1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×9『応援演説1』

2013-01-12 23:59:08 | 雑談の記録
家に戻ると一人だった。上の娘の二人は高校の部活で、下の中学の息子はクラブチームの硬式野球の練習で、妻はそのお茶当番だった。
風呂に入り頭を入念に洗った。風呂から上がると、選対の要望どおりいつもの作業着に着替えた。作業着はどれも似たり寄ったりだが、洗濯されたもののうち、一番見た目が良さそうなものを選んだ。
身仕度が終わったとき、時間はまだ5時を過ぎた頃だった。時間は十分にあったので健軍電停まで歩いて行くことにした。電停までは、ゆっくり歩いて40分ほどの距離だった。気分転換にはちょうどいい時間だった。久しぶりに自分の住んでいる街並みをゆっくり見るのも悪くないと思った。しかし、表に出ると意外に寒く帽子を被らなかったことを少し後悔したりした。
そんなことを考えて歩いていたが、頭の片隅では上手く喋れるだろうかとその心配が消えることはなかった。いつの間にか、ステージに立った自分を想像して、胸の中ではしっかり原稿を読んでいるのだった。想像上でもなかなか上手くは喋れなかった。しかし、自分が一番伝えたいその部分にさしかかった時、突然、涙が溢れてきた。歩道がぐにゃぐにゃになっていく。作業着に身を包んだ40過ぎの男が道端で涙する姿はさぞかし周囲に迷惑をかけたことだろう。自転車に乗った年配の女性が不機嫌な顔で通り過ぎていった。
しかし、僕はその涙で自分の言葉に嘘はないと確信したのだった。日暮れはそこまで迫っていた。

街中に着いた時も時間はまだ十分にあった。僕は100円ショップに行き、ニット帽子と手袋を購入した。それから市民会館に向かった。
会館前の道路から中の様子を伺うと、黄色いジャケットのスタッフが右に左に動いているのがガラス越しに見えた。一部のスタッフは入口に立っており、早い時間であったが、既に支援者も入場しているようだった。僕はそれに紛れて中に入っていった。
僕に気づく者は誰もいなかった。しかし、VIP風の人にはスタッフは丁寧に挨拶をしていた。僕は作業着だったし、スタッフには会館に出入りする「業者のひと」に見えていたのかもしれない。少し淋しい気持ちになったが、これは、予期しないものに対する注意力の欠如から生じる、いわゆる「非注意による盲目状態(科学用語)」による現象で、それはすなわち、スタッフが自分の仕事に集中している結果であると解釈することにした。だから、僕は自力で松中議員を見つけることにしたのだった。
松中議員は、ホール出入口付近の観客席の一番後ろで長身のスタッフと難しい話をしているようだった。頃合いを見計らって横から挨拶をした。
松中議員は、よく来たという表情で僕を迎えると、直ぐに踵を返し、ついて来いと言った。松中議員は緩く傾斜した通路をステージに向って歩きはじめた。僕はその後に続いた。議員はステージに上がると、暗い袖を通り抜け、何度か迷路のような廊下を曲がり僕を楽屋に案内した。最初の楽屋は鍵がかかっていた。議員は違ったと呟くと隣の楽屋の引戸を開けた。
引戸は、病院で目にするような大きめのもので中も一面真っ白だった。部屋中に貼りめぐらされた鏡と無数の照明を除けば、やはり広めの病室のようだった。着替えスペース用の黄色っぽいカーテンもあった。
その明るすぎる部屋で先生とボクの最後の打合せが始まった。僕は手書きの原稿を議員に渡した。
「もうダイジョウでしょ!すっかり頭に入ってるでしょ!あとは、気持ちだよ、気持ち!3年4ヶ月分の気持ちを思い切ってぶつけてみようか!」そう言うと先生はボクの肩をドーンと叩いた。
それと同時に引戸が開いた。
僕の後に演説をすることになっている30代前後の保育士とそのご主人、そして青年会の会長の山中氏が入ってきた。楽屋が賑やかになった。
程なく司会進行役の木嶋市議会議員がスタッフと共に入って来た。木嶋議員は、先ず、保育士夫妻と挨拶を交した。
僕は、木嶋議員とは五年以上の付き合いで、子供の野球や木嶋議員自身の選挙でも企業派遣スタッフとして活動したことがあった。議員とは一緒に温泉に浸かったこともあった。
議員は振り向くとトボけた顔で、「アナタ ハ ドナタ」と言った。
木嶋議員と堅い握手を交わした。そして、そこで僕の紹介方法が決まった。会社名は言わないで下さいと頼んだのだった。
開会の時間が迫ってきまた。隣の楽屋には、大物国会議員や民自党県連の幹部がいて、大きな声が響いていた。


続く、、、
コメント
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