ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

韓国ドラマ

2015年05月27日 19時38分09秒 | 韓国ドラマ
今見ている韓国ドラマは「太祖王建」「明成皇后」「帝王の娘スベクヒャン」

もう少し前はソドンヨも見ていたので、帝王の娘スベクヒャンに出てくる皇太子チェヒョンジョとソドンヨの武王チェヒョンジョが同一人物であることが信じられないくらい帝王・・・では落ち着いた演技をしていた。2つのドラマの間には10年という歳月があるそうです。

「太祖王建」は格調高いドラマで、今までのものとは品格が違うと感じるものでした。

まだ15巻ほど見てませんが、これから三韓統一をどう果たしていくのか楽しみです。

「明成皇后」はややまんねりで面白くないのですが、日本人がどういう位置づけで韓国併合していったのか、韓国側のとらえ方で描いているので、今の反日がどのような時代背景で出来上がったのかを読み解くにはよいドラマかと思います。
明成皇后は日本人によって殺されたそうで、史実を知りませんでした。悪女にはいる人ですが、そんな歴史があるとは・・・

「チェオクの剣」も最近見ましたが、洞窟で男女が敵味方であるのに長い時間一緒にいると愛情が育ち、信頼関係が生まれるのですが、ちょっとしたすれ違いでまた憎みあうことになるお話でした。最後この男女は兄弟であることを互いに知るのですが、その時は2人が一緒に死んでいく瞬間でした。

韓国ドラマは創造性があるので、母などは最終回とは知らず、また生き返って話が続くものと思っていたようでした。

「帝王の娘スベクヒャン」はお姫様ストーリーなので、韓国ではそれほど視聴率を取らなかったようですが、私はすごく面白く見ています。
あと6巻で終わりですが、最後どうなるのでしょうね。太子とソルラン。

日本のドラマもいいものがたくさんあるはずなので、今度は日本のものも見てみたいと思ってます。

韓国ドラマでややおかしく感じるのは、時間でした。朝夜朝、夜昼夜など何か同じ1日がおかしく流れていたり、衣装が同じ日で違っていたり変な時があります。話がわかればいいだけですが・・・


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古代ロマン(継体天皇と淀川)

2015年05月19日 23時12分40秒 | 日記
橿考研博物館の講座に行ってきました。

毎月楽しみにしている講座となります。韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」から何故興味が継体天皇まで飛躍してしまったのかその辺は別として、今回も楽しみにしていた講座でした。

講座名は下記
尾張連氏と断夫山古墳

継体大王と今城塚古墳でした。

尾張連草加さんって初めて聞く名前でしたが、継体天皇を擁立するにあたり、助力した人の1人だったようです。

尾張系埴輪など、尾張独特の埴輪があり、独自の文化や産業などがあったようです。

断夫とかいてだんぷやま古墳と呼ぶそうですが、美夜津姫の墓と呼ばれていますが、講座の最後には草加の墓に先生はされてましたが・・・はたしてどうでしょうか

当時、最大クラスの墓がどうしてここに建ったのでしょうか。

継体天皇が福井から尾張に通うのにはそれほどの距離ではなかったことをお話でした。

「継体天皇と今城塚古墳」では高槻の職員さんが発掘調査した生の声が聞けました。

講座がはじまる前の館長のお話では100%今城塚古墳は継体天皇のお墓といわれていて宮内庁が認めていないけど天皇のお墓で、実際調査した陵墓だそうです。

このあたりは広く藍野と言われていて島上とあった記録が島下に江戸時代あたりの記録では変わっていて、本居宣長もいぶかしがった記録があるようです。
下島にある太田茶白山古墳が継体陵となってしまったそうです。

日本書紀には三島藍野陵という名前で、継体天皇陵が書かれているようです。

今も三島郡という名前やあいという地名は残っていますが...昔のこのあたりの地名には御車崎(みささぎ)ともとれる地名もあったそうです。

どちらにしても、今までの大王とは違う場所に陵墓を作ったということで、興味がそそがれます。

数年前にそういえば、ニュースになっていましたが・・・陵墓に調査に入ると...

この前佳子様が橿原神宮に行かれてましたが、今の皇室はこの継体天皇を始めとされるのではと思いますが...

