ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

アジサイを見に行ってきました。

2015年06月30日 19時12分20秒 | 日記
福井の方にアジサイを見に行ってきました。

お昼は海の幸のうに丼をたんまり堪能し、アジサイ園へ

色鮮やかなアジサイが咲いていました。

天気は1日よくなかったですが、アジサイ園に到着して1時間位は晴れ間が見え、お天気の中を散策できました。








星形のアジサイもありました。



短い滝が流れていて、日本名水百選の水に選ばれたそうです。この水でコーヒーを沸かしました。美味しかったです。








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古代ロマン 継体大王

2015年06月21日 17時57分46秒 | 日記
6月7日の橿考研博物館の講座は「継体大王と尾張型埴輪」「継体大王と越前・若狭の古墳」でした。

どちらも興味ある内容でした。尾張型埴輪には5つの要素があり、このうちの数個の要素を満たす畿内や北陸などで見つかっている埴輪も尾張型埴輪といえるとのことでした。また、畿内、北陸には継体大王の后や母系、祖母系の本拠地において出土が目立つのではという推論でした。

尾張連草加は当時絶大な権力を握っていた人でしたが、どこまでその権力は轟いていたのでしょうね。
興味のあるところです。

継体擁立に携わった人はもちろん、継体自信どのような実績をもって皆に認められた人なのでしょうか??

カリスマ的な存在だったのでしょうか。

2限目の「継体大王と越前・若狭の古墳」については地元の学芸員が来られての発表でした。

越前とか越中とか越の国とか越がついている国には興味がありますが・・・

福井県にある古墳は山上古墳が多いそうです。

継体大王の母である振姫は継体を連れて帰った故郷の近くには古墳が多くあるそうです。振姫の一族のものであるということで学芸員の方はお話されてました。

福井には新羅に関わる生活品や、兜、など多数出土しているようで新羅と密接な地域だったようです。

継体天皇は奈良になかなか入れなかった(?)天皇ではありますが、応神天皇、神武天皇もそうでしたというお話もあり、初代はいつも奈良や畿内勢力と和合するのに時間が必要であったのかどうなのか、2人の事例を出してのお話でした。

継体天皇のお父さんの出自はどうなのでしょうね。

司会の博物館の方は、始まる前に少しお話をされるのですが、継体天皇は現在の皇室の祖(初代)であることをお話されていました。
思想統制になるので、ご自身の頭でお考えくださいともお話されていました。

今回地方のお話でしたので、行くのはどうかなとは思いましたが行ってよかったです。勉強になりました。

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幻想的 蛍が飛び交う

2015年06月15日 19時39分33秒 | 日記
ホタルを見に行ってきました。

7時半ごろになってようやくホタルを1匹見つけました。ぴかピカピカっと3回光を放ちました。

去年は見れませんでしたが、同じ場所で今年は蛍を見ることができ、とても満足。

あちらこちらと光を放って飛び交っていました。

バスの時間があるのでいいところで帰らないといけなくなり、名残おしい中をバス停までの帰途も川沿いはホタルが飛び交っていました。

今年は大変満足なホタル観賞ができました。木立の中の数匹の蛍が幻想的に舞うさまは別世界にいるようでした。

それにしてもバス停行くと、バスは最終の7時51分がでたところでした。

歩いて、清滝トンネルを超えて、京阪バスがあるところまで1時間も歩きました。

老齢の母も大変な思いでしたが、タクシーも通るところでなく、無事帰れたことに安堵する1日でした。



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「帝王の娘スベクヒャン」を見終わる。

2015年06月08日 19時48分19秒 | 韓国ドラマ
借りていた「帝王の娘スベクヒャン」のDVDを見終わり、何か終わり方にも不満がありましたが、気が抜けた感じです。

