1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

ラーメン屋

2024-07-05 21:51:00 | 雑談の記録
近所にまたラーメン屋の出店が!
にぼらや
昔からの大ファン!
やったー!




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サラちゃん、7歳

2022-10-09 15:18:00 | 雑談の記録
我が家のサラちゃん
最近、アプリを使用してなかったのでお試し投稿。





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トレイルレストーラー

2022-07-18 13:08:32 | 雑談の記録
前置きをする。
今回の投稿は、環境省レンジャー諸氏の再三の要求に応じたものである。

#阿蘇の山でみちなおし
#近自然工法

不肖西は元トレイルランナー。しかしてその実態は、矛盾を抱えたランナーであった。

今から30年前の学生時代、友人とトレーンングを積み、屋久島(宮之浦岳)をテン泊しながら縦走したことがある。天候にも恵まれ屋久島の素晴らしい自然や眺望に触れて感動した一方で、真の自然の破壊者は、自然を「愛する」人々に他ならないことが強く心に残った。

踏圧によって植生がなくなり、土が流亡して溝状になって荒れ果てしまったた登山道、樹林地帯ではむき出しとなった樹根の夥しい損傷痕、ルートを外れた茂みには登山者の無数の排泄物。そして、縄文杉の前に立ったとき、その神々しいまでの生命力に圧倒された一方で、この偉大な生命体を亡き者にするのは、自分達のこのような行為ではないかと気付き、若かった不肖西は、屋久島の代表と見立てたその縄文杉に「ゴメン、俺はナニもできんばい」と謝ったのだった。
屋久島には、その昔、杉を切り出すために敷設されたトロッコ列車の線路が残っていた。くたびれた足にザックは重く、若気の「諦観」を抱えてレールの枕木を踏みながら前を歩く友人と無言で下山したことを思い出す。

そして、その後、不肖西は社会人となって正々堂々と一般論的な破壊者側に立ち、以来、キッパリと「登山」には終止符を打ったつもりだった。しかし、近年になって図らずも「山を走る」という暴挙に出てしまったのだった。

さて、もう多くを語る必要はないだろう。

「近自然工法」とういう登山道の修復技術がある。日本では北海道がメッカだ。
人工物をほとんど使うことなく、登山道の周辺にある岩石や土、倒木等を利用して自然に近い形で安全かつ荒廃を未然に防ぎながら自然回復を期待するといった登山道を修復する技術のことだ。
この技術のキモは、登山者にソレとは気付かれないにように修復すること。
Trail Restoration
あるいは、今後の登山道整備の基本技術になるのだろう。

実は、トレイルランナーになった当初からこの技術には注目していて、いずれ学ばなければならないと思っていた。

まだ、無理は禁物だが、7月9日に、阿蘇山の杵島岳でこの技術を学ぶ機会を得た。

重労働に違いはないが、「登山」をするより心が晴れる。

「トレイルレストーラー」
なんかカッチョ良くね?

そして、不肖西は、「シン•トレイルランナー」を目指す。
なんつって。

退院以来、自宅でほぼ毎日階段トレーンングや筋トレ(心拍数130未満)を実施していて、一般「登山」レベルや災害時の現地踏査のための体力は維持していたことを、念のため記しておく。決してムリはしていない。




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年末年始旅行の記録

2022-01-03 20:55:29 | 雑談の記録
計画を立てたときは、うまく行くかどうか不安だったが、なんとか完遂できた。
行動だけを記録する。

12月29日
午前11時過ぎ、愛犬サラをいつもお世話になってる動物病院に預けると一路、門司港へ。

ゆっくり休憩をとりながら午後3時頃に門司港に到着。4時15分に阪九フェリーに乗船して5時半に出港。

12月30日
暗い6時半に泉大津港で下船してシャトルバスでJR泉府中駅、そして百舌鳥駅に到着して仁徳天皇陵周辺を散策。
そのご、JRにて天王寺駅に出て、ここで妻とは別れ、近鉄に乗り換えて土師ノ里駅で下車、古市古墳群の応神天皇陵を見て古市駅から橿原神宮前駅で下車したのが10時20分。ここから本来であれば八木西口駅まで行き、徒歩でJR畝傍駅から三輪駅を目指すつもりだったが、三輪山登拝の受付時間(正午締切)に余裕を持っての到着間は困難と判断。
大和八木駅で下車してタクシーにて大神神社を目指した。大神神社周辺は正月前というのに参詣の車で渋滞。
大神神社到着は11時15分。それから本殿にて参拝しリュックをコインロッカーに入れて、受付の狭井神社で登拝者の列に並んで説明を受けて登り始めたのが11時40分。下山したのが1時10分。
それから、久延神社を参拝して国道169号に出て旧街道を歩いて箸墓古墳、景行天皇陵を参拝。巻向駅からJR桜井線に乗車したのが15時半頃、そして奈良を経由して京都駅に到着し、ホテルにチェックインしたのが17時だった。

12月31日
9時過ぎ、京都駅バスセンターかた4番系統のバスに乗り上賀茂神社に到着したのが10時ちょい前。大雪に見舞われる。計画では、上賀茂神社を参拝したあとは、加茂川の河川敷を歩いて下加茂神社へ行くつもりだったが、大雪だったためバスにて下加茂神社を目指す。そして京都駅に戻ったのが正午頃。駅にて1:30発の東京行きの新幹線の切符を購入して昼食をとった。
東京駅に着いて、有楽町駅にもどり地下鉄有楽町線にのって麹町駅を下車し半蔵門のホテルにチェックインしたのが4時半前。
それから、翌日の皇居ランの下見のため、日暮れ時の皇居を一周歩く。ホテル近くで唯一開店していた居酒屋で食事。
ホテルに戻り、予約していたリラクゼーションのマッサージを受けて就寝したのが11時頃。よく眠れた。

