1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

原発をハードボイルドに考える

2012-05-28 23:35:56 | 雑談の記録
この夏、原発の運転停止に伴う電力不足が懸念され、節電が奨励されている。いや義務づけられているのかな?。
原発の運転の可否についての言説、またはその不・必要論が多方面から聞こえてくるようになって久しい。そのような中、エライ人たちは、冷静に理性的かつ合理的に判断をしなければならない等とエラソーに言っている。また、思考停止に陥りやすい「推進」or「反対」のニ項対立型による考え方はアブナイまたは忌避すべきだとも言ってらっしゃる・・・ように聞こえる。


さてさて、しかししかし、「冷静に理性的かつ合理的に」とは一体ナンナンダ?マジで!

ということで、今回は、原発について感情的かつ不条理に熱く語ってみたい。

今から20年ほど前のうら若き学生時代に遡る。
実習の一環で原子力発電所を訪問したことがある。
作業着の技術系社員に引率されて、施設内の見学をしたように思うけど、当時はまだピヨピヨの学生なワケで、車と女にしか興味がないようなアホだったから、どこに行ってもソッチ方面のチェックが先になってしまうのである。であるからして、ゲンパツで働く「女」とは如何なる「イキモノ」なのかという発想で、発電所内を観察してしまうのである。だから、社員の話しなんてソッチノケなのである。読者諸兄の好きなアッチの毛ではない、そっちのけである。発電ではなく発情しているのである。発情こそが若者にとっての発電エネルギーの核燃料棒として重要なのである。
そしたら、異変に気が付いたのである。

「オンナガオラン!」

別にオンナなら誰だっていいワケじゃぁないけど、場違いでキレイな女性を期待していたワケでもないけど、ただナントナク「女子社員」という響きを持ったそういう女性を見たかった、あるいは機会があれば話してみたいという欲求があったのだ。しかして、その淡い期待は見事に裏切られ、汚れた欲求は満たされなかったのだった。それは怒りに似た感情を当時のボクに引き起こしたのかもしれない。発情しているオスは、なにかとケンカっぱやいのである。

会議室に戻り質疑応答の時間になった。
「あの~、施設内で女性の姿が全く見れなかったんですけど、ナンデですか?」
歯切れの悪い答えに、ついつい、キツイことを言った。
「女性にとっては都合の悪い施設ってコトなんですか?」


ナルホド、原発は「男の世界」なのであった。女人禁制なのである。
おそらく、その「世界」は今日もあまり変わりがないと推察される。

以下、男の世界について述べてみる。
私が「男の世界」などと発言すると、アッチの世界を想像する諸兄もいると思われるが、今回はハードボイルド的にコトを進めたいと思っている。しかし、「男の世界」により創出された原発問題を救うのは、ひょっとしたらオネェ系とか草食系とかの男気系族から見れば辺境の地に安穏と暮らしている人々かもしれないと思うのである。
しかして、私は14、5歳くらいまでは大藪春彦、落合宣彦、コリンズとかに傾注していて年間を通じて24時間の殆どを早熟男気系の一員として生きていたように思う。その頃までの経験をもとに「男の世界」に迫っていきたい。

