1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『景行天皇伝説を巡る冒険』12.景行天皇伝説の収集の意味

2022-11-28 21:27:00 | 景行天皇の記録
【景行天皇伝説の収集の理由】
ここまで紹介してきたように、景行天皇に関連した伝説は50話近くにおよびます。ゆかりの地だけを数えれば70ヶ所をゆうに超えます。伝説にはいくつかのこじつけも含まれていると考えられます。しかし、こじつけであったとしても、それらはやはり景行天皇の強い影響力を示しているように思います。

「三玉」という地名を巡っては前章で冒険譚風に紹介させて頂きました。不動岩近くの仙境のような地で、侍臣たちが持ち帰って献上した三つの玉を景行天皇が里人に下賜したことが、その始まりであるという伝えでした。そして、その伝えはすっかり風化して埋もれてしまっていたのですが、山鹿に縁があって郷土を愛していた一人の人物、つまり、吉田孝祐氏が記した『舊山鹿郡誌』の中に、その由来がしっかり書き留められていたのでした。
吉田氏はこの『舊山鹿郡誌』を太平洋戦争の前と敗戦後の2度に渡って書き記しています。氏は、当時でさえ、変わりゆく町並みの中に往時の面影が消えていくのを惜しむとともに、さらに由緒ある言い伝えが忘れらつつあることを憂いていたのです。そして、敗戦後、焦土と化した郷里に戻ったとき、その思いはさらに強いものになったであろうことは容易に察することができます。

山鹿市のこもれび図書館に所蔵されていたのは、戦後に吉田氏が書いたものを本澄寺の当時の住職が複写して冊子にしたものでした。原本を求めて本澄寺を訪ねましたが、残念ながら確認はできませんでした。一方、戦前に書かれた『舊山鹿郡誌』の原本は熊本県立図書館で確認することができました。ただ、戦前に書かれたそれには三玉の由来は記載されていません。
吉田氏は、戦後、更に調査を重ねて「三玉山久慶院縁起」をいずこかで見い出し、それを戦後の2度目に作成した『舊山鹿郡誌』の中に書き写したのでした。
私は、吉田氏が見い出したこの縁起書(古文書)を求めて1年以上、ネット検索は当然のこと、図書館、古書店、熊本大学、関連のありそうな寺を訪問するなどの探索活動を続けました。行った先々で対応して下さった方々には随分と手間をとらせてしまいました。しかし残念ながら現在もその縁起書の発見には至っていません。

一方、そうした活動の中で、熊本にはいくつもの景行天皇の伝説があることに気が付きました。そして、各地と山鹿地域の伝説を比較し、今回、新たに見い出された三玉の景行天皇の伝説の意味を考えてみようと思ったのでした。
ただ、熊本における景行天皇の伝説を網羅した資料を見つけることが出来なかったため、結局は図書館、古書店の力を借りて各種の資料を収集したのでした。また、仕事がら県内各地の現場に出向くことが多いのですが、機会を見計っては現地を訪れて文献に書かれた史蹟等の確認作業を行いました。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』11.阿蘇地方の景行天皇伝説

2022-11-26 20:38:00 | 景行天皇の記録

【阿蘇地方の景行天皇伝説】

『日本書紀』には以下のような阿蘇についての物語が書かれてあります。


景行天皇が阿蘇国に至られとき、その国は野原が遠くまで広がっていて一軒の人家も見えませんでした。

天皇は不思議に思われて、

「この国には人が住んでいるのか」

と仰られました。

すると、阿蘇都彦(あそつひこ)、阿蘇都媛(あそつひめ)という二柱の神がおられて、たちまち人の姿となって現れ

「私たち二人がおります。どうして人がいないことがありましょうか」

と申し上げました。

そこで、この国を「阿蘇」とお名付けになられました。


『日本書紀』より


阿蘇の草千里


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『景行天皇伝説を巡る冒険』10.山鹿地方の景行天皇伝説

2022-11-24 21:15:00 | 景行天皇の記録
【山鹿地方の景行天皇伝説】
〔西牧蓮照寺と菅原神社の帝石(山鹿市西牧)〕
景行天皇が九州巡幸の際、この地に寄られ、この石に休まれて村人に慈しみをほどこされたという言い伝えがあります。
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
山鹿市史編纂室 『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月


蓮照寺の帝石

〔若宮神社の神石(山鹿市熊入)〕
景行天皇が九州巡幸の際、乗っておられた馬が病気になったので祈願をされました。その時、病に苦しむ馬が暴れて足に石があたって三つに割れました。すると、不思議なことに馬の病が治ったので、馬の身代わりになったと喜ばれ、牛馬の神とするよう仰られ、以来、神石として祀られたと言われています。
荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53年
『神石の由来』熊入若宮神社案内板

〔八嶋八柱神社(山鹿市鹿央町千田)〕
景行天皇が九州巡幸の際、玉名から菊池川を遡り山鹿に到着されたときのこと。当時、一帯は茂賀の浦と呼ばれる湖で、その南の方に八つの光りが昼夜をとわず見えたので侍臣を遣わして見聞したところ、頭が八つの大亀が現れ「寒言神尊利根陀見(カーン、コーン、シーン、ソーレ、リー、コーン、ダケーン)」と奇妙な声を発したことから、これを誅殺してその霊を祀ったことがこの神社の由来とされています。別の伝説として、茂賀の浦に景行天皇を出迎えた阿蘇大明神が湖の底から不思議な声を聞き、鍋田の石壁をひと蹴りすると湖水がどっと流れ出し、そこに現れた八頭の大亀を景行天皇とともに退治したという物語もあります。
千田聖母八幡宮案内板
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年


