1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

走る理由

2017-11-16 21:27:32 | 旅の記録
結論から述べる。

人間は、身体動かすこと、走ることを前提に作られた生物だ。
だから、走ることで我々は幸せ感じ、正しく一生を全うできるようになる。
そう思うのだ。

我が家には、この夏、2歳になった犬がいる。
ブルタニースパニエルという犬種の猟犬だ。雌犬、道産子でもある。
そんな彼女が我が家にやって来る2ヶ月前からジョギングを始めた。
散歩のためと、ゆくゆくは、彼女と一緒に走ってみたいという思いからだ。

最初は、1kmも満足に走れなかった。タバコをやめて半年が過ぎていたがあまり関係は無いようだった。体力の低下を身にしみて感じた。46歳の初夏だった。ヤバかった。

しかし、今日は1km、一週間後は1.5km、今週は1回、次週は2回と僅かではあるけど、距離や頻度を増やしていった。サラと名付けられた彼女が我が家にやって来た頃には、5kmを35分ぐらいで走れるようになった。そしてその頃、自分のスマホにランニングのアプリがあることに気付いた。

仕事柄か、私はデータ取得や分析作業を嗜好してしまう。
少しずつではあるものの次第に走力が上がっていくのがわかった。

あるとき、10kmを走ることができ、順調にいけばフルマラソンも完走できるのかもしれないと思うようになった。犬のサラと散歩のあとも週に何回かジョギングするようになり、秋になって熊本城マラソンの当選の知らせが届いた。

しかし、深まっていく秋とともにジョギングの距離を延ばし始めた頃、両足の膝に痛みを覚えるようになり、痛みで数kmも走れなくなった。いわゆるランナーズニー、腸經靭帯炎だった。整骨院で治療を受けながら色んなアドバイスをもらった。
そもそも、ランナーとしてフルマラソンを完走するための筋力が不足していること、怪我を乗り越えなければ強くなれないこと等だ。それと、怪我の予防についても。

ようやく走れるようになったのは、ひと月後の年の暮れだったように思う。
怪我の間、走ることはできなかったが、犬の散歩で5kmとか30分程度の階段昇降を続けていた。ただ、この間、自分に最も影響を与えたのは一冊の本。
「BORN TO RUN」
走るとナゼ足が痛くなるのかと疑問を抱いた著者が、世界的ウルトラランナーと人類最強の走る民族ことタラウマラ族との邂逅と競争を描きながら走ることの意味を問うた一冊。
この本と巡り会わなければ、今の私は無かったかもしれない。
とにかく、長く遠くまで走れるようになりたい。
この頃は、目標というよりも希望に近い思いを抱いていたように思う。

熊本城マラソンのひと月前、知人の誘いで3333段の日本一の石段を登る機会があった。
その階段は自分にとって初めてだったが、途中の石畳様の緩やかな下りを軽く駆け降りている時に既視感に襲われたのだった。

若い頃、私は前職の資源調査の地質技師として、国内外の山中を自らの足で調査をしていた。もちろん、その頃の私は未熟者であり、調査は先輩と一緒だった。私の面倒を見てくれた先輩は、学生時代にヒマラヤを登った健脚の持主だった。
とある調査先での休日、その先輩からダウンヒルに誘われた。
「ダウンヒルってなんですか?」
「山を駆け下りるんだよ」
「えっ?」
我々の調査対象となるような山には登山道などは整備されていない。
だから、遭難を避けるため、要所には測量用のピンクテープを小枝などに取り付けて下山時の目印にする。
「今日はあの山にしようか」
麓からの比高差は500mといったところか、距離は5,6kmぐらいだったように思う。
息も絶え絶えに頂上にたどり着くと、先輩は涼しい顔で、
「じゃ、下で待ってるよ」
先輩はあっと言う間に視界から消えていった。
追い掛けるようにして山を下ったが、最後まで先輩の姿を捉えることはできなかった。
ただ、私はそのときに、今まで経験したことのない爽快感と自由を感じていた。

先の石畳様の緩やかな下りを駆けている時に感じた既視感は、20年以上前の古い記憶だったのだ。そして、その時同じくして思いあたったのが「トレイルランニング」という言葉だった。新聞記事で何度か目にしていた言葉だった。

家に戻り、「トレイルランニング 九州 熊本」と検索してみた。
トレイルランニングのイベントがこんなにも多く開催されていることを知って驚いた。
目指していたのはフルマラソンの完走だったが、手近なトレイルランニングのレースを見つけると申し込んでしまった。20代に感じたあの爽快感と自由をもう一度味わえるのかもしれない、そう思ったのだった。

「オマエ、マラソンも走ったことないのに、トレランとかムリムリ」
マラソン経験のある幾人かの友人や知人にそう言われた。

仕事柄、山にはよく登っている。とは言ったものの登るのは災害現場の急傾斜地や地すべり地で、安全管理上、現場で走るなどはご法度。確かに、無理かもしれなかった。

結局、初 マラソンは4時間50分、25kmのトレランは制限時間に近い5時間50分。
記憶に残ったのは苦痛だけだった。ただ、人間は自堕落な生活を送って不健康かつ体力低下が著しい状態にあったとしても、少なくとも数ヵ月のトレーニングで長距離や山を走れるようになるという事実だけは残った。ものすごく遅いけど。

そしてまもなく、熊本地震が発生した。
本震発生の翌日、私は活断層及びその周囲の災害状況をこの目で確かめたかった。
自転車に乗って現地に赴き、道路が寸断、崩壊、陥没したところでは自転車を担いで前に進んだ。余震も頻発しており2次災害の危険もあったが、夜には我が家に戻ることができた。
調査延長は50kmぐらいだったように思う。オニギリ1個と500ccのペットボトルに入った水がその日の食事だった。トレーニングの賜物だと思った。

しかし、その後約2ヶ月間は災害対応で殆ど休暇も無く、ようやくトレーニングが再開できたのはその年の夏の終わりだった。

あれから一年弱が経過した。昨年12月のハーフマラソンを皮切りに、ひと月に1、2回の頻度でマラソンやトレイルランニングに出走し、先月の10月にはランニングチームの門を叩いた。

今後の練習量にもよると思うが、走力が増す可能性は高い。2年前は1kmを走るのが精一杯だった人間が、今では100km以上のトレイルランニングを完走したいと目論んでいる。

このことは、努力とかストイックな性格とかで説明できるものではない。
人間は、そもそも走る仕様で設計されているだけなのだ。設計されて製造されたのにもかかわらず、仕様を満たす操縦をしない為に、いつの間にか錆付いて動かなくなったに過ぎない。痛みや怪我というのは滑らかさを失った歯車同士の摩擦のようなもので、そこの潤滑が良くなっても次の箇所で摩擦が生じるといったことが繰り返して起こっているようなものなのだ。そして、いつの日か全ての潤滑を取り戻したとき、我々は「自分の走り」を、「仕様通りの走り」を手に入れることができるのだ。

人間は数百万年の進化の過程で現在の肉体を形成させたと考えれば分かりやすい。
特に、走る能力については人間のライフスタイルを考えればさらに分かりやすいだろう。
つい1万年前の我々のライフスタイルは狩猟採取だったのだ。
「走る」ことが日常であったことは想像に難くない。
そのような生活が何十万年と続いて人間に進化してきたのである。
「走る」ことで獲物を捕え、「走る」ことで敵から逃れていたのだ。
「走る」=「生きる」だったのだ。
それが、設計図としてのDNAに刻まれながら進化してきた延長線上にいるのが現在の我々というわけだ。

空前絶後のマラソンブームをどう説明すればいいのだろうか。
趣味の多様化、健康指向、自己管理、達成感、ダイエット、体力強化まあ何だっていいだろう。
「仕様通りの走り」には程遠い段階にある私だが、走りながら感じることがある。
身体が喜んでいるように思うのだ。つまり内から湧いてくる幸せを感じているのだ。
きっとこれも設計図の仕様のせいなのだろう。
トレイルを走っているとき、自分はただ肉体というマシンに乗っているだけの感覚にとらわれる。自分の意識とは別に勝手に身体が動いているという感覚だ。
そして、この感覚の延長に、「仕様通りの走り」があるのではないか、そう思っている。
さらに、その理想の走りを得たとき、自然と一体化したような、自然の一部になったような、自然の中に自分の意識が溶け込んだような、そんな感覚が得られるのではないだろうか。私は、長く遠く走りたい。そのうちに、理想の走りに出会うことができるだろう。
解放された自分にだ。

そういうわけで、明日から旅にでる。
バンコクで開催されるフルマラソンに出走する。
熊本市東区の代表だ(笑)。






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時空間の喜び、・・・ヒューヒュー!

2010-07-07 00:01:01 | 旅の記録
みんなにどう言われようが、ボクは下劣で下等な人間です。

今日もある人(相方じゃぁないよ)を傷つけてしまいました。
・・・・・反省、反省。

・・・・文脈変更。・・・実は・・・めちゃめちゃ酔っ払ってマス。

どれだけのアルコールがボクを惑わしたのか、それはボクにしかわからない事実だけど、熊本に本籍を持つFUK君、それと神奈川県に住むSIM君、YOSさん、君たちと今日知りあえてボクは本当に幸せでした。ありがとう。

そして、NGCさん、・・・・・・今度、・・・・逢いに行きますので、そのときは・・・・。

コモンズ

でも、どちらかと言えば、”Come on Baby”って誘われたいこモん!?。
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いざ、沖縄!

2010-07-06 09:54:01 | 旅の記録
今から3泊4日で沖縄に行ってきます。

もちろん仕事?です。

ボクみたいな民間零細企業ヘボ技術者が、学会に行くことが果たして仕事なのかと問われると、答えに窮する場面なのだけれど、仕事関係のある人から一緒に行ってもらうと大変心強いと言われれば、それはもう自分の勉強のためだけではないという大義名分になるワケで、名誉なことと思い会社に相談したところ、OKを頂いたとそういうことなのです。

仕事関係のある人っていうのは、ボクより若い人で、就職してから夜学で大学の単位を取得したっていう苦労人で、高校の頃は空手強豪校の主将。高校総体直前の試合でヒザに大怪我を負って、高校最後の試合で満足な戦いが出来なかったというのが彼の傷であり糧。卒業後は空手界から指導者としてのオファーがあったがそれも固辞。

そんな彼は、職場で野球チームを率いている。
そして彼は、序列型組織の中で頑張っている。

ボクは彼を応援したいと思っている。
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バカンズ1

2010-05-24 23:12:41 | 旅の記録
ボクらバカンズの一行がタイのリゾート地のパタヤに到着した翌日、政府軍がデモ隊のバリケードに突入。夕刻のニュースではバンコクの中心街から煙が立ちのぼる様子がライブ中継されていた。

その日、ボクは同僚のYMAちゃんと部長で、朝からボートに乗ってラン島へ行き、パラセーリングをし、実弾射撃をし、ビールを飲み、海に浮かび、水着のオネェちゃんを眺め、海鮮料理を食べ、ビールを飲み、パタヤに戻ってからはその日の疲れを取り除くべく高級タイ式マッサージに足を運び、そして、夜に備えた。

バンコクでヤバイことになっているのは朝から知っていたけど、街の様子は昨日と何も変わらなかった。だけど、一抹の不安もあり、情報収集を兼ねて、YMAちゃんがネットで見つけていた日本人経営の居酒屋に夕食を食べにいった。そのお店までは、ピックアップトラックを改造したバスかタクシーか区別がつかないヘンテコな乗り物に乗って行った。部長は置いてきぼりにして、二人で出かけた。

実は、ボクとYMAちゃんは、経験?が豊富?で決めたことは即実行するタイプで、その日も誰からも教わらずに、街の観察結果をもとに行動したのだった。ただの無鉄砲との意見もあるけど、ウチの社員旅行ってのはゴルフのとき意外は特別なガイドもなく、普段は自由行動で夕食や夜遊びは自己責任となっている。

その居酒屋で、今日何杯目になるかわからないビールを喉に流し込んだ。
夕食後、一人で来店していた40代の男性旅行客と店の外で立ち話をしたときに、ボクらは初めて政府から夜間外出禁止令が出されたことを知った。お店のタイ人ママも外に出てきて、今日はホテルに戻ってジッとしていたほうがいいと言った。小規模な反政府集会が最近、パタヤでもあったとのこと。今日は何が起こっても不思議じゃないという様子でお店のママは話してくれた。
しかし、街には世界中のバカンズがウヨウヨしていて、ボクらにはそんな危険が迫っているようには思えなかった。しかし、先ほどボクらの席の隣にいたのはパタヤの役人で、彼らは、今日になって約200人の警官がパタヤに派遣されたことを話していたらしかった。

しかし、ボクとYMAちゃんの意見は一致していた。

“Let’s go to the Go Go Bar”
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液晶画面のような現実

2010-05-23 21:10:51 | 旅の記録
無事、熊本に帰って参りました。

いい夢から覚めた気分ですな。これが現実ですな。。。。


さて、せっかくだからパタヤについて記録しておこうと思う。

「パタヤ」で検索すれば、パタヤのことはいくらでもわかるのでボクが感じたパタヤを記録しておきたい。簡単に。

まず第一に、パタヤは要するに観光地なんだけど、観光のための観光地ではないってこと。

老若男女、オカマ、ゲイ、レズ、要するに「人間」の欲望が衝突炎上している街。
この狭い街には、おそらく南米を除く各国からの「人間」が蠢いている。
街からは様々な言葉が聞こえてくる。肌もいろいろ。手足の長さもいろいろ。顔もいろいろ。さながら、人種展示会の様相で、ボクは熊本代表だったかもしれない。
パタヤの魅力は、なんといってもその街の猥雑さ。
アジアの街の猥雑さって、ボクたちが小さいころ見ていた街の風景とよく似ている。
段差のある道路、腐臭のする側溝、汗臭い男たち、濡れた女たち、物乞いする老婆、不自由に歩く子供。傷痍軍人・・・。
懐かしさを感じる。

日本時間の未明にバンコクを発ち、午後1時前に自宅に着いた。
家族にお土産を渡し、風呂に入り、少しばかりの仮眠を取ったあと、所用で大型ショッピングモールに足を運んだ。

日本の街のなんと「キレイ」なこと。
熱帯魚が泳ぐ観賞用の大型水槽を眺めている気分になった。
たしかに、日本は繁栄している。それは否定しない。
しかし、「危うさ」と「ひ弱さ」を感じずにはいられない。

パタヤの街を歩きながら、こんな詩が頭に浮かんだ。

「液晶画面」

液晶画面が伝える世界は美しい
液晶画面が伝える世界は惨たらしい

液晶画面が伝える世界は楽しい
液晶画面が伝える世界は悲しい

見たことになるの? 
感じたことになるの?

囲まれた世界からみる風景は
いつだって液晶画面

閉じ込められているのか?
勇気がないだけなのか?

見たことのない
聞いたことのない
触れたことのない
感じたことのない

七つの海 七つの陸
凍てついた海 灼熱の砂漠
エメラルドグリーン ブラックレイン

魂が叫んでいる
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ディズニーランド

2007-12-24 19:22:50 | 旅の記録
実は、うちの子供たちは、この三連休、2泊3でディズニーランドに行っていたのだ。
ボクとカミさんは行っていない。
祖父さんと祖母さん、従兄弟2家族に混じって行っていたのだ。

今日、ボクはお昼まで仕事をして、それからグランドに向かい、夕方までグランドの大掃除に精を出した。
家に戻ったのは5時半。子供たちは家に帰っていて、リビングにはお土産類が散らかっていた。
長女のユーは塾に行っていた。
次女のホースケは自分の部屋でお小遣いの精算をしていた。
リョー坊は自分の部屋で4年生の算数の問題集に取り組んでいた。

「おかえり」
「ただいま」
「楽しかったか」
「うん」

しばらくして、リョー坊が部屋から出てきた。
どことなく元気のない様子だった。
リョー坊は、リビングに置いてある貯金箱の中をあけて、お金を出し、それをまた戻したりしていた。
そんな一連の行動をやっている最中に、ボクは、リョー坊が練習を休んでたことをチームの子供たちが寂しがっていたよなんてことを伝えた。

リョー坊は部屋に戻ると泣き出した。
心配したカミさんが部屋に様子を見に行った。
泣き止まない。
疲れたんだろうってことで、フトンをひいて寝かせてみた。
泣き止まない。
とりあえず、リョー坊のことはカミさんにまかせてボクはフロに入った。
風呂場にまでリョー坊の泣き声が聞こえてくる。
これはただごとではないと思った。

フロから上がるとボクはカミさんと交代し、リョー坊の横に添い寝をした。
リョー坊はオイオイと泣き続けている。
泣き始めて40分が経とうしていた。
「なんか忘れ物でもしてきたのか」

「・・・チガウ・・」

「誰かにいじめられたのか」

「・・・チガウ・・」

「なんかイヤなことでも言われたのか」

「・・・チガウ・・」

「野球の練習がしたかったのか」

「・・・チガウ・・」

「お父さんたちが一緒じゃなくて寂しかったのか」

「・・・チガウ・・」

「なんか悔しいことがあって泣いているのか」

「・・・チガウ・・」

「悲しんでいるのか」

「うん」

「何が悲しいんだろうなぁ」

「・・・・・・」

「お父さんやお母さんが死んじゃったらどうしようとか考えたのか」

「・・・チガウ・・」

リョー坊が悲しむ理由をボクは真剣に考えた。

そして気が付いた。

「ひょっとして、リョー坊、家に帰りたくなかった?」

「うん」

「まだ、ディズニーランドいたかった?」

「うん」

「また、ディズニーランドに行きたいんだ」

「うん」

「めちゃくちゃ楽しかったんだな、良かったな、好きだけ泣け、泣け」

ボクは笑いをこらえてフトンから出た。
リョー坊は泣き止んだ。

リョー坊は貯金箱のお金をみて、今度、ディズニーランドに行けるのは遠い遠い先のことだと感じて泣き出したに違いない。

かわいいヤツだぜ。
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旅は楽しいな

2007-12-12 13:23:39 | 旅の記録
なんか力が入らない。

だけど仕事は山のようにある。
登るのもヤだし、壊すのもヤだし、眺めるだけがいいやと思ってしまう。

だけど、それじゃぁどうにもなんない。

試験が終わってから、飲み過ぎたかもしんない。
解放された後のお昼のビール、あのフワフワ感、たまんないね。
思考力が低下し、何を見ても面白おかしくなってしまう。
昨日のバカブログを読み返して思うところがある。

ただの酔っぱらいバカオヤジだ。

だけど、そういうときのそんな自分が大好きだし、そのときの自分がホンモノの自分かもしれないと思うし、そうであって欲しいと思う。

学生のころ、フラリフラリと下らない貧乏旅行をしていたことを思い出すな。
殆ど一人だったかな。
あるときはずっーと歩いてみたり、あるときはずっーと自転車を漕いでみたり、あるときはずっーと普通列車に揺られて稚内に行ってみたりみたり、あるときはずっーとフェリーに乗って海を眺めながら竹富島に行ってみたり、あるときはずーっとリュックを担いで山を登ってみたり、あるときはガス欠になるまで車を走らせてみたり・・・

ただのボンボンバカ学生だったかもしれないな。だけど毎回いろんな人と友達になったな。
「君は昔からの友人みたいだ」
最高の褒め言葉として嬉しく受けとめてたけど、一方で、「こん人は、変わっとるなぁ~、アホじゃなかろか~」と思ったりした。でも、そんな御仁たちが大好きだった。

しかし、旅は楽しいだけじゃないってことも決して忘れちゃぁいけない。
危険や誘惑も一杯なのである。

このバカブログでさえ明かすことのできないスゴイ経験をしたことが何度かある。

ロサンゼルスの郊外で不良少年達に拳銃を突きつけられたことがある。・・・・・・・


・・・・・水鉄砲だった。

ラスベガスで尾行・監視されたことがある。・・・・


・・・・・ボクが不審者扱いされていたのだ。

いやいや、でもホントにホントに怖い目にあったことがあるんだよ。

つまり何が言いたいかって言うと、旅はやっぱり楽しいなってことなのだ。
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柏の赤獅子③

2007-12-11 17:52:09 | 旅の記録
そのカフェから『赤獅子』までは僅か数10mだった。だから店を出た瞬間に『赤獅子』がどうなっているのかがわかった。

入口に休憩用?の木製のベンチが置いてあり、傍らには植木鉢?の灰皿が置いてあり、店内には明かりが点いていた。
そして店内には1匹の“オス赤獅子”が居た。
どうやら店は開店したばかりのようだった。
“オス赤獅子”は店内の清掃に余念が無かった。
ウィンドーには冬用の今流行の女性用の帽子やキャップ等が飾られていた。確かに古着屋ではなかった。
店内に入ってみた。だけど荷物が邪魔だったので、入口付近の空いたスペースに荷物を置かせてくれと頼み店の外にでると、そのついでにタバコに火を点けてしばらく“オス赤獅子”を観察した。


ボクは数少ない情報を頼りにここまで来ていた。あの“オス赤獅子”は、ボクのターゲットである獲物なのか、そんな思いで観察を続けた。“オス赤獅子”は、ボクの行動に全く関心を示さず、奥から掃除機を持ち出してきて、ガーガーやり始めた。
まったくマイペースな『赤獅子』だぜ、酔っぱらっていい気になってたボクはそう思った。


掃除が終わった頃を見計らって店内に入った。
そして商品の物色を開始した。店内には昨日の“メス赤獅子”からの報告のとおり、『赤獅子』のオリジナルブランドのTシャツ及びシャツが置かれたてあった。
まず、その棚あたりを物色。しかし、最初に目にとまったのは、黒地に黄色文字でプリントされたオリジナルTシャツだった。
そのシャツには「NO BEER NO LIFE(ビール無しでは生きていけない)」と書かれてあった。ボクの嗅覚に間違いが無かったことが証明された瞬間だった。


“オス赤獅子”は、カウンターでナニゲのそぶりだった。
身長は180cm強。古びたスニーカーにジーンズ。黒のロングシャツに「ウェスタンラリアート20th?アニバーサリー(英語)」とか書かれた白のTシャツを重ね着し、トップは黒のハンチング帽子だった。顔面にはメガネとヒゲがあった。特に、カッコ良さは感じなかったし、彼が国内トップレベルの少年野球ブロガーであるという雰囲気は微塵も無かった。しかし、ボクは確信した。ゼッタイに間違いないと。この左門豊作をギュギュギューッと絞ったようなオヤジこそ、ボクが、追い求めてきた人物であると。


ボクのミッションは終わりに近づこうとしていた。


ボクは8点の商品をカウンターに載せ精算を頼んだ。
それなりの金額になってしまっていて、現金で払うかズイブン迷ったが、ここである少年野球オヤジの男気を有効に使わせてもらった。
値札を丁寧にはずしてくれる店長に、ボクは簡単にイキサツを話した。
店長は、手を止めるとニッと笑って「私がmetooです」と自己紹介してくれた。

それから店の外に出て、しばし歓談。
metooさんの目下の悩みは、シーズンオフになるとネタ薄になることだった。
そして、少年野球には少年野球の数だけ、悩みや困難、嬉しさ、愛があると、そんなことを語ってくれた。
最後に別れの挨拶をすると、metooさんは帽子を取ってお辞儀をしてくれた。半伸びした坊主頭に野球オヤジの片鱗が見て取れて嬉しくなった瞬間だった。
ボクはまだ酔っぱらっていた。



今、ボクの手元に一枚の名刺がある。
「REDLION T-SHIRT SHOP」と書かれてある。

metooさん、ありがとう。
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柏の赤獅子②

2007-12-11 11:22:54 | 旅の記録
その店で使用されていた暖房器具は、ベージュ色のいわゆる昔ながらの円筒形の石油ストーブで、小窓から見える橙色の炎が、店内を暖かいものにしていた。

奥にどうぞと言われ、奥へ行くと、そこには4組の20代のキレイ系女性達がランチ中であった。

そこには、オヤジはお呼びでない雰囲気が漂っており、それ以上奥へは行けなくなったボクはオーディオが置いてある一番手前の席に腰をおろした。

ジーインズでラフな格好をしたカワイイ顔のウェイトレスの彼女に、とりあえずビールを注文した。

彼女はキョトンとした表情になった。ツカツカと接近してきて、「生ビールでよろしいでしょうか」と意思確認のような口調だった。
「ハイ、ナマを・・・」ボクはそう答えるのが精一杯だった。
「ナニかツマミを・・・」と言いそうになったが、メニューも見ずに「ランチ下さい」と無難に言った。


店内には、スローなかんじのクリスマスソングが流れていた。
オーディオが置かれたラックには、サーフ系雑誌やハワイアンのオーガニック系のCDがあった。

ランチを待っている間、ボクは音楽を聴きながら生ビールを喉に流し込みながら、ここまでのミッションの過程を野球に例えて振り返っていた。

1球目は『見逃し』だった。→場所を間違えた。
2球目は『空振り』だった。→店は閉まっていた。
打席を外し、一呼吸している。→現在だった。

ランチを運んできた彼女に、『赤獅子』について訊いてみた。

もともと『赤獅子』は古着屋でこの近辺では有名な店だったと話してくれ、だけど、最近、ソレはやめているみたいだと付け加えた。そして、いつもは12時には開店しているとそう教えてくれた。

時計は既に12時30分を回っていた。
クリスマスソングが止み、ボクがオーディオを気にしていると、厨房から若いシェフがでてきて別の音楽に替えてくれた。
アコースティックギターをバックに男性ボーカルが暖かい風のような唄を奏でていた。
2杯目が全身をゆるくほぐしてくれ、ボクはビールと音楽をしばらく楽しんだ。

だけど、3球目が心配だった。
三振したら、また、この店にくればいいや、そう思った。

時計は1時を過ぎた。
酔いが回り最高の気分になった。
お店をでるときに、今、流れてる音楽のアーティスト名を訊いた。
彼女はCDケースをボクのところに持ってきてくれ、喜々としてそのアーティストについて説明してくれた。LAULAという男性デュオだった。時々、お店でライブもするという。今度是非、聞きに来てくれと満面の笑みで誘ってくれた。
だけど、ボクはこういう素性の男で残念ながらそう簡単には来れない旨を話し、今から行く『赤獅子』が閉店だったらまた戻ってきてゆっくりさせて下さいと言って、そのカフェを後にしたのだった。
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柏の赤獅子①

2007-12-10 23:26:43 | 旅の記録
実は、コード「柏の赤獅子」の計画は秘密裏に進行していたのだ。

一昨日(日曜)の晩、ボクは『赤獅子』と連絡を取った。

そのときボクは既に酔っていた。
メモ帳に記しておいた04から始まる番号をプッシュした。

電話の向こうは“メス赤獅子”だった。
なんて言っているのかうまく聞き取れなかったがボクはかまわず訊いた。
「明日(月曜)はやっているのか?」

返事はYES。11時から始めると言う。
それを確認するとボクは電話を切った。
だけど尋ね忘れたことがあったから、スグに掛けなおした。
電話に出たのはやはり“メス赤獅子”だった。
「そっちにオリジナルのものはあるか?」

返事はYESだったが、明日の営業は12時からだと訂正の報告があった。
結構、アバウトな『赤獅子』だなと思った。



友人KRHのマンションを出たのは9時過ぎ。
友人KRHの奥さんは、もっとゆっくりしていってもいいのよと優しく言ってくれたが、そういうワケにもいかなかった。
KRHの住むマンションは、工場跡地に再開発で建設された10数棟からなる高層マンション群の南西側に位置していて、6階の部屋からはTOKAIDO LINEが見下ろせた。マンション群の中央には瀟洒な集会所や図書館があって北東側には体育館もあり、ボクが住んでる熊本なんかじゃ考えられないような設備が揃っていて、共用部分の全体的な雰囲気はカリフォルニアになっていた。

ボクはそのカリフォルニアを背にしながら、OOFUNA STATIONに向かって歩き出した。

OOFUNAからTOKAIDO LINE、YAMANOTE LINE、JOBAN LINEに乗って、KASHIWAに到着したのは、11時30分だった。

ちょうどいい時間だった。
ボクはあるデパートの地下に潜り国土地理院の1万分の1の地形図を購入した。
そのとき携帯が鳴った。
TDKオヤジからだった。電波の入りが悪くて用件が何か分からなかったけど、ボクは自分のミッションに集中することにした。
地形図を頼りに目的地に向かった。


目的地に近接したと思ったところで、ボクは過ちを犯しているのではないのかと疑い始めた。

ボクはタバコを取り出し路上で一服した。
メモに記した住所と、目的地と思ってやってきた地形図に記された住所を交互に眺めた。
微妙に違った。

メモにはCHUOUCHOU2-○-△、目指してやってきた近辺の住所はCHUOU2CHOUMEとなっていた。

やっちまったと思った。
全然違うところに来てしまったかもしれない、そう思った。

ボクの真正面には不動産屋があった。入り口には自動販売機があった。
無糖の缶コーヒーを2缶購入すると、迷わず、その不動産屋の中へ入った。

入り口の一番近いところにいたのはトータス松本に似た青年だった。
ボクは彼のデスクに缶コーヒーを置き、目下の悩みを打ち明けた。
トータス君は、「道を尋ねるだけなのに缶コーヒーとは!、その心意気、気に入っちゃいました、スッゲーオトコっぽいです!」なんて大げさに喜んでくれた。だけど、お店の中には3人の男性従業員がいて1本足りねぇ~なんて思ったりした。
そして、『赤獅子』について尋ねてみた。
すると、トータス君は『赤獅子』のことを知っていて、ボクの大荷物を見ると、アナタもそういうお仕事をしているのかみたいなことを訊いてきた。
そんな会話をしている間に、奥にいたメガネの男性職員が、A3用紙に地図をプリントアウトしてくれた。
そのお店をでるときにトータス君は言った。
「熊本の人たちに、KASHIWAの人は親切だったと伝えてください」
そしてボクは言った。
「缶コーヒーは3人で仲良く飲んでください」

手渡された地図には、『赤獅子』までの道順がピンク色の蛍光ペンで示されていた。

『赤獅子』に到着した。時刻は12時15分になっていた。
しかし『赤獅子』は閉まっていた。

ここまで来て、ミッションは失敗に終わるのかとそう思ったら、急に腹が減ってきた。

そこで、『赤獅子』の隣の隣の隣くらいにあった古民家を利用した洒落たカフェに突入し、生ビールと日替わりのランチを注文した。

つづく
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感謝感謝

2007-07-03 17:12:16 | 旅の記録
感謝の気持ちをマジメに表すとこんなかんじだ。




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頭痛が痛い

2007-07-01 19:06:52 | 旅の記録
日本を出国する直前と再入国の直後、つまり、国内における最後と帰国後のしょっぱなってことなんだけど、その直前と直後にケイタイに連絡をしてきた人物がいる。
ふつう、そういう人物ってぇのは、カミさんだったり愛人だったりすると思うわけだけど、ボクの場合は、オヤジなのだ(涙)。
誰かっていうとSGAオヤジなのだ。ちなみに出国直前にかけてきた連絡の内容というのは、行ってらっしゃいっていう気の利いたことじゃなくて、SGAオヤジが注文した自分の分の弁当を替わりに食べてもいいよっていう内容で、SGAオヤジはボクがグランドにいると勘違いしていたのだ。
ま、そんなことはどうでもいいんだけど、着信履歴にSGAオヤジの名前が連続しているのを見ると、ボクはナニをやっているんだろうと不思議な気持ちになってしまう。そして、昨日も「飲もうか!」という誘いに、軽~く「ええばい」って返事をしてしまったのだった。

そりゃぁそうと、今日は、既に全国大会出場を決めているUSB軍団との練習試合だった。
2-1(逆転サヨナラ勝ち)、1-1(引き分け)だった。

中国でのことは、これから追々記録していくつもりだけど、昨日の飲み会を含めて8レンチャンっていう偉業を成し遂げたボクの肝臓は限界を超えていたんだと思う。
今朝、目が覚めたら、地球の重力が4倍増しになっていた。しかも、激しく頭痛が痛い状態だった。

とりあえず試合はミることができたけど、体を動かすたびに頭がジンジンしちゃってロクに会話もできなかった。それで、しょうがないから家に帰ってさっきまで寝てたわけだけど、どうにか重力は2倍くらいになったみたいだ。頭痛の痛さはシンシンくらいだ。目の奥もなんだか痛い。
そしてリョー坊とキャッチボールしたいはずなのに、それを言い出すことができない。


そういうことで、バカ記録を再開しますのでこれからもヨロシクです。
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プロ6人とバカ1人

2007-05-31 15:55:16 | 旅の記録
中華人民共和国と言えば東シナ海を挟んだ隣国なわけで,発展著しい上海なんていうビッグシティは熊本からは東京よりも近いところにあったりする。
そんなワケで上海にも行ったことがないボクは九州人としてはモグリかもしんないけど,この度,自費だけど,20年ぶりくらいに中国へ行けるのだ。やっほー~。

ま,近年の中国と言えば経済発展がスゴクって,それに牽引されるカタチで恩恵に預かっている日本人も多いと思うワケだけど,熊本界隈では光化学スモッグや黄砂,酸性雨,はたまたエチゼンクラゲの大発生など環境問題が大々的に指摘されていて,その原因の容疑国として押しも押されもせぬのが中華人民共和国ってなワケだけど,本国の中国でもイロイロ環境問題が起こっているらしい。

なかでも地盤沈下がスゴイらしい。ボクは中国の地質や地盤沈下については全く素人だけど,話しによれば北京~上海にかけての四国くらいの広大な平野で地盤沈下が進行しているらしい。

地盤沈下ってのは,主に地下水の汲み上げ過ぎによって起こる非可逆的現象のことなのだ。
たとえば,関東平野なんかじゃぁ,ヒドイところでは大正時代から4mくらい沈下しちゃったところもあるくらいだ。んで,地盤沈下とはちょっと違うんだけど,逆に地下水位が戻ったところでは,浮力が働いちゃって地下構造物(地下の駅)が浮き上がっちゃうって大問題も起きているのだ。
そんなワケで,目に見えない地下深くをユックリ粛々と流れる地下水を決して侮ってはいけないのであ~る。

それで,今回,中国で地下水と地盤沈下に関するシンポジムが開かれれることに相成ったワケだけど,このチンポじゃなかったシンポ(言いたくて言いたくて・・)と並行して地盤沈下が起こっている現場を見て回る(巡検)ってオマケ付きが,今回の中国行きってことなのだ。
画像が巡検ルートなんだけど,この約1000kmのルートを約5日間で見て回るって算段になってる。ホントに見て回れるのかって気がするけど。

日本からの参加者は,地下水と地盤沈下のプロ6人とバカ1人。シンポで何か発表するってのを条件に付いてきてもOKって約束だったから,この数日は原稿作りでちょっとだけ忙しい。ボクが知っている中国語は回鍋肉と天津飯と味千拉麺くらいだ。だから発表は英語になると思うけど,最近は洋画も吹き替え版ばかり見てたりで英語から遠ざかっているから甚だ怪しいもんだ。
ハッキシ言って,プロ野球の試合に他国からやってきた草野球の補欠選手が,突然,バッターボックスに立つようなもんなのである。
思いっきり,三振してこようと思っている。

なお,出発は6月23日なのである。

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誕生日プレゼント

2007-04-09 23:34:44 | 旅の記録
熊本都市圏に住む約90万人の生命線となっている飲料水は、全ては地下水によって賄われている。
こんな街は、世界のどこを探しても見つけることはできない。ホントーなのだ。
それほど地下水が豊富ってことなんだ。
だけど、それは熊本を形成している地質と、それを知ってか知らずかわからないけど、その地質環境を上手に利用してきた人間の農業という営みによって形成されたものなのだ。
このことを明らかにしたのは、柴崎達雄っていうエンジニア学者で、以上のことは『農を守って水を守る-新しい地下水の社会学-』って本に詳しく書かれている。



今日(4月9日)、NKOさんっていうフリーランスの技術士さんからTELがあった。
NKOさんは、前出の柴崎さんが率いていた研究グループに入っていたことがあり、熊本の地下水の研究に携わったことがある人で、ボクの家の近所に住んでいる。

TELの内容は、急な話だけど中国に行かないかってことだった。

3年くらい前のことだけど、ボクは柴崎先生の論文や本を読んで一通のファンレターみたいな手紙を出したんだ。ボクはその手紙にNKOさんから当時聞いていた中国でのミッションに参加したいってことを書いていたのだ。手紙を出してすぐ、柴崎先生からボクのケイタイに直接電話があったときはスッゲー面食らったワケだけど、そのときの先生の話では、体の調子が良くなくて中国に行けるかどうかわからないってことだった。そして、1年後、ボクは新聞で柴崎先生の訃報を知ったのだった。

だけど、柴崎先生の意思を継いだ何人かの研究者(地下水の大家たち)が、この度、中国を目指すことに相成ったってそういうワケなんだけど、人選にあたって、柴崎先生の奥さんがボクを指名してくれたってことらしいのだ(なんだかドラフトみたいだね)。

調査は6月下旬の約10日間だそうだ。
費用は渡航費のみが自己負担らしい。

行くしかないよね。
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ミュージアム

2007-01-04 22:10:23 | 旅の記録
股間がなんだか痒い。
なんでかっていうと、帰りのフェリーの中のお風呂で、市立尼崎高校のバレーボール部員の約15人くらいと一緒になったとき、自分が高校時代に2回もインキンタムシを患ったことを思い出して、染るんじゃないかなって心配になったワケだけど・・・今、まさか・・・って思っているのだ。

ま、それはさておき、旅行から無事に帰ってきて、「Number」の669号を読んで感動したりバッティングセンターに行ったり、子供たちが作ったゼリーを食べたりして、休みの最後の一適まで楽しんだワケだけど、今の気分は、子供の頃、サザエさんを見終わった気分を49倍くらいした気分なのだ。

やっぱり、休みが終わる夜はなんだか寂しい。

松井秀喜ベースボールミュージアムに行ってきた。
実はボクは以前から松井秀喜の大ファンなのでござる。
ボクは松井選手のメジャーリーグ初ホームラン(ヤンキースタジアム開幕戦5回裏1死満塁)を見て、嬉し泣きしてしまったことがあるんだ。
その満塁ホームランが飛び出した日時は、日本時間の4月9日の早朝で、ボクにとってそのホームランは34歳誕生日の祝砲以外のナニモノでもなかった。こんな事言ったらカミさんにぶっ飛ばされるかもしれないけど、こんなビッグプレゼントは、後にも先にもこれだけだから仕方がないんだ。ま、松井選手がボクの誕生日のためにワザワザ満塁ホームランを打ったワケじゃぁないってことは十分わかってるつもりだけど・・・・。
だけど、こんときのホームランは、日米通算333号で・・・・。
333=3+3+3=9
333=3×3×3=27=2+7=9
ってことで333号は、誕生日の9と親和性がある数字(当然だけど)だったりするのだ。
んで、だから、333号のホームランカードが前から欲しいなぁなぁんて考えてて、ミュージアムに行ったら買えるかもぉって思ってたけど、それはムリだった。

ミュージアムを一通り見終わって、出口に差し掛かったとき、リトルリーガーリョー坊が、もうガマンできないという素振りで言い出した。
「おトーさん、おトーさん、松井選手のベースボールミュージアムぅ、まだぁ~?」

「?????、ここばい、今、おるとこばい」ボク

「?????」精一杯首を傾げるリョー坊

小1のリトルリーガーリョー坊は、松井秀喜選手の野球場(スタジアム→ミュージアムとスタジアムを勘違いしてた)を期待していたのだった。

どおりで、到着したときから、様子が変だった。
ゴメン、リョー坊、説明不足だった。
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