「男の世界」は、いたって簡単な世界から成り立っている。
説明は二つのキーワードで十分かもしれない。
パワーとコントロール、力と支配だ。
この「力と支配」というテーマは時に一大ムーブメントとなり、我々を面白くない感動の世界へ放り込んでくれたりる。フィクションとしては「白い巨塔」がその代表で、ノンフィクションとしては「争うは本意ならねど(木村元彦著)」に出てくるJリーグドーピングコントロール委員会がその好例である。
そして、この「力と支配」はスケールに違いがあるものの馴染み深いものであることを我々はよ~く知っている。男が数人集まればその中に必ず序列が生まれ己の立ち位置を意識し始める。小学生であろうが介護施設の老人だろうがコトは同じである。その中では必ず「力」を誇示しようとする力が働く。小学生の場合、その力とは腕力でありゲームカードの種類や枚数であり学業であったりする。老人の場合はさらにわかりやすい。ある一定の年齢を過ぎると長生きという事実こそが力の誇示になっていたりするのだ。40代の我々などは自分の年齢をついつい忘れがちだが、年を重ねた人物ほど己の年齢をよく把握しており、しかもそのことを会う度にイチイチ話題にするのだが、そのような行為がナニヨリの証拠と言える。つまり男というものは、時、場所を選ばず力の誇示を一義的に考えながら生活をしているイキモノなのである。また、その力を誇示しつつ磨きを掛けながら上位進出を目論んでいるのである。場合によっては上位者を一撃で葬り去るための画策について妄想し、一部の忍耐強い者はその計画について時間をかけながら人知れず実行し「力と支配」という甘い果実を手に入れているのである。ただ、その場合の多くは失敗に帰し、冷水を浴びせられ、「不当つまはじき!」、「不当村八分!」、「不当処分!」、「不当給料カット!」、「不当解雇!」などと叫びながら死の淵へ後ずさり、結局はその奈落へ決死のダイブということになるのである。バンジージャンプなどの女、子供のための生優しい遊技ではない。非常用のパラシュートなんて持ち合わせていない。あったとしても、間違いなく追い剥ぎされているワケだから丸腰状態なのである。重力は一方通行しか許さないのである。ダイブしたが最後、自身の醜い体重が凶器となって奈落の底が迫ってくるのである。
グシャッ!。
力の無い男あるいは力を失った男は哀れな末路を辿るのである。男共はそのことをよ~く知っている。だから老害と言われようが破廉恥と言われようが男は自分の呼吸が止まるその日まで、その力にしがみつこうともがくのである。全くみっともない話しなのだが・・・・。
ドコかの大統領のようであり、ドコからの政治家のようであり、ドコかの親戚のようであり、ドコかの会社の上司のようである。
かように男とは「力」に寄り添うことでしか生きていけない悲しき軟弱なイキモノなのである。であるからして、彼らは「力」にこだわるのである。一方でそのことは、男の身体に深く埋め込まれている男気系装置が寸分違わず完璧に、そして確実に作動していることを意味している。(くどいようだが電気系装置ではない男気系装置だ!)しかし、各種装置には型式型番があるように、男気系維持装置にもそれぞれの個性があり出力のベクトルと強度が異なっている。また、その装置の肥大化が身を滅ぼす一因になりかねないと考えるムキもあるのだが、そうした好例の研究対象として「小沢一郎」が存在しているように思えるのである。かくして男気系装置の恒常的作動が「力」へ走らせる原動力となっているのである。
しかし、「力」とは一体なんなのであろうか。
ぶっちゃけ言ってみる。人格を否定されようが構わない。死に損ないのデキソコナイにそんなものは怖くないのである。だからぶっちゃけ言ってみる。ハードボイルド的に。
愛と平和の対極に位置するソレである。
「暴力」である。
暴力に繋がる力、暴力を助長する力、暴力を鼓舞する力、暴力そのものである。暴力性でもいいかもしれない。

「今から始めたい趣味はナニ?」
と問われたら、「居合い」と答えることにしている。
昔から刀に強く惹かれている。日本刀図鑑みたいな本も持っている。
しかし、ボクは護身用などと言ってアーミーナイフをカバンに忍ばせている32歳アルバイトのようなバカたれではない。このようなバカたれは、ナイフを忍ばせて歩くことで己が力を持ったと勘違い、あるいは、錯覚しているのである。その気持ち、判らないではないが使い方を誤ってはならない。いや誤ってなどいない、そのバカたれはアーミーナイフの意味を十分理解した上で、その性能を遺憾なく発揮させるべく使用したに過ぎない。使用する場所を間違ったのだ。東京メトロ副都心線渋谷駅構内での使用は誰がなんと言おうとNGである。
しかし、アーミーナイフなどの殺傷能力の高い武器であればあるほど、それを使いたくなるものである。その正当な使用こそがその武器に対する礼儀ではなかろうかといった錯覚さえ生み出すのである。昔の三流マンガにはよくあった「血に飢えたナイフ」等々。我々はそういうことを十分認識している。であるから銃砲刀剣類所持等取締法があるのである。

いよいよここで原子力の出番である。
原子力。
コイツが作り出すパワーはスゴイ。
原子力の出自は確かに「正当な科学」ではあるが、その最初の使用は「暴力」であった。敢えて言わせてもらうならば、その後の「平和利用」などというテイのいい文言は、暴力装置としての原子力のカムフラージュのためにあったと思うのである。また、日本ならではのことだと思うのだが、平和利用については「原子力」、暴力(武力)利用については「核」などと使い分けている点は非常に興味深い。しかし、ここ最近に至っては、原子力発電所が軍事における安全保障上の抑止力となっているなどと一般人や新聞社主筆もカンタンに口にできる風潮を鑑みると、今後は「原子力」と「核」の使い分けにそれほどの意味はないのかもしれない。