1月1日
9時にランニング開始。皇居を2周してホテルに戻りチェックアウトが11時。有楽町駅から山手線に乗り品川駅から東海道線に乗り換え横浜駅、そして中華街で昼食。青島ビールを飲んで山下埠頭のガンダムファクトリーに入場したのが2時ちょうど。
4時に見学を終わり、次に目指したのは息子が暮らす逗子。京急線の逗子駅到着が5時過ぎ、息子と落ちあって駅ちかくの洋風居酒屋で食事をして息子の部屋に入ったのが10時ごろ。

1月2日
近所のコインランドリーで洗濯、その間、海岸沿いを散策して逗子をあとにしたのが正午ごろ。3時発の熊本行きのANAに乗り
熊本到着が5時少し過ぎ。妻と帰省していた次女と愛犬サラが出迎え。その足で、以前、息子が所属していた少年野球チームの新年会に参加。帰宅したのが10時半ごろ。

とにかく、充実した休暇だった。

船内





逗子海岸





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宇土古墳探訪、宇土半島は宇土島だった!?

2021-12-06 20:43:28 | 雑談の記録
令和3年12月5日宇土古墳探訪

先週参加した鞠智城シンポジムで配布された冊子の49ページの図4「有明海沿岸の(熊本)の古墳編年図」を見て、熊本における古墳の出現ってのが、ランダムではなく順番があるのを知ったのは大きな収穫だった。

具体的には、宇土半島基部を皮切りに菊池川流域→白川上流(阿蘇)・緑川中流域→氷川流域・球磨川下流域となっているようだ。

シンポジムが終わったあと、それを示した兵庫県立考古博物館館長に質問してみた。

「先生、これって古墳製作集団みたいな団体か、あるいは製作の技術者みたいな人々がヤマト政権から派遣されて、各地を移動しながら、その土地の豪族とともに作ってったってことですか?」

「技術者が派遣されてたかどうかは、古墳だけではわかりません。それに伴った埴輪の種類や様式などの統一性がわかれば、そういう専門性のある技術者がいたということになるのかもしれません、でも、そのことを証明するのはなかなか難しいでしょうね〜。しかし、おっしゃるとおり、この古墳があたかも移動して作られているように見えるのは、ある決まった豪族が古墳を作りながら移動したのではなく、その土地の豪族とヤマト政権の関係性を示しているのだと思います。」

「ってことは、この順番は、ある意味、ヤマト政権のご意向というか政策の一貫だったことなのでしょうか?」

最後の質問については残念ながら時間切れという感じになってしまった。先生は他の人の声かけに応じなければならず、ちゃんとした返事を頂くことはできなかった。

しかし、順序だった古墳の造営は、ヤマト政権の意図がはたらいた結果と見るべきではなかろうかと強く思ったのだった。

そして昨日、熊本県の前方後円墳の皮切りとなった宇土半島基部の古墳を見に行った。ここが最初の造営地に選ばれた理由は何なのか、それを考えてみたくなったのだ。

訪ねた古墳は、向野田古墳(むこうのだこふん)、天神山古墳などなど。この二者は、県内の数ある前方後円墳のうち十傑に入る規模を持ち、天神山古墳にいたっては、全長110mでベスト2。そして、各古墳を巡りながら地形や位置関係を体感してみた。

そして古墳時代において宇土半島は、まだ「宇土島」だったのではないかと直感したのだった(このことについては、おいおい証明できそう、ってか、誰かが既に指摘しているとことと思う)。

宇土半島の基部は、地図を見ればわかるとおり、まさに九州の中心。

主な長距離の移動や運搬は、その昔から、海運だ。

現在、宇土半島の基部は陸地化しているが、その昔は浅海か湿地帯であってもおかしくない低平地が狭小ではあるが南北に繋がっている。古墳時代は「運河」だったのかもしれない。であるならば、当地は海運交通の要衝と考えることができる。

いずれにしろ、ここを海路として通過することを想像すると、両岸の小高い丘陵に造営された古墳は、まさに海峡沿いのランドマークだ!

ヤマト政権は、古墳時代の始め頃、この九州のど真ん中を最重要拠点としたのではないだろうか。そして、九州一円にその影響力を拡大していったのかもしれない。

いい日曜日だった。

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読書週間の成果

2021-11-07 21:34:58 | 雑談の記録
ウイルス性胃腸炎を発症し4日目。ようやく、愛犬と散歩できるほどに回復。

本来であれば、今日は中学時代の友人達とゴルフを楽しんでいたはずなのだが仕方がない。

さて、選挙期間中は高校の同級生と会う機会が増え、思い出話しに花が咲くことも多くなるが、そんなとき、自分はその共有しているはずの記憶をうまく思い出すことができない。逆に、みんなの記憶力に驚き、そのことに感心している時間のほうが長いのではないだろうか。

同級生にクセが強い友人Hがいる。
Hは大学で数学の教鞭を執る傍ら、パワースポットとして名高い幣立神宮の宮司でらっしゃる。当然Hは古代史を含めた日本史にはめっぽう詳しく、その視座から発する現代への批評は聞いていて首肯する点が多く、これらに対して、浅はかな知識に頼った物言いを挟めば、彼から、手厳しい返り打ちをくらって大量出血もしばしば。