〔大宮神社(山鹿市山鹿)〕
大宮神社の主祭神は景行天皇です。景行天皇が九州巡幸の折、この地に行宮を営み、その跡地に天皇を祀ったことが始まりとされています。また全国的にも有名な8月16日の例祭である山鹿灯籠祭は、当地巡幸の際に茂賀の浦で濃霧に阻まれ難渋している一行を里人が松明をかかげて出迎えたことに由来するという伝えがあります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
『鹿郡旧語伝記』

〔彦嶽宮(山鹿市三岳)〕
彦嶽宮については『ふりさと山鹿』でも詳しく取り上げられていますが、以下、彦嶽宮ホームページより全文を引用して伝説を紹介します。

大昔は、震岳のことを踏寄峠(ふみよせがとうげ)と云った。
其故は、彦岳と不動岩の首引きの際二人の踏み寄せによって出来た山の意であった。
天皇が、土蜘蛛津頬を誅し、菊池川を上って山鹿郡大宮の地に行在所を設けられ、この地方を巡狩されるに当たり、或る日津留近津宮(ちかづのみや)に立たれた。
現在の池田橋の上手、段ボール会社の前一帯が、小字近津宮と呼ぶ。お野立所は有働家墓地の南数十米の所だったと伝えられ五十年くらい前までは小高い岡に「近津宮行在所」の銘碑があった。余談になるが、この時天皇一行をむかえたので、迎田氏と呼んだと言うが、察するに部落の代表か或いは接待役ではなかっただろうか。
次いで、天皇は古江正玄(古江、一森の祖と云う)の案内で踏寄峠にお上りになった。以来この山を高天山と呼んだようである。天皇のお上りになった高い山の意だったろう。
後日、宇土の木原山に逃げていた津頬の残党が勢力を回復して逆襲をしてくると、天皇は軍を、現在の鹿央町高山、浦山口にすすめられ防戦されたが、背水の陣も破れ遂に茂賀浦(志々岐から菊池までは一面の湖沼であったと云う)を渡って、大宮、白石、不都原と転戦され、遂に高天山に籠城されることになった。
籠城に最も困られたのは水であった。天皇が須訪の宮に水を乞われると、山の東南の地に清水が湧出した。(小坂の宮には須訪宮を合祀してあると云う)
更に、八代の妙見宮に戦勝の祈願をこめられると、三つの火の玉が南の空から飛来して、二つは山鹿大宮の杉にかかり、一つは高天山上に来り敵陣を照明する。七月十六日の夜半であった。
賊将之を卜して曰く「之援軍の来る報せならん、速やかに勝を決すべし、然らずんば我腹背に敵を受けん」と。翌朝未明賊将は全軍に総攻撃の命を下す。正に蟻の如く賊軍四方より高天山の頂上めがけてよじ登る。
天皇この時、一向に天神地祇の加護を祈念されると、日子岳(彦岳)の頂上に、一人の白覆面白馬の士が現れ「我はこの山の鬼神なり」と、弓に白羽の矢つがえ満月の如くひきしぼる。その矢ひょうと放てば、高天山の七合目ばかりにっはっしと立つ。同時に高天山は全山大揺れ、木は倒れ岩は落つ。賊兵折り重なって谷間谷間に転がり落つ。
天皇の軍、いざ此の時とばかり山上から攻め下れば、大勢にわかに逆転、瞬時にして勝敗決す。賊将命からがら一人日向の国へ逃げのびたと云う。
天皇は神恩を謝し、高天山に八神殿を祀り(後千田の八島、下吉田宮にまつられていると云う)彦岳に三宮を祀り、従者吉田某をこの地に止め、神事に当たらせ給うた。下宮の吉田家はその後裔と伝えられ兼隆氏の八十一代に及ぶと云う。
阿蘇へ向かって天皇が出立された後で、土地の人々は高天山のことを揺ヶ嶽(ゆるぎがたけ)と呼ぶようになった。

彦嶽宮リーフレット
彦嶽宮webサイト 『https://hikotakegu.localinfo.jp/』
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月


彦嶽宮の楼門と大杉

〔吉田八幡宮(山鹿市下吉田)〕
景行天皇が九州巡幸の折、高天山(震岳)に建立したハ神殿をのちに遷座したところと伝えられています。
なお、このハ神とは、第10代崇神天皇に「湖を乾かすべし」と命令された阿蘇大明神が湖岸に立って「海神、吾を知れりや」と叫ぶと、そこから八頭大亀の魂神が火龍のごとく立ち昇り高天山(震岳)に現れた神です。そして、肥前国高来縣にいた景行天皇もこの火をご覧になることができたたため、高天山(震岳)に八神殿を祀ったとされています。
『肥後國誌』青潮社 昭和46年
『鹿郡旧語伝記』


吉田八幡宮


〔山ノ井(山鹿市菊鹿町下内田島田)〕
景行天皇が九州巡幸の折、当地に鳳輦(ほうれん:鳳凰の飾りがある神輿、天皇の乗物)を停められところと言われいます。このとき、天皇が水をお求めになり、付近の甘美な湧水が献上されましたが、後に埋もれてしまってそこに井戸が作られたことに因んで山ノ井と呼ばれるようになったと伝えられています。
『肥後國誌』青潮社 昭和46年
徳丸家文書『山鹿郡誌』明治
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『景行天皇伝説を巡る冒険』9.玉名地方の景行天皇伝説

2022-11-22 19:22:00 | 景行天皇の記録

【玉名地方の景行天皇伝説】

〔姫ヶ浦(玉名郡長洲町姫ヶ浦)

日向御刀媛(ひゅうがのみはかしひめ)11人の女官とともに景行天皇を追って長緒浜(ながすのはま)に着きましたが、すでに景行天皇が去った後と知って力尽き、11人の女官と共に入水したことにちなんで姫ヶ浦となったと伝えられています。