ちょっとまたミチクサになるが、「暴力」について考えてみたい。微妙な話しなのでここでは予防線を張る。私は「暴力」の専門家ではないため正しいことを言っているとは限らないことに留意願いたい。ド素人のドアホ考察である。
暴力はダメである。特に個人の暴力はダメである。何人も暴力により人を傷つけてならないのである。
ある一面において暴力からの逃避は可能である。しかし、暴力に抗うための最終手段はどうしても暴力に頼らざるを得ないと思うのである。「正当防衛」という言葉があるが、「防衛」は「正当」な行為のはずだから、暴力に抗うための暴力行為について「正当防衛」などと、イチイチ「正当化」する必要は無いと思うのである。防衛しているだけなのだから・・・。
ところで、最近、めっきり見ることが少なくなった殴り合い。しかし、これを例にみると、すでに始まっちゃっている場合、どちらが攻撃でどちらが防衛なのか判らないではないか!。
要するに、暴力は、応酬し合う暴力に発展し、両者あるいは多くの者を致命的な状況に追い込んでしまう。また、力量に絶対的な差がある場合は、「正当防衛」は極めて困難である。
このような暴力が社会に良くないことは明らかである。コミュニティ全体の不利益に繋がるからである。子供だって知っている。家庭内暴力はダメである。校内暴力もダメである。飲酒による市職員の暴力もダメである。市長が禁酒令を出すほどである。
ところがである。
コミュニュティの最高位に鎮座する国家にはそれが許されている。
「暴力」と「武力」をごっちゃにするなと指摘されるかもしれないが、これはごっっちゃにできる事象に思えるので、話しを進めることにする。
暴力団が容易に暴力を奮う、あるいは暴力をタテに威力的に振る舞えるのは、彼らのコミュニティの最高位が「組」にあると肌で感じているからではないだろうか。クミニュティだったりして・・・。冗談はさておき、彼らは「組員」として暴力を働いており、それを威力にシノいでいる存在なのである。
歴史においても、そのようなことが言えると思う。昔は、小国家や小民族、宗教派閥や部族などがコミュニュティの最高位にあって、これらのコミュニュティ間の争いが絶えなかった。そして暴力の権利は、勝利し肥大化した新しいコミュニティに委譲され、相対的に小コミュニティとなった組織からはコミュニティの安定化を図るため剥奪されるのである。このような経過を経て暴力は強化・肥大化し、やがて国家が所有する軍事力へと発展したと思うのである。
だから、暴力や武力、武装化を欲するのであれば、自分が所属する最高位のコミュニティを脱出するか、あるいは都合の良い最高位のコミュニティを創出すればいいのである。そうすれば、暴力は本人の中で簡単に正当化でき他のコミュニティを攻撃できるのである。
オーム真理教のテロは正にそれに当たるだろうし、優秀な暗殺者が国籍不詳というシチュエーションがマンガや小説に多いのは偶然ではないのだ。
だから、暴力的な人物にはコミュニティの最小単位となる「愛」という名の絆が必要なのである。なんかグダグダになってきた。

話しを核に戻す。
つまり何が言いたかったかっていうと、「原子力」は暴力の最右翼にある魅力的な「力」であるということである。どんなに「平和的利用」と12歳の乙女顔で言おうが、「原子力」には暗い影がつきものなのだ。まるで20代後半から現れるてくるシミのように拭おうとしても拭えないものなのだ。それを消そうと厚塗りすればするほど、その存在が疑われるようなものなのだ。そうやって騙してまでも「核」は魅力的なものなのである。
「原子力」を扱っている人間は、心中「核」を扱っている暗い喜びを感じているはずであり、そのコミュニティに属する我々でさえ「脱原発」と言いながら心のどこかで原子力技術を保有している優位性を感じているはずである。
しかし、その一方で、ということになる。
我々はFUKUSHIMAを経験してしまったのである。
FUJUSHIMAは、その魅力に取り憑かれたムラ人によって引き起こされた事故ではあるが、原発を容認してきた我々にも責任があるように思う。ムラ人たちには原発管理能力は無かったのにである。安全神話など本当のところは信じていなかったのにである。
以前、記録したことだが、あの地震が起こったとき関東地方の原発所在地を調べなければならないという衝動にかられ、同僚の山ちゃんと調べて「福島、ヤバシ、日本、ヤバシ」と思ったのだった。つまり、日本はアミーナイフを所有する技能も技術も持ち合わせていなかったのを我々は知っていたのだ。日本は護身用に持っていたナイフで、転んで自らの腹を刺してしまったバカたれなのである。32歳のアルバイトより馬鹿だったのである。我々は逮捕されるべきなのである。

しかし、我々が逮捕されようとも刃渡り30cmのアミーナイフは存在する。
懲役刑期終了後、我々はナイフをまた手にするのか、手放すのか。
ナイフを手にしたいのであれば、そのナイフに見合った相応の技術と体力を身につけなければならない。相当の覚悟の上に、そして、それを奪われて喉元に突きつけられる前に。
一方、ナイフを手放すのであれば、身の保障と引き換えに安全保障の経費を支払って高次のコミュニティに属さなければならないのである。

感情的に不条理にハードボイルド的に考えてきたら、原子力はエネルギー論という化粧姿で議論できるものではないというところに行き着いてしまった。
ウ~ン。
「脱原発依存」かぁ~。
2030年の依存度は15%くらいがいいかもね。
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40代 カラダの変調

2012-05-19 11:05:34 | 雑談の記録
過日、滋賀県在住の同級生が帰熊した際の飲み会の席で、適量のアルコールがボクの身体を乗っ取って口走らせた事案について記録しておきたい。