先月の講座では仁徳朝とは別の天皇であると主張される先生のお話でしたが・・・

継体天皇のお母さんは振姫とわかっていますが・・・お父さんは?

この講座でははっきり断定された人はおられませんでしたが...

額田部氏が掌握する渡来系の人や半島に散らばっている組織的なもの、草加が配下にしていたあま氏など

当時の勢いのある人たちとどう継体はかかわっていたのか・・・文字が出てこない限りは推定の域を出ませんが・・・

私のようなただの古代史フアンですが興味は尽きないもの・・・

私も子どものときは淀川まで自転車で行って、遊んだものです。

樟葉も近いところにあり、対岸は高槻です。この淀川水域に絶大な力を持ち、継体擁立に力を注いだ豪族がいたのは事実のようで、大伴、物部、巨勢氏、尾張連など古代の夢は尽きることがありません。

継体の生まれた滋賀の高島は帰化人が昔から多い地域でしたが...
関係あるのかな?文化や技術が高いということは・・・

武寧王もこのころ兄弟5人が日本に来ていましたが、こんな国が不安定な時にどうして来ていたのでしょうね?

継体の前の武烈は妊婦の腹を裂いたという暴君だったのでしょう?または継体が期待された天皇であったことを強調するために前天皇を悪く書いているということも言えますが・・・

朝鮮半島と継体の関係もどうでしょうか?

継体天皇の墓ができる前に藍野の地域にはたくさんの墳墓がたっていた。権力をもった集団がいたことをあらわしている。

太田茶白山古墳はそういう意味でも、継体やそれにかかわる人の陵墓かもね?

関西うぉーかーにパワースポットとしてこの今城塚古墳を載せると、カップルが来るようになったと喜んでいましたが・・・

天皇陵を観光地化できるのはここだけでしょうね。

埴輪は一番前の女性が何か祭祀をしているポーズをとっている。

祭祀をつかさどる女性や馬や家など埴輪もたくさんでている。埴輪は茶臼山の埴輪と同じところで焼かれたそうです。

この近くに窯を持っていたそうです。

たくさんいろいろと聞くことができました。韓国ドラマから今は韓国の歴史の方が詳しくなりつつありますが、日本史もまだまだミステリアスで大好きです。来月も楽しみ!


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奈良の博物館

2015年05月13日 20時48分27秒 | 日記
奈良の博物館に行った時の写真です。

藤の木古墳の金銅靴のレプリカです。玄関にありました。40センチはあるでしょうか。

履くためのものでなかったのか?

   


   


継体天皇と古代ヤマトがテーマでしたが、通常は藤の木古墳の副葬品やはにわ、銅鏡などが飾られています。

   


また今月も行く予定で、楽しみにしているところです。



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古代ロマン(古代ヤマト)

2015年05月08日 17時18分07秒 | 日記
継体天皇についての講座があったので奈良に行ってきました。

畝傍山御陵前に早めに到着。

この前行けなかった橿原考古学博物館も見てきました。

藤の木古墳出土の金銅馬具や金銅靴があり、こんな豪華な装飾で飾られた人はどんな人だったのか、1400年位前の金銅物を前にしてしばし時間の止まる思いでした。
今の技術でもこの馬具などは作成することができないともいわれていて、新羅様式らしいのですが、どんな国際交流があって、当時東アジアでは屈指のこの馬具を手にいれることができたのでしょうね。

藤の木古墳って墓守がいたので盗掘を免れていたようですが、墓守の子孫はいないのかな???長年かけて守ってきた理由はなんなんでしょうね。

棺には2人入っていたらしいのですが、どちらもB型だったそうです。

今回博物館は「継体大王とヤマト」という出展が中心となっていました。入館800円でした。



1時から始まる予定の「継体大王とヤマト」と「継体天皇と武寧王」という題の講座ですが、春の行楽季節ということで、人が入りきれないくらい集まっており、博物館から椅子を運んできたりで、始まったのは10分位遅れてからでした。

継体天皇の出自には疑問があるようです。
大伴、物部など有力豪族がはじめ、丹波から倭彦王を迎えようとして失敗。

継体を迎えるにあたっても、河内馬飼首が仲立ちならと継体は知り合いの仲立ちを頼んでいた。

河内馬飼はこのあたり(現在の四条畷あたり)で馬の放牧場を持っている人でした。

結論から言うと、継体天皇は前王朝の流れではないということです。継体より新しい王朝が始まったということになる。

大阪高槻にある今城塚古墳は継体天皇陵であるといわれている。
すなわち淀川流域が勢力基盤であったことの証明であり、旧来のヤマトの勢力とは違う新しいものと、今回の講座の先生は主張されておられました。