『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62


〔十二石神社(玉名郡長洲町腹赤新町)

有明海に身を投じた御刀媛とお付きの11人の女官は、亡くなったあと石になられたといわれ、この石を一か所に集めて御魂を勧請して祀ったのが十二石神社とされています。

『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2


〔名石神社(めいしじんじゃ)(玉名郡長洲町上中洲)

御刀媛と11人の女官が入水して石になられ、その十二石を御神体(磐座(いわくら))として祀ったのが名石神社(女石宮:めいしぐう)の起源とされています。

女石宮はもともと名石浜の海辺で御刀媛が石となった大きな岩そのもののを御神体として祀られていました。しかし、のちに臨海工業用地として埋め立てられることになり、昭和47(1972)、氏子の要望によって現在の名石神社の神殿の横に移されました。

なお、御神体の岩は、観察したところ阿蘇火砕流の「溶結凝灰岩」です。

『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2



名石神社の御神体の磐座



〔腹赤(はらか)(玉名郡長洲町腹赤)

「肥後国風土記逸文」に、景行天皇が九州巡幸の折、長洲の漁師の朝勝見(あさかつみ)が釣った魚を景行天皇に献上しました。腹赤という地名は、その魚が大変美味しく景行天皇が名付けた「爾陪魚(にべうお)」という魚の腹が赤かったことに因むと言われています。また、奈良時代の第45代聖武天皇の天平15(743)より宮中の元旦の節会(宴会)に「腹赤の贄(にえ)」を献上することになりました。

秋本吉郎 『風土記 日本古典文學大系2』岩波書店 1958

『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53

『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62


〔供御の池(くごのいけ)(玉名郡長洲町腹赤)

腹赤の贄として献上する魚を、この冷たい泉の湧く池に活けて、今でいう冷凍の役目をして太宰府を通じ、京の都に送ったと言われています。

『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62


〔御腰の石(玉名郡長洲町腹赤)

景行天皇が腹赤の浜においでのときに腰をかけた石と言われています。

『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62


〔玉名大神宮(玉名市玉名)

玉名大神宮の案内板によれば、

「玉名大神宮の「家系録」に景行天皇が熊襲(南九州の民)征伐の途中『玉杵名邑(たまなきむら)』に来た時、土蜘蛛津頬(豪族の長)が抵抗しました。景行天皇は天照大神を祀って拝み、お祈りをすると、玉のような小石が落下して土蜘蛛津頬を退治しました。この小石を神の霊として尊び、祀りました。このことから大神宮を遥拝宮ともいいます。」とあります。

周辺は「元玉名」と呼ばれ、玉名の地名の由来である「玉杵名」の地とされています。天照大神、景行天皇、阿蘇の4神、玉依姫(たまよりひめ)とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってあります。日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事が書いてありますが、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられています。

玉名市webサイトhttps://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/405/2064.html

『玉名大神宮』案内板 玉杵名の里づくり委員会

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62



玉名大神宮



〔疋野神社(玉名市立願寺)

疋野神社は平安時代の『延喜式』にも記載されている「式内社」で極めて由緒正しい神社です。社伝によれば景行天皇が九州巡幸の際は疋野神社で鎮祭をとりおこなったとされています。

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62

疋野神社webサイトhttps://www.hikino-jinja.jp/#top

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『景行天皇伝説を巡る冒険』8.益城(ましき)、菊池地方の景行天皇伝説

2022-11-20 19:38:00 | 景行天皇の記録

【益城、菊池地方の景行天皇伝説】

〔御船(上益城郡御船町)

御船は景行天皇の九州巡幸の折、有明海からこの地に御船を寄られて阿蘇方面に向かわれたことから「御船」の地名が起こったと言われています。また、飯田山常楽寺の平安時代の末期の創建の際、支那から運ばれた経巻や仏舎利・宝塔等を積んだ官船が着岸したことに由来するという伝えもあります。

このほか、緑川上流では、山川の険しさを頼りにして景行天皇に従わなかった土着の豪族がいたことが伝えられています。

沖田昌進『御船史蹟記』文化新報社 昭和32

荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53

『肥後國誌』青潮社 昭和46


〔御所(上益城郡山都町御所)

阿蘇外輪山の南側の山間地に御所と呼ばれるところがあります。この地に景行天皇が行宮(あんぐう)を設けたといわれ、細長い台地を挟むようにして東御所川と西御所川が南流しています。

荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53


〔津久礼(つくれ)(菊池郡菊陽町津久礼)

景行天皇が熊襲を征伐して還幸されるとき、この地を通られました。そのころ、この辺りは広い原野で、行幸の道もない荒地であったため、ムラの西端にあった巨岩の上にお立ちになり、人びとを集めて丘地を開かせました。そのとき「よくつくれ」と言われたので、その後、この地が津久礼と呼ばれるようになったと言われています。また、このときお立ちになった巨岩が現在も「立石」として祀られています。

また、むかし阿蘇大明神が数鹿流(すがる)という所をけやぶって阿蘇湖の水が流れたとき、この地にけやぶった土塊(つちくれ)がとどまったことから「つくれ」と呼ばれるようになったという説があります。

大塚正文『熊本昔むかし』熊本出版文化会館 2006

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62

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『景行天皇伝説を巡る冒険』7.宇土(うと)•天草(あまくさ)地方の伝説

2022-11-18 20:50:00 | 景行天皇の記録

【宇土(うと)・天草(あまくさ)地方の景行天皇伝説】

〔御輿来海岸(おこしきかいがん)(宇土市下網田町)

日本の渚百選の一つとなっている御輿来海岸は、景行天皇の九州巡幸のとき、ここに御輿を停められたことからその名がついたと言われています。国道57号線沿いには高さ3mは超えると思われる聖蹟記念碑があります。ただ、現在はもうありませんが、以前は甑岩(こしきいわ)と呼ばれる奇岩があり、この岩の名から「御輿来」になったとする説もあります。