適量のアルコールであるからして、タガが緩んでいつもの如く男色化?したという内容ではない。適量のアルコールであるからして、泌尿器系の話題なのである。読者諸兄には、今回の記録を読むにあたって、適量のアルコール摂取をお勧めしたい。素面では、ちょっとイタイ話しなのである。アナタの泌尿器系がイタムのを意図しているワケではないが、ソレに陥った場合も想定されることから、ソレを和らげるために備えてもらいたいという兄心(このかみごころ)なのである。


Hについての話題である。もとい、「H氏」についての話題であると記したほうが適当である。H氏は1969年生まれの43歳。氏は日本人の40代男性を平均化したような人物である。平均的家庭に生まれ育ち、平均的身体で平均的学力を身につけ、平均的職場で平均的所得を得、平均的家庭を持ち平均的生活を送っている人物である。しかし、氏には平均的でないものが一つあった。氏の話によれば、それは日本人平均の2倍以上だとか。

夜の営み回数である。

日本人のソレについて多くの開陳はなかったが、氏は、これまで自分と細君の間で交わされるソノ回数について特段の意識はなかったとのこと。ところが、イタイ事象(自傷?)を経て以来、ひょっとしてソノ回数に問題が潜んでいるのではないのかと思ったとか、思わなかったとか・・・・。

さっそく本題に入っていこうと思う。

氏はそのイタイ事象について語ってくれた。

「そのイタミは、今となれば、静かに、乱れなく着実にやってきてたように思う。まるで、満ち潮のようにさ。貝掘りに夢中になってたら、いつの間にか潮が迫って、帰りの浅瀬が消えてしまって、一人孤立したような感覚に近いかもしれないな。気が付いたときには、もう手遅れかもしれないって危機感と、イヤ、まだ間に合うというっていう根拠の無い期待感。いずれにしても孤独感ってやつが一番なんだけどね・・・。広大な干潟に、一人、取り残されてしまったような・・・、ま、そんなかんじさ。」

「そんな例えはどうだっていいんだよ、具体的に、グタイテキニ・・・」

「1月の中旬ぐらいだったかな、なんとな~く、チン先がムズカユイ感じがあって、チンポジを正規の位置に戻すフリをしながら、チン先をチョイ掻きするみたいな・・・、そんなのが始まりだったような気がするなぁ~」

「それで」

「それで、そんなのが何日が続いてたんだけど、夜の営みペースを崩すワケにもいかんだろ、それでいつものようにコトに及んだというワケさ」

「それで、それで」

「まぁ、そのときのコトの次第ってヤツの程度はM7レベルで、そのときは、ナニもなかったんだけど、翌日になってイタミ似たカユミを感じるようになってね、まぁ、しかし、夕べの営みがM7ならそういう違和感もありかなって思って、その時点では気にはならなかったんだよ・・・、ところが・・・」

「・・・ところが、どうしたんだよ・・・」

「次の営みのときに、イタミがやって来たんだよ、挿入のときにヒドク抵抗を受けてるってかんじでさ、そして、快感と同時にイタミも増幅していく感じなんだよ、つまり、それは感じる部分とイタミの部分が違うってこと意味すると思うのだけど、上昇期は明らかに快感が勝っているから、絶頂を迎えるべくどうしても頑張ってしまう。しかし、発射時に、それは予期せぬカタチで逆転したんだ。腰が引けちゃったもん。自分のアソコがバクハツしたのかって思うくらいのイタミだったぜぇ・・・ワイルドだろぉ~」

「いいよ、スギちゃんのマネは、・・・それで」

「イタミから察するとチ○コで何かが起きたことは明白なんだけど、ソレを肉眼で確認する勇気はなかったんだ。そのためには明かりを点ける必要があったし、イタミの発生箇所は根茎部分で外傷的なものであることは、これはもう明らかだったし、ヒドイ場合には否が応でも明日の朝には判明することだし、しかし、その日はナニヨリそんなイタミのことはさっさと忘れて眠ってしまった方が得策に思えたんだよ。明日になればそれはナニかの間違いだったってこともあるかもしれないという期待もあったから。だから、その晩は、細君にもナイショだったんだ。」

「要するに、イタミにビビりまくって、原因究明を先送りしたってワケね」

「うん、まぁ、そういうことかもしれない。・・・それで、翌朝、調べてみたんだ。短小萎縮化した朝のチ○ポは見た目は普段と大きな違いは無かったんだけど、指で周囲をなぞっいくと裏側にイタミの部分が発見できたんだ。確認するためにソレを裏返してみた。そしたら、その部分は周辺とは明らかに色が異なっていて、やっぱり赤く爛れているというか、トニカク、普通では無かったんだ。そして解ったんだ!」

「ナニが!」

「短小萎縮してる場合、根茎部分には、いくぶん皺がよってるよな」

「あ~、そうなってると思う」

「で、赤くなってるその部分をぐっと伸ばしてみたんだよ、すると、その皺で刻まれた深い部分がほんの僅かだけど、パックリ裂けてたんだよ。なんて言ったらいいんだろう、酷い手荒れで指の関節部分がアカギレしてるような、そんな状態に近いかな・・・」