即位以前から継体はヤマトにいたという証拠のものは、武寧王が即位前の継体が、ヤマトの忍坂宮におられたとき武寧(し麻)が長くつかえるために作ったといわれる鏡が残っている。

継体の妃勢力も大きかったのではという考えもある。

尾張連が継体をバックアップしていたということもあり、尾張連の娘目子媛が妃となっている。

忍阪宮近くを拠点とする額田部氏は海外に雄飛した人々を傘下におく在地首長である。この人も深くかかわりをもっていることも、継体の大きな助けとなる。百済、伽耶地域の渡来系集団と深いかかわりがある。

馬飼を武寧王に仲介した人物と言われる。

今回の先生のお考えは淀川水系に力を持つ勢力が王権を握ったということでしょうか。

天皇家は古代より日本の天皇として現在まで繋がっているという、私の信じてきた考えも変えないといけないかもしれません。

手白香皇女と結婚したのは入り婿に入ったということでしょうか?

(先生のお考えは手白香はどの豪族の娘であったのか?非常にキーパーソンぽい人物とみていられるようでした)

私は素直に前王朝から続く皇女と考えたいです。

その後の天皇は全て蘇我系の姫が妃や鬢になっているようですが、淀川水系と蘇我氏の関わりはどうなのでしょうね。疑問がわきました。

渡来系氏族との交流や武寧王とのかかわりなど、国際色豊かですが、その辺も知りたいことの1つです。

武寧王の鏡の製造時期はもう武寧王が即位後ですので、百済で作成したのでしょうかそれとも日本にいた百済の職人が作成したのでしょうか・・・

武寧王は即位後も日本にいたのでしょうか・・・いろいろと気になりました。



次の講座は武寧王を中心に話をされていました。

武寧王の墓を発掘するとき、今回の先生は韓国まで行って発掘しているところを眺めていたそうです。

武寧王は日本書紀ではいろいろいきさつがあり、王の妾(妊婦)をもらいうけて日本に来ることになった昆支が、途中でその妊婦が産気づき筑紫の各羅島でこの武寧を生んだとされている。

いろいろないきさつがあるがここで強調されているのは武寧は昆支の子でなく蓋ロ王の息子であるという点だと私は思います。

この講座で先生も云われてましたが文州王はたまたまクーデターでいったん高句麗によって消滅された百済(475年)を再興した王ではある。血統の正当性は武寧王にあるということです。

武寧王の墓は未盗掘で41年も日本にいた王であり、何か日本に関係するものがあるか期待したそうですが、日本と関係を示すものは棺材「コウヤマキ」と銅鏡だったようです。

墓誌には日本書記で「し麻」と書かれていた字のとおり、百済し麻王と書かれていたそうです。 (漢字が出てこないので「し」はひらがなを当てました)

武寧が百済に帰ってからは、中国(梁)との関係に重きを置いたようです。我が日本との関係は五経博士を送るなお先進的な学術・技術やそれを身につけた人物を送って対外的な助力を求めた関係を作った。

日本は戦争で助力を求められても一緒に戦って勝ったという記録があまり見受けられないようですが・・・何を頼りに百済は日本と付き合っていたのでしょうね・・・

墓に一緒にはいっている王妃は若い御嬢さんだったとか・・・

先生の結論は百済が王族など送ってきたのは、人質としてでは無かっただろうということでした。

私なりのまとめ

当時は国境線もなく、たくさんの人が行きかうことがあったのでしょうね。

武寧王と継体は会ったことがあったのでしょうか?当時の王朝の転換時期を目の当たりに武寧王は見ていたことになりますね。

韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」で武寧王が出てきています。今回の話をお聞きしてみるスベクヒャンもまた、話は違ってますが楽しいものです。

手白香皇女って手白髪皇女と書いている文献もあり、ずっと白髪交じりの姉さん女房に入り婿したので子供も1人だったのだと勝手に思ってました。

「たしらかのひめみこ」とヤマト言葉にするととても響きが良いお名前です。


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