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62

「くまもと地名あらかると」『熊本日日新聞』2009914


御輿来海岸の景行天皇聖蹟記念碑



〔笠瓜(かさうり)(宇土市長浜町南・笠瓜)

景行天皇の九州巡幸の途中、長浜にしばしとどまられた際、村人が瓜を献上しようとしましたが盛るべき適当な器がなかったので笠にのせて献上したことで、この地が笠瓜と呼ばれるになったと伝えられています。

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62

「くまもと地名あらかると」『熊本日日新聞』2009911

『肥後國誌』青潮社 昭和46


〔登立(のぼりたて)(上天草市大矢野町登立)

登立の地名も、景行天皇が九州巡幸の際、当地で幟(のぼり)を押したてて出迎えたことから「のぼりたて」と呼ばれるようになったと伝えられています。

「くまもと地名あらかると」『熊本日日新聞』200968


〔姫石神社(上天草市姫戸町)

景行天皇が八代海を南へ航行された時、天皇が乗っていた船が暴風に遭って今にも転覆しようとしました。お供をしていた姫君がその嵐を沈めるために、海に身を投じるとたちまち海は静まりました。姫は白い石となって岸辺にうちあげられ、その石を祭神として祀ったのが姫石神社で、この一帯が姫浦と呼ばれるになったといいます。

また、別の言い伝えとして、天皇と別れなけらばならなくなった姫が天皇に恋焦がて病死してしまい、その霊が石となって残ったので村人が祀ったという話があります。

ただ、現地に行って見てきた石碑の社記には、また別の話が刻まれていました。故老たちの談によれば、美しい姫が宝を入れた袋を乗せた船でこられ、ハタヒの大樹、海に覆いかぶさる楠の巨木の杜の鼻に船を止められて、こここそ神宿る地と定住され、この船は船石となり、袋は袋石となったそうで、二つ併せて姫石と呼ばれましたとあります。

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61

姫石神社社の記



姫石神社に祀られている姫石

〔二間戸(上天草市姫戸町二間戸)

天皇の御座船が姫浦に着岸した一方で、御付きの船は諏訪の浦に着いたといわれています。ちょうど冬の季節で寒風が吹き荒れて凍えそうになり、戸板を二枚立てて寒風をしのいだので諏訪の浦の一帯を二間戸と呼ぶようになったといいます。

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61


〔御所浦(天草市御所浦町)

御所浦は、島の西側の浦に船を泊めて、しばらく仮泊するための行宮が置かれた天皇の御座所であったと伝えられています。

また、御所浦島ではアンモナイトをはじめとする中生代白亜紀頃に生息していた生物の化石を含む岩石がいたるところで観察することができます。伝説にはありませんが、景行天皇が御所浦に滞在したのは石となった生物を見聞するために立ち寄ったのかもしれません。また、八代・有明海の沿岸には入水して石となったお姫様の伝説がありますが、このような物語の発想の起源が御所浦島に見られる化石ではないかと考えるのも面白いのではないでしょうか。

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61


〔嵐口(あらぐち)(天草市御所浦町嵐口)

景行天皇が九州巡幸の折、東風にあおられたため当地に寄港しようとしましたが、波が高くて寄港できなかったことから、当地を嵐口と呼ぶようになったという伝承があります。また、嵐に遭われて島の東北部の内側に漂着して難を避けられた天皇が「ここは、嵐の口だ」と言われたという伝えもあります。

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61


〔天満宮ともづな石跡(天草市御所浦町)

景行天皇の船のともづなを繋いだとされる石が御所浦島の天満宮に残っていて、「ともづな石」と呼ばれています。

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61


「ともづな石」

〔宮田(みやだ)(天草市倉岳町宮田)

景行天皇が宇土からの帰途、御所浦島に宿泊した際に対岸の当地の田から良質の米を献上したことにちなむとする伝承があります。

『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62


〔白縫塚(しらぬいつか)(上天草市松島町阿村)

金毘羅山(地元では苓東山と呼ばれている)の塔の峯にある古い石碑の碑文に「・・十二代景行天皇・・・怪火御照ましまし逍遥し給う霊地にして・・・」の文字が読みとれるとあります。景行天皇が「不知火」の点滅するのをご覧になって付近を逍遥された霊地として石碑が建てられたと考えられています。

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61


〔教良木(きょうらぎ)(上天草市教良木)

景行天皇が御所浦に行幸されたとき、薬木(くすりぎ)が献上されました。この薬木は不老長寿の霊薬で、その薬木は清木(きよらぎ)だとされ、きよらぎきょうらぎ(教良木)になったという言い伝えがあります。

濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61

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『景行天皇伝説を巡る冒険』6.宇城地方の景行天皇伝説

2022-11-16 22:00:00 | 景行天皇の記録

【宇城地方の景行天皇伝説】
〔豊村(宇城市松橋町豊福)〕
景行天皇18年5月 葦北を船出されて着岸した八代県の豊村は、宇城市松橋町豊福、旧豊福村との説があります。また、豊福地区には「白毛熊」、「微雨」、「心吉」という小字があります。
天皇の軍隊が上陸して東に1kmほど進んだ頃、短い夏の夜は早々と明け始め、そこを後日「白明隈」または「白曙隈(しらげのくま)」と呼び現在の「白毛熊」に。そして、一陣の風に乗って微かな時雨が通過したためその地は「微雨」。さらに夜明けに大休止をとった時、爽やか朝の海風が吹きわたり、天皇が思わず「快し」と仰ったことからその地は「心吉」と名付けられと言われています。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
史跡「心吉(こころよし)」説明板