「オレ、今度の休み(年末年始)に古墳ば見て回ることにしたけん」
「コフン!?、なんでまた、」
「ここ最近、歴史の勉強に凝っとるとばってん、関西にある巨大古墳とか、本当は皆んなが喜んで作ったんじゃなかとかな〜とか思い始めたとよね〜、正直、古墳時代に強制労働で作ったとは思えんごとなったとよね〜」

なぜ、そう思うに至ったかを、Hに話した。
話しを終えると、目の前にいたHは大きく息を吸った。
いつものような反撃が始まると身構えたが、驚いたことに、Hは僕の考えに強く賛同してくれたのだった。大袈裟なゼスチャーとともに。

知っている方も多いと思うが、今夏、熊日の特集企画の中で、僕が原案を作成して寄稿したものが4回掲載された。そのうちの一つは、熊本県北で有名な伝説と地質の関係について簡単に紹介したものであるが、原稿作成に当たって、余暇を丸二ヶ月使って取材と調査を行なっていたのだ。そして、テーマとは異なるため紙面には載らなかったが、この特集企画の取材の中で、僕はある「発見」をしてしまったのだ。

「発見」の内容については、ここでは触れない。ただ、この発見は地元の人々を驚かせただけでなく、取材の中で相談に伺った歴史の専門家からも、その発見と調査方法について評価を頂いたのだった。そして、何より、その調査取材を余暇として興味本位に続けてソレを発見してしまった歴史門外漢の自分自身が最も驚いたのだった。
と同時に、この発見の「意味」と「位置付け」について、真剣に考えなければならないという思いにいたったのだ。しかし、残念なことに、僕は中学生レベルの、しかも戦後教育での歴史知識か持ち合わせてしかいない。
これでは、「意味」も「位置付け」もへったくれもクソもなく、少なくとも高校生レベルの歴史知識を得るべく、夏頃からは夕食後は机に向かい、休みの日は、史蹟巡りや図書館通いをし、自分なりに歴史についての立体的な知識構築を試み始めたのだった(最低限の週3回程度のランニングは続けている、ゴルフの練習も少ししている)。

そんな中、古代の人々が「災害」や「極端な自然事象」をどのように捉えていたのだろうかとの思いに至った。

「オレ、地震の理屈とかピシャっと理解しとるし、あんときの地震だって、布田川断層が動きよるって理性では解っとたばってん、、、、ばってん、、本当のところば言うと、オレの本心というか本能は、、、ナニカ得体の知れない生き物が地面の中をのた打ち這い回っている様子しか想像できんかったとたいね〜、そのときの恐怖の記憶がそうさせとるのかもしれんばってん、恥かしか話し、今だに余震が来ると、怖くてドキドキすっとたい、、、」

「古事記に出てくるヤマタノオロチは、洪水のことなんだよな、昔はあの文脈でも案外、誰でも洪水だって理解できたんよ、、、」

「オレ、子供のころ、カミナリが鳴ってる雲の中には龍がおるって本気で思っとったもん!、今でもそう思ってしまうことがあるし、、、それでオレ、深く考えたったい、古代人はナンデそんな“イキモノ”が現れるのか、その理由についても同時に考えたんじゃないのかなって。異常な自然事象が、たまたまソコに起こったとは考えきらんかったはずとよ。何か原因がソコにはあるって。」

「、、、って、どういう、、、」

「身の回りに不都合な事が起こったとき、それを誰かのせいや、環境や社会のせいにしたいという気持ちになるのって普通だろ、そして、その原因を取り除きたいという気持ちになるたい。ちょっと違うかもしれんけど、己の死やクニが滅びることに直結するような災害は厄介事の一番で、古代の人はそれをなんとかしたいとの思いは今以上だったはずと思うとたい。だから、古代の人は、それが起こらないように祈るしかない。でも、何を対象に祈る?、”イキモノ”を神と崇めて祈るのかな?。どうかな?。でも結局、人は、またその”イキモノ”がどうして現れるのか、その理由を考えなくちゃいけないという泥沼にハマるんだけど、最終的に”イキモノ”は「化身」というふうに考えたんじゃないかな、あるいは「怨霊」だとかさ。人間は、そんなふうに考えるクセがあるたい。」

「、、そういうクセ、あるな、、崇徳天皇とか菅原道真の御霊信仰、、、」

「さすがH、、そいうのって身近にもあるし、、嫌いな誰かを呪ってやりたいという気持ちが、、、。逆に災いが起こったときには、自分は呪われているんじゃないのかという不安な気持ち、、、。つまり、災いというのは、実は「人」が起源となっていて、死後に”イキモノ”に姿を変えて襲ってくるというシロモノではないのかなと。そう考えると、死人にはどうしてもジッとしていてもらいたい。とにもかくにも、安らかにお休み頂きたいという気持ちになる。特に、生前に影響力が強ければ強いほど、権力が大きければ大きいほど、死後の”イキモノ”の力もそれに比例して大きくなる。だから、そのためには古墳がどうしても必要だったんだよ、権力者の冥福を祈りながら、同時に現世に対しては安寧を求める祈りの場が。そしてさ、古墳作りって一大土木工事なわけだけど、作業に従事することは、どちらかというと崇高な事で、従事者は敬虔な気持ちで工事に携わっていたのではないのかなとさえ思うようになってさ。つまり、古墳作りってのは、古代の人が社会に安寧をもたらすための公共作業であると同時に、同族意識を醸成しつつ、外国人に対しては、巨大古墳を通じて一致団結した姿を示してクニを守る抑止力にしていたという側面もあったりという、当時としては極めて多機能かつ合理的な判断があっての取り組みだったんじゃないかなぁって思うようになってさぁ〜、じゃなきゃ、あんな前方後円墳とかいう似たりよったりのコフンをクニ中にウン千も作らんだろう、、ってなわけで、”古墳信仰”ってのが当時の大和政権の第一の礎であって、その背景が日本固有の災害が起きやすい風土、つまり自然災害じゃなかったのかなと、、どうでしょうか。」

