1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×20『選挙バカの詩』

2013-01-25 22:38:48 | 雑談の記録
『命のバトン』
〈中略〉
実は、おじさん、ちょーど君たちと同じ年頃のころ、ときどき眠れない夜がありました。
自分が「死んだ」ことを想像すると眠れなくなってしまったのね。自分がこの世から消えてなくなってしまうことを考えると、もう、怖くて怖くて・・・。
だってさ、誰だってさ、生まれてきたものは、死ぬわけでしょ、絶対に死ぬでしょ、死んじゃうでしょ、死ぬことはさけられないことだよね。
でもさ、こんなこと考えると、逆に死にたくないって強く思うよね、なのにゼッタイ死んでしまう。そしてね、ゼッタイ死ぬのに、なんでワザワザ生まれてきたんだろうって考えちゃうよね。そう思わない?。
ゼッタイ死ぬなら、そんなの最初から生まれてこなきゃいいのにって。
〈中略〉
おじさんは今年で40歳になります。現在の日本人の平均寿命はだいたい80歳だから、普通に生きているとすれば、おじさんは、今、人生の折り返し地点にいると言えるよね。それで「ゴール」を「死ぬ」ってことにすれば、毎日、毎日、そのゴールに近づいているわけだから、死ぬことがどんどんどんどん自分に近づいてるって意味になるよね。こんなふうに考えると、なんだか怖くなるよね。だけど、不思議なことに今はそれほど怖いとは思わなくなったよ。

みんなぁ、目を閉じてくれるかなぁ、そして机に伏せてくれるかなぁ

今からみんなを時空の旅に招待しようと思います。

みんなは宇宙の歴史は知っているかなぁ?。
宇宙の誕生は137億年前頃だったと言われています。ビックバンと呼ばれる大爆発によって宇宙は誕生し、次々と数えきれないほどの星雲が生まれたと考えられています。
最初はチリやガスなんだけど、それが次第に集まりだしていろんな大きさの星が生まれて、今から120億年前頃に2000億個以上の星やガスが集まって銀河系ができました。
地球は太陽を中心に回っている10数個の惑星のうちの一つだけど、地球は今から46億年前に銀河系の隅っこで生まれました。
地球は生まれた最初からだいたい今ぐらいの大きさだったらしいけど、生まれたすぐの頃は、隕石がたくさん衝突していて、ぶつかったときのエネルギーでめちゃくちゃ熱かったらしいです。そして地球の上空には衝突したときに発散したガスや水蒸気が分厚い雲を作って地球を覆っていましたが、あるとき、突然、雨となっていっきに降りだしました。その雨は、雨なんて生易しいものじゃなくて、嵐にちかかったと考えられていますが、その嵐は全地球上で一度ももやむことなく1000年続いたそうです。
そして、今から43億年前に原始の海がようやく出来上がりますが、そのころはまだ生物はいませんでした。それから最初の生命体が現れるまで3億年かかり、40億年前頃になってようやく細菌程度の生物が生まれました。細菌の大きさは1ミクロン、1mmの1/1000くらいの小さな小さな生き物です。その細菌の時代は長く続きました。約30億年間が細菌や微生物の時代だったと考えられています。ですが、10億年前くらいに地球は全て氷に閉ざされる時代があって、そのときに多くの微生物は死んでしまったと考えられています。
だけど、このときに生き残った生物は、氷が解けたあとに爆発的な進化をとげて、その頃になってやっと虫みたいな生物やコケみたいな植物が生まれました。そして3億年前ぐらいになると、昆虫、魚、両生類や爬虫類などの生物たちで地球は生命にあふれました。
だけど、また問題が発生します。2億5千万年前に、シベリアで日本の面積の5倍以上のドロドロに溶けた熱い溶岩が地中からいっきに噴き出してくるという大異変が起こって、そのとき、全地球上の95%の生物が絶滅しました。だけど、生物ってのはホントにしぶとくてたくましくって、その生き残りが恐竜として、その後、地球上で大繁栄したのです。しかし、恐竜も6千5百万年前には絶滅しちゃうよね。それは隕石の衝突による環境の大きな変化が原因だったんだよね。
恐竜が絶滅してからが哺乳類の時代になるんだけど、人類の祖先が現れるのは500万年前頃。そして100万年前からはだいたい10万年を周期に氷河期と温かい時期が繰り返して、最後の氷河期が終わったのが1万年前。ちなみに、僕たちが暮らしている県では9万年前に阿蘇山が大噴火を起こして、九州の生物の多くはそのときの大爆発の熱と灰で殆どが死滅しています。

さて、ここまで駆け足で地球の歴史を旅してきたけど、どうだろう、地球の歴史ってのは実は無数の生命が生まれては死んで、生まれては死んでの繰り返しだったことに気づいてもらえたかな。
みんな目を開けていいよ。

じゃぁ、みんなに質問。地球の46億年の歴史を1年にたとえると、人間の寿命ってどのくらいでしょう。

あのね、おじさん計算してみました、答えは0.5秒、たったの0.5秒。めちゃくちゃ短いよね。地球の歴史から考えるとね、人間の寿命なんてホントに短いんだよ。生きてるか死んでるかわからないくらい短くて、どうだっていいようなものなんだよね。取るに足りないない下らないものって考えることだってできるよね。

だけどね、君たちに気づいてもらいたいことがあるの。
それは何かっていうと、僕達が、今、ここにいるのは、40億年前から始まった命のリレーのおかげなんだってこと。
今、僕達は、生きてるみんなは、その命のリレーのトップを走っているんだ。みんなはトップランナーで、40億年前からの命のバトンが、みんなに託されているってことなんだね。

おじさんが、最初に話した子供の頃の疑問を憶えてる?。
「ぜったい死んじゃうのに、なんでワザワザ生まれてきたんだろう」って。

おじさん、最近ね、命のバトンを渡すことが生まれた理由じゃないのかなぁって思うようになったよ。

自分の命は自分だけの命のように思うけど、40億年の命のリレーが今の自分の姿であることを思うと、こりゃぁやっぱり大事にしていかないといかんなぁって思うわけ。確かに、地球の歴史からすると、人間の命なんて一瞬でチッポケでどうだっていいようなものなんだけど、パッと輝いているに違いないよね。おじさんは、目を閉じて命のことを考えると、今は無数の輝きを感じることができます。その輝きは、たぶん、君たちなんだろうね。

今日、君たちは、この道徳の授業を通して命の大切さを学んだことと思うけど、おじさんは今日、君たちに命のバトンを渡せたような気がします。
次は、君たちが次の世代に命のバトンを渡してください。

お話し聞いてくれてありがとう。

その後、命の授業を受けた子供たち全員から手紙が届きました。
その幾つかを紹介したいと思います。

東さんへ
東さん、先日は、おいそがしい中、仕事もとちゅうでやめてきて下さって、ありがとうございます。ぼくは、東さんの話の中で「命は42億年前くらいから、命のリレーがつづいている」と「人間の命は、地球の歴史を1年間でたとえると0.5秒」ということが心に残っています。東さんが「時空の旅」といって想像するのが簡単でした。ぼくも、ねながら、死んだらどうしようと思う事もたまにあります。でも、この話をきいて恐くなくなりました。
宇宙から始まり、生き物の死んだり生まれたりと命のリレーが続いていて、今度は、バトンを次にぼくたちがわたす番です。だから精一っぱい生きていきたいと思います。ぼくたちは、平均じゅみょうは80才で、あと約68年もあります。なので、自殺のような事はせず、生きていきたいと思います。東さん、本当にありがとうございました。また、よろしくお願いします。
桜丘東小学校6年2組 Y・S

東さんへ
先日は、おいそがしい中、私達のためにきてくださってありがとうございました。東さんの話はとてもためになりました。
いつもは、話をしんけんにきかない私が、いつのまにか、東さんの話をしんけんに聞いていました。
私達に分かりやすく、楽しく話してくれて、話したいこと東さんの気持ちがよく伝わってきました。
私達はどうせ死ぬうんめい、もう、もどらない命、でも、その一生を大切に精いっぱい生きるということを、東さんの話で分かりました。
私も、先祖からもらった命、私の命を大切にして精いっぱい生きたいと思います。ありがとうございました。
6年2組 S・M

東さんへ
先日はお忙しい中、わざわざぼくたちのために、おいで下さり誠に有難うございました。目をとじて、時空の旅に行ったとき、東さんのお話と、宇宙の映像が合ってとてもわかりやすかったです。何十億年を1年にたとえて、人間のじゅみょうは0.5秒ということがわかりました。そして、何十億年を1年にたとえてではなく、1日でたとえてみると、0.0013698・・・・・・・とずっと続いていました。
ぼくも、時々死について考えたことがあります。「なんで生まれてきたのだろう」や「生まれてこなかったらどうしよう」などと考えてみましたが、東さんの話をきいて、「命のバトン」をつなぐために生まれてきたんだなと思いました。このたびは本当においそがしい中、本当に有難うございました。
6年2組 N・ H

涙なしでは読めなかった。
子供たちに思いを伝えることができて本当に嬉しかった。
ありがとう。
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選挙バカの詩×19『選挙バカの詩』