史跡 心吉


〔木崎神社(宇城市三角町里浦)〕
三角町の里浦に木崎神社という小さな神社がありますが、「きさき」という名は、景行天皇の后(きさき)が巡幸中に亡くなられて、この地に葬られ、それを祀ったことにちなむとされています。
三角町史編纂協議会専門委員会『三角町史』三角町役場 昭和62年


木崎神社の石碑


〔鈴島(宇城市三角町前越涼島)〕
前越の海岸から約300m沖にある小島ですが、干潮時には砂州が現れて陸続きとなります。「鈴島の勝景」と呼ばれ、景行天皇が御船を停められてその光景を愛賞されたといわれています。
『宇土郡誌』宇土郡役所 昭和48年

〔三角港(宇城市三角町)〕
景行天皇の九州巡幸の際、御座船の停泊があったと伝えられています。
宇土郡役所『宇土郡誌』1921年
熊本県土木部河川港湾局港湾課『三角港』

〔御手洗水源(宇城市三角町波多)〕
御手洗神社の湿地から湧出して池となっています。景行天皇が九州巡幸の際、三角に停泊しこの水を利用したという伝説があります。また、御手洗神社の横には巨岩があります。これらは、古代の人々にとって原初的な信仰の対象となった「磐座」であったとしても不思議はありません。もし、そうだとするならば、村人がこの地から湧いた水を景行天皇に献上したのは当然のように思えます。
なお、こちらの水源は「熊本名水百選」に指定されています。
『水の国 くまもと』Webサイト https://www.kankyo-kumamoto.jp/mizukuni/kiji003143/index.html


水源横の磐座


〔御手水(おちょうず)宇城市三角町御手水〕
三角岳の山腹から湧出して流れ下る水を、景行天皇が御手水とされたことに因んだ地名とされています。
『宇土郡誌』宇土郡役所 昭和48年
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『景行天皇伝説を巡る冒険』5.葦北•八代地方の景行天皇伝説

2022-11-14 20:45:00 | 景行天皇の記録
【葦北・八代地方の景行天皇伝説】
〔火の国と不知火〕
景行天皇18年5月 葦北より出帆されて日が暮れてしまい、夜の暗やみで岸に着くことができなかくなりました。遠くに火の光が見え着岸すると、そこは八代県(やつしろのあがた)の豊村(とよのむら)でした。天皇は、その火の光りについてお尋ねになりましたが、火の持ち主を見つけることができず、人の燃やす火ではないことがわかったのでその国を「火の国(ひのくに)」と名付けました。また、以来、このあるじ知らずの火を「不知火」と呼ぶようになりました。
『日本書紀』
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年

〔津奈木(葦北郡津奈木町)〕
景行天皇が熊襲攻略の帰途、葦北から船出した時の港が当地で、そに時に船を繋いだため「つなぎ」と称したことにちなむとする伝承があります。
また、「大泊(おおど)」「仮泊(かうど)」「泊(とまり)」「舟隠(ふねかくし)」「京泊(きょうどまり)」などの地名は、すべて景行天皇の御船をおつなぎになったことと関係があるといわれいます。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
岡松壮『わが町津奈木』昭和51年

〔神田(じんで)の神石(葦北郡津奈木町合串(えごし))〕
合串には景行天皇が腰掛けられたとされる「神田の神石」と呼ばれる牛の頭に似た石があり、この石に登ると腹が痛くなるという言い伝えがあります。このとき里人たちが近くにあった田からお米を献上したことから「神田」となったと伝えられています。また、この地にあった景行天皇を祭神とした天子宮は、明和2年(1765年)に平国に移されました。
岡松壮『わが町津奈木』昭和51年
六車茂一郎翁遺稿『津奈木村郷土誌』熊本県葦北郡津奈木村 昭和11年
『広報つなぎ vol.622』津奈木町 2017年

〔湯の児温泉(水俣市湯の児)〕
湯の児温泉の由来については、景行天皇が九州巡幸の折、海岸に自然に湧き出るぬるま湯を発見して「これはまだ湯の子だ」と仰られた伝承があります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年

〔天子宮(葦北郡芦北町田浦宮浦地区)〕
景行天皇の九州巡幸の船泊跡地と伝えられています。天子宮(てんしぐう)の祭神は景行天皇です。由緒によれば、この地に上陸された場所に、後にお宮を建てたられたので宮浦の名前が起こったとされています。
このほかにも、八代・葦北地域には、景行天皇を祀る神社や天子宮と呼ばれる神社があります。津奈木町平国の天子宮(平国神社)、芦北町湯浦町天子宮(栫より移す)、同町道川内の天子宮(道川内神社(みちがわち))、同町乙千屋の天子宮(乙千屋神社(おとじや))、八代市福本本町の天子宮(少彦名命神社)です。
道川内の天子宮には、化石を含んだ石灰岩が境内の端に祀られているのが印象的です。また、乙千屋の天子宮でも本殿とは別に玉石が祀られている祠があります。
津奈木町誌編集委員会『津奈木町誌 上巻』津奈木町 平成5年
『肥後國誌』青潮社 昭和46年

芦北町乙千屋の天子宮(乙千屋神社(おとじや))

芦北町田浦宮浦地区の天子宮

〔御立岬(葦北郡芦北町田浦)〕
景行天皇が田浦の入江からお発ち(お立ち)になったところから、御立岬と呼ばれるようになったという言い伝えがあります。
『薩摩街道さんさくマップ』鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/am01/chiiki/hokusatsu/chiiki/documents/64757_20180315150556-1.pdf