「ハァ〜っ、オマエがそれを話すとめちゃくちゃ説得力がある。だけどその考えは、フツーの戦後歴史家には受け入れられんよね、未だに古墳は、権力者の搾取と示威行為の結果として作られたと説明されることが多いけんね。しかし、そのニシの考えは大事な視点と思う、だけん、その研究、進めろっ!」

「ま、オレは研究がしたいワケじゃなく、自分で確かめて納得したいだけたい。でも、今日はHにそんなふうに言われてちょっと嬉しかばい、自信がついた。」

そう言うわけで、冬休みは大和川を遡上しながら巨大古墳を見て回ろうと思っている。

話は変わるが、病に臥せっていたこの3日間、時間が取れる良い機会と捉えて書棚から引っ張り出して読んだ以下の3冊。

伊藤計劃の『虐殺器官』
谷川健一の『魔の系譜』
櫻井武の『「こころ」はいかにして生まれるのか』

科学、民俗学、SF小説を立体読みして、古代から現代そして未来に繋がる人間社会の変容が少し見えたような気がした。

教科書ではない別方向から歴史を見る視点を持つことの重要さを再確認することができた読書週間だった。
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秋篠宮殿下と鯰

2021-08-29 20:50:38 | 雑談の記録
既に、半年が経とうとしているが、実は、最近、歴史について学び始めている。

学びを始めた理由については、おいおい記録するが、今日はその学びの一環として、お昼から辺田見若宮神社、御船城跡、井寺古墳を訪問した。

辺田見神社若宮神社について簡単に記録する。

創建は第13代成務天皇の時代で、阿蘇大宮寺の阿蘇惟人が建磐龍命、阿蘇都比咩神、若彦神の阿蘇三神を祀ったのが始まり。



室町後期には、御船を領有した甲斐宗運が社殿を再建。そして江戸時代の享保7年(1732)の洪水で被災し、そのとき流された御神体が下流域の嘉島町犬淵で大鯰がそれをキャッチ。



という訳でこの神社には、鯰にまつわる伝承があり、御神体を迎えにあがった際の様子が神幸行列「通し物(とうしもん)」であるとか。

ま、ここまでの話は、少し調べれば誰にでもわかる範囲。

しかし、現地を訪れることで、以下のこと知るに至った。

なんと、時代が下った平成12年に、秋篠宮殿下が御来臨し、先の鯰伝説を調査しているのだ。


そして、小生は思い出したのであった。

数ヶ月前、仕事で人吉に出向いた際、遥拝阿蘇神社を訪問し、秋篠宮殿下が平成11年6月15日にこの神社に御来臨された記念碑を目撃していたのだった。そして、その神社には鯰が祀られていたのだ。
小生は、鯰とこの神社の関連について知りたくなくり、たまたま出くわした地元の人に尋ねてみたが、残念ながら有益な話を得ることはできなかった。しかし、そのとき撮った由緒の銘板には、洪水による御神体流失事件が記されていた。



辺田見若宮神社と似ている、、、
熊本には、他にも鯰伝説があるが、、、


んで、自宅に戻って、秋篠宮殿下について調べたら、実は博士!
しかも、「生き物文化誌学会」という学会の中心人物!
こんな本まで出版しているとは!恐れ入りました。


今日は、ナイスな一日だった!

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新解釈 飯田山 前編

2021-08-28 20:47:21 | 雑談の記録
さて、こないだ少し記録した熊日掲載についての続き。

先週末、無事に「不動岩後編」が掲載されたのだけれど、ジオ・ドラマコーナーへの初掲載は6月中旬で、内容は“飯田山”伝説。

「新解釈飯田山」というタイトルで掲載されたのだった。

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4度見 ハサウェイ

2021-08-21 23:30:57 | 雑談の記録
自分の近いところにガンダムファンが見当たらないのが少し寂しい。

しかし、かく言う自分が、ガンダムファンである事を知っている人物は、家族や同僚のYちゃん、部下のS君を除けば皆無。

仕事やお付き合いで様々な人々と出会う機会に恵まれているが、ガンダムのことを話題にしたことは一度もない。実はアニメ好きであることも話したことはない。

待ちに待った「閃光のハサウェイ」。

4回も劇場に足を運んでしまった。

村瀬修功監督のファンであることが大きいのも事実。

しかし、ヤバいくらいにカッコいいから仕方がない。

ストーリー、会話、映像、音楽、キャラクター、メカ、。
映画を作る各種要素が絶妙に絡み合い、何度も観たい衝動に駆られる。

なんて表現したらいいのか。実写映画より印象に残る各種シーン。
実写でもなく3DCGでも表現できない、2Dであればこそ我々の脳裏に容易く認識できる映像(絵)を提供しているような世界観。
もっと、簡単に言うと、浮世絵的と言ったところか。