2013-01-24 23:08:20 | 雑談の記録
『卒業25周年同窓会』
〈中略〉
さて、同窓会とは同じ学校を卒業した者同士の集まりのことをいうのですが、中学校卒業の場合は、その言葉通り、同じ窓の風景を見ていた者たちの集まりという解釈のほうが私にはシックリくるように思うのです。私達は、本当に同じ風景の中で生活をしていました。同じ地域に住み、同じ言葉を使い、同じ空気を吸い、同じ学校に通っていました。

ただ、当時、多感だった十代の私達が、心の窓で見ていた風景は、それぞれ違っていたはずです。澄み切った青空を羽ばたく鳥のような気分の日もあれば、悪臭を放ちながらドブに沈む死んだ子猫のような日々だってあったに違いありません。
そして、いつの間にか四半世紀という月日が流れ、私達は40歳という年齢になりました。卒業後、私達はそれぞれが違った風景の中で生きてきました。ここに出席頂いた皆さんの多くは、各分野の第一線でご活躍のことと思いますが、ここに至るまでのご苦労も相当大変であったこととお察しいたします。折りしも、この不況、出席したくても出席できない状況にある同級生もいらっしゃったはずです。
今、心の窓に映るのは、苦しみ、悲しみ、喜びなど、様々な場面での心情模様ですが、25年という時間を経て思うのは、私の窓に映るものと皆さんの窓に映るものは同じものではないかということです。中学時代、私達は違った心情で生活を送っていました。そして卒業後は、違った学校、違った社会、違yった価値観の中で生活をしてきました。ですが、皆さんも既にお判りのとおり、私達が再会した瞬間に心が通じ合うような気持ちになるのは、私達が「同じ風景」と言う名の「絆」によって結ばれているからだと思うのです。

日本の平均寿命から考えますと、40歳という年齢は、人生の折り返し地点と言えるかもしれません。本日は、その折り返し地点にささやかな休憩所を設けさせて頂きました。行き足らないところもあると思いますが、実行委員の苦労に免じてご容赦頂きたく思います。
最後になりますが、本日の同窓会を機会に私達の「絆」の発展を願うとともに、皆様と先生方のご多幸とご健勝を祈念いたしまして挨拶とさせていただきます。どうぞ、心行くまでお楽しみ下さい。どうもありがとうございました。


『夢ふうせん』

あなたは大きく羽ばたくことでしょう
旅立つその日まで、わたしはあなたのそばにいるから

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ

おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの春の日
あなたは 石ころひとつによこび 紋白蝶におどろき 菜の花を食べようとした
おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの夏の日
あなたは アスファルトの熱を忘れ 蝉のヌケガラを集め カブトムシをせがんだ

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ

おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの秋の日
あなたは 棒っきれを振り回し 草むらに隠れる 秋虫たちと戯れていた
おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの冬の日
あなたは 初めて見る雪に すべってころんで 泣いてしまった

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ

おぼえている?
わたしの手を握り 一緒に歩いたあの遠き日
あなたは いつも笑顔で いつもやさしく いつもそばにいてくれた

あなたに見せてあげたい 大きめのランドセル
まわりに支えられここまで歩んできたの
世間の風は冷たいことが多いけど
陽の当たる場所はちゃんとあるの

あなたは大きく羽ばたくことでしょう
旅立つその日まで、わたしはあなたのそばにいるから

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
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選挙バカの詩×18『選挙バカの詩』

2013-01-22 22:58:06 | 雑談の記録
『立志式』
〈中略〉
さて、おじさんほど極端じゃないまでも、今の君たちもそれほど変わらない状況に置かれているんじゃないのでしょうか。つまり、君たちは、現在、複雑の中に生きていると思う。
学校のこと、友達のこと、勉強のこと、部活のこと、家族のこと、お金のこと、自分のこと、将来のこと。
そんないろんなことが、一度に見えてきてしまう時期で、だから、イラついたり、落ち込んだり、反発したり、意地悪してみたり、悲しんだり。騒いだり・・・。

例えて言うなら、いま、君たちは、複雑交差点に立っているのかもしれない。
複雑交差点には、いろんな方向から、いろんな車が、いろんなスピードでやってくる。もし、その複雑交差点に交通整理がなかったら、その交差点では事故がたくさん起こるよね。だから、そこでは交通整理が必要なんだけど、今の君たちはまだ初心者だからその交通整理がうまくいっていないだけ。

ひょっとすると大人になるっていうのは、その交通整理が少しだけ上手になるって、そういうことなのかもしれない。

そう考えると、今日、この日から君たちに立派な大人になれなんてともても言えない。

だけどね、君たちの交差点が、少しでもスムースに行き来できるようにとおじさんは願ってるし、先生や親の役目は、君たちの交差点に進入してくるいろんな車をほんの少しだけコントロールすることだと思っています。

いま、君たちの交差点ではたくさんの事故が起こっているかもしれないけど、交通整理が上手になってくると、だんだん事故も減っていって、それと同時に、その交差点から一本の大きな道が見えてくるようになると思います。あとは勇気を持ってその道を進めばいいと思います。

その道は平坦じゃないし、横からの飛び出しもあれば、後ろから追突されることもあるし、上から落石だってあるかもしれない。たまには、スピードを上げて前の車を追い抜かなくちゃいけないこともあると思います。また、あるときは酷い事故現場を横目にしながら通り抜けなくちゃぁいけない。

もうすぐ君たちは、事故ばっかりの交差点から、自分の道へ向かって出発することになると思いますが、その道を進むにあたって、ルールを守ることが大事であることも忘れてはいけません。最初は誰はでも初心者です。人生の入口、大人への一歩なんて、そんなものです。

ただし、君たちに「人生の免許証」を交付するのは、まだちょっと早いかなって思います。

なので、この立志式を迎えるにあたりまして、おじさんは「人生の仮免許証」を君たちに交付したいと思います。

校長センセー、いいでしょうか。

福嶋センセー、生徒の代表を呼んでもらっていいですか。ま、だれでも構わないのですが、生徒会長さんとかでも、仮免許証を準備してきたんで、これをここで渡したいので・・・・、

仮免許所(人生)!
桜丘中学校2年生 平成6年生まれ 中原君!
桜丘中学校2年生保護者会則第100条の規定により、貴殿のこれまでの人生を称え、ここに、人生の仮免許を得たことを証する。
平成21年2月5日木曜日。
2年生保護者会指定機関 人生認定委員会 代表 東 英介
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選挙バカの詩×17『代議士と僕』

2013-01-20 22:30:46 | 雑談の記録
代議士との関わりの中で僕自身が大きな影響を受けたことは、前述のようなことからも理解できることと思う。ただ、その影響は、政治や正義といったことに留まらなかった。
僕が小学校のPTA活動に参加するようになったのもその影響の一つで、また、息子の小学校時代の野球チームの運営に深く関わったことも、今となっては、その表れではないのかと思うのだ。。中学時代の同級生からは同窓会の会長を任せられ、一昨年、活動の益金で運動会で使用する応援団旗を贈呈することができた。どの活動も周囲の方々の協力が無ければできなかったことだが、このような活動を通じて人々の思いや悩みそして社会が抱える問題を実際に肌で感じることができたのだった。
しかし、正直言って、このような活動はメンドくさい。本当に面倒臭いのだ。馬鹿馬鹿しいと思うことも多々ある。また、こういう活動には激しい感情の衝突も珍しくはない。体力や気力を消耗しつくして肺炎を患ったこともある。
だが、その苦しみの先には、いつも人々の笑顔があった。そして、何より、自分自身がそのことを喜び、また、皆さんともに成長をできたことに心から感謝せざるを得ない気持ちになるのだった。
このような気持ちを幸福感と言うのであれば、それはそれで良いと思っている。そして、このような幸福感を得るに至った背景が三原代議士、いや、ミハラが政治家を志すといった「勇気」であるならば、その「勇気」に応えるのが友人としての役目ではないのかと思うのだ。
話は変わるが、僕はいろんな場面で「喋る」機会を与えられたことがある。そういうとき、何を喋ればいいのか必死で考える。そのときに伝えたい気持ちをどのような言葉で表そうかと必死になる。また、人前で「喋る」ということは、聞いている人にとっての大切な時間を頂戴することにもなるから必死にならざるを得ないのである。そのいくつかを紹介したいと思う。今もその時の気持ちのままだ。それは、詩のようになっていることがどうも多いようだ。

『心の望遠鏡』
                               
夢や希望は 無いよりあったほうが たぶん いい
わかってるさ
だけど 夢や希望を見つけるには どうすればいいんだろう

知ってるよ 君たちが 特別な望遠鏡を 持っていることを
知ってるよ 君たちが 今まで大事にしまっていたことを

さぁ 取り出そう その望遠鏡を 今がそのときだ
覗いてみよう 何が見えるだろう
たぶんまだ なんにも見えないだろう
望遠鏡が 壊れてるってことじゃぁない
レンズが曇ってるってだけなんだ

さぁ 磨こう そのレンズを 今から磨こう
覗いてみよう 何かが少し見えるだろう
ぼんやりと 何かが見えるだろう
レンズを磨く 真剣にやるってことなんだ
本気でするってことなんだ マジだぜ

さぁ 磨こう そのレンズを みんなで磨こう
覗いてみよう 何かがはっきり見えるだろう
夢や希望が見えるだろう
みんなで磨く それが友情ってやつなんだ
支え合うってことなんだ


