奈良学文化講座で開催された講座とその後のハイキングに参加し、かねてより行ってみたかった手白香皇女の墓と大和の古墳をを見てきました。
午前は10時から奈良文化会館で「手白香皇女から考える-古代王権と継体天皇」という内容で講座をされました。
講師は水谷先生でした。お名前から女性なのか男性なのかどうなのか実態が楽しみでしたが、男性でした。
よく継体天皇のことをネットで探していると、お目にかかるお名前の有名な先生でした。
手白香皇女の墓は宮内庁書陵部が認めている西殿塚古墳ではなく、今城塚古墳出土の埴輪と同じ窯で焼いた埴輪が出土している西山塚古墳ではないかと言われているそうです。
延喜式では衾田墓(手白香皇女墓)については倭の山辺郡にあり、東西二町、南北二町。墓守はない。山辺の道まがり、岡上守兼。
岡上陵はどの陵かはわかってはないですが、この陵の墓守が兼務して手白香皇女の墓守をしていたそうです。山辺の道匂という原文ですが、まがりと字を間違えたのではということでした。
何故手白香皇女は古市古墳群ではなくオオヤマト古墳群に葬られたのか?(白石太一郎 「后妃の古墳」「古墳の語る古代史」)
「継体が入り婿として、手白香を介してヤマトの王統との継続性を主張するには、その妃手白香の墓を始源期のヤマト王権の大王たちの墳墓の地である、奈良盆地東南部の大和古墳群に営むほうがより効果的だったのであろう。」
入り婿としての血脈の弱さを手白香皇女を介してより強固にするため、日本(ヤマトという名前の由来となったここ、三輪山や奈良盆地の麓であるこの地でなければいけなかった。手白香皇女が正当なヤマト王権の血筋として、知らしめるためにこのヤマトの地に墓を置いたということになる。)
私見を加えると、西殿塚は卑弥呼の後継者であるトヨの墓ではないかといわれている。(280年ごろの墳墓と言われているので、手白香とは時代的には合わない)230年ころが卑弥呼の時代であり、箸墓古墳が卑弥呼であったとすると、その次世代の後継者の墓がこの西殿塚古墳となるそうです。)
この講座のあとに行った、東殿塚と西殿塚はあたかも最初に並べて造営するように作られているそうで、こんな山の上で、どちらも地ならしをしてその上に墳丘をつくっているそうです。たくさんの地方等から来た人員によってつくられているそうです。そして、東殿塚は祭祀のために作られた墳墓であり、発掘品の中には祭祀で使用するようなものがいくつも出土しているという。トヨは祭祀をつかさどり、巫女のような存在でしたが・・・年代的には卑弥呼やトヨの時代は神功皇后の時代でもありましたが・・・)
この2つの墓は古来女性の墓という伝承はあっても、年代も下ると、トヨと手白香皇女の墓がどちらであったのか、古代の伝承されてきた墓と歴史上確かに存在し、王朝の移り変わりの大事な役割を果たした皇女の墓との区別もつかなくなったのか・・・日本の根幹の地である大ヤマトのこの地に隣り合わせの墓をもち、または意識して近くにしたのか(山を歩いて10分、15分位離れた距離)、大伴氏の失脚などでその後、はっきりとした所在がわからないまま、当時の人がどれだけ継体天皇の出自や手白香皇女の結びつきを理解していたのか、新聞もなく伝聞だけの社会で言い伝えなどにより真実とは違って伝えられてしまったのでは???また一般の人がまだ文字も広がってない時代にここが皇女の墓との認識を持つことができたのかどうか・・・稚拙な私の私見。
西山塚古墳の近くに菅原神社があり、そこは古墳の上に神社があり、昔の資料によるとこの古墳は横穴式石室を持ち、6世紀初頭の造営時期で、手白香皇女と時代を一にする人となります。盟主の墓と案内の先生が言われてました。このあたりを本拠地とするのは大伴とか、物部氏の勢力圏であり(午前の講座でこのあたりの勢力範囲を示す氏の名前による)、継体擁立に携わった大伴氏やその他、皇女に関わる人のお墓かな???