写実映画や写真はリアリティを伝えるには便利だ。実証的ですらある。

しかしだ、伝えたい部分だけを印象として脳裏に植え付ける作用は、何故か手描きイラストに軍配があがる。脳の特性なのかもしれない。

いずれにしても、漫画、アニメ、絵画は我々の認識領域を心地よく刺激してくれるしろものだ。

興行成績は別にして、「閃光のハサウェイ」は映画史に残る作品になるのだろう。

そんな気がする。

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新聞掲載の経緯

2021-08-20 23:34:15 | 雑談の記録
本日、寄稿した原案が、熊日記者及び関係者の協力によって、無事、紙面化された。

その経緯を少し記録しておこうと思う。

私は、地元の地質調査会社に勤務していて、この業界団体の技術委員を昨年まで勤めていた。昨年、その団体の創立40年を記念して熊本県の地質を紹介する冊子を作ることになり、執筆陣の一人に選ばれた。
そして、その製作で私は、「熊本県の自然災害マップ」、「熊本県の地下資源マップ」、「付加体・鉱床形成の概念図」を手描きイラストで表現した。

昨年の11月の記念式典でお披露目があり、その後、県内自治体や学校に配布された。イラストについては業界の関係者から高い評価を得た。(夜なべで下書きを含め3ヶ月を要した作品だったので評価を得たときは嬉しかった。)
ただ、冊子の全体的出来映えの素人感は如何ともし難く、業界内における自画自賛の雰囲気には少なからず抵抗があった。
そこで、今後の展開に備え、「プロの目」による評価の必要性を感じた私は、古い友人の熊日の記者に、この冊子を送ったのだった。
友人は、当初より、この冊子の送付は紙上での紹介を目論んだものと合点したようだった。確かに、その目論みは、目的の20%はあったが、それはあくまでも友人の目にかなった場合に限る話であった。

ところが、暮れも差し迫ったある日のこと。携帯に友人とは別のK記者から連絡が入った。冊子についての取材だった。
私は作成者の一人に過ぎず、記念誌事業は団体主催であるので理事長への取材をお願いしたのだった。
ただ、その時の会話から察するに、K記者の頭の中には、うっすらではあるが当時から「ジオ・ドラマ」のイメージが湧いていたのではないだろうか。

「ひょっとしてブラタモリのようなお話しが沢山あるんじゃないですか」
「団体の技術者さん達から聞き出せば、腐るほど出てくるんじゃないっすかね〜」

腐るほどは言い過ぎかもしれないが、こんな会話をしたような気がするのだ。

そして、年が明けた1月13日に、記念誌の紹介記事が掲載されたのだ。
理事長が冊子を開いて微笑している写真付きで。
開かれたページは、イラストマップだった。

ほどなくして、「ジオ・ドラマ」の原案執筆者が団体から選抜され、テーマ選定の打合せやメールのやりとりの後、4月から金曜朝刊の科学面で「ジオ・ドラマ」はスタートしたのだった。

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熊日掲載 ジオ・ドラマ

2021-08-19 22:18:55 | 雑談の記録
熊本県のローカル新聞に熊本日日新聞がある。

略して熊日。発行部数は一日あたり27万部。熊本で発行される新聞の約7割を占める。

創業は明治6年。熊本藩士の勘定方だった池辺武が『細流舎』を開業したのが始まりだとか。

政治団体の「紫溟会(しめいかい)」発行の『紫溟新報』が改称され『九州日日新聞』、そしてそれが現在の『熊本日日新聞』となった。

明日、8月20日の朝刊に、自分が原案の記事が掲載される。4回目だ。

科学面の「ジオ・ドラマ」のコーナー。

乞う、ご期待!
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ブログ再開!

2021-08-17 20:49:09 | 雑談の記録
このブログを最後に更新して3年8ヶ月が経過したようだ。

久しぶりに自分のサイトを訪問して、まだ、残存していることに、軽く感動してしまった。

本日の熊本県内のコロナ感染者数は、270人超えで、過去最多だとか。

自分は、先々週に2回目ワクチン接種を終えているけど、デルタ株に続くラムダ株は、ワクチン無効だとか無効でないとか。

オマケに、この大雨。仕事柄、災害が気になるとこだけど、人流を抑える効果に期待。

そんなワケで、ブログ再開。

自分自身にヨロシク。
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表現の自由、ブチかまし!

2015-07-26 13:24:04 | 雑談の記録
台風12号の接近に備えて今日はおとなしくしているついでに、「言論の自由及び「表現の自由」とやらを実践してみたいと思う。
別に大げさなことではない。ここ最近の安保法案関連の情報に触れて、思ったこと、考えたこと、感じたことを市井の民として整理しておこうと思うだけだ。
けど、これは非常に厄介なことだ。なぜなら市井の民は、日常に忙殺されているため多方面から発せられる「言論」について、その理非を判断するために必要となる時間的、空間的な余裕を持ち合わせていないからだ。少なくとも私には十分ではない。一方で、我々は、いずれその判断を選挙というカタチで自ら行わなければならないし、世論調査のアンケートによりその答えを表出しなければならない。
しかし、判断に際しいつも疑問に思うのは、その判断の根拠とすべき「言説」や「資料」及び「情報」が信ずるに足るモノであるかという点である。だから、「その意見や考え及び方針に賛成か反対か」と問われれば多くは「わからない」が、その判断の帰結になってしまう。しかし、安保法案に関しては「わからない」では済まされないような気がする。