夢や希望は 無いよりあったほうが たぶん いい
わかってるさ
だけど 夢や希望を実現するには どうすればいいんだろう

知ってるよ 君たちが 特別な望遠鏡で 見つけていることを
知ってるよ 君たちが それを手離してはいけないことを

さぁ 見定めよう その望遠鏡で さぁ進もう その夢に向かって

道のりは平坦じゃぁない

悔しさの涙で 歪んで見えることもあるだろう
そのときは 涙が枯れるまで泣けばいい
怯え震えて 見失いそうになることもあるだろう
そのときは 誰かがきっと支えてくれる
苦しすぎて 目をそらしたくなることもあるだろう
そのときは 空を見上げて遠くの友を思い出そう

険しい山や酷い嵐にだって遭うだろう
干からびた大地や汚れた川も渡るだろう
疲れ果てて 漆黒の暗闇に独りになることだってあるだろう
そのときは 光りが差すまで待てばいい 暗闇も悪くない

だけど 絶対 手離しちゃぁいけない
特別な望遠鏡
大事な望遠鏡
夢への望遠鏡
心の望遠鏡

愛してる ありがとう

平成19年3月22日
○○市立桜丘東小学校 PTA会長 東 英介
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選挙バカの詩×16『三原代議士と僕』

2013-01-19 21:16:07 | 雑談の記録
さて、我々同級生は2005年の夏から選挙に関わっているが、ミハラは最初の選挙で古泉旋風を受けて比例復活を果たして代議士となった。当時は右も左も分からない中での選挙活動だったが当選を果たしたときの達成感は今以上ではなかったかと思う。若さがそう思わせたのだろう。同級生が代議士になったことを誇りに思った。
ミハラが三原代議士になったのだ。
代議士と関わったことを少し記録しておこうと思うが、その前に少し自分の仕事の紹介をしたい。
僕の仕事は公共工事に関する地盤や地質調査がその主体だ。簡単に説明すると、橋梁やトンネル、その他建物などの構造物を作る前に地盤の状況を調査するといったものだ。具体的には調査ボーリング(地中に孔を掘る)を行って、地中から採取される土や岩石について調べ、その地盤の強度や構造について解析するといった仕事だ。
ある砂防ダムの計画が決まった現場でのことだった。調査をするとその現場の岩石にはアスベストが含まれることが判明した。砂防ダムを作る力学的な観点からは、その岩石はなんら問題は無いものであったが、そこで工事にあたる作業者の健康には問題がある可能性が考えられた。僕はそのことを担当部署に報告するとともに、ある飲み会の席で代議士にも相談をしたのだった。
現在、アスベストの危険性は一般に知られているが、それが特殊な岩石に多量に含まれていることはあまり知られていない。今だから話せるのだが、以前、僕は資源会社に勤めていて、会社のトップから密命を受けて採石山におけるアスベスト含有の可能性を調査した経験があった。だから、ある程度の知識を持ってその問題に取り組んだのだが、残念ながら土木工事現場におけるアスベストの規制や管理方法といったものはなく、行政側も取り扱いに大変苦慮していたのだった。そして、代議士はこの問題をいち早く取り上げ国交省に対応策を掛け合い、そのことは全国の自治体に伝わったのだった。
その砂防ダムは現在完成し、その機能を遺憾無く発揮しているのだが、このとき初めて代議士の「力」を知ったのだった。

もう一つ記録しておこうと思う。
それは、元日本代表Jリーガーのドーピング冤罪事件だ。
2007年のシーズン初めごろ、体調不良によりチームドクターから受けた点滴治療が問題視(ニンニク注射と誤報)され、Jリーグがドーピング違反で6試合の出場停止処分とチームに1000万円の罰金を課した。しかし、実際は、点滴にビタミンを追加しただけの専門医師として適切な医療処置だったのだ。その後、このことは世界アンチドーピング機構の規約違反にはならないことが示された。また、処分の取り消しを求めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴し、2008年5月27日、CASはその元日本代表の訴えを全面的に認め、Jリーグに対し、CAS史上最高額となる2万ドルのペナルティを科す裁定が下されたというのが、この事件の大筋なのだが、点滴治療を行ったのが同郷の我々同世代のドクターだったのだ。
この問題がスポーツ誌で報じられたころ、ボクはそのドクターの父親から相談を受けたのだった。これは不当な処分であると父親は力説していた。
その父親は、天然芝のサッカーグランドを所有しそれをただ同然で近隣地区のサッカーチームの練習や試合に提供していることで、県内のサッカー界ではよく知られている存在だ。そのグランドには、日本サッカー黎明期のカズをはじめとする元日本代表が合宿で訪れており、当時の懐かしい写真がクラブハウスには飾られている。
そして相談を受けたとき、その父親は、最も愛してやまないサッカー界からの陰惨とも言うべき仕打ちに対して、慟哭、ここに極まれりという状態だった。その後、僕自身も新聞や雑誌等を調べたほか、別口からの資料提供によって、これはJリーグのドーピングコントロール委員会の誤報に基いた処分であることを理解するとともに、この委員長が世界アンチドーピンング機構の委員に推薦されている「重鎮」であることを知るに至り、組織の強烈な腐敗臭を感じたのだった。
そして、僕はこの事を代議士に話し、ドクターの父親と直接会ってもらった。その後の代議士の行動は早かった。文部省にこの事案を持ち込み、国会でも取り上げられ問題解決の一翼を担ってもらったのだった。
CASの裁定が下った翌日の2008年5月28日に、僕のブログでこのJリーガーのことを取り上げたところ、コメントが寄せられた。


これから (三原)
2008-06-01 00:19:30
「正当な医療行為」を施したドクターの名誉回復がまだですね。

ありがとう (hiratamua)
2008-06-01 08:25:05
ウン、確かに。
それはボクもよくわかっている。
身勝手で個人的な意見だけど・・・、
ドクターの名誉回復は静かにゆっくりがいいなぁ。
なんかそんな気がする。
でもトニカク、この件について、三原(衆議員)にはお礼を言わなくちゃいけない。
「めちゃくちゃありがとう!」

なお、このJリーガーの冤罪については、木村元彦氏が著した「争うは本意ならねど-ドーピンング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール- :2011年12月集英社インターナショナル」に詳しく書かれてあり、これによりドクターの名誉回復が図られたのではと思う。同郷の同世代の一人として木村氏にも心から感謝したい。ありがとうございました。

続く、、、
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選挙バカの詩×15『勝山』

2013-01-18 22:53:44 | 雑談の記録
やはり、勝山のことを避けて通る訳にはいかないと思う。批判を覚悟で、勝山のことを記録しておこうと思う。
勝山はハッキシ言ってバカだ。
人をバカ呼ばわりするのは教育上ヨロシクナイとの声が聞こえてきそうだが、彼の容姿を表してハゲというよりはマシだと思っている。
さて、冗談はこのくらいにして。
高校時代、勝山は応援団長を務めていた。応援のときに限らず、普段からは破帽に下駄という姿は勇ましくあり暑苦しくもあったが、そんな伝統的なスタイルを3年間押し通し、部活やその他色々な場面で我々を応援し続けた彼の姿を知らない同級生はいない。そして彼はナニヨリ応援にひた向きであり一途であった。そんな彼の姿をみて、コイツは自分の死に際でも誰かを応援するに違いないと思ったものだ。
卒業後は、浪人を経て国立大学へ進学し、高校時代の反動かどうか不明だが学生時代はクラブでDJなどをやっていて耳には複数個のピアス跡がその名残として見ることができる。今でも時と場所を選んで付けているのではないだろうか。大学卒業後は、大手の電気メーカーにシステムエンジニアとして就職したが、下駄箱に自分のブーツが入らないとかなんとかで会社を辞めたそうだ。退職の本当の理由は別にちゃんとあるのだろうが、我々の仲間内ではそういうことになっている。その後、地元のIT企業に務め、現在は一応「独立」しているらしい。
僕と勝山の関係は、勝山の伴侶が僕の中学時代の同級生であることのほかに、勝山の長女と僕の末っ子の息子が同学年で同じ学校に通っていることがある。つまり地元でベッタリというワケだ。
僕がPTA会長として入学式のときに挨拶をし、勝山が新入生の保護者代表として挨拶をするということもあった。
近年の育児に勤しむ父親はイクメンなどと言われるが、勝山は元々そういうタイプだ。そしてモノマニアでもある。
運動会では、まるでバズーカ砲のようなカメラで子供の姿を追い、
ちっちゃいiPodを駆使して音楽やナニヤラを扱っている。ただ、最近は収入減に伴って周辺機器類が時代遅れになっている感が否めない。また、服も学生時代のアメカジ風のソレを今でも着ていて、最近は、ムネ、コシ辺りがパッツンパッツンになっているのが笑えるのである。
そして学生時代からの大きな変化は、何と言ってもやはり、、、、おっと、、人権敏感派団体に訴えられるかもしれないので、「頭髪」についてはこれ以上語らない。
そんな頭髪に問題を抱えた勝山だが、我々同級生や黄城高のことになると、家族も犠牲にして活動に邁進するのである。毎年発行している同窓会の会報や同級生のホームページ管理そして運営、去年からは創立130周年記念の同窓会名簿作成など、本当に頭が下がる思いだ。
そして極めつけは
「今度の選挙が終わるまで、オレ、仕事、やんねぇ!」
家族にはちゃんと説明しているのだろうか。
本当にバカな男なのだ。