「ウワッ、そりゃ痛そうだなッ」

「たぶん、昨晩のイタミは、ソコが裂けたときのイタミだったんだ。裂け目を触ってみたんだ。・・・痛かったぜぇ~、ワイルドだろぉ~」

「・・・ワカッタヨ・・・」

その後、H氏は細君に相談した上で、対症療法としてオロナイン軟膏を塗布したりしたそうだ。キズの治癒には10日前後が必要で、従って、夜の営みも10日に一度という具合にペースダウンを余儀なくされたとか。しかし、根本解決に至ることはなく、裏側が治れば今度は表側がというようなことの繰り返しだったそうだ。
そして3月の初旬になり、同級生との集まりの際、H氏は、弁護士のI氏に思い切って相談したのだった。ナニシロ、I氏はその所有物の大きさで有名なだけではなく、司法試験の浪人時代にその身体的特徴を遺憾無く発揮すべくAV男優も務めた御仁であり、さらに珍事に精通していらっしゃるのである。
答えは簡潔明瞭であった。
主文である。

「そぎゃんとは、ようあるこった、気にせんほうがええバイ」
I弁護士の堂々たる返答に対してH氏は頭を深く下げたそうだ。

「なんかね、無罪放免を言い渡されたような気分になったとよ。」

「・・・お前、馬鹿じゃ!・・・」

気分やなんかでそのようなイタミが消失できるとは考え難いことであるが、トニカク、H氏は泌尿器科に掛かる前に、あと一ヶ月だけ「病は気から」を細君の了承を得て信じることにしたのだった。

果たしてI弁護士の言葉は「良薬」であったのか「呪文」であったのか。
4月に入るとそのイタミは静かに潮が遠のくように消えていったのだった。そしてナントカ5月の夜の営み回数は日本人平均の2倍以上にまで回復できたそうだとか。
しかし、H氏は、そのことを無邪気に喜ぶ細君をよそに、早々簡単に合点できかったそうだ。・・・再発の不安が残る・・・。

しかし、そんなある日、H氏はたまたまネット報道でその記事を見つけてしまった。
「自転車は体に悪い-性的能力の低下、排ガス被害、骨粗しょう症の原因に-」
日経ビジネスオンライン 2012年5月7日
自転車愛好の読者諸兄のために、以下、抜粋する。

-自転車はセックスの敵か-
米国では、警察官、救急隊員など約4万人の男性公務員が長時間自転車に乗っている。大都市の交通渋滞が深刻化するにつれて、緊急業務の自転車利用がますます増えている。彼らの間から、さまざまな性的トラブルが報告されている。とくに、毎週25時間以上も乗る人には、「性器が鈍感になった」「勃起しにくくなった」「睾丸(こうがん)が慢性的に痛む」など性的な能力低下の苦情が多発している。
米国労働安全衛生研究所(NIOSH)は数年来、自転車の健康影響を確かめるために、とくに訴えの多い全米自転車警察官組合員ら長時間自転車に乗る人を調査してきた。その結論によると、生殖器への血流が滞り性的能力が低下し、陰嚢(いんのう)に違和感があるなどの影響の出る可能性が高いことがわかった。
実際に鼠蹊部(そけいぶ)にかかる圧力をはかってみると、自転車を漕いでいる人は1平方センチ当たり202グラムで、なかには375グラムの人もいた。この部分の血流は1平方センチ当たり162グラムの圧力で悪くなることから、長時間自転車に乗れば血行障害が起きてもおかしくないという結論だった。
これは、サドルの形状が大きく関わっていることがわかってきた。通常の自転車のサドルは、ノーズが前方に突きだして股で挟み込むようになっているものが多い。この形だと鼻先の細い部分に体重が集中してかかり、陰部を圧迫する。一方で、先の尖っていないサドルでは、1平方センチ当たり71グラム程度で圧力が小さく、障害が少ないことがNIOSHの実験で判明した。

「・・・、マサニ、晴天の霹靂だったね、この記事は・・・」

「・・・、エ、ナンデ?、ワカラン・・・」

「・・いや、実はね、去年の暮れから体力強化と減量を兼ねて、始めてたんだよね・・・」

「ナニヲ!」

「だから、エアロバイクをさ」

「エロバイクッ!?」

若干の説明が必要だろう。
つまり、H氏は昨年の暮れからダイエットのためにエアロバイクを始めたそうなのだが、元来、生真面目な氏は、頑なにそれに取り組んだとか。話しによれば一ヶ月に1000km以上も漕いでおり、しかも、腕、足にはウェイトを付けてやっていたとか。
おかげで、1月から3月末での期間に6kgの減量に成功していたのである。そして、4月からは季候も良くなり体力強化もできたことから、週3、4回の5~8kmのランに切り替えて現在に至っているという状況なのである。