結論から述べる。

私は、安保法案に対し、特に集団的自衛権の行使には反対の立場をとる。
なぜなら、これ以上、アメリカのイヌになるのは嫌だからだ。

まことに、子供っぽい理由であるが、そういうふうに帰結してしまった。
「キサマは現実を何もわかっとらん」と政府寄りの人には言われることだろう。一方、反政府やメディア側からは喜んで受け入れられるかもしれない。ただ、私はこのどちらにも馴染むことができない。それは、今まで彼らに抱いていた違和感が、様々な情報に接しているうちに、以下に述べるような矛盾を孕んでいることに気が付いたからだ。
つまり、政権寄りの改憲派は、戦後アメリカの理念とも言うべき置き土産である現行憲法を「押し付けもの」として忌み嫌う一方でアメリカに対する従属意識を深化させている(アメリカから要請されれば自衛権を行使)。かたや、護憲派は、この押し付け憲法を金科玉条のものしながらアメリカの庇護のもとで経済発展を遂げたことには目もくれずに米国を忌み嫌う(基地反対)。

確かに、我々が得ることができた経済発展の裏にはアメリカの庇護があったことは事実だ。一方で、アメリカの思惑に背いたための政策転換や、大物政治家の失脚もあったと言える。言い方を替えればアメリカの意に沿う形で日本の政策は決定されてきたことになる。そういう意味において「日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国です。」と言っているのは思想家の内田樹氏だ。なるほどと思う。

ところで、安保法案反対派に、今回の法案成立によって戦争に巻き込まれるリスクが高まるといった見方がある。一方、賛成派は抑止力が高まるという。また、反対派は現行憲法の下でこれまで一度も武力を行使しなかったことが日本や世界の安全保障に寄与した側面があるという。確かに、日本は戦後70年の間他国から武力攻撃を受けたことはないが、世界の安全保障に寄与しているとは言い過ぎのように思う。むしろ、「戦争を放棄している日本」を上手いこと利用してアメリカが進める戦争の片棒を担いできただけではないかと思うのである。なぜなら、日本にはアメリカ海軍の第7艦隊の横須賀基地をはじめ、佐世保、沖縄に約4万人の兵士を擁する在日米軍基地が展開されていて、ここから戦場に武器、物資、兵力が送り込まれていて、しかもそこには、新国立競技場が作れるほどの年間約2000億円の思いやり予算まであるのだ。アメリカと一緒にやり散らかしてきたというのが本当の姿ではないのだろうか。戦争放棄を美化するのもいい加減にしろと言いたいし、積極的平和主義もクソ喰らえだ!
反米組織からすれば日本もアメリカも同じだ。戦いの常套手段は補給路を断つことで、後方支援部隊などは格好の標的となる。

戦争は力のバランスが崩れた時に起こるとなどと言われているが、発端は双方の理に沿った「正義」と「正義」の衝突だ。そして、一方が負けるとそれが途端に「不正義」となるから、戦争になったらゼッタイ負けてはいけないのだ。肝心なのは負けないうちに終わらせることなのだ。
我々が「終戦」という言葉を使うのは、本当は「敗戦」して「不正義」となっているにもかかわらず「負けを認めたくない」という足掻きのようなものだ。みっともない。

日本は70年前、戦争の終わらせ方を誤ったのだと思う。下世話な例えで申し訳ないが、戦争は不倫に似ている。特に、その終わらせ方という点において、。
最悪なのは、いつまでもズルズルという関係だ。よしんばその関係が終わったとしても、疲弊しきった精神状態の中で社会的制裁や圧力を受けなければならず、さらに配偶者や家族に対する贖罪も必要である。そして、それは一生続くのである。なので、その愛を貫きそれを勝ち取る覚悟が無ければ、不倫はダメなのである。一時の性欲に負ける程度の精神力では本当の「愛」は得られないのである。
戦争に負けておいて「終戦」などと言うのは、一発やっといて「憶えとらん」と言うのに等しいのだ。

さて、幾分脱線した感はあるが、世界の安全保障状況が近年大きく変化しているのは理解できる。これらについていちいち説明しないが、最近の中国人旅行者数の増加やあの爆買といった状況から解放軍の動きを考えると現在の動向はむしろ「大人しい」のではないかと思えてしまうのである。中華思想として、沖縄を含めた日本列島は海洋進出における目の上のたんこぶであることは間違いないく、さらに最近のアメリカの凋落(とは言っても強国)ぶりを背景にしながら、13億人の民の欲望を満たすため虎視眈々とコトを進めなければならないことも十分理解できる。しかし、目の前に迫りつつある経済崩壊と長年続く一党支配の軋みのせいで実のところ二の足を踏んでいるのが現状のような気がするのだ。解放軍に聞いた訳ではないが、領空領海侵犯も大国としてのメンツ確保が目的なだけで、本当はいっぱいいっぱいなのかもしれない。この予想を平和ボケと言われるかもしれないが、現時点においてアメリカの属国である日本と有事になることを中国は望んでいないように思うのである。
一方、北朝鮮については、彼らの立場では未だ戦中であるため、手をこまねいていればリスクは増大し続ける。

同盟は2国間の対等な関係が基本だ。しかし、日米安保条約におけるアメリカ側のそもそもの思惑は、ウィキペディアにも記載されているとおり「日本の軍事大国化防止」で、すなわち「日本の丸腰化」が当初の目的だったと思うのだ。一方、経済復興を果たしたい日本にとってローコストの安全保障は渡りに船だったワケで、この2国間における関係は対等などと言うのは嘘っぱちで、最初から不純異性交遊なみのの汚れた関係だったのだ。それを今更「友情」などと表現されても、聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまうのである。
本当の筋論は、アメリカの庇護から独立した上で集団的自衛権を我々の意志で認めることではないだろうか。今騒がれている安保法案における集団的自衛権の行使は、凋落気味になりつつあるアメリカを忖度した、言うなれば「お節介」のようなものであって、アメリカの本音は有り難迷惑のような気がしてならない。恐らく、結局のところ、安保法案は日本の国益というよりアメリカのいいとこ取りで終わってしまうのではないだろうか。要請があれば出撃しなくちゃいけなくなってしまうのだ。