続く、、、
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選挙バカの詩×14『三原みのると我々2』

2013-01-17 22:58:02 | 雑談の記録
僕はその飲み会の席で恐る恐るミハラに接近し、安物の刺身を前にミハラに率直に尋ねたのだった。何故、政治家になりたいのか。
ミハラは信じてもらえるかどうか戸惑い気味の様子で話してくれた。
今では広く知られていることだが、そのとき初めてキハラには重度障害の弟がいることを知った。
キハラは見てのとおり、背が高く二枚目でハンドボール部のキャプテンで学歴も申し分なく、その上、就職先も当時人気ナンバー1だった国民航空だ。口に出して比較せずとも、それが弟と対局にあることは明らかだった。背が高く二枚目であること以外は本人の努力の結果だが、そのことが彼を苦めていたかもしれない。いや、彼の幼少期を想像すると、健康な自分と障害を持った弟を見ながらの生活が彼に大きな影響を与えていたことは間違いないはずで、そして、それが政治家を志す大きな原動力になったことが容易に推測できた。
話しをもう少し詳しく聞くと、政治家を意識し始めたのは高校生の頃で、だから大学では歴史を専攻したとのことだった。また、いずれ政治家になるのであれば資金が必要であるから、一番給料の高い国民航空に就職したと、そして、パイロット候補にもなったがリスクを避けるため地上勤務を志願したこと、さらに勤務部署で社長賞を受賞したこと。
三原は淡々と話したのだった。
もう、その話で十分だったが、ミハラはその後退職し、政治塾に入り勉強しながら機を待って、この県の第一選挙区の民自党公認候補者の公募に応募したとのことだった。
こう言うのを筋金入と思った。コイツは半端じゃねぇ!。

ただ、そうした政治に関わる話は当時の我々にはまだ早かったように思う。ミハラもそれは感じていたのかもしれない。ミハラは自分のことをその席では殆ど語っていないのではないかと思う。ただ、ミハラは自分のことを話すのが苦手なタイプであることは、どうも間違いないようである。
我々の転機はなんと言っても小泉旋風が吹き荒れた2005年夏の衆議院議員選挙だった。ミハラの存在が政治を身近にし、ミハラ自身のこともようやく我々に浸透しはじめた頃だった。
梅雨が明けた夏のある日、同級生が勤務する会社の会議室に10人弱の男達が集まった。その男達は、同級生で組織する1988年の卒業年に因んだ「88会」の役員メンバーであり、招集を呼びかけたのは他ならぬ勝山だった。ただ、その会合から遡ること数週間前、勝山は88会の代表をホームページ上で突然辞ししていたのだった。その理由を我々は既に知っていたが、詳細については勝山の口から直接聞いておく必要があった。
勝山は深妙な面持ちで自分がミハラの後援会長を引き受けたことを話した。それは、ミハラの強い要望であると同時に、選挙戦略上の「都合」でもあった。
我々同級生たちは、昔から勝山を中心にまとまったような仲間だった。勝山が後援会長になるということは、自分達がどういうことになるのか想像に難くないことだった。我々に動揺が走ったのは言うまでもない。しかも、選挙、政治はど素人の当時36歳の集団だ。漸く社会的責任が生まれ、それぞれの家庭では子供はまだ小さく、それでいて遊びたいさかりの年代だった。
ミハラは立派なヤツだけど、俺たち、ミハラのことは実際よく知らんし、急に選挙といわれてもねぇ~、これが最初の印象だった。
しかし、勝山のいつもの強引と言おうか同情を誘うほどの熱心な言動に、我々同級生は否応無く「選挙」に巻き込まれていっただった。
このようにして、僕や周辺の同級生は選挙に巻き込まれていったのであるが、正直に言えば、活動の出発点は同級生や地元といった「シガラミ」にあると思うのだ。最初から崇高な目的など殆ど無かったと言ってもいい。しかし、活動に関わっていくうちに、我々の意識は次第に変化してゆき、社会や政治のあり方について真剣に考えるようになったのだと思う。そして、それは僕自身にも大きな影響を与える結果となった。このように、選挙ドキュメンタリーを書いていることも、その影響の現れの一つなのだ。
選挙や政治活動に関わることは、感情面においてはマイナスになることもあると前記したが、ドッコイその反対で、実は意識の変化に伴って言動も変わり、自分自身の成長に繋がっていくという側面を僕は経験することができたように思うのだ。そのことについては、後に触れることにする。

続く、、、
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選挙バカの詩×13『三原みのると我々1』

2013-01-16 22:26:47 | 雑談の記録
選挙期間中、事務所には多くの同級生、先輩、後輩が来てくれた。また、職務上、出入りが難しいとされる同窓生の姿も多く見られた。本当に頭が下がる思いだった。東京から応援に駆けつけてくれた松永君を始め、中本君、松さんには勇気付けれた。足を運んでもらっただけの同窓生にも感謝しなければならない。
人にはいろんな事情が有るのは十分承知している。そして、選挙事務所という所は、一般の人から見えれば一種独特の雰囲気を持っており、敷居が高く感じられるということも理解している。さらに、そこに出向いてボランティアをするとなると、それは一層の壁として捉えられることも分かっているつもりだ。
大袈裟かもしれないが、事務所に来た人々はその敷居を跨ぎ、壁を乗り越えた勇者というふうに思っている。心から感謝と敬意を表したい。
だからと言って、事務所に来れなかった人を責めるつもりは毛頭ない。三原候補は民自党所属だ。民自党と相入れない考え方の人々がいることも十分承知している。OB訪問でも、ごく稀ではあるが叱りや怒りの言葉を頂戴することがある。露骨に嫌な顔をされることもある。選挙活動を知られた後、蔑視されたことを肌で感じたこともある。また、不用意に政治の話をして友人関係を悪化させたこともある。このような時は、ただ悲しくなるだけだ。
そういう意味において、選挙あるいは政治活動は必ずしもいい面ばかりではない。感情面の物差しで計ると、実際はマイナスなのかもしない。多くの人はそれを理解しているから、選挙活動に二の足を踏むのではないのだろうか。それは僕とて同じだ。
しかし、幸か不幸か、いや、敢えて幸だと判断するのだが、我々の前に日本の政治を託するに相応しい人物が現れたのだ。
それが、「三原みのる」だ。
三原を応援しはじめた2005年以降についてはいろんな機会で本人と接する機会があり、人目の無い同級生だけの集まりのときには「ミハラ」と呼捨てにしている。
このドキュメントを記録するに当たって、人間「ミハラ」を避けて通る訳にはいかない。あるとき友人から、お前は同級生という理由だけで三原を応援するのかと率直に聞かれたことがある。このような質問に対し「同級生という理由だけで十分ではないか」という返答も良いだろう。
しかし、応援を始めた当時、僕はそれ以上の理由を上手く説明することができず、その友人に軽率なヤツだと見られてしまった。
以下、僕のミハラについて記録しておこうと思う。
僕にとって、ミハラの登場は青天の霹靂だった。2005年の初夏ではなかったかと思う。夕方のローカルニュースで、ミハラが民自党の第一選挙区の候補者に公募で選ばれたということを初めて知り、大変な驚きを憶えたのだった。僕にとってのミハラの思い出と言えば、隣の部室にいた背が高く女にモテそうなイケスカンヤツだったので、その驚きはなおさらのことだった。その後、同級生の間でもミハラのことは大変な話題となった。
それから間もなく、同級生の飲み会の席にミハラが重倉県議と共に現れた。重倉県議は黄城高の先輩なのだが、それまで政治に無縁であった我々の前に突然現れ高圧的に支援を頼んできたことに、内心、腹が立ったのを覚えている。もう少し若かったら、県議のネクタイを引っ張り頭をテーブルに叩きつけてやったかもしれない。若い頃、高圧的でお喋りの年配者は大嫌いだった。しかし、目にとまったネクタイの柄が黄色地にピカチュウだったので、うっかりそのネクタイを褒めてしまい、逆にそのネクタイをプレゼントされるというお粗末さだった。
県議に引き回されての短い時間だったということもあるが、卒業後の初めての再会は最悪だった。
次にミハラと会ったのもやはり同級生との飲み会の席だった。その席でミハラは少し浮いていたように思う。当然と言えば当然だ。飲み会に集まった同級生は地元に根を下ろして生活をしている連中だ。一方、ミハラといえば、W大学を卒業後、国民航空に就職しパイロット候補にも選ばれた経歴の持ち主で、あたかも落下傘でこの街に降りた立ったようなものだった。当然、ミハラには不安があった。また、ミハラについての情報が少ない我々も、どのように接したらいいのか戸惑いがあった。

続く、、、
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選挙バカの詩×12『Team M Smile』

