山古墳と同じ窯で作成されているようです。









古墳の中を歩くのは初めてでしたが、王朝の交替を迎えた日本の最初の大王の墓を歩くことができたのは感無量でした。



大きな地震があるたびに墓の形は変わっていきましたが、角はそれほど変わらず、現在も残っているようです。







名残惜しい気持ち一杯でしたが継体天皇陵をあとにしました。資料館もあることを知りましたが、バスの時間がありましたので、また次回来ることができたら寄って見たいと思います。







淀川水系に大きな力を持つ継体の擁立に携わった数多くの豪族たちの努力と、彼本来のカリスマ的魅力でもって権力者に担ぎあげられた形ですが、彼の福井から滋賀までの勢力範囲と尾張連との関わりなど、ミステリアスだからなお引かれてしまう部分も大きいですが、彼のなしえた実績と彼の父や手白香皇女の父方の権力などどこまでこれからわかるのでしょうか...

大和は彼から始まって、血脈は今も続きていることは歴史の事実なのですからなお、今後の発掘や研究に期待しつつ帰りの帰途へ・・・

帰りの電車から見えた生駒山や飯盛山の稜線はそれほど当時と大きく変わることはないかと思いますが、当時この山をはるかかなたにいただき、継体天皇はここ大阪の地で即位、遷都し大和にはいるまで数十年を大阪や京都ですごし、淀川水脈の流れを見るこの地が彼の懐となり故郷に近い地であったに違いない。今もここに魂が眠ることに感慨深い気持ちとなり、大王の御霊が安穏として安らかであることを祈るばかりです。


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ミステリーツアー3

2015年08月20日 20時42分13秒 | 旅行
その後、篠山城へと・・・

今は大書院を再建した建物と、お堀、石垣位しか残ってませんが、いいお城だったようです。

明智光秀が築城したと添乗員さんは云ってました・・・

  

  

城下町を歩く時間が1時間ほどあり、造り酒屋の見学ができました。




   

きき酒もできました。ピリッとして美味しいお酒でした。


   

昔の道具をそのままにしており、見学ができます。


   

   

ミステリーというので、どこに行くのだろうと思ってましたが、近場でこんなに楽しめるところがあるとは・・・

十分堪能できました。このあと、てんこもりのうにいくら丼を食べることもでき、お変わりもしました。

すき焼き、フルーツ、ビール、ジュースもついているので、いたれりつくせりでした。

食いしん坊にはうってつけのツアーとなりました。

この後、めんたいこ工場の見学をして、めんたいこふりかけをもらい帰途へ・・・充実した1日となりました。

   
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