「安倍政治を許さない」というプラカードを掲げてシュプレヒコールを上げている一派が、所詮アメリカを利する法案に過ぎないと明け透けに言うのであれば、こちらとしても非常に理解しやすいのであるが、それを「戦争法案だ!」だの「反民主主義だ!」だのヘイワを前面に押し出した物言いで反対行動するものだから興醒めここに極まれりなのである。

言っておくが、自分は戦争を微塵も望んではいない。戦争は殺し合いなのだ。絶対に反対だ。しかし、リスクがある以上、それに対する備えが必要であることは論を俟たない。自国は自国の力で守る、それが国家の基本だ。
「アメリカさん、最近、中国と仲いいっすよね。だけど、中国って我々にとっては目障り極まりない存在ってのもわかってますよね。中国のチョッカイもいい加減にせぇと言いたいんやけど、コッチの台所事情もあって太刀打ちできるほどの準備もできんのですわ。いやいや~、アメリカさんの事情もよ~くワカッテますよ、我々は。そこで、どうでしょう、アメリカさんに何かがあった折りにはお手伝いしますんで、もう少しばかりにらみを効かせてもらえんかと、、、。そうしてもらうと、ホント、助かるんですわー、、。え~え~、もちろん今までのご恩も忘れちゃぁおりません。ですんで、さらなるご奉公というカタチでお手伝いをさせてもらえばそれで結構ですんで、、。それでよろしいでしょうか。」
自国の力だけで国を守れないのが実情でありながら、その力量不足を補うために集団的自衛権を容認するというのが自分にはうまく理解でいないのだ。つまり、家に居ながら売られたケンカに対して自力で太刀打ちできないくせに、外のケンカにはでしゃばるというのである。

今、我々に必要なのは個別的自衛権での切れ目のない対応ではないのだろうか。ともすれば、それは東アジアにおける軍拡競争に繋がる危険性を帯びるものであり、いずれチキンレース的結末を迎える可能性もある。
しかしだ。そのチキンレースのスタートと集団的自衛権の行使による第三国や公海上における戦闘に巻き込まれる時期を考えると、「正義」の線引きが難しい戦闘のほうがはるかに早い時期に訪れるに違いない。アメリカはずっと戦争をし続けている国なのだ。
一旦、参戦したが最後、そこから抜け出すことは極めて困難で、そのスキこそが日本の安全保障上の最大のリスクになると思うのだ。

自分が金正恩の立場だったら、そのときこそが千載一遇のチャンスと捉えてミサイルの発射ボタンを押す。何故なら一撃必殺こそが戦争の始め方で終わらせ方だからだ。

あえて不倫に喩えることはすまい。
世の中、甘くないのだ。
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ネオンとマエタテ

2015-07-01 23:34:06 | 雑談の記録
フェイスブックの「友達」がもうすぐ200人に達しようとしているけど、よっぽどでない限り自ら友達申請はしないということを基本姿勢としている。なんでかっていうと、そういうのは本当に面倒くさいと感じているからで、それはLINEについても言えることだ。スマホを買い換えたときなんか、こりゃ幸いと一度LINEをやめたのだけれど、多方面からの圧力に屈して現在はとりあえずアカウントを有しているといアンバイだ。

最近は「絆」とか「繫り」だとかを大事にしなければ一人前として認められないとかいう子供っぽい空気が漂っている窮屈な社会なので、こういったことは仕方のないことなのかもしれない。

知りたい情報はこちらから取りに行くし、時には知らぬ権利も行使したいと思っている。だから、諸々の情報に疎くなっている自分に対して、鬼の首を取った如くの勢いで最新情報をお節介して頂く必要など全くないのである。しかも、SNSを利用して。

他方、自分は「リア充」してる人々の情報に触れるのは結構好きなわけで、その「リア充」的要素が自分の信条及び思想に反していたとしても、時には「いいね」をしてしまうことがある。だって、その人なりの一生懸命には敬意を表したいし、自分と異なる考えがある時に新しいアイディアの発芽になったりするからだ。いい人ぶって大変申し訳ないがそう思ってしまうのである。

最近、国会やメディア及びFBのフィードは、「安保法案」でかまびすしい。特に、FBのフィードでは右翼的、左翼的な友人たちが双方にとって都合の良いニュースソースや情報をシェアする形で論陣を張っている。
自分は、どっちもどっちだなと思ってしまう。どっちも偏り過ぎていて共感することはできないし、双方の侮蔑の感情を露わにした或いは内包した言論に触れると、どうしようもないモヤモヤ感が湧き上がってくるとと同時に、双方に理解が生まれことはこの先ないのではないかと思ってしまうのである。なんでかって言うと、極端な人にとっての幸せは、対極成分の排除に他ならないからだ。
そして、自分が怖いなと思うのは、こうした極端な人たちの言説によっていつの間にか大多数の人達がそのどちらかの色に染まっていくかもしれないといことなのだ。加えて、本当に極端な人達は狡猾だったりするからなおさら注意が必要なのだ。