2013-01-15 21:45:01 | 雑談の記録
「Team M Smile」は三原を支援する私設のクリエイター集団だ。総決起大会の冒頭、ステージ上の銀幕に映し出された三原候補のプロモーションビデオを作成した集団と言えば早いかもしれない。また、三原のホームページの「ミノルちゃんねんる」という動画サイトも作成するなど、現在はITによる後方支援を主な活動としているが、今後の「新しい」選挙においては、このチームの活躍の幅は格段に拡がることが予想される。
選挙事務所では、チームの代表を務める池尻氏をよく見かけた。本業を終えて事務所に来るのだが、黒の革パンにエンジ色の短めのコート、そして、大きめの角ばった黒革のアタッシュケースという姿は、我々のような野暮な同級生達とは一線を画する雰囲気があった。また、黒縁のメガネの奥の瞳には彼自身の決意の他にそれとは異質な影のようなものを感じさせる何かがあり、我々同級生との間には距離があった。
池尻氏は1972年生まれの39歳だった。事務所で勝山に紹介された。その後も幾度となく事務所で顔を合わせてはいたが、選挙情勢に関わること以外、多く語ることはなかった。
しかし、僕は大変な興味を持っていた。勝山からは「ミノルちゃんねる」の運営やプロモーションビデオの作成は無償と聞いていたことと、さらに、そのクオリティの高さに驚嘆していたのだった。
「、、これ、、タダで作ってんのか!?、、ウソッ!、、」
「、、ウソじゃねぇよ、マジだ、、けど、そうなんだよ、、こんなのフツー、タダじゃぁやんねぇよな、、こういう支援者がいるっていうことが、、なんか、スゲーと思うんよ、オレは、、」
三原のプロモーションビデオの動画を観ながら僕と勝山はそんな会話をしていた。そして我々のブースとは対角線に位置する玄関付近のブースでは、池尻氏を囲んだ議員団がノート型パソコンに釘付けになっていた。パソコンのスピーカーからはビデオのオリジナルBGMも聞こえてきた。
しばらくすると議員団の顔がパソコンから離れた。BGMも止んだ。視聴が終わったようだった。議員達の反応は様々だった。素直にそのビデオの出来栄えについて言及すれば良いものの、何か言いたげであり、不満箇所を故意に探しているようでもあった。しかし、遠目に見ていて最も判りやすい反応は「羨望」であった。それが、そのビデオに対する最大の賞賛として相応しい反応だった。


池尻氏と三原候補の出会いは2年前なのだが、池尻氏が抱いた第一印象は「冴えないヤツ」だった。その頃はまだ落選の影響が色濃く残っていたらしい。物事の判断過程が自己完結的で、他者からの提案を受け入れる余裕が三原には乏しかったのだ。
「、、あれじゃぁ、ダメですね、、」
始めての打ち合わせに同伴していた20代の女性スタッフが、事務所を出たところで池尻氏にそう言ったのだった。
「、、そうだね、でも、これって以外と普通のことなんだよね、、事業がうまくいってない経営者とかって、大体、あんな感じでさ、、自分の行動や判断に関して、全て理由づけするというか、あるいは直ぐに根拠を持ち込もうとするんだよね、、でも、、それって本人は見えているように思ってるだけで、、ま、言ってみれば自覚症状のない視野狭窄症ってとこだね、、」
そういう池尻氏は何者かと言えば、経営コンサルタントであり、デザイナーであり、プログラマーであり、カメラマンであり、そして、県北に位置する由緒ある神社の宮司である。武者返の石垣で有名な城が眺望できる老舗ホテルで執り行われる神前式では彼が祝詞を奏上しているのである。ただ、ここに至るまでの彼の人生は紆余曲折と表現する以外になく、テレビ局入社に始まり映画制作会社、デザイン会社勤務を経てパソコン教室経営など、成功の数と同じだけの失敗を経験しているところが氏の最大の強みであった。
池尻氏が三原候補と再び会ったのはその1年後なのだが、そのときの印象が前のそれとは違っていたことに驚いたと言う。
「、、、いや~、それがですね、、腰が座ってるというか、、全てを受け入れる姿勢とでも言えばいいのでしょうか、、とにかく、そのとき、思ったんですよね、、あっ、この人、今度は当選するだろうってね、、世論のカゼとかに関係なくですよ、、本当にそう思いましたよ、、実際、、」
氏は、さらに続けるのだった。
「、、だから、私、三原候補の伝説に乗っかろうって、、そういうふうに思ったんですよ、、説明は難しいんですが、この人は当選するって確信が持てたんですよね、、それに、もし、当選したらアイツに勝ったってことでしょ、、こりゃ伝説ものですよ、、あっ、でも、伝説を作るのは、我々のような裏方のシゴトなんですけどね、、」
氏は笑って僕に話してくれた。
三原の伝説は始まったばかりである。


続く、、、なお、本章については未完であるとhiratakuwaは考えているため、今後の追記分も御期待下さい。追記の際はお知らせいたします。
なお、この物語はフィクションであることをお忘れなく!
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選挙バカの詩×11『応援演説3』

2013-01-14 21:13:43 | 雑談の記録
演説が終わった。最後は無我夢中だった。拍手の中、僕は逃げるようにして、袖を通り抜け楽屋に戻った。と言うより本当に逃げ出したのだ。しかし、その途中、控えの椅子に座っていた若手の参議院議員がボクの手をギュッと握りしめたのっだった。通路に出ると岩下先輩がいた。岩下先輩は涙ぐんでおり、ボクの手を握ると一言、
「良かったぞ!」
と言った。僕も先輩の手を強く握り返し、礼を言ったように思うのだが声になっていたかどうかわからない。通路で出演者の案内をしていた女性スタッフがやはり涙ぐんで「感動しました!」と言って深々と頭を下げた。
しかし、何が良かったのか?何に感動したというんだ?解らなかった。ただ、演説の後半に湧いてきた激情とも言うべき感情の大波に自分が完全にのみ込まれていたのは事実だった。もがき苦しみながら現実という水面にたどり着きたかった。
楽屋で一人になった。フェイスブックのコメントに友人からのメッセージが入ってきた。どれも嬉しいはずのメッセージばかりだったが、本心は別の所にあった。
オレは、いったいナニをやっているんだ!?
楽屋のスピーカーから保育士の優しい声が聞こえてきた。続いて、三原候補の声が聞こえてきた。
感情の波が襲いかかってきた。涙が溢れてきた。
もし、同級生に三原がいなかったら、果たしてこんなに政治に強い興味を持っていただろうか?勝山がいなかったら、こんなに選挙活動をしていただろうか?政治に関心はあるものの評論家気取りではなかっただろうか?いや、ひょっとすると無関心をカッコいいと勘違いしていたのではないのか?
僕は黄城高という高校に進学し、友人達と出会いたまたま三原と出会ったに過ぎない。そんなヤツが、、、それが現実なのだ。
恥ずかしさと情けなさが自分を占めていった。作業着の袖が涙であっと言う間に変色していった。張り巡らされた楽屋の鏡に何人もの醜い自分が映っていた。そして、楽屋はどこまでも明るく全てを照らしていた。
集会は続いていたが僕は我慢できずに楽屋を抜け出した。最後まで楽屋に残り松中議員や他の議員にも挨拶すべきだったが、それより外の空気を僕は求めていた。
一刻も早く集会が終わり、気の置けない仲間たちと飲みに行きたい!
喫煙所で、会場の外に出てきた人達と長引いている集会の愚痴をこぼしあった。
友人達が出てくるのを待っていたがなかなか出てこなかった。そのうちに、以前息子が世話になっていた野球チームの関係者や保護者の男性に目が留まった。懐かしさのあまり後姿を追いかけて声を掛けたが、褒めの言葉を聞かされるだけで、僕は恐縮するだけだった。
友人達がようやく外に出てきた。褒める友人もいれば、貶す友人もいた。やっといつもの「自分」に戻ることができた。
十数人の友人達と連れ立って繁華街の居酒屋に行った。その日の飲み会は東京から来た松永君の歓迎会でもあった。それほどの酒量ではなかっが随分酔ってしまった。
トイレに立ったとき勝山と一緒になった。
「今日の演説、よっかたぞ」
日ごろ、厳しいことばかり言っている勝山がそんなことを言った。いつもの自分だったら、ウルセェ!っと言い返したと思うのだが、疲れのせいもあり感情が昂ぶっていたのだと思う。
泣けてきた。
「、、きつい、マジで、きつい、、オマエがいるから、、なんとか頑張れる、、、」
「、、俺だって、きつい、だけど、オマエが、オマエがいるから、、俺だって、、」
勝山も泣き始めていた。
「ヒガシ!ヒガシ!俺たちには夢があるだろ、本物の政治家を作るぞ、子供たちのために!ヒガシ!あと一週間だ、、一緒に走り抜けるぞっ!、、」
僕は勝山の胸に頭をうずめた。それを勝山はしっかり受けとめた。
間仕切りされた部屋に戻ると入口付近には元柔道部の門田が座っていた。門田は僕をいきなり引き倒すと力一杯抱きしめた。
入学したての頃、門田は大きい体を利用して教室の後ろで友人達にプロレス技を掛けていて僕はその餌食の一人であったが、人の温もりを身をもって感じていたことを門田にハグされながら思い出していた。その頃の我が家は父母が別居中で「家庭」は目茶苦茶だった。今、思えば心に深い傷を負っていたことは間違いないのだが、その傷を仲間に見せることはなかったように思う。ただ、当時の自分にとって、唯一、傷の癒える場所は学校と仲間だった。
居酒屋では、同級生と共にいつものようにズブズブに酔ってしまっていた。
いつの間にかタクシーに乗っていた。運転手に何度も大丈夫ですかと聞かれていたように思う。ただ、車は我が家に向っているようだった。運転手に最後の力を振り絞って言った。
「、、民自党の三原候補の事務所に寄ってもらえますか、、、」
集会が終わったあと、松中議員に挨拶していなかったことがどうしても心残りだった。ずいぶん遅い時間だったが、いつもだと議員団が打合せをしている時間だった。事務所は眩いばかりの明るさだった。スタッフは大勢い残っていたが松中議員の姿は見当たらなかった。僕は事務所奥の黄城高のブースにヨロヨロと歩いて行った。
ブースの壁には三原候補にメッセージを送るための模造紙が貼ってあったが3枚目の新しいそれにはまだ空白があった。酔った勢いでメッセージを書いた。
「みんなありがとう」
書き終わると、机の上に森尾がダンボールごと差し入れした大量の缶コーヒーに目が留まった。運転手に持っていってあげよう。しかし、それだけを持っていくのも何だか憚れると思ったので、持てるだけ持ってスタッフに配ってから表に出ることにした。
運転手は車を降りて僕の戻りを待っていたが、玄関を出るころにはスタッフに配り切ってしまい手ぶらになっていた。僕はコーヒーが切れたことを詫びて車に乗った。年配の運転手は、昔から家族全員で民自党をずっと応援していると繰り返し話していた。
家に着くと妻がパジャマ姿で起きていた。
「広太郎、腰を怪我したみたい、キャッチャーをやってて、フライを取ろうとして突っ込んでったときに、、、」
妻は簡単にそう言うと寝室に戻っていった。
酔いが一気に醒めていくのがわかった。シャワーを浴びる必要があった。直ぐにでも息子を起こして状態を確認したい衝動にかられたが、遅い時間だった。最悪のことを考えた。
腰椎分離症だ。つまり、腰骨の疲労骨折の一種だ。13歳から15歳の成長期のスポーツ少年に起こりやすいとされる障害だ。息子は「戦績」を代償としながらこれまで様々な怪我を負いそれを克服してきた。そして、次に起こる怪我として、以前から腰椎分離症を想定していた。また、そのリスクが高いことも息子には日ごろからしっかり言っていた。そういう意味において怪我への「準備」はできていたが、またしても、息子を守れなかったことが悔やまれてならなかった。
しかし、実際の損傷具合については、病院に連れて行き判断を受ける以外になかった。もしかしたら、背筋を少し捻った程度の軽傷であることも十分考えられたからだ。頭の中で重症なのか軽傷なのかの堂々巡りが始まり、決起集会の長い12月9日は終わったのだった。


