ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

うにちゃんのご冥福を祈ります

2016年01月27日 15時46分30秒 | 日記
毎朝楽しみにブログを見ていた、かわいい猫さんのうにちゃんが今日の朝、息をひきとったそうです。

いつもパワーをもらっていましたので、悲しい気持ちでいっぱいです。

「うにの秘密基地」では、元気に走ったり、飼い主に甘えたり、同居の猫との微妙な関係など、毎日楽しませてもらっていました。

かわいいしぐさに癒されてました。

ご冥福をお祈りします。ありがとううったん。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畝傍山の麓を行く  1月9日

2016年01月22日 12時14分40秒 | 日記
1月初めの橿原考古学博物館の講座は干支の猿についてでした。

明日は奈良まほろばソムリエ検定を受ける日に、何かヒントになるものがあればと行ってみました。

試験で出題されたところはありませんが、古墳にある動物の埴輪など興味のあるお話でした。

今城塚古代歴史館からこられていた先生のお話でした。
 
今城塚の埴輪があった祭祀現場の復元レプリカの配置図から家が密集している場所に人か猿かわからない状態の足だけのはにわがあったそうです。

足だけではどちらともとれるようです。

他の古墳には子供を載せた親子猿の埴輪はあるようで、本来はその姿だったのではというお話でした。

今城塚や阿武山古墳のお話もあり、たのしい時間でした。

藤原鎌足も別業を高槻に置いていたようですので、高槻市にお墓があってもおかしくはないですね。

藤原鎌足の先祖も息長の姫を允恭にめあわせる役目を果たしているので、継体天皇との古くからの祖先の親交があったのかと興味を最近もっております。

允恭天皇皇后ナカツヒメの妹 衣通姫を近江の息長氏の本拠地までお迎えに行っている使者が中臣の何某かですので、古く允恭帝以前から使えた氏族だということもわかっており、高槻という淀川沿岸に別業を構えていたということでも不思議な一族であると思います。

高槻市が出している本の宣伝もあり、購入意欲にかられました。

アマゾンで安く売ってないかな?

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ワケ王朝」と倭の五王 

2016年01月20日 20時38分26秒 | 日記
朝日カルチャーセンターでこの題の講座が開かれていたので、参加してみました。

「ワケ」のつく大王が多いことに興味があったからです。

イザホワケ、ホムタワケなどワケの意味ってどういう意味なのか??・

履中系のワケ王朝と允恭系の関係をどうとらえるのかという内容でしが。

先生のお考えでは応神、仁徳は同一人物または、存在しないととらえているようでした。

履中、反正兄弟と允恭は他人であり、允恭から違う王朝になっているのではという考えがあるのですね。

ただ、履中系(ワケ系)、允恭系(ワケ系の近いところに存在していた天皇)を牛耳る人(応神、仁徳になる人物)がいたのではという考えでした。

いつも、聴いている講座の内容と違う視点でとらえている講座でしたので、楽しく聴くことができました。

川口勝康先生の本の引用もあり、今度図書館でよんでみたいと思いました。

宿場町枚方を考える会主催の講座でも、允恭天皇はナカツヒメ(息長系)をめとることで淀川水系の莫大な利権を手にしたのではというお話がありましたが、そこでも、仁徳、履中、反正、仁賢、欽明などの天皇を是とし、允恭、安康、雄略、継体、安閑、宣化を非とする思想が古事記などには貫かれている思想であることも以前のブログで書いていることもあります。

墓も前者は百舌鳥古墳群に、後者は古市古墳群に分けられて埋葬されているのは意味があるのでしょうか?(継体以降は墓は違いますが・・・)

允恭天皇が別の王朝からきているとすると、継体天皇が次期天皇に抜擢されるのは、考えることもできますね。血筋からいうと遠縁者でもあります。
淀川水系を掌握されていた人として、また、息長系の血縁者による大連合などメリットも大きかったのでは?

古事記で允恭天皇の系譜をよく思っていないのは、淀川水系を利用して既成勢力の排除や利権を手に入れたことにより、今までの既得権をもった権力者への利権の侵害があったから、その一族の勢力が弱まった?この講座から考えると仁徳系の大王家、葛城家とも考えることもできるような・・・だからそんなに悪くいわれるのでは?(その一族はしばらくは分流として、大和政権にて役職を得て、古事記日本書記の編纂にもかかわったのでは?)