十人十色と言われるように、10人いれば10の考え方があっておかしくはないし、むしろ、それが普通と心得るべきだと思う。そして、我々人間の思考回路というものは、外的・内的環境に大きく依存して形成されるため、そこに地域性や帰属性あるいは時代性と言った違いが生じるのは仕方のないことだと思う。だからと言って、その地域性・帰属性・時代性によって異なる信条や価値観を宿した人々を侮蔑・排除して良いわけがないだろう。一方、我々は感情の動物であるが故に、いったん出来上がった思考回路に支配された「好き」「嫌い」を仕様変更することは極めて困難であることも忘れてはならない。

この相反する心的事象はその昔の時代からあったに違いないはずで、これに折り合いをつけるための手段として先達が編み出した良策が「Honne to Tatemae」だったのではないだろうか。

「本音と建前」である。

そして、この使い分けに苦渋するそんな姿こそが良識ある「大人」の証ではなかったのだろうか。昨今を翻って、果たして「本音と建前」をキチンと使い分けしている人々はどれだけいるだろうか。本音ガチ丸出しの芸人及び政治家、言論人に鑑みると、「子供っぽさ」あるいは「若さ」といったものが時代の要請なのではなかろうかといった錯覚に陥りそうになる。

ところでお前はどうなんだと問われれば言葉に窮する始末である。
しかし、よくよく考えてみると「大人」とは到底言えない15年程前の30歳前後まで、私は「本音と建前」なるものを然したる理由もなく嫌悪していたように思う。いや、嫌悪することが正義でそれが出来る人間がイケてるタイプと勘違いしていたような気がしないでもない。今思えば、周囲を傷つけながら反省もないという極めて尖った人間だったかもしれない。それでズイブン損をしたように思う。
最近、団塊世代以上の先輩諸氏に「変わったねぇ」「丸くなったねぇ」とよく言われるが、「てめぇ、オレの何を知っててそんなこと言ってんだコノヤロォ、てめぇが鈍くなったんじゃね」のような返答は一切しないよう心掛けている。酒の席でさえ異なる意見に対し「おっしゃることを理解するのにはまだまだ勉強不足のようです」と必死に切り返している。うん、ある意味ホントに丸くなったのかもしれない。

ただ、それよりさかのぼること15年程前の思春期時代はどうだったかと言えば、漠然と「大人」に憧れていたように思う。このことは、以前、このバカブログでも何度か触れたことのように思うのだけれど、その憧れの対象となっていたのが、「金妻シリーズ」に出ていた古谷一行だ。そして、「不倫」が市民権を得るに至ったそのドラマで、古谷は当時40歳前後だった。ドラマの内容はともかく、当時の私はそのドラマを見ながら思ったものだ。
「40男、かくあるべし!」
そして月日が過ぎた。いつの間にかその古谷の年代も既に過去のものとなっているではないか!。ここでハッと気がつくことがある。
今の自分と比べて、当時の古谷のほうがよっぽど「大人」びていると感じる。これに気がつくと「太陽にほえろ!」の七曲署の当時の主要メンバーと現在の自分の関係が気になりだすのだが、答えは、ほぼ同年代!若しくは年下!。殉職時のゴリさんにいたっては40歳の若さなのだ!
ゴリさんの持つ大人感!あの信頼感や強さが自分には備わっているだろうか。

自分には、全くもってこの大人感が欠如しているではないか!。微塵も無い。かと言って、昨今の40過ぎのジャニーズグループのような若さ感もない。そもそも、自分がゴリさんのような大人感を保有していたら、このようなバカブログはやっていないはずだ。今日の難事は今宵の酒とともに遺却するのが本当の大人の姿というものなのである。

ここで、現代の大人を探すとしよう。
やはり思い浮かぶのはキングカズとイチローだ。スポーツ選手ではあるが、その二人に共通するのは、いつまでも自身の技術を磨こうとする職人気質だ。いつの時点でかわからないが、彼らの顔は「大人」に変容した。
彼らが「本音と建前」を上手に使い分ける大人かどうかは別にして、「好き」「嫌い」に依拠した争いや「言った」「言わない」の揉め事を彼らが上手く治めてくれるような気がするのは自分だけであろうか。

子供の争いを止めるのは大人の役目である。

レッドデータブックには今のところ「大人」についての記載は無いようであるが、絶滅に瀕しているのは間違いない。

無用な争いを止めるためにも、この世から「大人」を消してはならない。













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元巨人軍監督の堀内恒夫氏と

2015-04-22 22:24:33 | 雑談の記録
去る一週間ほど前、高校の時の同級生で野球部エースだったヤーテツから電話があった。

18日の午後3時30分、時間が空いているならテルサの「八雲の間」へ来てくれという内容であった。
同級生で衆議院議員の木原が主催する「みのる塾」に講師として堀内恒夫参議院議員が来るのだが、講演会の後に済済黌の野球関係者を10人前後集めて座談会をすると言う。

了解し、当日当時の15分前に「八雲」の前に立った。
部屋の前には「みのる塾」と書かれた案内板があった。
入口には一組の黒靴が礼儀他正しく置かれていた。

おっ、ヤーテツが先に来てるのか?

「チェースッ」
と言いながら戸を引いた。

15畳ぐらいの縦長の和室の中ほどに居たのは、ナント堀内氏本人だった!。

反射的に戸を閉めてしまった。

すると、部屋の中から

「構いませんよ、どうぞ、どうぞ、入って下さい」
間違いなく堀内氏の声だった。

それから、他の参加者が来るまでの約15分、堀内氏と二人っきりの会談になってしまったのだった。
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