西山塚を守るような場所にあるので、かなりの縁があるのかどうなのか・・・・
写真は西山塚古墳です。
近くには畑や柿の木がありましたが、周壕などは築造当時のままです。金魚が泳いでいました。
手白香皇女は継体よりも早くに亡くなったのでは?と午前中の講座で言われていました。
継体はここ西山塚古墳に来たことがあったかもしれませんね。
奈良に20年入れなかった、または入らなかったといっても、このあたりは大伴、物部の勢力範囲ですので来れたでしょう。墓も建造できているのですがら・・・
東殿塚古墳はかなり小高いところにあり、大和三山、行燈山古墳、箸墓古墳、遠くは藤原京が見渡せる場所にあります。ここから夜、祭祀のためにかがり火を焚いて、厳かな儀式を行えば、民は畏怖の念を抱いたでしょう。勝ってな私見。
東殿塚を後ろにしてヤマトを摂りました。この日はとても天気もよく、歩いていて気持ちのよい日でした。
木々の葉は薄紅葉ではありましたが、おだやかな気候のなか、秋の奈良を楽しみました。
ここから山辺の道、中山古墳、黒塚古墳、柳本駅へと・・・
中山古墳です
黒塚古墳の周壕です。やや紅葉となっております。
前日から楽しみにしていた講座なので、なかなか寝入るのに時間がかかり、久しぶりに子供の頃の遠足前のウキウキ感でした。
6.7キロのハイキングにしては、短い距離というのも助かりました。
ようやく行き方もわかったので、今度は自分のペースでゆっくりとお弁当を持参して、西山塚古墳に行ってみたいと思っております。
黒塚古墳の上から撮った写真です。
ついでに昼のサービス定職です。810円消費税込でした。
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午前は10時から奈良文化会館で「手白香皇女から考える-古代王権と継体天皇」という内容で講座をされました。
講師は水谷先生でした。お名前から女性なのか男性なのかどうなのか実態が楽しみでしたが、男性でした。
よく継体天皇のことをネットで探していると、お目にかかるお名前の有名な先生でした。
手白香皇女の墓は宮内庁書陵部が認めている西殿塚古墳ではなく、今城塚古墳出土の埴輪と同じ窯で焼いた埴輪が出土している西山塚古墳ではないかと言われているそうです。
延喜式では衾田墓(手白香皇女墓)については倭の山辺郡にあり、東西二町、南北二町。墓守はない。山辺の道まがり、岡上守兼。
岡上陵はどの陵かはわかってはないですが、この陵の墓守が兼務して手白香皇女の墓守をしていたそうです。山辺の道匂という原文ですが、まがりと字を間違えたのではということでした。
何故手白香皇女は古市古墳群ではなくオオヤマト古墳群に葬られたのか?(白石太一郎 「后妃の古墳」「古墳の語る古代史」)
「継体が入り婿として、手白香を介してヤマトの王統との継続性を主張するには、その妃手白香の墓を始源期のヤマト王権の大王たちの墳墓の地である、奈良盆地東南部の大和古墳群に営むほうがより効果的だったのであろう。」
入り婿としての血脈の弱さを手白香皇女を介してより強固にするため、日本(ヤマトという名前の由来となったここ、三輪山や奈良盆地の麓であるこの地でなければいけなかった。手白香皇女が正当なヤマト王権の血筋として、知らしめるためにこのヤマトの地に墓を置いたということになる。)
私見を加えると、西殿塚は卑弥呼の後継者であるトヨの墓ではないかといわれている。(280年ごろの墳墓と言われているので、手白香とは時代的には合わない)230年ころが卑弥呼の時代であり、箸墓古墳が卑弥呼であったとすると、その次世代の後継者の墓がこの西殿塚古墳となるそうです。)
この講座のあとに行った、東殿塚と西殿塚はあたかも最初に並べて造営するように作られているそうで、こんな山の上で、どちらも地ならしをしてその上に墳丘をつくっているそうです。たくさんの地方等から来た人員によってつくられているそうです。そして、東殿塚は祭祀のために作られた墳墓であり、発掘品の中には祭祀で使用するようなものがいくつも出土しているという。トヨは祭祀をつかさどり、巫女のような存在でしたが・・・年代的には卑弥呼やトヨの時代は神功皇后の時代でもありましたが・・・)
この2つの墓は古来女性の墓という伝承はあっても、年代も下ると、トヨと手白香皇女の墓がどちらであったのか、古代の伝承されてきた墓と歴史上確かに存在し、王朝の移り変わりの大事な役割を果たした皇女の墓との区別もつかなくなったのか・・・日本の根幹の地である大ヤマトのこの地に隣り合わせの墓をもち、または意識して近くにしたのか(山を歩いて10分、15分位離れた距離)、大伴氏の失脚などでその後、はっきりとした所在がわからないまま、当時の人がどれだけ継体天皇の出自や手白香皇女の結びつきを理解していたのか、新聞もなく伝聞だけの社会で言い伝えなどにより真実とは違って伝えられてしまったのでは???また一般の人がまだ文字も広がってない時代にここが皇女の墓との認識を持つことができたのかどうか・・・稚拙な私の私見。
西山塚古墳の近くに菅原神社があり、そこは古墳の上に神社があり、昔の資料によるとこの古墳は横穴式石室を持ち、6世紀初頭の造営時期で、手白香皇女と時代を一にする人となります。盟主の墓と案内の先生が言われてました。このあたりを本拠地とするのは大伴とか、物部氏の勢力圏であり(午前の講座でこのあたりの勢力範囲を示す氏の名前による)、継体擁立に携わった大伴氏やその他、皇女に関わる人のお墓かな???
西山塚を守るような場所にあるので、かなりの縁があるのかどうなのか・・・・
写真は西山塚古墳です。
近くには畑や柿の木がありましたが、周壕などは築造当時のままです。金魚が泳いでいました。
手白香皇女は継体よりも早くに亡くなったのでは?と午前中の講座で言われていました。
継体はここ西山塚古墳に来たことがあったかもしれませんね。
奈良に20年入れなかった、または入らなかったといっても、このあたりは大伴、物部の勢力範囲ですので来れたでしょう。墓も建造できているのですがら・・・
東殿塚古墳はかなり小高いところにあり、大和三山、行燈山古墳、箸墓古墳、遠くは藤原京が見渡せる場所にあります。ここから夜、祭祀のためにかがり火を焚いて、厳かな儀式を行えば、民は畏怖の念を抱いたでしょう。勝ってな私見。
東殿塚を後ろにしてヤマトを摂りました。この日はとても天気もよく、歩いていて気持ちのよい日でした。
木々の葉は薄紅葉ではありましたが、おだやかな気候のなか、秋の奈良を楽しみました。
ここから山辺の道、中山古墳、黒塚古墳、柳本駅へと・・・
中山古墳です
黒塚古墳の周壕です。やや紅葉となっております。
前日から楽しみにしていた講座なので、なかなか寝入るのに時間がかかり、久しぶりに子供の頃の遠足前のウキウキ感でした。
6.7キロのハイキングにしては、短い距離というのも助かりました。
ようやく行き方もわかったので、今度は自分のペースでゆっくりとお弁当を持参して、西山塚古墳に行ってみたいと思っております。
黒塚古墳の上から撮った写真です。
ついでに昼のサービス定職です。810円消費税込でした。
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