よくできたお話で、女性からの人気はあったのかと思います。

すったもんだがあり、とうとう身分の低い娘として王との結婚を選ぶことになり、ソルヒもチンム公と・・・

ハッピーエンドなのだけど、なにか全体に流れるもの悲しさを感じるのは私だけでしょうか・・・

母を殺したチンム公を地獄に落とそうとしたソルランでしたが、チンム公は兄でありました。

国のため武寧王の世にするためと思い、ベクカをはめたヘチャピョンでしたが、武寧王は自ら王になろうとはしていない人でした。

自らの息子を暗殺された東城王の息子と交換し育てることになる。

ソルランが城勤めをしている間、妹ソルヒが帝王の娘スベクヒャンとして王宮で暮らしはじめていた。

ソルランは自分が帝王の娘であり、妹がその身分をだまし、王様をだまし、見事に王女になっていることを知る。

ソルヒは自分の身分を知るものを2人も殺している。

ソルランはいつしか、ミョンノン太子を愛し始め、彼もソルランを大切に思っている。

しかし、ソルランが帝王の娘であることを自覚すると、ミョンノンとは兄弟であることに苦悩し彼のもとから去ろうとする。

その誤解も、チンム公が本当の武寧王の息子であると知り、また2人は寄り添うようになるが、ソルランは自分が帝王の娘として公にすることはミョンノンとの兄弟であること(実際はいとこであるが)を世間に知らしめることになり、生涯ミョンノンとは結婚できずに宮廷で暮らすことに耐えられないことを知る。

ソルヒは自分の父親が高句麗の刺客であったことも知らず、チンム公に父親を暗殺させることになり、真実を知ると、とうとう毒を飲んで記憶を失う。


ソルヒとソルランは宮廷を出て、村で暮らすことになる。

最後はお迎えの太子と抱きあい、スベクヒャン(守百香)の花が咲き乱れる中を2人は永遠の愛を誓うのでした。

血脈が近い間柄で憎みあい、殺しあい、苦悩するお話でした。

いいお話なのに早く切り上げたみたいで、最後は何か急いで終わった感がありました。

画像はとてもきれいで、いままでの韓国ドラマとは違うなと感じました。

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古代忍海の渡来人

2015年06月04日 17時41分15秒 | 日記
葛城市歴史博物館で開催された「古代忍海の渡来人と古墳」という講座に行ってきました。

渡来人に興味があったからですが、

この葛城市は古代ヤマトの豪族葛城氏の本拠地であるらしい。

「日本書記」には、葛城氏の祖、葛城襲津彦が朝鮮半島から連れ帰った人たちを4地域に定住させたと伝えている。

その4地域の中に忍海の地名が見られる。

博物館には忍海駅で降りて2分ほど歩いた。

驚いたのは葛城氏が朝鮮半島から連れ帰ったのは鉄職人のようで、秀吉の時代には陶工たちを連れ帰った記憶が新しいがそんな古い時代に日本が朝鮮半島と密接にかかわりを持っていたことでした。

葛城氏の出自はどうでしょう?

広開土王碑文にもある倭の話は本当だったのでしょうか?時代的にそういう時代だと思いますが・・・・

鉄職人はお墓に鉄の焼け残りを入れるのをふつうとするようで、そういう墓から出土した鉄が博物館には飾られていました。

それにしても忍海はいいところでした。



飯豊天皇陵が近くにあり、飯豊天皇っていました?疑問に思い、ネットで調べると葛城市の案内にこのような文を見つけました。


五世紀末ごろ、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)によって葛城氏の宗家が滅ぼされました。その雄略天皇の死後即位した清寧天皇は、跡継ぎを残さないまま死去します。やがて、後継者を決めるため、葛城の忍海の人々が大王家につながる二人の皇子を見つけ出します。ところがこの皇子たち、億計王と弘計王の兄弟は互いに譲り合って、なかなか皇位につこうとしません。

そこで、王位の空白を埋めるために臨時に政務を執り行ったのが飯豊女王でした。忍海の「高木の角刺宮」で政治を行い、その皇居は歌に詠まれるほど美しいものだったそうです。

倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺の宮(『日本書紀』)

(意味:大和のあたりで見たいものは、忍海にあるこの高城の角刺の宮です)

飯豊天皇は、歴代天皇の系譜に名前を連ねていません。あくまでも臨時に政権を執っただけなので、正式に即位したとはみなされなかったからです。『扶桑略記』(※)には「飯豊天皇」と記載されているものの、いくつかの記録があり、飯豊天皇の記述は一致しません。履中天皇の子とされたり、市辺押磐皇子の子とされたりします。ただ忍海部女王の呼ばれていたことからも分かるように、飯豊女王がここ葛城の忍海で一時天皇の位につき、政治を執り行ったようです。

飯豊天皇は、北花内にある墳墓「飯豊天皇埴口丘陵」に眠っています。現在も忍海の人々は、角刺宮の伝承地とされる角刺神社の横の忍海寺に安置される十一面観音菩薩立像(平安時代)を「飯豊女王の化身」と言い伝え、歴史から忘れ去られた女帝をしのんで毎月17日に法要を行っています。

※平安末期の天台宗の僧皇円が神武天皇から堀河天皇までの事柄を編年体で記した歴史書

も三〇巻と伝え、うち十六巻と抄本が現存(仏教関係の記事が多く出典を明示している)。



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