〔日奈久(八代市日奈久)〕
「肥前国風土記」には「纏向の日代の宮に御宇しめしし大足彦の天皇(景行天皇)、球磨贈於を誅ひて、筑紫の国を巡狩しし時、葦北の火流の浦より発船して、火の国に幸しき」とあり、この火流の浦(ひながれのうら)が日奈久海岸に比定されています。
秋本吉郎 『風土記 日本古典文學大系2』岩波書店 1958年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年

〔水島(八代市水島)〕
葦北の火流浦(日奈久海岸)より船出して、八代海の小島にたどり着き食事をとろうとなさりますが、水が底をついて天皇にさしあげることができません。そこで、お供の山部小左(やまべのおひだり)が天地の神に祈りを捧げると、この島の崖下から冷水が湧き出しました。このことから、この島を「水島」と呼ぶようになりました。
『日本書紀』
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年

水島

〔高田みかん(こうだみかん)(八代市高田)〕
景行天皇の父である垂仁天皇(すいにんてんのう)は「非時の香菓(ときじくのかくのみ)」、すなわち、橘(たちばな)をお求めになりました。その命を受けたのは田道間守(たじまもり)。これを探しに常世の国に派遣され、ようやく橘を得て10年後に戻ることができましたが垂仁天皇は既にお亡くなりになられていました。
役目を果たせなかった田道間守は、当時、九州巡幸中だった景行天皇に火の国まで訪ねます。そして、高田付近で景行天皇と巡りあい橘を献上したのち、先帝を追って自決しました。景行天皇はこのことをたいへん悲しまれ、田道間守の最後の地になった高田に橘の実を植えられました。
これが、今もなお残っている高田みかん(八代みかん)の起こりだと伝えられています。紀州みかんで有名な和歌山県のみかんは、天正2年(1574年)、紀伊国の伊藤孫右衛門という人物が、高田から苗と種子を持ち帰って植えたのが、その起こりとされています。
なお、高田には天神地祇を祀った豊葦原神社(遥拝神社)がありますが、この境内で実った高田みかんが初詣の時期は縁起物として頂くことができます。
『日本書紀』
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年
御前明良 「紀州有田みかんの起源と発達史」経済理論292号 p97〜p118 和歌山大学発行 1999年

豊葦原神社(遥拝神社)でもらえる高田みかん



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『景行天皇伝説を巡る冒険』4.球磨•人吉地方の景行天皇伝説

2022-11-12 21:06:00 | 景行天皇の記録

【球磨・人吉地方の景行天皇伝説】
〔弟熊の誅殺〕
景行18年4月、熊県(くまのあがた)(現在の球磨郡・人吉市)に来られました。そこに熊津彦という二人の兄弟がいました。天皇は、まず兄熊(えくま)を召され、兄熊は使者に従ってやってきました。次に弟熊(おとくま)を召されましたが、やって来なかったので兵を遣わして誅殺されました。
『日本書紀』

〔熊襲討伐と天下・天子地名〕
球磨郡錦町の西地区には天下(あもい)神社と呼ばれる神社があります。
熊本県と鹿児島県の境に高くそびえる白髪岳(1416 メートル)や狗留孫 (くるそん)一帯に住んでいたという熊襲を討つために景行天皇が軍を進められ、ここで休息されたところとされています。掃討戦は一か月に及んだと言われています。また、本殿に無造作ではありますが玉石が祀られているのには目を引きます。



錦町の天下(あもい)神社



このほか、人吉・球磨地域には景行天皇の足跡を意味すると思われる「天子」と呼ばれる地名や神社が12ヶ所あるとされています。
上村字麓の天子、上村字石坂の天子、上村字塚脇の天子、免田町久鹿の天子、多良木町牛島の天子、深田村草津山の天子神社、錦町一武字本別府の天子および御手洗、錦町木上字平良の天子神社、相良村柳瀬字三石の天子、山江村字山田合戦峰の天子、山江村城内の天子、人吉市中神町古屋敷の天子 です。



あさぎり町(旧免田町)久鹿の天子神社


また、あさぎり町の旧深田村の草津山地区には「天子の水公園」があります。熊本名水百選にも選ばれており、景行天皇の熊襲討伐の折に御輿をとどめてこの湧き水を飲まれたという伝承があります。



あさぎり町(旧深田村)草津地区の天子神社


あさぎり町(旧深田村)草津地区の天子の水公園


荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53年

『とっておき 我が地域(集落)の自慢』錦町 平成24年
『錦町の文化財』錦町教育委員会 平成28年
深田村誌編纂委員会『深田村誌』平成6年
山江村教育委員会『山江村郷土誌 復刻』平成5年

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『景行天皇伝説を巡る冒険』3.景行天皇の伝説とゆかりの地

2022-11-11 21:10:00 | 景行天皇の記録

【景行天皇の伝説とゆかりの地】

『日本書紀』には景行天皇が九州巡幸のときに発したお言葉や、九州の主な地名の由来となった出来事が書かれてあります。


その代表とも言えるのが「火の国」です。


『日本書紀』の一節を引用すると、


景行天皇185月 葦北より出帆されて火国に至られた。ここで、日が暮れてしまい、夜の暗やみで岸に着くことができなかった。遠くに火の光が見えた。天皇は、船頭に詔して、

「まっすぐに火の見えるところに向かえ」

と仰せられた。そこで火をめざして行くと、岸に着くことができた。天皇は、その火の光るところについて、

「何という邑(むら)か」

とお尋ねになった。その国の人が、

「ここは、八代県(やつしろのあがた)の豊村(とよのむら)ですと申し上げた。さらに天皇は、その火について、

「それは誰の火か」

とお尋ねになった。しかし火の持ち主を見つけることができなかった。そこで、人の燃やす火ではないことがわかった。

それゆえ、その国の名づけて火国(ひのくに)というのである。

『日本書紀()』井上光貞 監訳 中公文庫 p325326  2020


『日本書紀』には「火の国」の由来のほかに「火の国」での行程も書かれています。天皇は、宮崎県の小林市から人吉・球磨に入り葦北から海路で八代方面を経由して島原にお渡りになります。そして、玉名から菊池を通って阿蘇へ寄ったあとに福岡県の浮羽方面へ向かわれます。