「・・・、イヤ、マジでケツが痛くなってたもんね・・・、記事のとおり、血行は悪くなるっしょ、・・・ほら、オマケに症状もアカギレみたいで、それってつまり一種の血行障害だろ?、納得しちゃったんだよね・・・」

H氏の論によれば、自転車の危険性を図らずも証明してしまったということになる。

「オレ、思うけど、泌尿器科に行ってもダメだったろうねと思うんだよね、だって、実生活における問題って回数が減ることくらいじゃん、きっと先生だって真面目に取り入ってくれんだろう・・・看護師や先生にいじられて結局“原因不明”じゃぁなぁ、・・・・まさか、エアロバイクが原因とはね、恐れ入るよ・・・、これからはエアロバイクじゃなくってエロダメバイクって呼んだほうがいいかもしれんな・・・」


以上がH氏と交わした会話ついての抄録である。
40歳を過ぎると生身のカラダに様々な変調を感じるようになる。読者諸兄も、よもやダイエット行為が生殖についての機能不全傾向を示すとは思い至らなかったはずである。これも加齢に伴った変調のひとつなのかもしれない。

皆さん、くれぐれもご自愛を。

なお、本文掲載についてはH氏の承諾を得ております。
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「母の日」ウルサイ

2012-05-11 08:43:43 | 雑談の記録
今度の土・日がハハの日だハカの日だかなんだか知らないけど、世の中、「ハハノヒ商法」がかまびすしい。しかし、ここで言う「ハハノヒ商法」とはあくまで合法活動の範疇に入るものと定義するけど、「母の日」になんかプレゼントしなくちゃ人の道に反する的な圧力を各方面からヒシヒシと感じている。世間が「ハハノヒ商法」化しているのだ。ウソかホントかわからないけど、巷のデータによれば、母の日関連の売上額がクリスマス関連を上回ったとかナントカ・・・。これは、いったいナニを意味するのか!?。
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誇り高き野球バカ×11(最終回)

2012-05-09 22:43:33 | リトルリーガーの記録
こうやってバカブログを綴りながら悦に入っている人間がロクでもない野郎であることは、読者諸兄の熟知事項であることは十分認識している。であるからして、デキソコナイのクソヤローの感謝の言葉など、知らぬ顔してさっさと便器に捨ててしまって構わない。
しかし、ナメクジにも角という諺があるように、ロクでもない人間だってヤルときにはヤルのである。世間の圧力に負けて、とりあえず「感謝」という言葉を使っとけばOKという逃げ根性やその場しのぎで言うのとはワケが違うのである。
「ホントにボクなんかが生きてて御免なさい、迷惑掛けて御免なさい」なのである。
こんなところで、いきなりエネルギーの話しを持ち出して大変恐縮なのであるが、元々人間は、数十億年という地球(宇宙)の営みの延長線上に極僅かな時間だけ「生きる」ことを許されたはずの動物である。人間が生まれたことが偶然か必然かはわからないが、トニカク、動物あるいは生物は、地球という閉じた(ホントは閉じてないかもしれない)物質循環とエネルギー循環の中で生きている。ボクが死んだら、現行法のもとでは火葬されるのであるが、灰以外の多くのボクは完全燃焼して二酸化炭素や水蒸気となって大気中に放出される。死ねば人畜無害の存在になれるのである。
しかし、生きているボクはどうか。確かに、キレイなオネェちゃんの前では人畜無害のフリをするだろうとの指摘には頷き必至であるが、ソレ以外に「人畜無害」と言える場面は見当たらない。今風に言えば、世間や環境に負荷を与えている悪玉「人間」なのである。
そのように考えることは必要以上のことで、オマエは俺達も悪玉同然だということを遠回しに言っているだけだという声も聞こえてきそう。しかし、最近の「感謝」の出発点が「御免なさい」にあるから仕方ないのである。

GW中は今年も二泊三日で「虹の岬まつり」に行ってきた。このおまつりについては、一風変わっているということで賛否両論あるのだが、基本的には「こどもゴコロ」を祝う「感謝際」である。と言ってもなんのこっちゃであろう。このおまつりの説明は難しいし、ここに集う人々のことを表現するのはさらに難しい。あえて言うなら、動物人間として「食物連鎖」に組み込まれることを望んでいるように見える人達の為のおまつりなのである。つまり太古的なまつりなのだ(太古のまつりをボクは知らないが)。しかしながらクリエイティブな側面も多いにあり、今年は手作り褌(フンドシ)の出店があったのには驚いた。そして、彼らのような人々こそ「何が何でも原発反対」の有資格者、しかもゴールドカードの優秀資格者であると思うのであるが、彼らに政治色は殆どないようなのである。

