1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×11『応援演説3』

2013-01-14 21:13:43 | 雑談の記録
演説が終わった。最後は無我夢中だった。拍手の中、僕は逃げるようにして、袖を通り抜け楽屋に戻った。と言うより本当に逃げ出したのだ。しかし、その途中、控えの椅子に座っていた若手の参議院議員がボクの手をギュッと握りしめたのっだった。通路に出ると岩下先輩がいた。岩下先輩は涙ぐんでおり、ボクの手を握ると一言、
「良かったぞ!」
と言った。僕も先輩の手を強く握り返し、礼を言ったように思うのだが声になっていたかどうかわからない。通路で出演者の案内をしていた女性スタッフがやはり涙ぐんで「感動しました!」と言って深々と頭を下げた。
しかし、何が良かったのか?何に感動したというんだ?解らなかった。ただ、演説の後半に湧いてきた激情とも言うべき感情の大波に自分が完全にのみ込まれていたのは事実だった。もがき苦しみながら現実という水面にたどり着きたかった。
楽屋で一人になった。フェイスブックのコメントに友人からのメッセージが入ってきた。どれも嬉しいはずのメッセージばかりだったが、本心は別の所にあった。
オレは、いったいナニをやっているんだ!?
楽屋のスピーカーから保育士の優しい声が聞こえてきた。続いて、三原候補の声が聞こえてきた。
感情の波が襲いかかってきた。涙が溢れてきた。
もし、同級生に三原がいなかったら、果たしてこんなに政治に強い興味を持っていただろうか?勝山がいなかったら、こんなに選挙活動をしていただろうか?政治に関心はあるものの評論家気取りではなかっただろうか?いや、ひょっとすると無関心をカッコいいと勘違いしていたのではないのか?
僕は黄城高という高校に進学し、友人達と出会いたまたま三原と出会ったに過ぎない。そんなヤツが、、、それが現実なのだ。
恥ずかしさと情けなさが自分を占めていった。作業着の袖が涙であっと言う間に変色していった。張り巡らされた楽屋の鏡に何人もの醜い自分が映っていた。そして、楽屋はどこまでも明るく全てを照らしていた。
集会は続いていたが僕は我慢できずに楽屋を抜け出した。最後まで楽屋に残り松中議員や他の議員にも挨拶すべきだったが、それより外の空気を僕は求めていた。
一刻も早く集会が終わり、気の置けない仲間たちと飲みに行きたい!
喫煙所で、会場の外に出てきた人達と長引いている集会の愚痴をこぼしあった。
友人達が出てくるのを待っていたがなかなか出てこなかった。そのうちに、以前息子が世話になっていた野球チームの関係者や保護者の男性に目が留まった。懐かしさのあまり後姿を追いかけて声を掛けたが、褒めの言葉を聞かされるだけで、僕は恐縮するだけだった。
友人達がようやく外に出てきた。褒める友人もいれば、貶す友人もいた。やっといつもの「自分」に戻ることができた。
十数人の友人達と連れ立って繁華街の居酒屋に行った。その日の飲み会は東京から来た松永君の歓迎会でもあった。それほどの酒量ではなかっが随分酔ってしまった。
トイレに立ったとき勝山と一緒になった。
「今日の演説、よっかたぞ」
日ごろ、厳しいことばかり言っている勝山がそんなことを言った。いつもの自分だったら、ウルセェ!っと言い返したと思うのだが、疲れのせいもあり感情が昂ぶっていたのだと思う。
泣けてきた。
「、、きつい、マジで、きつい、、オマエがいるから、、なんとか頑張れる、、、」
「、、俺だって、きつい、だけど、オマエが、オマエがいるから、、俺だって、、」
勝山も泣き始めていた。
「ヒガシ!ヒガシ!俺たちには夢があるだろ、本物の政治家を作るぞ、子供たちのために!ヒガシ!あと一週間だ、、一緒に走り抜けるぞっ!、、」
僕は勝山の胸に頭をうずめた。それを勝山はしっかり受けとめた。
間仕切りされた部屋に戻ると入口付近には元柔道部の門田が座っていた。門田は僕をいきなり引き倒すと力一杯抱きしめた。
入学したての頃、門田は大きい体を利用して教室の後ろで友人達にプロレス技を掛けていて僕はその餌食の一人であったが、人の温もりを身をもって感じていたことを門田にハグされながら思い出していた。その頃の我が家は父母が別居中で「家庭」は目茶苦茶だった。今、思えば心に深い傷を負っていたことは間違いないのだが、その傷を仲間に見せることはなかったように思う。ただ、当時の自分にとって、唯一、傷の癒える場所は学校と仲間だった。
居酒屋では、同級生と共にいつものようにズブズブに酔ってしまっていた。
いつの間にかタクシーに乗っていた。運転手に何度も大丈夫ですかと聞かれていたように思う。ただ、車は我が家に向っているようだった。運転手に最後の力を振り絞って言った。
「、、民自党の三原候補の事務所に寄ってもらえますか、、、」
集会が終わったあと、松中議員に挨拶していなかったことがどうしても心残りだった。ずいぶん遅い時間だったが、いつもだと議員団が打合せをしている時間だった。事務所は眩いばかりの明るさだった。スタッフは大勢い残っていたが松中議員の姿は見当たらなかった。僕は事務所奥の黄城高のブースにヨロヨロと歩いて行った。
ブースの壁には三原候補にメッセージを送るための模造紙が貼ってあったが3枚目の新しいそれにはまだ空白があった。酔った勢いでメッセージを書いた。
「みんなありがとう」
書き終わると、机の上に森尾がダンボールごと差し入れした大量の缶コーヒーに目が留まった。運転手に持っていってあげよう。しかし、それだけを持っていくのも何だか憚れると思ったので、持てるだけ持ってスタッフに配ってから表に出ることにした。
運転手は車を降りて僕の戻りを待っていたが、玄関を出るころにはスタッフに配り切ってしまい手ぶらになっていた。僕はコーヒーが切れたことを詫びて車に乗った。年配の運転手は、昔から家族全員で民自党をずっと応援していると繰り返し話していた。
家に着くと妻がパジャマ姿で起きていた。
「広太郎、腰を怪我したみたい、キャッチャーをやってて、フライを取ろうとして突っ込んでったときに、、、」
妻は簡単にそう言うと寝室に戻っていった。
酔いが一気に醒めていくのがわかった。シャワーを浴びる必要があった。直ぐにでも息子を起こして状態を確認したい衝動にかられたが、遅い時間だった。最悪のことを考えた。
腰椎分離症だ。つまり、腰骨の疲労骨折の一種だ。13歳から15歳の成長期のスポーツ少年に起こりやすいとされる障害だ。息子は「戦績」を代償としながらこれまで様々な怪我を負いそれを克服してきた。そして、次に起こる怪我として、以前から腰椎分離症を想定していた。また、そのリスクが高いことも息子には日ごろからしっかり言っていた。そういう意味において怪我への「準備」はできていたが、またしても、息子を守れなかったことが悔やまれてならなかった。
しかし、実際の損傷具合については、病院に連れて行き判断を受ける以外になかった。もしかしたら、背筋を少し捻った程度の軽傷であることも十分考えられたからだ。頭の中で重症なのか軽傷なのかの堂々巡りが始まり、決起集会の長い12月9日は終わったのだった。


続く、、、
コメント
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