続く、、、
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選挙バカの詩×10『応援演説2』

2013-01-13 21:24:06 | 雑談の記録
ステージ横の袖の暗がりにはパイプ椅子が並べてあり、そこが演説者の最後の控え場所だった。
応援演説は、後援会長の岩下先輩を筆頭に衆議院議員、参議院議員、県議会議員、そして有権者男女の順番だった。僕は前山県議の次の有権者男性の代表として、40代中小企業の技術系中間管理職という立場だった。
集会が始まったころ、僕らはまだ楽屋にいたが場慣れしている青年会長の山中氏の促しで、ステージに向かった。僕は暗がりに並べられたパイプ椅子の一番端っこに座り順番を待った。そして原稿をソラで読み、つまずいては原稿をポケットから取り出して読み返すのだった。隣に座っていた夫妻は松中議員に記念写真を撮ってもらっていた。こんなところで記念撮影とは大した度胸だなと思った。一瞬、自分も妻と一緒であればと思ったが、今の緊張を考えると妻の存在は屁のツッパリにもならんだろうと思い直して自分に集中したのだった。
前山県議がステージに出ていった。僕はそれを追うように、椅子を離れると袖に立った。そして膝の屈伸と股割り、肩まわりのストレッチをした。緊張のあまりロボットのように歩いてしまうのは目に見えていた。イチロー選手よろしくのつもりでストレッチをしたが、その努力も虚しく、同級生の感想は、「まるで、ロボットだったぞ!」だった。
司会の木嶋議員が僕を紹介した。
ステージはひときわ明るく、その向こうに側には1500人近い観衆が固唾を飲んでいるようだった。
僕はステージの真ん中に立ててあるマイクをめがけて足を踏み出した。
光を浴びると、先ず、国旗に一礼し、続いて壇上横に立っている三原候補と握手をした。頼む!三原の目と手がそう訴えていた。
スタンドマイクの前に立ち大きく息を吸った。足が小刻みに震えていることに気がついた。責任は全て選挙長の松中議員が取ってくれるはずだ、オレはオレのことをやるだけだ!

「私は、三原候補とは同世代の、三人の子供を持つ父親です」
、、、足はまだ震えているが出だしはまずまずだ、、、
「10年前、郷里の熊本に戻ってきました」
「仕事は技術職ですが、この10年、仕事は激減し、どうにか、生活できている状態です」
「これも、ひとえに、社長を始めとするスタッフ皆さんの支えがあったことと感謝し、私自身、血の滲み出るような努力を重ねています。しかし、会社には新たに人を増やすような余力はありません」
「7月に起こった大災害で夜を徹して仕事に励んでいますが、果たして、数ヶ月後、1年後に仕事はあるのか、不安があります」
、、、次はなんだった?次は、、思い出せ!
「これからの社会は一体どうなるのでしょうか?」
、、、そうだった、、、
「私は、贅沢のできる暮らしを望んでわけではありません」
「単純なんです」
「日々、努力をし、それがちゃんと報われる社会、そして、子供たちに希望が持てる社会を願っているだけです。ただただ、子供達や妻と、父、母と、明るい将来について話したいだけです」
、、、込み上げてきた、、今度は声が震え出す、、、
「政治家には、そんな社会を作ってもらいたいと心から願ってます」
「三原候補には、それができると信じています」
「ここに御出でのみなさんも、それを願っているのではないでしょうか」
、、、最後だ、一気にたたみ掛けるぞ、、、
「私は全てを三原候補に託します!」
「どうか彼を勝たせてください!」
「そして、彼の勝利が、我々の勝利となるのです!」
「彼を勝たせることが我々の使命です!」
「どうかよろしくお願いします!」
、、、感情的になってる、なり過ぎている!なぜだ!、クソッ!、、、
三原の手を握った。三原の目にも熱いものが見えたような気がした。
、、、もうここには居られない、、袖に戻ろう、、と、その前に国旗に、、身体を反転させて国旗に一礼すると、僕は袖に走ったのだった。



続く、、、
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選挙バカの詩×9『応援演説1』

2013-01-12 23:59:08 | 雑談の記録
家に戻ると一人だった。上の娘の二人は高校の部活で、下の中学の息子はクラブチームの硬式野球の練習で、妻はそのお茶当番だった。
風呂に入り頭を入念に洗った。風呂から上がると、選対の要望どおりいつもの作業着に着替えた。作業着はどれも似たり寄ったりだが、洗濯されたもののうち、一番見た目が良さそうなものを選んだ。
身仕度が終わったとき、時間はまだ5時を過ぎた頃だった。時間は十分にあったので健軍電停まで歩いて行くことにした。電停までは、ゆっくり歩いて40分ほどの距離だった。気分転換にはちょうどいい時間だった。久しぶりに自分の住んでいる街並みをゆっくり見るのも悪くないと思った。しかし、表に出ると意外に寒く帽子を被らなかったことを少し後悔したりした。
そんなことを考えて歩いていたが、頭の片隅では上手く喋れるだろうかとその心配が消えることはなかった。いつの間にか、ステージに立った自分を想像して、胸の中ではしっかり原稿を読んでいるのだった。想像上でもなかなか上手くは喋れなかった。しかし、自分が一番伝えたいその部分にさしかかった時、突然、涙が溢れてきた。歩道がぐにゃぐにゃになっていく。作業着に身を包んだ40過ぎの男が道端で涙する姿はさぞかし周囲に迷惑をかけたことだろう。自転車に乗った年配の女性が不機嫌な顔で通り過ぎていった。
しかし、僕はその涙で自分の言葉に嘘はないと確信したのだった。日暮れはそこまで迫っていた。