反正あたりから大王としての組織が強化されていたようですし、允恭天皇の息子雄略朝においては「大王」の成立がされ、大陸の官制の受容をしようとしていた。

古事記で、雄略天皇が手白香皇女の母春日大郎女(和邇童女が母)が生まれたとき、臣下にそれほど夜の交わりがないのになぜあの子が生まれているのか聞いている場面があり、臣下が回数までお尋ねして、天皇になにやら進言している話がありました。
手白香皇女は正当なヤマト王朝の皇女であらねばならず、そのためにも大和古墳群に葬られているのに、この話はやはり悪意としかとれません。

でも古代はおおらかですね。

日本はともかく、中国の宗書など、当時王朝の交代時期に前王朝の事績について書かれており、かなり正確であることも先生は云われていて、とっても勉強になった1日でした。倭の五王についてもできうる限り正確だったのでしょう。
外国のことについては、使者を出した日本のことしか書かれていないようです。




Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良まほろばソムリエ検定を受ける

2016年01月12日 17時34分20秒 | 日記
10日の日は奈良まほろばソムリエ検定の試験を受けた。

セミナーでは約7割が過去問から出ることを聞いていたので、1回から9回までの過去問をやり、間違った箇所を徹底して覚えるようにした。

本も1回は一通り読んでみた。

意外に2級は楽勝?でした。来年は1級に挑戦したいと思いますが、問題を見ると2級のようにはいかないようで、深く奈良を熟知していないといけない問題でした。

正月に行った、佐紀盾列古墳群の問題がでて超ラッキーでした。

今年は春日大社に関する問題が10題出題されるので、若宮御祭りについても詳しくネットで調べてみました。

セミナーにて、結構深い講習を受けたのだと、問題を見て実感しました。

興福寺については以前から仏教講座に行くことも多く、そのあたりは問題なかったです。

電車についての問題で、生駒ケーブル宝山寺線の車両につけられた名前がわからず山勘で選択しましたところ、「ブル・ミケ」であっていたようです。

感もきわだっており、かなりいい点ではないかと自画自賛。

10パーセントは過去問からの出題がないので、そのあたりは予想ができない難しい問題でした。

自己採点で合格となるようですが・・・はたしてどうでしょうか


間違った問題

(18)慶長18年(1613年)に置かれた奈良奉行所の敷地は現在のどの施設にあたるか。

奈良女子大学だそうです。

奈良地方裁判所にしてしまいました。

(53)興福寺北円堂の本尊弥勒仏像を作った仏師は誰か?

無着世親は運慶などわかってましたが、本尊弥勒仏と指定があったので、迷ってしまい、定慶に丸を付けてしましました。

(61)奈良に言及した書物のうち、本居宣長がかいたのは

「菅笠日記」だそうです。「鹿鳴集」かなと「古事記伝」「源氏物語玉小櫛」を思い出し、それっぽい名前に丸をしましたが外れ。

(67)五条市大塔町惣谷で作られている生活用品はどれか?

坪杓子でした。飯櫃に丸してました。
本の一番最後にでておりました。印象が薄く、勘も外れました。

(97)毎年、3月13に勅使の参向を仰いで行われる「春日祭」の別名はどれか?

申祭、だそうです。花祭りに丸しました。

記入ミスがなければ95点で合格予定となります。






Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐紀盾列古墳群を歩く

2016年01月07日 19時05分58秒 | 日記
3日の日は母と平城で降りて、神功皇后、成務天皇、日葉酢姫命の御陵を巡り、平城宮址と法華寺を回ってきた。

10日には奈良まほろばソムリエ検定がありますので、ちょうど問題になりそうな所を巡ったことになります。

正月の中でも一番暖かく、電車の中でも若い子が暑いと、ばててました。

ちょうどハイキング気分で春の陽気の中、古都を楽しみました。

法華寺はから風呂が閉まっていて、中を見ることはできませんでしたが、当時のまま残されていて外観だけでもしのぶことができました。横の井戸も1300年そのままでありました。

光明子が落飾をしたお寺です。

悲田院、施薬院など当時の福祉事業をされた、光明子の慈愛に感謝しつつ帰途へ。



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする