1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『景行天皇伝説を巡る冒険』27.鉄技術の違いが神武東征の真実!?

2022-12-31 11:08:00 | 景行天皇の記録
【鉄技術の違いが神武東征の真実!?】
『古事記』では、ヤマト入りを果たし橿原宮(かしはらのみや)で即位した神武天皇は、皇后として伊須気余里比売(いすけよりひめ)を迎えたと伝えられています。この皇后の父は大物主神(おおものぬしのかみ)、言わずとしれた葦原中国の神です。そして、その妻は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)です。また、『日本書紀』では、皇后として媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と書かれています。名前に含まれる「たたら」からは出雲で盛んであった製鉄、”たたら製鉄”を思い起こさずにはいられません。

鉄は、紀元前3世紀ごろに青銅とほぼ同時期に大陸から伝わってきたと考えられています。伝来ルートは少なくとも3つあったといわれます。
①朝鮮半島から九州北部に伝わったルート、
②中国沿岸から熊本地方に伝わったルート、
③朝鮮半島から山陰地方に伝わったルート、
そして、それぞれの鉄についての技術は、
①鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄素材を朝鮮半島から持ち込んでそれを鍛治・加工する技術。
②中国の江南地方で王朝の目を盗んで比較的低温でも製鉄可能な褐鉄鉱を原料とした技術、ただし腐食が早く良質な製品は望めない。
③砂鉄を原料としたいわゆる「たたら製鉄」の前身的な製鉄技術、高品質な鉄製品を作ることができる技術の3つのです。

この鉄技術の伝播が正しいと仮定すれば、景行天皇の伝説、『古事記』、『日本書紀』、『魏志』「倭人伝」で語られた西日本の古代勢力は、それらが保有する技術によって以下のように整理できます。

①高天原のヤマト前身勢力(鉄鋌加工技術)、
②茂賀の浦の狗奴国勢力(褐鉄鉱技術)、
③葦原中国の出雲勢力(砂鉄技術)

そして、これらの勢力が持つ技術力の違いが、ヤマト前身勢力、すなわち神武軍の東征を駆り立てたと思うのです。

さて、そのわけを説明する前に、なぜ出雲勢力が「たたら製鉄」の技術を生んだのか、その背景はなんだったのか、地質技術者の目線で考えてみたいと思います。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』26.景行天皇の真意と国内統一

2022-12-28 21:55:00 | 景行天皇の記録
【景行天皇の真意と国内統一】
景行天皇は、この山鹿・菊池の地で多くの血が流されていたことは十分知っていたはずです。

『古事記』における高天原の神々をヤマト王権の前身とする北部九州の豪族と仮定し、安本美典氏が主張するように『魏志』「倭人伝」の邪馬台国を北部九州、福岡県の筑前町や朝倉市を中心としたクニあるいは連合国とすれば、当時、邪馬台国の南にあって邪馬台国と対立した狗奴国というクニは、熊本であったことになります。また『魏志』「倭人伝」には狗奴国には狗古智卑狗(ククチヒク)という役人がいたことになっています。そして、狗古智(ククチ)は菊池の語源とされています。
つまり、ヤマト王権にとって、かつての山鹿・菊池地域は、仇敵の本拠地だったことになるのです。その後、ヤマト王権の前身勢力である神武天皇が軍勢を率いて国の統一を図るための東征を開始する頃には、狗奴国は彼らの配下にあったかもしれません。

いずれにしろ、北部九州の勢力と山鹿・菊池勢力の間では血で血を洗う争いがあったものと推察されます。
そして、景行天皇は、その戦いに敗れし者、犠牲になった全ての人々を、神聖な人々、つまり八神として故郷に酷似した三輪山に倣って、震岳の頂きに祀られたのだと思います。

熊本には景行天皇の九州巡幸時の伝承や地名の説話が多く残っています。そして、多くの神社では神と崇められ、ゆかりの地では今なお尊崇を受けて語りつがれています。それがなぜかと問われれば、緊張した国際政治状況のなかにあって、未だ盤石とはいえない王権に不安を抱えつつ一部の敵対勢力との厳しい戦いの最中、これまで国の統一のために協力してくれた地元の土豪への感謝や無念の死を遂げた者達への哀悼の意を込めた、まさに巡幸と呼ぶにふさわしい行脚だったからなのだと答えるほかありません。
そして国の統一において、例え敵対勢力であったとしても義を尽くして死した者に対し、哀悼の念を持ち続ける思想こそが各地で尊崇を受けた最大の理由で、それこそがヤマトにおいて国の統一を果たした本当の理由だと思います。

しかしながら、国の統一という大事業を精神論だけで成し遂げるとは到底考えられません。そこには用意周到な戦略があったはずです。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』25.敗れし魂の行方と勝者の激情

2022-12-28 18:21:00 | 景行天皇の記録
【破れし魂の行方と勝者の激情】
『魏志』「倭人伝」をはじめとする中国の史書には、弥生時代の終わりごろにあたるニ世紀後半の日本は「倭国大乱」といわれるような状況にあったことが記載されています。また、古代人の遺骨研究の分野では、北部九州の弥生人には激しい戦いを想起させるような傷跡を持つ人骨がかなりの頻度で見い出されていることが報告されています。福岡県の大規模埋葬遺跡である筑紫野市、隈・西小田遺跡からは戦傷例が集中して出土していますが、付近の遺跡規模や戦傷人骨の出土状況から、戦闘の規模は数十人から数百人程度の集団戦であったことが考察されています。

このように考古学の見地からも部族間の激しい戦闘が行われたことをうかがい知ることができます。無念の思いで命を落とした古代の人々のことを思うと胸が痛みます。戦わなければならない義が双方にはあったはずです。勝者になることもあれば、敗者になることもあります。しかし、敗者になることはすなわち死を意味します。そして、勝ち続けた者の背後には無数の死屍が累々と積み重なっていきます。国内の統一とは、そういった多くの死や数え切れない無念の上に成り立っているとも言えます。

必死の思いで己の死をかいくぐり、最終的に勝者となった者は何を思うのでしょうか。真の勝利者にならなければ感じることのできない、内から湧いて出てくる激情があるように思います。
世の中には様々な勝負ごとあります。勝者を目指す本当の意義や価値は、その激情を学べることではないでしょうか。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』24.先住者のふるさと

2022-12-23 20:29:00 | 景行天皇の記録
【先住者のふるさと】
景行天皇は、この菊池川流域に伝わる古い歴史を当初から知っていたのではないでしょうか。

崇神天皇の時代、山鹿・菊池の地では先住の人々が彼らの文化様式で生活を営んでいたのでしょう。阿蘇大明神が「海神、吾を知れるや」と呼びかけたのは、先住民であった彼らがまさしく南方の海を渡ってきた海神族だったからではないでしょうか。そして、阿蘇大明神や景行天皇が茂賀の浦で見た「火」というのは、鍛治・加工、あるいは褐鉄鉱を原料とした製鉄の燃えさかる炎だったのかもしれません。
古墳時代の末期、菊池川流域では装飾古墳の文化が花開きます。装飾に利用される鮮やかな赤色は、褐鉄鉱を焼くことでできるベンガラです。この全国的に見ても特殊だとされる装飾文化の背景は、その原料を生み出す資源、つまり鉄を含んだ地質とともに、褐鉄鉱に親和性の高かった人々の存在が考えられます。

学生のころ八重山地方を旅しました。ある離島の大潮の日、浜辺では海開きのお祭りが行われていました。大きな鍋を使った牛肉の鍋料理が振る舞われ、島人たちに混じってその郷土料理を頂きました。夜はある民家の宴に呼ばれて泡盛を飲みました。
そのときのことです。その宴で一緒に飲んでいた年老いた方から、ある物を頂きました。それは「鈴石(すずいし)」でした。長径が5cmくらいの丸みを帯びたやや光沢感のある褐色の石ころは、その名のとおり手に持って耳元で振ってみるとコトコトと音を発したのでした。
その古老から、これは君が持っておくべき石だと言われたような気がします。当時は浅学な学生で、頂いた石が何なのかさっぱりわかりませんでしたが、後に調べたところ鉄の酸化物が主成分で、鉱物として赤鉄鉱もしくは褐鉄鉱であることを知りました。海神族は西表島の鈴石も製鉄に利用したかもしれない。そんなことを考えながら、この石を眺めると、胸が温かくなるような不思議な気持ちになります。





やはり、景行天皇は、当初から震岳の頂きに八神殿を祀る計画だったと思います。景行天皇の時代でさえ九州の土豪の一部はヤマト政権に対して恭順を示しませんでした。先々代の崇神天皇の時代はなおさらだったかもしれません。国内統一のためには示威行為だけでなく武力の行使も必要だったことは容易に察しがつきます。ヤマト政権に属さない勢力と激しい戦闘も引き続き起こっていたのでしょう。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』23.震岳に祀られたのは先住者たち!?

2022-12-21 21:05:00 | 景行天皇の記録
【震岳に祀られたのは先住者たち!?】
第12第景行天皇は当初から震岳に八神殿を祀る計画だったと思います。
末広がりの「八」は、古来より神聖な数とされ『古事記』では「多数」を意味します。
また、「八神殿」を調べてみると、これは「天皇守護の神」と言われている神々を祀った神殿とされています。八神、すなわち、神産日神(かみむすびのかみ)、高御(たかみ)産日神、玉積(たまつめ)産日神、生(いく)産日神、足(たる)産日神、大宮売神(おおみやめのかみ)、御食津(みけつ)神、事代主(ことしろぬし)神、を祀り古代日本において国家祭祀の中枢として神祇官が祭祀を司ってきた神殿であるとされ、現在においても宮中三殿のうち「神殿」において祭祀が行われているとされています。
つまり「八神」とは、天皇を守護する神という性格から、古代においてはヤマト王権や産声を上げたばかりの「日本」に安寧や平和をもたらす神々と受けとることができます。

伝説では景行天皇の祖父に当たる第10代崇神天皇が阿蘇大明神に「茂賀の浦」の平定を命じます。阿蘇大明神がほとりに立つと湖の底から八頭の大亀が現れ、俗説ではこの化け物を退治したとあります。また、別の伝説では、景行天皇は、「茂賀ノ浦」から現れた八頭大亀を誅してその霊を「八神」として祀りました。
これらの伝説は、まるで『古事記』における天地開闢神話の山鹿バージョンとも言える内容になっています。穿った見方をすれば、この物語は後世になって『古事記』や『日本書紀』に詳しい誰かが創作したものだと言うこともできると思います。
しかし、この伝説は、この山鹿・菊池地域に古代から伝わっていた原型となる出来事を示していると考える方が自然ではないでしょうか。むしろ、そのような考え方を持つことのほうが普通の感覚に近いような気さえします。

ところで、亀は古来より神聖な生き物として崇められています。亀は「霊亀(れいき)」「神亀(じんき)」「元亀(げんき)」のように年号にも使われています。また平安時代に取りまとめられた『日本三代実録』には肥後国について以下のような記録が残されています。
貞観(貞観)16年(876年)に政治の中心施設である大極殿が火災によって焼失し、当時の清和天皇は自身の進退について悩んでいたところ、現在の菊池市旭志町にある奈我神社で白亀が捕まえられたことが太宰府を通じて朝廷に伝えられます。これを知った天皇は、白亀の出現は次の新しい天皇を祝うめでたい事が起こる前兆と考えます。そして、この一件が清和天皇の退位を促したといわれています。

亀は茂賀の浦に先住していた人々のトーテムであった可能性もあります。トーテムとは、特定の集団、「部族」、「血縁」に宗教的に結びつけられた野生の動物や植物などの象徴を指します。ちょっと違うかもしれませんが、プロ野球チームで例えれば、令和3年に優勝したのは「燕だよね。」と言うようにです。

このように、亀は化け物を指しているわけではないのです。むしろ、神聖さや尊崇の念あるいは先住者の象徴を表現していると捉えるべきと思います。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』22.三輪山に祀られた敗れし神々

2022-12-19 18:36:00 | 景行天皇の記録
【三輪山に祀られた敗れし神々】
一方、三輪山に鎮まる神々は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)です。

さて、ここからは神さま達の話になります。三輪山に鎮まる大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱の神は、一体どのような系譜を持った神なのでしょうか。

『古事記』では、大己貴神(おおなむちのかみ)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟もしくは同格的存在の須佐男命(すさのおのみこと)の6代目の子孫として記されています。また、日向の高千穂に邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から天孫降臨する以前に、出雲で、さまざまな苦難を乗り越えながら少彦名神(すくなひこなのかみ)の協力を得て葦原中国(あしはらのなかつくに)作った神と記されています。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は、少彦名神(すくなひこなのかみ)の神に次ぐ第2の協力者的な存在で、葦原中国(あしはらのなかつくに)の完成を願って三諸山(みもろやま)(現・三輪山)に祀られた神です。

しかし、せっかく苦労して大己貴神(おおなむちのかみ)たちが作った葦原中国(あしはらのなかつくに)でしたが、その繁栄ぶりを見計らったようにして高天原の神たちが国を譲るように迫ります。そして遂に、葦原中国(あしはらのなかつくに)は高天原の神たちの手に落ちます。このときの大己貴神(おおなむちのかみ)たちの無念さはいかばかりだったでしょうか。

そして時代が下りヤマト王権が確立した第10第崇神天皇の時代のときのことです。
国内に恐ろしい疫病が流行ります。このとき、崇神天皇の夢に現れた三輪山の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)のお告げによって、大物主大神の子孫にあたるオホタネコを探し出すと、オホタネコに大物主大神を祀らせました。すると、疫病は収まり、国に平和が戻りました。

大物主大神は、大己貴神とともに葦原中国を作った神です。言ってしまえば、ヤマト王権の前身にあたる高天原の神たちによる敗れし神で、繁栄を見せるヤマトの国に対して強い怨念を抱いていても不思議ではありません。

第10第崇神天皇の行動は、ともすれば日本史における祟信仰(たたりしんこう)のハシリのように捉えることもできます。
熊本出身の民俗学の権威で地名研究の第一人者であった故谷川健一氏は名著『魔の系譜』の中で、日本の王権を支えてきた影の部分を日本人の情念の歴史と捉え、死者、特に政治的敗者の怨念が、死後において生者を支配してきた様相を鋭く指摘したのでした。
しかし、敗者の死後において怨念を感じるのは実は生者です。裏を返せば無念の死を遂げた者に対する強い哀悼の情念が私たちの深いところに存在すると考えることはできないでしょうか。これこそが、私たち日本人に通底する本当の情念のように思うのです。この情念は、大災害で身近な人を亡くした方々が罪悪感を抱く気持ちの根源のようにも思えます。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』21.三輪山山麓で鉄バイオマットを発見!

2022-12-16 21:32:00 | 景行天皇の記録
【三輪山の麓で鉄バイオマットを発見!】
三輪山を下山し大神神社を後にしました。その日は寒波の襲来で北風を強く感じました。登拝中には僅かに雨も混じった時間もありましたが、大鳥居の下まで戻ると西の空は明るくなり天候の回復が期待できました。4泊分の荷物の入ったリュックが肩にズシリと重かったのですが、脚にはまだ余力が残っていました。
一旦国道に出ると車の少ない古い街並みが残る旧街道を進みました。参詣者で賑わっていた神社界隈とはうって変わって静かな道でした。
その旧街道沿いでは、卑弥呼の墓ではないかとされる古墳時代の初期に築造された箸墓古墳(はしはかこふん)が見られます。現在は常緑樹に覆われた箸墓古墳を通り過ぎると視界が開けます。周囲は緩く傾斜した扇状地を利用して作られた田園が広がりました。


箸墓古墳

纏向、三輪山山麓に広がる田園



そして、ふと足下に目を向けると、アスファルト道路の横の水路の底が茶褐色であることに気がつきました。
心臓が高鳴りました。
よく見ると、流れに身をまかせて水草のように揺れていたのは、地質用語でいうところの鉄バイオマットでした。地中から出ている塩ビパイプの口もとはさらに明瞭なオレンジ色となっていて、西日に照らされて美しく輝いてさえ見えます。


水路の水中に生成している鉄バイオマット


近年、民俗学や製鉄技術の分野では、古代の製鉄の始まりは弥生時代に遡るのではと強く主張されています。原料は、ここまで何度も紹介してきた鉄バクテリアによって生成した水酸化鉄が石化した褐鉄鉱です。褐鉄鉱は不純物を含むため融解温度が低く、それを鍛造すれば鉄器が製作できます。しかし、褐鉄鉱は品位が低く酸化腐食しやすいという特徴もあるため、考古学の遺物として残ることはまれなのです。遺跡が残っていないからと言って、製鉄が行われていなかったという証明にはならないというのが彼らの主張です。

地質技術者の目線やこれまでの自身の調査からは、古代の製鉄の始まりは褐鉄鉱を原料とした製鉄と考えるほうが自然のように思えてきます。

三輪山の西南麓には「金屋」という地名があり、付近の金屋遺跡からは前期縄文土器や弥生時代の遺物とともに、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土しています。今回は訪問しませんでしたが、穴師坐兵主神社(あなしいますひょうずじんじゃ)には鉄工の跡が見られるといいます。
大和地方の人々が古代より三輪山に対して尊崇の念を抱いたのは、その秀麗な山容だけでなく水稲耕作に必要な水、その水から鉄器の原料である褐鉄鉱や、その供給元となった鉄分を多く含んだはんれい岩という特殊な山だったからではないでしょうか。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』20.三輪山と震岳・彦岳の地質の類似性】

2022-12-14 20:56:00 | 景行天皇の記録
【三輪山と震岳・彦岳の地質の類似性】
登拝口の急な階段を登りきるとしばらくは緩い尾根沿いを歩きます。足元に散らばる白っぽい長石類を含んだ小礫や土の雰囲気から、この尾根は地質図通り花崗岩系の地質であることがわかります。しかし、最初の標柱がある「丸太橋」付近から地質が一変します。丸太橋の正面の大きな岩に目が留まりますが、その割れた岩肌の新鮮なところは暗緑灰色です。はんれい岩です。三輪山はマグマがゆっくり冷え固まった深成岩のうち、鉄分を多く含んでいる特徴を持つはんれい岩からできているのです。そして、山中にある磐座(いわくら)は全てはんれい岩の岩石や岩盤です。残念ながら、地質調査で使う携帯マグネットペンを持っていなかったので(持っていくつもりが忘れた)試すことができませんでしたが、磁鉄鉱を多く含んだ磁性を示す岩石であったかもしれません。




さて、景行天皇が八神殿を祀った熊本県山鹿市の震岳の頂きに見られる岩石や岩盤は変はんれい岩です。隣の三宮を祀った彦岳は山体そのものが変はんれい岩からできています。変はんれい岩は名前の通りはんれい岩が地下の深いところで変成した岩石ですが、基本的な化学組成ははんれい岩と同じです。パッと見には専門家でない限り同じ岩石にみえます。硬さ、重さもよく似ています。そして、いずれの山も独立峰で、平地からの比高差は震岳が390m、彦岳は330mです。見る角度にもよりますが、どちらも左右対象の斜面が特徴です。さらに、これらの山を広く取り巻いている白っぽい地層は花崗岩系の岩石です。地質の組み合わせも三輪山と同じです。
全くの驚きです。


纏向の地質図
地質図Naviを利用して作成


山鹿の地質図
地質図Naviを利用して作成

ふるさとの纏向を発って数年が経過した景行天皇は、有明海から菊池川を遡ってこの地を訪れたとき、この地域の風景や大地を作る土や岩石を見てどのような思いを抱きになられたのでしょうか。
私ごとき浅学の人間が気付くレベルです。景行天皇の軍勢の中には優秀な侍臣達がいたはずです。彼らの所見や報告を聞いた景行天皇は、この地に特別な思いを抱いたに違いありません。

三輪山や彦岳、震岳(ゆるぎだけ)の頂きを形成する地質は、はんれい岩系の鉄分が多い特徴を持つ暗緑灰色の岩石からできています。鉄分を多く含むということからいろんな岩石の中でも重いという特徴もあります。この岩石は、マグマが深いところでゆっくり冷え固まってできたものですが、分布は極めて限られていて、日本全体の面積に対する比率は僅か1.37%です。
つまり、はんれい岩はそれだけ珍しい岩石であって、その岩石・地質からできている山体そのものが古代の人々にとって特別なものと認識されたとしても不思議ではありません。
三輪山が神体山となったのは、その山容だけでなく構成される地質も深く関わっていたのではないでしょうか。
そして、三輪山とほぼ同じような地質の彦岳や震岳は、霊山としての資格が十分備わっていたことから、両山とも景行天皇に祀られたのだと思います。
山鹿地域の”濃い”景行天皇の伝説の大きな背景の一つは、ここまで説明してきたような、景行天皇の生まれ故郷である纏向と類似した地質であると考えられます。



日本の地質図
はんれい岩系の地質は僅か1.37%




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『景行天皇伝説を巡る冒険』19.景行天皇の出身地、纏向(まきむく)へ

2022-12-12 21:03:00 | 景行天皇の記録
【景行天皇の出身地、纏向(まきむく)へ】
『肥前国風土記』には景行天皇は「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめししの天皇(すめらみこと)」と書かれているように、景行天皇の本拠地は、奈良盆地の東側の三輪山麓の纏向です。ヤマト王権の発祥の地として有力視される根拠となった箸墓古墳をはじめ、古墳時代初期の遺跡や遺物がこの地域で発見されていることで有名です。
そして、その背後にある三輪山の麓には国内最古の神社と言われる大神神社(おおみわじんじゃ)があります。大物主大神(おおものぬしのかみ)が鎮まる神の山として信仰され、現在も登拝については申請が必要で撮影が禁止などの厳格なルールが設けられています。
また、三輪山の山中には信仰の対象となっている磐座(いわくら)が点在し、神社の古い縁起書には頂上の磐座に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、中腹の磐座には大己貴神(おおなむちのかみ)、麓の磐座には少彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まる
とされています。



纏向の位置



纏向遺跡と三輪山


纏向遺跡
桜井市纏向学研究センターwebサイトより


私が大神神社を訪れたのは新型コロナ感染症の第6波直前の暮れも差し迫った令和3年12月30日でした。参道沿いでは既に初詣の賑わいを見込んだ出店の準備が始まっていて、その間を参詣者が縫うように歩いていました。私は登拝の受付時間に間に合うようにタクシーを利用していたのですが付近では渋滞も発生していました。

三輪山は標高467mです。麓の平坦なところの標高は70mなので比高差はおよそ400mです。奈良盆地を取り巻く山としては平均的な高さですが、遠望すると頂上から伸びる左右対象な山裾の傾斜が絶妙です。険しくもなく、かといって穏やかであると表現するのも悩ましいといった具合です。やはり、均整のとれた秀麗な山容との表現がふさわしいかもしれません。

受付を済ませると登拝についての説明を受けなければなりません。入山の心得では写真撮影はおろかスケッチもNGです。当然、草木、土、岩石の採取も禁止事項です。神聖さゆえに裸足で登拝される方々もいます。

奥に見えるのが三輪山、手前は大神(おおみわ)神社の大鳥居


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『景行天皇伝説を巡る冒険』18.伝説のさらなる謎を追って

2022-12-10 20:23:00 | 景行天皇の記録
【伝説のさらなる謎を追って】
山鹿地域に残る景行天皇の伝説にはまだ疑問が残ります。それは、他の熊本に残っている伝説には無い物語の”濃さ”です。そして、その”濃さ”は何かというと景行天皇の山鹿地域での特別な行動であることに気が付きます。

景行天皇は山鹿の地に入ると震岳(ゆるぎだけ)の頂きに八神殿をお祀りになります。その八神殿は景行天皇の祖父にあたる第10代崇神天皇に「湖を乾かすべし」と命令された阿蘇大明神が湖岸に立って「海神、吾を知れりや」と叫ぶと、そこから八頭大亀の魂神が火龍のごとく立ち昇り高天山(震岳)に現れた神とされています。また、俗説ではこの大亀は、景行天皇と阿蘇大明神に退治されています。
その後、景行天皇は震岳に行宮を造営されると土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)との戦いに臨みます。苦戦を強いられますが、天皇の祈りによって彦岳から届いた霊光によって勝利します。そして、景行天皇はその神恩に感謝して彦岳三所に神宮を造立されたのでした。

震岳(ゆるぎだけ)と彦岳(ひこだけ)


山鹿市周辺の地質図


震岳


震岳山頂の八神殿の祠


南側から見た彦岳
中華鍋をひっくり返したような形


彦嶽宮


東側から見た彦岳
左右対照の末広がり持った秀麗な山容


景行天皇は震岳の頂きには八神殿を、彦岳にはお宮を造立されました。伝説にはその理由が一応明示されていますが、まるで荒唐無稽なおとぎ話のようで、文字通りでの理解は困難です。しかし、神話や伝説には真実が含まれている可能性があります。

山鹿地域での景行天皇の行動の理由をひもとくためには、先ず天皇の故郷、つまりヤマト王権の発祥の地とされる奈良盆地の東部に位置する纏向(まきむく)を理解する必要があるのではないかと考えました。纏向には景行天皇の御陵とされる古墳があるのです。
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『景行天皇伝説を巡る伝説』17.菊池川流域の古代鉄器と鉄資源

2022-12-09 21:27:00 | 景行天皇の記録
【菊池川流域の古代鉄器と鉄資源】
一方、菊池川流域に目をむけると、特に茂賀の浦があった菊池平野(菊池・山鹿盆地)の周辺は全て鉄分を豊富に含む地質であることが分かります。
基盤岩の多くはマグマが地下でゆっくり冷えて固まった花崗岩です。花崗岩は平野の北東部の山地を形成しています。平野の西部や菊池川の中、下流域の小岱山をはじめとする山々も花崗岩です。平野の東部や西部の丘陵地は阿蘇火砕流堆積物が分布しています。また、北部には鉄分を多く含む変はんれい岩や外輪山を形成する火山岩類があります。そして南部の花房台地には、阿蘇火砕流堆積物や火山の侵食・運搬・堆積によって形成された砂鉄鉱床が存在します。この鉱床は昭和37年の国の調査で九州最大であることが明らかにされています。


阿蘇と菊池・山鹿の位置関係


地質図
菊池・山鹿盆地を取り巻く地質は鉄分が多い


このように菊池平野(菊池・山鹿盆地)を取り巻く地層には鉄分が多く含まれます。こういった地質の状況から、過去の茂賀の浦には阿蘇の褐鉄鉱床とは言わないまでも、人々が利用できる程度の水酸化鉄の沈澱が生じていた可能性は十分高いと考えられます。とすれば、茂賀の浦の水引きとともに水稲を行った弥生の人々が、阿蘇と同様に、鉄に対して親和性が高かったとしても不思議は無いように思います。そして、そこに舶載品の鉄原料が持ち込まれ鍛治・加工によって鉄製品が作られたのだと思います。

山鹿市の方保田(かとうだ)には方保田東原遺跡があります。弥生時代後期から古墳時代前期(今から約1700~1900年前)に繁栄した大集落遺跡です。現在のところ、発掘調査が行われた面積は、遺跡全体の5%にも達していないと言われますが、100を超える住居跡、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構が見つかっています。また、全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品の金属製品が350点以上も出土しています。


方保田東原遺跡から出土した青銅器と鉄器
山鹿市webサイトより

この遺跡からもわかるように、水稲に適した広範な湿地の出現とともに湿地に生成した鉄の原料となり得る水酸化鉄(褐鉄鉱)の利用、それが鉄器類の鍛治・加工の技術導入の土台となり、引いては菊池川流域の古代の繁栄に繋がったのではないでしょうか。そして、その背景となったのは稲作ができる平野を作り出した地質事象や大地を構成している鉄分を含んだ地質、岩石であったと考えられるのです。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』16.阿蘇の弥生鉄器と鉄資源

2022-12-07 21:54:00 | 景行天皇の記録
【阿蘇の弥生鉄器と鉄資源】
繰返しになりますが、弥生時代の鉄器類の出土数で熊本は全国1位を誇ります。阿蘇カルデラ内の北西部に位置する弥生時代後期の下扇原遺跡からは1522点の鉄製品の出土とともに8軒の鍛冶遺構が検出されました。1000度を超える高温で焼かれたと考えられる鉄滓(スラグ)も出土していますが、磁鉄鉱や褐鉄鉱を原料とした製鉄が行われたという証拠は今のところ見つかっていません。しかし、褐鉄鉱を原料とした赤色顔料となるベンガラ生産の痕跡は各所で確認されたと報告されています。

下扇原遺跡に近接したところに日本で唯一採掘(日本リモナイト(株)が採掘)が行われている褐鉄鉱の鉱床があります(日本リモナイト(株)が採掘)。この褐鉄鉱床は、鉄イオンを溶かし込んだ温泉水が地表付近で酸化されて水酸化鉄となって沈殿したもので、現在もその温泉水から沈殿が続いています。過去には製鉄の原料とされた時期もありますが、現在は吸着性や豊富なミネラルの特性から畜産飼料や脱硫剤、土壌改良剤、脱臭剤として使用されています。また、近隣の湧水からはオレンジ色の水酸化鉄が生成しているのが各所で観察されますが、これらが「赤水」という地名の由来になっています。

図1阿蘇カルデラと布田川断層帯と褐鉄鉱床


図2阿蘇谷における弥生時代の主要な遺跡
『下の原遺跡』2012阿蘇教育委員会より


褐鉄鉱産出地(日本リモナイト)周辺の弥生遺跡
『下の原遺跡』2012阿蘇教育委員会より

考古学では、弥生時代後期において阿蘇カルデラ内の北西地域で鍛冶工房を備えた集落がなぜ形成されたのかについては将来の課題としています。しかし、製鉄の原料になる褐鉄鉱が現在も採掘できるほどに多量に存在しているという事実を見逃すわけにはいきません。当時の鍛冶・加工の原料は大陸からの舶載品と考えられています。しかし、褐鉄鉱を原料としたベンガラの生産が行われていたことを考慮すると、この地域は古代の昔から鉄に対する親和性が極めて高かったと考えられます。こういった地域特性が、鍛治工房を備えた集落の形成の一因ではないのでしょうか。
また、下扇原遺跡からは鉄器類だけでなく、インド・パシフィックビーズと呼ばれる海外で作られたガラス玉も出土しています。当時のベンガラは、祭祀用の土器に塗布するなどの用途もあり、ベンガラそのものが交易品としての価値が高かった可能性が指摘されていて、このようなことも阿蘇地域に舶来品の出土が多い背景と考えられています。
ただ、いずれにしても、この地域から豊富に採れる褐鉄鉱を利用しようと試行錯誤した経験や知識が、後の鉄器の鍛治・加工に引き継がれのかもしれません。また、もともと褐鉄鉱を原料とした小規模な鉄生産があったところに、生産の効率性から舶来の鉄素材に置き換わったとする意見も出されています。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』15.古代の鉄資源

2022-12-05 21:32:00 | 景行天皇の記録
【古代の鉄資源】
菊池川流域が肥後国の中心となった他の地質学的な背景について、さらに踏み込んで考えてみると、そこに浮かび上がってくるものがあります。

結論から言うと、それは「鉄資源」です。

近年の考古学の成果によって熊本県の弥生時代における鉄器類の出土数は全国一位となりました。出土数は1607点にのぼり2位の福岡県をはるかに凌ぎます。これは何を意味するのでしょうか。現在、弥生時代に製鉄が始まったとする考古学的な証拠は見つかっていません。定説では、日本における製鉄の始まりは古墳時代の6世紀中ごろとされています。吉備地方が発祥の地とされ、原料は磁鉄鉱、つまり砂鉄が使用されていました。いわゆる「たたら製鉄」です。そして、この砂鉄を使用する製鉄方法が吉備地方から全国に伝播したと考えられています。

磁鉄鉱という鉱物は、火山岩や深成岩、つまり火山活動に伴って生成した岩石中に含まれます。このため、火山国である日本では磁鉄鉱(Magnetite,Fe304)が古代の製鉄、特に、たたら製鉄の原料として利用されてきました。
一方、世界に目を向けると、製鉄の起源は起源前2000年頃のアナトリア地方に住むプロト・ヒッタイトの人々に遡るとされています。そして製鉄技術はエジプトやギリシャ、メソポタミアの周辺地域からヨーロッパやアジア、北アフリカに伝わっていき、紀元前400年頃にインド、中国に伝わったとされています。そして、ヨーロッパの製鉄で原料とされたのは、鉄分に富む地下水から鉄バクテリアの代謝物として生成、沈殿、堆積した水酸化鉄が固化した褐鉄鉱(Limonite,FeO(OH)・nH2O)でした。

日本は火山国であり火山活動によって噴出した岩石は各地に分布します。そして、それらの岩石には鉄を含む鉱物も含まれていることから、風化によって生成した土壌中にも鉄分が含まれています。これらが雨水によって土中に溶け出して地下水に運ばれ、再び鉄分を多く含んだ状態で地表に湧水すると鉄バクテリアの代謝生成物として水酸化鉄が生成されると考えられています。雨量の多い日本の低地には湿地帯が発達しやすく、このような水酸化鉄の生成が現在も各地で見られ、それらが石化した褐鉄鉱は「鳴石(なるいし)」「鈴石(すずいし)」「高師小僧(たかしこぞう)」と呼ばれています。
このような地質的な背景から、日本における製鉄の歴史は定説よりも古く褐鉄鉱を原料した製鉄が、「たたら製鉄」に先んじて始まっていたのではないかとも言われています。近年、市井の研究者が七輪を用いて褐鉄鉱から製鉄に成功した例も報告されています。


八重山地方の離島で古老から貰った鈴石

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『景行天皇伝説を巡る冒険』14.山鹿・菊池地域の地質事象と伝説

2022-12-03 13:40:00 | 景行天皇の記録
【山鹿・菊池地域の地質事象と伝説】
私は地質や地盤調査を生業としている技術者です。ですので、物事を自分の専門性からいろいろ考えるクセがあります。次は、菊池川流域が古代から中世にかけて肥後国の中心になった理由を地質技術者の目線で考えてみようと思います。

山鹿・菊池地方の菊池川流域が古代の肥後国の中心地となった背景に、茂賀の浦の湖水が引いた後に現れた、水稲に適した肥沃な土地の存在は欠かせません。茂賀の浦の湖水は縄文時代から弥生時代にかけて次第に引いていったことが分かっていますが、具体的にどのような過程を経て引いたのかについては地質学的な課題として残っています。しかし、一説には菊池平野南縁で崖を形成している断層活動(地震)によって発生した鍋田付近からの決壊が原因ではないかと考えられています。これは、先の伝説でも紹介したように、景行天皇を出迎えた阿蘇大明神が鍋田の石壁を蹴破った話しを思い起こさせます。



盆地の南縁が活断層かもしれないと考えられています。
中原 英『太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』p.35
筆者も活断層ではないかと疑っています。


類似した話は阿蘇神話伝説として名高い健磐龍命(たけいわたつのみこと)(阿蘇大明神)の蹴破り伝説が有名です。日向の国から肥後に入った健磐龍命(たけいわたつのみこと)(阿蘇大明神)は湖水を湛えた阿蘇谷をご覧になり、この水を流して広い土地を拓くことによって米が取れる豊かな国を作ろうとお考えになります。命(みこと)は地形をよく観察なされカルデラの西側に位置する立野の火口瀬をひと蹴り。湖水は西方へゴウゴウとすざましい音をたてて流れていったという伝説です。

立野付近には2016年4月の熊本地震を引き起こした「布田川断層帯」が通っています。布田川断層は宇土半島から益城町を通って南阿蘇村へ連なる活断層ですが、今回の熊本地震の発生によって阿蘇カルデラ内にまで伸びていることが分かりました。阿蘇カルデラに過去に湖が存在していたことが分かっていますが、湖水の流れ出しの原因は断層の活動であることが有力視されています。

「布田川断層帯」Wikipediaより

茂賀の浦から水が引いた原因を考えるための引き合いに、阿蘇の蹴破り伝説と地質事象である「断層」の関わりを挙げましたが、菊池川流域が肥後国の中心となった他の地質学的な背景について、さらに踏み込んで考えてみようと思います。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』13.”濃い”景行天皇伝説

2022-12-01 20:08:00 | 景行天皇の記録
【″濃い″景行天皇伝説】
そして、それらをまとめたのが先に紹介した各地の伝説や伝承です。調査を行なって先ず驚いたのが、その数の多さです。これは江戸時代の末期に盛んとなった尊皇思想も背景にあるのではないかと思われます。特に、八頭大亀についての伝承は、天皇の神威を高める物語として後世に創作されたものと考えることも可能です。そこで、八頭大亀について様々な方の力を借りて調べたところ、天理大学の図書館に所蔵されていた江戸時代の古文書に吉田神道の卜部兼敬が記した『八頭大亀本記(やずおおがめほんぎ)』を見いだすことができました。天理大学図書館に問い合わせ、それを複写して入手していますが、残念ながら私の力では解読できません(どなたか解読して頂くと助かります!)。

『八頭大亀本記』の冒頭部分

『八頭大亀本記』の巻末部分
卜部兼敬にあまり画才はなっかのかも



『八頭大亀本記』を著した卜部兼敬が主宰する吉田神道とは、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派です。朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授けました。また、神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていきました。
そして、江戸期には、徳川幕府が寛文5年(1665年)に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置こうとします。
しかし、熊本では、元々朝廷と繋がりが強かった阿蘇神社はこれに反発していました。また、国学者の本居宣長の門人となり、熊本藩に国学を伝えた帆足長秋は、三玉地区にある一目神社の神職であったのですが、官位は吉田家ではなく別の公家である鷹司家の執奏によって官位を受けています。

このような吉田神道の熊本における不人気ぶりが何を意味するかわかりません。ただ肥後熊本、特に、県北の山鹿•菊池地域は中世の菊池氏の繁栄に依拠した「南朝」寄りという思想的な背景が、武家の力を巧みに利用して成りあがった卜部家(吉田家)の神道を嫌ったのかもしれません。
ひょっとすると、卜部(吉田)兼敬が『八頭大亀本記』を記したのは、熊本で吉田神道の神威を高めるための謀略であったのかもしれません。
そういうふうに考えると、八頭大亀の伝説は荒唐無稽な物語と受けとられても仕方がありません。

しかし、火のない所に煙は立たないのと同じように、山鹿地方には原形となる伝説があったことは十分考えられ、吉田家がこの伝説を巧みに利用しようとしたと考える方が自然なような気がします。
また、一介の地方神職に過ぎなかった帆足長秋(三玉の一ツ目神社の神主)が、『古事記伝』を記した本居宣長の門人となって日本の古代について勉学を深めた動機も、本当のところは、県北に残る〝濃い″景行天皇の伝説の存在がその発端ではなかったのかという気がしてなりません。

山鹿市西牧地区には、景行天皇が腰をおろしたとされる帝石(みかどいし)が残っています。この石は、安土桃山時代に里人によって末代の記念にすべきとして蓮照寺と菅原神社に安置されたもので、現在も地区のシンボルとして尊崇を受けています。
現地に足を運んでこのような事実を目の当たりにすると、景行天皇に対する崇敬は正真正銘であり、景行天皇の存在に疑いを挟むことはむしろ無礼ではないかと思ったほどでした。

蓮照寺の帝石(みかどいし)


太平洋戦争で辛い経験を重ねた大先輩や戦後教育の中で唯物論を信望してきた方々にとって、勤皇思想は極めて受け入れ難い考え方であることは理解しています。しかし、それを差引いても余りある精神世界が私たちの心に根付いているのではないでしょうか。

このような視点からみると、山鹿地域に伝わる景行天皇の伝説は、他の地域と比べてその”濃さ”が一層際立っているように思われます。そして、それらが山鹿灯篭に代表されるような伝統ある重要な文化遺産に繋がっています。また、戦国時代末期の兵火が無ければ平安時代に建立された国内七大伽藍と称されるような壮大な寺院が三玉の霊仙地区には残っていて、今とは全く異なる様相ではなかったかと想像されます。
伝説の”濃さ”やその後の山鹿の発展からもわかるように、おそらく古代から中世にかけては菊池川流域が肥後国の中心だったと思われます。
「三玉」という地名の本来の由来については長らく忘れられていましたが、自身の調べでその由来が1500年以上も遡る景行天皇の九州巡幸に因んだものであることを知ったとき、神話や伝説には真実が含まれている可能性についてもっと検討しなければならないのではないかという気持ちになったのでした。
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