街中に着いた時も時間はまだ十分にあった。僕は100円ショップに行き、ニット帽子と手袋を購入した。それから市民会館に向かった。
会館前の道路から中の様子を伺うと、黄色いジャケットのスタッフが右に左に動いているのがガラス越しに見えた。一部のスタッフは入口に立っており、早い時間であったが、既に支援者も入場しているようだった。僕はそれに紛れて中に入っていった。
僕に気づく者は誰もいなかった。しかし、VIP風の人にはスタッフは丁寧に挨拶をしていた。僕は作業着だったし、スタッフには会館に出入りする「業者のひと」に見えていたのかもしれない。少し淋しい気持ちになったが、これは、予期しないものに対する注意力の欠如から生じる、いわゆる「非注意による盲目状態(科学用語)」による現象で、それはすなわち、スタッフが自分の仕事に集中している結果であると解釈することにした。だから、僕は自力で松中議員を見つけることにしたのだった。
松中議員は、ホール出入口付近の観客席の一番後ろで長身のスタッフと難しい話をしているようだった。頃合いを見計らって横から挨拶をした。
松中議員は、よく来たという表情で僕を迎えると、直ぐに踵を返し、ついて来いと言った。松中議員は緩く傾斜した通路をステージに向って歩きはじめた。僕はその後に続いた。議員はステージに上がると、暗い袖を通り抜け、何度か迷路のような廊下を曲がり僕を楽屋に案内した。最初の楽屋は鍵がかかっていた。議員は違ったと呟くと隣の楽屋の引戸を開けた。
引戸は、病院で目にするような大きめのもので中も一面真っ白だった。部屋中に貼りめぐらされた鏡と無数の照明を除けば、やはり広めの病室のようだった。着替えスペース用の黄色っぽいカーテンもあった。
その明るすぎる部屋で先生とボクの最後の打合せが始まった。僕は手書きの原稿を議員に渡した。
「もうダイジョウでしょ!すっかり頭に入ってるでしょ!あとは、気持ちだよ、気持ち!3年4ヶ月分の気持ちを思い切ってぶつけてみようか!」そう言うと先生はボクの肩をドーンと叩いた。
それと同時に引戸が開いた。
僕の後に演説をすることになっている30代前後の保育士とそのご主人、そして青年会の会長の山中氏が入ってきた。楽屋が賑やかになった。
程なく司会進行役の木嶋市議会議員がスタッフと共に入って来た。木嶋議員は、先ず、保育士夫妻と挨拶を交した。
僕は、木嶋議員とは五年以上の付き合いで、子供の野球や木嶋議員自身の選挙でも企業派遣スタッフとして活動したことがあった。議員とは一緒に温泉に浸かったこともあった。
議員は振り向くとトボけた顔で、「アナタ ハ ドナタ」と言った。
木嶋議員と堅い握手を交わした。そして、そこで僕の紹介方法が決まった。会社名は言わないで下さいと頼んだのだった。
開会の時間が迫ってきまた。隣の楽屋には、大物国会議員や民自党県連の幹部がいて、大きな声が響いていた。


続く、、、
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選挙バカの詩×8『演説要請5』

2013-01-11 23:59:29 | 雑談の記録
その日の午前は、前日、東京から応援に駆けつけた松永君と一緒にOB訪問活動を行った。午前中に50軒以上を訪問したのだった。松永君とは高校時代にろくに口もきいたことがなかったが、コンビネーションは抜群だった。気がつくと煙草休憩も忘れて午後を迎えていた。
昼に事務所に戻ると、約束どおり松中議員との打合せが始まった。
松中議員は、二人分のコーヒーを準備すると、僕を事務所の二階の会議室に案内した。テーブルやパイプ椅子は部屋の後ろに片付けてあり広くなった会議室がさらに寒く感じられた。議員と一緒にテーブルと椅子を部屋の中央に並べると議員は入口付近にあったエアコンのスイッチを入れた。そして、打合せが始まった。
僕は、仕事でも愛用しているくたびれ切ったウエストバッグから二つの原稿を取り出した。そのプリントアウトされた原稿の冒頭には、鉛筆書きで、4分30秒バージョン、3分30秒バージョンと記していた。議員は、その原稿にジッと目を落とした。
「うん、よくできてる、だけど、これじゃぁ実際は10分になるね、、あのね、3分だったら、原稿は1分から1分30秒なんだよ。」
そこから始まった。
「あのね、演説は講演会がじゃぁないんだよ、だから講師のように全てを話す必要はないんだ、、、まず、最初の自分の紹介の部分だね、、どうしようか、、先ずは、このぉ「建設関係の中小企業」は省こうか、、、何故かわかる?」
「いえ、わかりません」
「うん、記者はこういうのを拾うんだよ、すぐに、揚げ足をとるというか、、記事では「支援者は建設関係に従事する○○さん」って具合にね、、それは候補のイメージにとってはねって、ことになるでしょ、、」
「なるほど」
「だから、できるだけ、こういうのはボカシた表現がいいんだよ、、ヒガシさんは、そのへんのこと、わかるよね、、、」
十分理解できていた。よく耳にする政治家の歯切れの悪い「高等」な答弁を思い出せばよかったからだ。
「それからね、演説は短ければ短いほどいいんだよ、、長くなれば長くなるほどボヤけてしまうんだ、、聴衆の記憶に残らないんだよ、、それじゃぁダメなんだよね、、」
「確かにそうですね」
しかし、ボカした表現でボヤけないことを喋るとなると、これは一体どうすればいいのだ。
我々は三原候補の演説を例にして議論を重ねた。お互いに、候補の良いところ、悪いところを挙げていきながら「演説」に関する理解を深めていった。気がつくと、僕は全く違った視点で演説を考えていたことに気がついたのだった。話しは演説の技術に留まらなかった。
「、、最終的には心なんだよ、、言霊なんだよ、、それが大事なんだよ、、」
議員の言っていることは理解できたが、それをどうやったら、、、
「、、ヒガシさん、ヒガシさんは、まだ、本心を出し切ってない、、ヒガシさんはカッコつけてるだけ、、ヒガシさんはどうして、三原候補を応援しているの?、、どうしてだろう、、そこをもう一度よく考えてくれないかな、、」
「わかりました」
自分の原稿を見ながら、朝、目覚めた時のことを思い出した。我ながら「良く」できているなと思う一方で、夜中に書いたラブレターを朝に読み返して顔が火照るような感情を抱いていたのだ。好きな女性に「好きだ!」とひとこと言うほかに何をつけ加える必要があるだろうか。そういうことかもしれないと思ったのだった。
松中議員との打合せは約1時間に及ぶ濃密な時間だった。腹を割った話とはこういうものなのかもしれないと思った。自分が裸にされた気分だった。
「、、わるいけど、、もう一度考えてくれる、、30分、30分たったら戻ってくるから、、、」
我々は議論の最中、煙草を随分吸っていた。議員は既にタバコを切らせており、ボクのショートホープを灰皿で消すと会議室を出て行った。
会議室に一人になった。遠くから他陣営の選挙カーの連呼が聞こえていた。
頭を抱えた。どうすりゃいいんだ?
本当は、この打合せを早々と終えて、午後からもやる気満々の松永君と一緒にOB訪問活動をやろうと思っていた。ボクは階下に降りると松永君と勝山に事情を話し、また、コーヒーを持って会議室に戻った。ただ、事務所奥に置いてあるコーヒーメーカーからカップに注ぐときに大量のコーヒーを溢してしまっていた。
40分が経過した。それは松中議員と過ごした教師と生徒の関係の時間とは異なり、正解のない「解答」を一人で模索する時間だった。時間は限られていたが、それは忘れるように自分に言い聞かせながら、自分という人間を掘り下げると同時に、己は何を政治家に希求しているのかを考えた40分だった。
松中議員が会議室に戻ってきた。議員は満面の笑みでパイプ椅子に腰を下ろした。
「いい単語が出てきた?」
僕は原稿裏に走り書きした箇条書きのようなものを議員に見せた。議員は、その言葉を一つ一つ指でなぞりながら口にした。若干の修正があったが納得の様子だった。肩から少し力が抜けていった。
「ヒガシさんは、その場になれば、言葉が天から降ってくるタイプに見えるんだよ、だけど、ヒガシさんは、あくまで今回は二番バッターだからね、そしてホームランを美原候補に期待してるんだよ、、候補を食ったりしないように、その辺は気をつけようか、、じゃ、最後は現場で打合せしようか」
「先生、もう練習する時間がないです、上手くできるかどうか、、」
議員は、理解の悪い生徒を諭すように言った。
「誰もヒガシさんが上手く喋ることは期待してないから気にする必要はないよ、ひっかかりながら話すくらいが丁度いいんだよ、そのほうが来ている人のアタマに残るもんなんだよ、」
学生の頃、海外での学会発表の前に、担当教授に言われたことと同じであることを思い出した。発表前日の夜、ホテルの一室で最後のリハーサル時に教授はそんなことを言って緊張している僕をリラックスさせたのだった。
「だから、練習なんていらないから、僕の場合は、言いたい事だけを憶えてるようにしてるだけだから、心配ない心配ない、それじゃぁ、また後で、」
また、広い会議室に一人になった。「練習なんていらないから」そうは言われたものの、原稿は最低限必要だろうと思った。その単語の羅列を並べ替えて喋り言葉に直していった。
頭を掻くと、髪の毛のほか大量のフケが原稿用紙に落ちてきた。原稿が完成したとき、時計の針は既に午後4時を回っていた。
1階に降りると勝山がいた。勝山は有志の会のブースで時代遅れのマッキントッシュに向かって作業をしていた。僕は午後の活動ができなかったことを詫びると一度家に帰ってフロに入りたいと申し出た。勝山は快諾した。



