ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

三輪山の南西麓  大王の宮 初瀬を歩く

2016年11月30日 23時22分57秒 | 日記
11月12日は大和道の会の「はじまりは初瀬から」のハイキングに参加

三輪神社までは行っても初瀬まではなかなか行けていなかったのでとても楽しみでした。天気に恵まれ、いいハイキング日和となりました。

ハイキング前には講座があるのですが、その講座の先生が卑弥呼は何歳かをみなさんに尋ねていました。4,50歳に手を上げる人が多い中、

卑弥呼は70歳または80歳代だったでしょうという話をされていました。

驚きました。

池上曽根遺跡横にある弥生博物館の卑弥呼はまだおじょうさんのようにきゃしゃで美しいお人形でした。

美しい巫女が鏡をもったイメージを抱いてましたが、相当のおばあさんだったのですね。

巫女のような存在ですから、長生きも1つの巫女としての要素なのかも???

240年代になくなっているので、160年頃に生まれていたということでしょうか。

弥生時代まっさかりではないですか。

卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳はトヨのお墓でもって、ホケノ山古墳が時代的に卑弥呼のお墓に合うそうですが、石囲いがある重厚な墳墓となっているそうです。

(トヨの墓と言われている西殿塚古墳は誰のお墓になるのでしょうね)

お昼を食べて大和朝倉駅に集合しました。

トドロキノ淵は天武・持統天皇が行幸した記事が日本書記にあるそうです。山と川に挟まれたところでした。春日神社や玉列神社などを回り、脇本遺跡を遠くにしてあのあたりが初瀬朝倉の宮伝承地があったのかと感慨無量になりましたが、なんと狭い場所に宮を作ったこと・・・
戦場には一番適しているような場所でした。(武器庫もあったと説明の先生が言われていました)

ワカタケル大王と書かれた鉄剣には磯城の宮と書かれていますが、先生の説明では、和田あつむ先生が広く磯城というのは初瀬も含まれるということで問題ないそうです。


欽明天皇の磯城嶋金刺宮伝承地にも初めて行きました。暴れ川と言われていた初瀬川と他の川に挟まれた意外と狭い場所でしたが、継体天皇の子供であり、みなが待ち望んでいた皇子であったのでしょうね、こちらにおられたのかと感激でした。
初瀬川から百済の使者が百済王からの贈り物である仏像や仏典が届いたのもこの地で、少し歩くと仏教伝来の地という石碑がありました。


昔から大和にとってこのあたりは重要な場所なのでしょうね。

天気がよく紅葉を見ながら大和の景色を楽しみました。いい日でした。



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古墳をめぐる

2016年11月27日 20時35分59秒 | 日記
10月の天気の良い日、また博物館が主催する現地見学会へ行ってみた。
「天理市北部の古墳をめぐる」という題がつけられていました。

物部氏の勢力範囲である古墳群でした。

和邇氏といわれている範囲も、物部氏の墳墓が多いということでした。

古墳の中にも入りました。大きな古墳でした。

ウワナリ塚古墳には入れました。

入り口は小さかったけれど、中に入るとかなり大きな古墳でした。

物部氏は軍事をつかさどる面を持つ集団でしたが、勢力範囲にかなり大きな古墳があり、物部の当時を知ることができる1日でした。

小墓古墳は墳墓の上にお墓が現在建てられていて、墓の上に墓があり、当時とは何かしら違う様相でしたが、出土品が今城塚古墳に関係するところもあるそうです。
どのような関係の人だったのでしょうね。


和邇氏の勢力範囲と思っていたところが物部氏であり、本拠地は本来大阪の八尾だったそうです。滅んだのも八尾の渋川あたりで滅んでいるそうです。

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磐余の地を歩く

2016年11月21日 17時35分15秒 | 日記
10月はたくさんハイキングをしましたが、その中で印象深いものはいわれの道を行くハイキングでした。

神武天皇が大和に入り、ここ磐余の地で勝どきを上げたそうですが、どの場所か定かではありませんが、その近辺の地を歩きました。




大和には神武天皇の石碑が建っているそうですが、その中の1つです。

吉備池廃寺の近くにありました。

吉備池廃寺も名前だけは聞きますが、どんなところにあるのか実際目にすることができました。



いろいろなお寺跡地と言われてきましたが、百済大寺の跡地だそうです。

近くに百済川も流れていました。

大和の国にどうて他国である百済の地名がつく寺があるのでしょうか?

九重の塔があったそうです。塔の礎石あとも遠くに見えました。

この後、安倍文殊院に行き、お抹茶を飲んで坊さんの話を聞くことができました。

その後安倍晴明の生まれたあたりと言われる場所を歩き、谷首古墳、艸墓古墳の中にも入ることができました。

艸墓古墳は民家の庭先にありました。大きな石棺をどう入れたのか今も議論されている場所でもあります。本居宣長もこの古墳を見に来たそうです。

曇り空でしたが、かろうじて雨も降らず、よいハイキングの1日となりました。

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温泉地でゆっくりとした時間を持ちました

2016年11月16日 19時54分20秒 | 日記

この前の連休は愉快リゾートの温泉地へ行きました。


湯原温泉です。


とっても田舎でしたがのんびりできました。


近所に行楽地もなく温泉に入るだけでしたが、のんびり1日過ごしました。


食べるものも美味しかったです。



砂風呂の方を見てきました。混浴らしいです。

  


泊まった部屋は10畳くらいありました。

  

お連れも1部屋づつ予約しましたので、風呂にそれぞれ自分のあった時間に行けたので大変気を使わずよかったです。

1泊の金額は一緒ですので・・1部屋とるのも無難です。

行きかえりとお食事が一緒ですので、それなりにコミュニケーションがありました。

ゆっくり田舎暮らしを体験しました。

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畝傍山の麓を行く  H28.10.16

2016年11月12日 19時41分41秒 | 日記

この日は普段天王寺から畝傍山御陵前駅に行くところを鶴橋から大和八木経由で行こうと環状線の中でどういうわけでか方向を変えて鶴橋で降りた。

順調に急行に乗れて順調に電車は目的地に向かっているはずでしたが、河内国分の手前の駅で急に電車が止まり、人身事故らしい。

河内国分で1時間待つか、天王寺まで引き返すか、JRの駅から引き返すことにしました。

阿倍野橋駅から電車に乗り換えました。

橿考研に着くと、1限目が終わりかけのころとなっていましたが、聞きたい先生のお話は2限目ですので、間に合いました。

今回のテーマは「蘇我氏」についてです。甘樫丘東麓遺跡の調査成果についてが1限目のお話でした。

谷の館が入鹿の家ですが、このあたりが谷になるのか?

調査では焼けた建築や焼けたものがかなりあり、工房のあとでは?ということでした。

 

図書館から借りて読んだ本がその先生の山辺の道や古代の話に満ち溢れていました。柿本人麻呂の妻を思う歌など入っていて、纏向の妻の元に通う人麻呂の姿を垣間見る思いでした。衾道へ妻の亡骸を運ぶ姿を想像し、古代の山辺の道や纏向のあたりの風景や妻への思いやりなど目に浮かぶようでした。

子供のころの山辺の道は今とは違っていたらしく、時代も移れば道も変わるものと感じた次第でした。

ところがですね、先生の体調がどうだったのでしょうか?順調にご自身の自己紹介や生まれた地など言われていると思ったら、話がそれ以上進まず、みなさん心配していました。

体調悪かったのでしょうね。その後本当に大丈夫だったのでしょうか。

長い1日でした。

 

昨日ツタヤN店に行くと「帝王の娘スベクヒャン」の書き込めに私のメッセージが使われていました。

米欲しさに去年書き込めのメッセージを書いたのですが、使われるとうれしいものです。

帝王の娘である無欲な姉と妹の王女への執着心

女性ならではの迫力でした。

等のメッセージを書いたかと思います。

スベクヒャン=手白香皇女ということはありませんが、武寧王は当時日本に来ていました。継体天皇にどう影響を与えた人なのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

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