また、『日本書紀』には熊本でのいくつかの討伐のようすが書かれてありますが、全体としては巡幸についての概説か要約のような印象です。

しかし、熊本県内には、まるで『日本書紀』の内容を補足・補強をするかのような景行天皇についての伝説や伝承、ゆかりの土地が数多く存在します。


次回以降は、巡幸の路に沿って『日本書紀』に書かれたものも含め、各地に残る言い伝えなどを紹介したいと思います。





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『景行天皇を巡る冒険』2.第12代景行天皇

2022-11-09 21:21:00 | 景行天皇の記録

【第12第景行天皇】
景行天皇は第12代の天皇です。『日本書紀』に書かれてある和風諡号(わふうしごう)は「大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)です。第11代の垂仁天皇(すいにんてんのう)(活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと))の第三子で、日本武尊(やまとたける)の父にあたります。

実在説と非実在説がありますが、『古事記』『日本書紀』に記述があり、特に後者の『日本書紀』には景行12年から景行19年にわたる7年におよぶ九州征伐(九州巡幸)のことが記述されています。

河村哲夫氏は、著書『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』のなかで『日本書紀』や『風土記』、歴史考古資料、各地に残る伝説や現地調査によって、下図1のような景行天皇の九州巡幸の経路を示しました。また、安本美典氏の「統計的年代論」にのっとり、景行天皇の在位期間はおおむね西暦370年から385年と考えました(図2参照)。これは古墳時代の前期頃にあたります。

図1 景行天皇の九州巡幸経路
河村哲夫氏 著『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』より


図2 景行天皇の時代
河村哲夫氏 著『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』より


この時期、大陸では前秦が華北の統一を果たし、これに高句麗、新羅が接近をはかります。一方、朝鮮半島南西部で勢力を増大させてきた百済は南朝の東晋と倭国(日本)に接近をはかっていて、東アジアの政治情勢は緊張状態にありました。
このため、畿内大和を中心とするヤマト王権は、すみやかに国内の支配体制を確立し、百済と協力して高句麗と新羅の南下に備える必要がありました。

景行天皇の九州巡幸やその子の日本武尊(やまとたける)の東征や西征は、このような国際的な政治情勢の中、速やかな国内統一のための抵抗勢力に対する討伐であったと考えられていています。そして、のちの神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出兵につながったと考えられます。神功皇后の子は応神天皇であり、孫は仁徳天皇です。応神天皇、仁徳天皇の時代は、その古墳陵墓の大きさからもわかるように、日本は飛躍的な発展を遂げました。その基礎を築いたのが景行天皇と日本武尊だったのです。

おおげさかもしれませんが、景行天皇や日本武尊の親子は、東北や北海道を除いく当時の日本において最初に国内統一をやってのけた人物たちと言えるのではないでしょうか。しかし、それは血で血を洗ったような戦国武将に勝るとも劣らない武人だったということなのでしょうか。いずれにしても既にヤマト王権と友好的な関係にあった豪族に帰属していた人々は、巡幸してきた天皇をあたかもスーパースターもしくは本当のカミとあがめて迎え入れたのかもしれません。

つづく。


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『景行天皇伝説を巡る冒険』1.山鹿灯籠まつりと景行天皇

2022-11-08 21:07:00 | 景行天皇の記録

【山鹿灯籠まつりと景行天皇】
熊本県の北部に位置する山鹿市では、全国的にも有名な「山鹿灯籠まつり」が8月15、16日の2日間にわたり行われます。町全体が幻想的な灯りで彩られる山鹿の夏の風物詩です。なかでも圧巻は、そろいの浴衣姿の約千人の女性たちが、和紙で作られた金灯籠を頭に掲げて優雅に舞い踊る「千人灯籠踊り」。民謡の「よへほ節」の調べに合わせ、幾重にも重なる灯の輪は、幻想的な世界へと私たちを誘ってくれます。



2つの画像は山鹿市HPより引用
上の画像は、金灯籠をつけた女性たち
下の画像は、千人灯籠踊り


しかし、この伝統的なお祭りが、景行天皇の伝説を一つの起源としていることはあまり知られていません。

ここでの伝説とは、景行天皇が熊襲征伐の九州巡幸のとき、菊池川を遡って上陸しようとしたところ、濃霧にはばまれた天皇の軍勢を山鹿の里人が松明を灯して一行を導いて助けたというものです。当時の山鹿•菊池盆地には「茂賀の浦」と呼ばれる湖が広がっていて、里人は景行天皇が滞在した行在所跡(後に大宮神社が建てられた地)に景行天皇を祀って毎年松明を奉納したというのが灯籠まつりの起源の一つとされています。

一方、江戸時代の安永元年(1772年)の『鹿郡旧語伝記』には次のような内容が書かれています。
灯籠の謂れ(いわれ)は、景行天皇の八頭大亀本記よりこと起きるとされ、延久四年(1070年)に初代菊池則隆が阿蘇大明神を景行天皇の社にして合殿に祭り、さらに治承年中(1177年〜1180年)に大亀の火の光を霊として郡民の祭日の夜、太鼓•鐘をならして炬提燈等を捧げさせて今に伝える、とあります。

このように、第12代景行天皇は、前作の『三玉山霊仙寺を巡る冒険』で紹介した「三玉」だけでなく、現代まで続いている伝統行事にも深く関わっているのです。このことを知ると、景行天皇の九州巡幸は、古代の熊本、すなわち火の国において、極めて特異なできごとであったことが伺えます。

これは、一体、何を意味するのでしょうか?