続く、、、
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選挙バカの詩×7『演説要請4』

2013-01-10 21:04:02 | 雑談の記録
夜が明けた。事務所に行く前に原稿を仕上げなければと思い必死になって、昨晩作った文章を切り詰めて4分30秒と3分30秒バージョンの二つを準備した。あとは午後からの打合せで松中議員が指導してくれるだろうと思った。
その頃には、昨晩の怒りは幾分治まっていたが、勝山を質さなければならないという気持ちは残っていた。そして、このことについてどう切り出すかは原稿作りと同様、喫緊の課題だった。
事務所には勝山が先に来ていた。僕は勝山を外の喫煙所に誘い出すと、結局、大した策も立てずに犯人扱いで尋ねたのだった。
「オレ、昨日、松中先生に応援演説を頼まれたけど、お前が松中先生に言ったんだろ!?、オレにやらせろって!」
そう言っているうちに次第に腹立たしくなり、年甲斐もなく語気が強くなってしまった。しかし、すぐに猛烈な反撃を喰らった。
「はぁーっ!、そんなの今聞いたことだぞっ!それにしても、なんだその言い方はよぉっ、、なぁ、ヒガシィ、、そもそも、オレが今までそんなことしたことあるかっ!」
僕の声を上回る怒鳴り声だった。勝山は煙草の煙を大きく吐いた。その煙が消えていくのを待った。僕も一口吸い、煙を吐いた。そして答えた。
「、、無いよ、確かに、無い、、」
「そうだろぅ、オレが、そいうの嫌いなこと、お前が一番よく知ってるだろぅ」
「確かに知ってるな」
そう答えると自分の顔が僅かにほころんだ。しかし、勝山はそうでもなかった。顔をゆがめて吐き捨てるように言った。
「オレ、こういうの嫌いなんだよな」
言っていることは理解できた。勝山は黄城高の後援会のトップという立場でこの選挙戦に身を投じている。そして、僕はその勝山の指示を受けて活動をやっている運動員の一人だった。であるならば、例え国会議員であろうが、先ずは、勝山に話を通すのがスジというものだ。勝山はそういう男であり、僕も勝山に近い考え方をするタイプだった。だから、僕も怒り、勝山も怒ったのだった。
しかし、煙草が終わる頃には、これは「選挙戦」と言いながら、所詮、選挙ボランティアだということに気が付くと、お互い怒ったことが馬鹿馬鹿しくなり二人で苦笑するのだった。
しかし、勝山は灰皿で煙草を消しながら合点のいく顔をしたのだった。
「、、だからかぁ、 、選対から今日の決起集会には全員来るようにって言われたんだ、、」
総決起大会は重要なイベントではあるが、お偉いさんの退屈な演説が長い場合が多く、やらなければならないことが山積の我々にとってその集会への参加は時間の無駄ではないかという議論があったのだ。そこで、我々が出した結論は、その集会には有志の会の半分が出席し、残りの半分は活動を継続する予定にしたのだった。
そのような議論があった中での応援演説の要請だった。なので、演説にはそれなりのクォリティーが求められると強く意識したのだった。
「オレ、昨日、寝たの3時ッ!」
「オレなんかもっと遅いッ!」
「クッソーッ、誰かオレを労ってくれねぇのかよぉ~」
「甘えるなッ!」
どこまでも厳しい勝山だった。


続く、、、
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選挙バカの詩×6『演説要請3』

2013-01-09 20:35:18 | 雑談の記録
家に戻ると直ぐにパソコンを起動した。自宅にあるノート型パソコンは7年前の旧式であるため立ち上がりに時間がかかった。それを軽い夕食の時間にあてると妻との会話もそこそこに、頭を抱えてその古いパソコンに向かった。
自分なりにこれで良いと思ってプリンタから原稿を出力したときは既に午前3時を回っていた。
そして、原稿を音読してみた。

只今ご紹介頂きました、私、三原候補とは高校の同級生の東と申します。
年齢は43歳になります。
まだまだ短い人生ではありますが、思い起こせば、我々の子供時代は高度経済成長の真っ只中にあり、思春期から青春時代はまさにその絶頂期のバブル時代でした。
しかし、就職の頃にはバブルがはじけ、就職氷河期が到来していました。
私は幸運にも東京の大手の企業に就職できましたが、そこは、リストラの嵐でした。
早期退職、配置転換、出向、気が付けば、私が所属していた部署は統合され、4年後には1人になっていました。そこでは、さまざまな勉強ができましたが、環境は厳しかったように思います。そして、私は、とうとう、うつ病を患ってしまいました。30歳のときです。
満足に会社に行くこともできなくなり、辞表を提出し、郷里の熊本に戻って参りました。
3人目の子供が生まれようとしていました。

幸運にも、そういう病気を患いながらも、私を雇って頂ける会社がありました。現在も勤めさせてもらっている会社ですが、当時の熊本は、まだ東京ほど酷い不景気ではなかったように思います。しかし、お陰さまで1年後に病気は治るのですが、その頃から会社の業績は下降しています。
私のこの作業服からもご察しのとおり、私は地元の建設関連の中小企業に勤めております。
東京の大手の会社と異なった経営環境にあり、一概に比較はできませんが、実のところ、親族の支えが無ければ、つい先ごろまで、子供を塾に通わせることもできませんでした。
これが、今の、私たち世代の、現実ではないでしょうか。
実は、ここに、社長も来ておりますが、しかし、私はそのことについて、社長を責める気持ちはこれっぽっちもありません。
社長が私たちのことをしっかり考えていることは知っています。
昨年の秋、上司の退職に伴って10数年ぶりに新人採用がありました。私にとって初めての部下でありますが、その青年は就職浪人中で、しかも長崎県からの応募でした。話を聞けば、彼は親には迷惑をかけられないということで、奨学金で大学を卒業していたわけですが、最初の就職活動はダメだったと聞いています。彼は本当に優秀な青年なんです。今、彼は必死に仕事をする一方で資格取得のための勉強もしながら、安い給料の一部を奨学金の返済にあてています。これも、今の若者の大変な現実ではないでしょうか。
彼がよく私に言います。
「ボクたち、これから先、本当にに大丈夫なんでしょうか」
そんなとき、私はこう答えています。
「うん、まぁ、ここまでオレが生きているからなんとかなるんじゃない、あんまり、先のことは心配するな、ほら、缶コーヒーおごってやるから、、」
全く根拠のないことを言って、お茶を濁しているばかりです。
でも、実際のところ、私は今後の社会に対して、さまざまな不安を強く感じています。

話は変わりますが、今年の7月には九州北部豪雨があり、本県でも大変な災害がありました。
実は、私は、地質調査を生業にしております。特に、土砂くずれや地すべりといった土砂災害や防災に関する仕事を専門にしております。今回の災害でも、多くの危険な現場に携わりました。災害発生の原因は、異常気象による信じられないような大雨だったのですが、日本という国は、災害立国ともいうべき脆弱な国土になっています。
いったん、災害が発生すると、集落が孤立化したり、尊い命や財産が奪われることがあります。日本には領土問題があり、海外との摩擦や海外からの揺さぶりが最近は絶えませんが、我々が暮らす国土そのものが、私たちに牙を向くことも決して忘れてはならないと思います。そのためには、必要な公共事業は進めなければなりません。

今まで、お話ししてきましたように、私のような若輩ものでも、よくよく人生を振り返ると、社会に翻弄されつづけ、仕事においても、まさに崖っぷちに立たされております。

翻って、今の日本は、私と同様、まさに崖っぷちに立たされているのではないのでしょうか。
私たちは、これから先、その崖から奈落の底に落ちていくのでしょうか。
私はもう絶対に落ちたくはありません!。
心の叫びです!。

みなさん!、三原みのる候補をご覧ください!
私の友人であります!
彼が、当選したあかつきには、彼が間違いなく、その崖っぷちに立派な橋を架けて、新しいより良き世界へ、我々を導いてくれます!
私は彼に全てを託します!。

崖っぷちに橋を架けるというのは、困難な作業で危険も伴います。
その作業を三原は間違いなくやってのける男です。

ここにお出での皆さんは、その作業をやっている三原候補を支える大事な命綱なんです。
お一人お一人が命綱なんです。
そして、それらが一つの大きな束となり、みなさんで三原を支えようではありませんか!。
どうか、彼に橋を架けさせて下さい!。
そして、その橋を、みんなで、笑顔で渡りましょう!。
新しい世界が!すばらしい日本が!そこに待ってます!。
どうか!三原をよろしくお願いいたします!。

ストップウォッチが示した数字は6分30秒だった。ダメだ!愕然とした。
とにかく、今日はもう遅く体力も消耗している、寝なければ、明日もOB訪問の予定だ、朝からもう一度練り直そう、これを短かくすればいいだけなのだから。
そう思いながら、静かに寝息をたてている妻の横の布団に潜り込んだのだった。しかし、疲れているはずなのに、なかなか寝付けないのだった。
「なんで、オレがこんなことしなくちゃいけないんだ!」
ここまで、オレは必死でやってきたじゃないか!黄城高有志の会の決起集会、同級生への必死の協力依頼、災害対応だって不眠不休で死ぬかもしれないという思いで対応していたし、そして連日の深夜に及ぶ選挙活動のうえに、こんなことまで!
選挙が大事なことは十分わかっている。しかし、貧乏クジを引かされた気分と同時に誰かを責めたい気持ちになった。一度湧きあがった怒りにも似た感情をかき消すのは困難だった。ことの原因を突きとめて、それを正さなければならないとの思いが次第に強くなる。そして、これを仕組んだ張本人は勝山に違いないと思うと新たな怒りがフツフツと湧きあがってきたのだった。
勝山は、以前、僕ががPTA会長などをしていたことを知っており、そういう場面には慣れているようなことを松中議員に入れ知恵したに違いないと思ったのだった。


続く、、、
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