二泊三日のキャンプではテントや七輪を使ってそれなりに便利ではあるが、基本は不便を楽しんでいる。そして、夜は風の音を聞き、月光を浴び、暗い松林を見る。寄せては返す波の音とともに潮も香る。朝は水平線から登る太陽の光りと鳥のさえずりで目覚める。また、これがボクにとっては一番不思議なのであるが、テントの中で目をつぶると、外にいる人々がまるでボクの耳元で談笑しているかのようなクリアな声を感じるのである。そして、こういう一連を通じて、「ボク」が「世界」に溶け込んでいる一部であることに気が付いたりしてホッとするのと同時に、こういう感覚を大事にしとかなくちゃいけないとつくづく思うのである。一方、しばらくすると、こんなふうにのんべんだらりとしていたら、「オレ、ホントーに馬鹿になるんじゃ?」なんていう不安もよぎったりして、「幸」と「不幸」の波打ち際に立たされているような感覚に陥るのだ。しかし、いずれにしても、こういうアホキャンプの場合は、「馬鹿になってもいいじゃんか、オレ、生きてるし」という幸せ感が勝り、なんとなくではあるが、自然発生的に有り難いなぁという感情が湧いてくるのも事実である。そして、生命の源を育んだ太古からそれほど変化は無いと思われる大海を目の前にしながら、これまでボクと関わりのあった多くの人々のことを思い出して「お陰様で」と控えめに小さく呟いてみるのである。ホントーである。
なんだか最後にhiratakuwaらしくない一面をサラしてしまった感が強いが、この辺でこのシリーズを締めくくりたい。
ありがとう。

なお、息子は、今週末、オファー頂いたチームに体験参加する予定になっている。

終わり
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誇り高き野球バカ×10

2012-05-07 21:49:44 | リトルリーガーの記録
さて、このシリーズもずいぶんと長くなったが、そろそろ「無力感」について記録しておこうと思う。
言葉のアソビになるが、「無力感」を感じているうちはホントーの無力でないのであろう。
しかし、自分に力が無いことを知る、あるいはソレを受け入れるということは、人生において、結構大事なことではないのだろうか。ひょっとして、ボクは「イマサラ」なことを言っているのかもしれない。
自分に力があると信じて頑張るのも結構なことだと思う。「こんなはずじゃぁないッ!、オレはまだまだデキルッ!」。ダルビッシュがメジャー初先発時に、スタンディングオベーションされながらも、それを無視してベンチに下がったあの姿!、正直、メチャカッコイイと思った。でも、それはダルだからの話し。四十過ぎの老眼・白髪交じりのセックスぐらいしか能のない零細極小企業のオッサンサラリーマンが、「オレはまだまだデキルッ!」っと力んだところで、四十肩を悪化させるぐらいのものである。

で「無力感」。力が無いということを知るからこそ、そこからまた新しい努力が始まるのだと思う。「無力の力」って表現はどうだろうか。
今までは、ひたすら自分の利益、自分の力をさらにパワーアップさせるための努力に心血を注いでいたような気がする。で、結局は、オレはこんなに頑張っているのに、・・・なんて心の中で呟いていた。サイテーヤローである。
「オレはデキソコナイである!」
プライドを捨てているワケではない。まして、草食系男子の如く“対傷心バリア”を張り巡らそうなどと思っているワケでもない。
ただ、デキソコナイのデキソコナイによるデキソコナイのための生き方をデキソコナイらしく謙虚に処方したいだけなのである。具体的には、「明日は明日の風が吹く」精神を取り戻しながら、にこやかに健やかに世のため人のために尽くすことが新しい生き方として、短小短足の身の丈にあった自分自身に提示したいだけなのである。しかし、独りよがりの自己満足型になってはいけない。

息子と少年野球を通じてボクは多くのことを学ぶ事ができた。一方、このバカブログにでさえ記録できないようなバカバカしいことも何度も経験できた。刺激的だったこともある。面白かったこともある。腹立たしかったこともある。虚しかったこともある。悲喜こもごもといえば早いかもしれない。
だけど、今となっては全て過去のことであるから、それはボクの記憶の世界の話しでしかなく、人間の記憶などアテにならないという前提に立てば、一連の記憶というものは、実はボク自身によって塗り替えられた可能性も考えておかなくてはいけない。ボクとしてはバカバカしい記憶であっても、別の角度からは真剣で重要な忘れ難き記憶であるかもしれないのだ。つまり、過去の「事実」は、実録が無い限り、異なる記憶を頼りに「言葉」によって語られるため、「事実」についてはいつも争いの種が含まれることに気を付けなければならないのだ。ま、小難しいことはさておき、現在のボクをボクたらしめているのは、記憶がどうであろうと、過去の出来事が原因であることは間違いないわけで、そういう意味において過去の重要なワンピースとなったのは、「おとうさん、明日も野球あるよ」と言った息子の言葉、息子の存在なのである。
なんだかヤヤコシくなったが、つまり、ボクは今の自分が好きになりつつあるのだが、そういうふうに思えるようになれたのも息子のお陰なのだと思うのである。
息子のミニ小説の最後にこんなコメントが添えられていた。
-こんなことが想像できる自分が幸せです-
なお、ボクもお陰様で幸せである。