はたして第12代景行天皇とは、そして、景行天皇の九州巡幸の伝説とは何なのでしょうか。

これらは、古代の人々が紡ぎだした想像上の物語なのでしょうか?

つづく。
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『三玉山霊寺を巡る冒険』25.シンドラ作戦を終えて、、新たな冒険の始まり

2022-11-03 21:11:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【シンドラ作戦を終えて、、新たな冒険のはじまり】
新聞企画の取材を目的に、初めて山鹿を訪れたのは令和3年の2月の末だった。年末に帰省することができなかった次女と、長女と孫、妻の5人で家族ドライブに行ったついでだった。
最初に訪れたのは、これまで一度も訪れたことのなかった彦嶽宮だった。清掃の行き届いた境内と神社全体の雰囲気に、取材にあたり、襟を正さなければならない気持ちになった。

その後は、このシリーズにも記したとおり、取材を重ねながら山鹿、菊池についての理解を深めていった。毎回、発見があり、毎回、疑問が湧き、毎回、資料をあさるという期間が丸二ヶ月続いた。そして、このシリーズでは触れていない、その他の菊池川流域の歴史や文化についても多く学んだ。これは、ひとえに昭和六十年に発行された大著である『山鹿市史』に寄るところが大きかった。しかし、『市史』は発行から既に30年を経過しているため、一部は新しい知識を補完する必要もあり、その結果、多くの名著と巡りあえることができた。それらの書物は、地域への深い愛着の帰結として誕生したものだった。

そして、何と言っても、取材を通して感じたことは、今回出会った菊池川流域の人々は、本当に地域を愛し、地域に強い関心を寄せていることだった。

はじめて、こもれび図書館を訪れ「三玉」のことを尋ねたとき、正直言って、相手にされるとは思っていなかった。しかし、職員の皆さんの温かい協力と支援を得ることができた。それがなければ、ここまでの短期間で、このような成果(大した成果ではないが)をあげることはできなかった。県立図書館にも大変お世話になった。

それから数か月が経過した。

「三玉」という地名の由来がわかったおかげで気持に落ち着きが戻ったものの、日常という何かと忙しい時間の中に身を置いているうちに、今度はナゼか三玉の「祖」というべき景行天皇のことが気になりだした。

熊本県内には第12代景行天皇の伝承やゆかりの地がたくさんあることが次第にわかってきたからだ。

その伝承やゆかりの地のなかで、山鹿における伝承がどのような位置付けになるのか調べてみたいと思った。加えて、日本の歴史を学ぶ上で景行天皇とはどのような意味を持つのか、自分なりに考えてみたくなったのだ。
ひょっとすると、また、何か見つかるかもしれないと思った。

次の冒険が始まった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』は終わります。
ここまで、お付き合いありがとうございました。

コメント (2)
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』24.佐治兵衛翁の真意

2022-11-02 22:06:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【佐治兵衛翁の真意】
佐治兵衛翁は、福原集落に「生目神社」を江戸時代の文化六年(1809年)に勧請した人物である。社務所の古老によれば、この地から毎月、日向の生目神社に参詣していたとのことである。また、『ふるさと山鹿』では、その翁が年老いて月詣でができなくなったために、本社から分神勧請されたとあり、その経緯が本社にも残っていると紹介している。つまり、佐治兵衛翁は、日向の生目神社を、大変強い思いで信仰していたのである。

なぜ、だろうか。

日向(宮崎)の生目神社を振り返ってみよう。

宮崎市にある生目神社は、古くから「日向の目の神様」として眼病にご利益があると信仰され11世紀中頃には建立されていたと伝えられている。主祭神には応神天皇と藤原(平)景清公が祀られており、一説には景清公の伝説が神社の名前の由来とされている。その伝説とは、平家の勇猛な武将であった景清公が、敵の源氏に捕われたとき、源氏の総大将・源頼朝公にその武勇を惜しまれ宮崎へと封じられたが、仇である源氏の繁栄を見たくないと両眼をえぐって空に投げ捨てこの場所に落ちたというものである。また、別の伝えとして、景行天皇の熊襲征伐(九州巡行)の途中、父の活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこさちのみこと、第十一代垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀を当地で営んだため、古来より聖なる地として崇め、後に、「活目八幡宮」として称えたというものである。

つまり、生目(いきめ)とは、活目(いきめ)に由来する、ということである。
しかも、これは景行天皇に因んでいる。景行天皇は、その昔、この日向の地も踏んでいて、人々に忘れ難き強烈な印象を与えたのだろう。

福原集落の「生目神社」は、霊仙寺の目と鼻の先の距離にある。
そして、″三玉山霊仙寺”の祖は、景行天皇である。
佐治兵衛翁は、おそらく、三玉山霊仙寺について、よく理解していたのだと思う。

宮崎の生目神社は、明治時代に「生目八幡宮」から「生目神社」に社名を改めているが、元亀、天正の頃(16世紀末)に、霊仙寺同様、兵火に遭って書物等は焼失している。佐治兵衛翁は、このような生目神社の由来や趨勢を知っていて、それを地元の今は亡き霊仙寺に重ね合わせて、信仰を深めていたのではないだろうか。

私は、この数ヶ月間、「三玉」を必死で追い求め続けてきたが、本当は、地域への深い愛着を持った人々の「御霊」を追い続けてきたのだ。

明治二十二年の町村合併時の話し合いの場で、新村名が三玉になっていく過程で、三村長は皆、地域の過去と未来に思いを馳せていたはずだ。

そして、魂(霊)を込めて「三玉」に決めたのだ。

誇り高き素晴らしい村名だと思った。

《参考文献》
「生目神社」ウィキペディア https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%9B%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
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