・・・続く・・・
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誇り高き野球バカ×9

2012-05-02 08:46:22 | リトルリーガーの記録
息子は、現在、リハビリ中である。リハビリの若い先生には回復が早いと言われている。GW明けにはスローができるようだ。
息子の障害は端的言えば「野球肘」。いわゆる「少年野球肘」で、上腕骨内側上顆と呼ばれる骨の出っ張りの部分の成長軟骨が障害されるものである。息子の場合、剥離や変形には至ってないとのこと。身長がグングン伸びるような、骨端(成長軟骨)の活動が活発な成長時期に多発しやすいとか。確かに息子はこの1年で10cm以上身長が伸びたが、リハビリの先生の所見では、その骨端につながる筋肉の張りが強いらしく疲労の蓄積も原因の一つではなかろうかということであった。

チームの解散については、やはりショックだったようだ。
たとえ怪我をして試合に出られなくても、最後までリトルリーガーとしてこのチームを卒団したかったと漏らしていた。それはボクだって同じだった。

中学校が始まり、息子は7時前に家を出るようになった。
「こんなに早く行っても、学校、あいとらんどぉ?」
「だけん、キョートーに鍵ばもらいよるッ!」
中学校は、相当、イイトコらしい。部活に興味を持ち始めても仕方がない。
迷いは当然である。
ナント、担任が、野球部の顧問だったのだ!。
しかし、こないだの家庭訪問で先生はこう言ったらしい。
無理な誘いはできないと、ただし、学校ではリーダー的存在になってもらいたいと。
有り難い話しである。

当面の目標を記録しとこうと思う。
「5月20日 運動会1500m走 学年1位」
現在、一緒にトレーニングをしている。怪我をしているときこそ、親の出番なのである。
老体にムチを打ち、人に指を差されようが笑われようが、トニカク、己が体を張って範を示すことが大事だと思っている。モーチベーションを保つことができるようサポートすることがナニヨリも大事なのだ。
昨日行われたスポーツテストを兼ねた3クラス合同の予選レースでは2位。タイムは6分ジャスト。この時点の目標である6分10秒以内をクリアし、1ヶ月前より30秒もタイムを短くした。とりあえず4組の代表に選出され、「学年1位」が射程圏内に入ってきた。
なお、文科省のデータによれば、1500m走の中1男子平均は6分59.23秒、中2が6分14.75秒、中3が5分56.21秒である。

「うちは子供に任せてありますから」は、親の怠慢ということを前に書いたが、うちの息子はもう中学生だ。難しい時期とは言え、そろそろ「任せる」ことも必要だと思っている。
先日、息子に「与えられている選択肢」について話してみた。本人はピンとこない様子だった。ひょっとしたら、今後、こちらが想像もしないような選択をするのかもしれない。
将来の自分へ宛てた手紙というテーマで卒業生が書いたクラス文集がある。その中に、一人だけ「手紙」とい形式を完璧に無視してミニ小説を書いた輩がいた。
チープな雇われ写真家が撮った1枚の風景写真が脚光を浴びて、その場所が有名観光地と化し、数年後、其所を写真家が家族とともに訪れるというところから話しが始まり、写真家は、少しは役立つ人間になったという淡い満足感に浸っている。写真家は息子と手を繋いでいる。しかし、写真家はあるときその息子が12歳の自分であることに気付いて驚愕するという内容。
この暗示的なミニ小説を書いていたのは、ほかならぬ息子である。面白いと思った。
とりあえず野球は続けると思う。しかし、どのような野球をするのかは本人次第である。

・・・続く・・・
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誇り高き野球バカ×8

2012-05-01 22:20:17 | リトルリーガーの記録
お別れ会は、一本締めで散会となった。
ボクは隅の席で座布団に正座した。
最後を見届けなければならないと思った。
それが設立の誕生を見た者の責任だと思った。
大部屋から大人、子供達が出ていく。入れ替わるようにして若い店員が入ってきてテーブルを片付け始める。そのうちの一人は何かをぼやいている。
実にあっけないものである。本当にあっけないものである。
さっきまで元気に生きていた人間が、ふっとこの世から去ってしまったような感覚に近い。
そして次の瞬間には無力感が全身を襲うのである。

このチームの解散に関して、ボクが必要以上の責任を感じることは無いというのは理性で十分わかっているけど、ボクの根っこにある感情がボクを打ちのめにしてくれる。
オマエハナニモデキナイ、オマエハヨワイ、オマエハムスコモマモレナイ、オマエハミンナニメイワクヲカケテイル、バカ、アホ、マヌケ、オマエガイチバンワルイッ、ズルイッ!
・・・「トーチャン、トーチャン、ほら、トーチャン、もう迷惑になるでしょ!」
カミさんがボクの右腕を担ぎ上げていた。

・・・続く・・・
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