申命記5章11節
神の名をみだりに唱えてはならない
2003年に始まったイラク戦争は、今や泥沼化しています。予想できていたという人もいます。場所も、イラク国内を越えています。先週もイギリスで二回目のテロ事件が起こりました。ロンドンには、他国から移民としてやってきたイスラム教徒がたくさん住んでいるということでした。
イギリスは、植民地をたくさんもっていたために、そうした国々からの人々をイギリス本国に受け入れてきたのだということでした。テロを行ったのは、そうして移民としてイギリスに来て、イギリス国籍をとった者たちだったということで、ショックを隠せないようです。昨日は、エジプトでも起こりました。
イラク戦争を始めるとき、アメリカの大統領は、保守派のキリスト教の勢力の支持をたのみとしました。大統領自らが、敬虔なキリスト者というイメージを与えておりました。そして、いくつかの福音主義派の牧師たちも、そのブッシュを指示するような説教や演説を致しました。
神の名を用いて、国民を、否、世界の世論を戦争にかりたてようとしたのです。アメリカの大統領も福音主義派の牧師たちも、神の名をみだりに唱え、利用した者たちではないかと思えてしかたありません。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりに唱える者を罰せずにはおかれない」と、申命記5章11節で述べられています。しかし、イスラムの神の名を利用して、自爆テロ行為に及ばせている者たちもおります。
これもまた、神の名をみだりに唱えている者たちであります。両者共に、神様の名前を持ち出して、敵対心をあおり、双方の国々だけでなく、世界の平和を脅かしている彼らの罪は深いと言わねばならないでしょう。
さらに、日本の国においては、だから、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、一神教の神は、こわいとか、宗教に凝るとこわいとか、そういうことを言う人がでてきます。何事もほどほどがいいのだと自分たちのいい加減な態度や不信仰さに力を得たりという人々もいます。
しかし、このイラクでの戦争やテロの行為によって、世界中で神様の名が汚されるということになっているのは事実です。そのことが、アメリカの戦争を推進している政治家たちも、テロをやっている人々もわかっているのでしょうか。
神様は、「主の名を、みだりに唱える者を罰せずにはおかれない」と言われているのですが、そのことへの恐れはないのでしょうか。何故、「神の名をみだりに唱えてはならない」と言われているのか、うなずける気が致します。
今の例でもわかりますように、神の名を利用して、戦争にかりたてることは、いずこの国においても、いずこの権力においても、行われることをこれまでの歴史が証明しております。
日本においても、天皇を現人神というように神に祀り上げて、その天皇のために、それはそのままお国のためにということだったのでしょうが、そして戦争で死んだ者は英霊となって靖国神社に祀られるというような、思想をつくり、戦争へと駆り立てていったのです。日本においても、そういうことがありました。
それから、この十戒の、一戒から三つ目の戒めまでのことを考えますときに、何か宗教が陥りやすい過ちを指摘しているように思えるのです。聖書において、神様は、人間が行う神への信仰の間違った方向性にしっかりと釘をさしているように思えるのです。
例えば、人間は、どちらかというと、あちらこちらに神様がいるという感情を持つ者が多いと思います。それから、偶像も造りたがります。人間は、神様を目に見えるものにしたがります。安心をしたいのです。それから、その神様の名をみだりに唱えたがるのではないでしょうか。
それが、宗教の傾きやすい方向性です。そうした、方向性のまったく逆の方向性をこの最初の三つの戒めは示しているのです。宗教一般では、もう一度いいますが、神々はたくさんおり、偶像はたくさんあり、神の名をいたるところで、いたるときに唱え、叫び、呼びまくるのです。そうした態度は、真摯な信仰心、態度と言えるのかと問われると、そうではないというのが、聖書の指摘なのではないでしょうか。
そして、特に、この第3の戒めは、神様の名前を軽軽しくも口にしない、呼ばないようにとの戒めですが、このために、長い間、イスラエルの民は、神様をヤーヴェと名前で呼ぶのは畏れ多いと、主(アドナイ)と呼んでいたのです。そもそも、相手の名を知るということは、その人を支配するというような意味合いをもっていたのです。
ですから、神様は、例えば、ヤコブと格闘をして、負けたときも、ヤコブが、神様の名前を聞いても、教えることはありませんでした。逆に、神様は、ヤコブに、これからはお前は、イスラエルと呼ばれると、彼に新しい名前を与えたのでした。
神様が、名前をつけるのです。天地創造をなさったときも、光を昼と呼び、闇を夜、大空を天、乾いたところを地、水の集まったところを海と呼ばれました。神様が名前をつけるのです。神様が支配されるのです。
そして、新約聖書でも、御使いをとおして、神様は、ヨセフに、生まれてくる子をイエスと名付けるように言われました。神様が名前をつけるのです。神様が、私たちを支配なさるのです。その逆ではありません。
しかし、神様は、モーセから、神様の名前について尋ねられたときに、ご自分のお名前を明かされたことがありました。それは、モーセが神様から遣わされたということをイスラエルの民に語るときに、彼らから、その神様の名前を聞かれるに違いありません、そのときには、何とお答えしたらいいのでしょうか、との問いに対してでした。
神様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」、そのように答えよと言われたのでした。名は体を表すと言われますが、まさに、このとき神様が言われた名は、神様の本質を表していたのでした。わたしは、存在するというのですから。神様は、見えないけれども、確かに存在される、そういうお方なのだ、というのでした。
名前ということで、もう少し聖書から考えてみたいのですが、ヨハネによる福音書の10章3節には、「門番は、羊飼いに門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。羊飼いというのは、イエス様、或いは、神様と理解してもいいと思うのですが、その神様は、私たちの名前をおぼえてくださっておられます。
つまり、私たち一人一人の存在をおぼえてくださっているのです。黙示録の21章、27節「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都には入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」とあります。
命の書に名がしるされてある、私たちは、自分がそうであることを願っています。私たちの名というのは、神様におぼえられるときに、はじめて、喜ぶべきものとなるのです。
神様のみ名をみだりに唱えるという場合、先ほどの例をのぞいて、どういう場合が他に考えられるでしょうか。レビ記の19章12節「わたしの名を用いて偽ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」とあります。
神様の名で宣誓をして、裁判のときなどに偽りの証言をするような者がいたのでしょう。強い者が、弱い者を抑圧したり、弱い者の権利を奪ったりということもあったのでしょう。
私たちの身近な場合は、どうでしょうか。神様の御名をみだりに唱えるという場合として、考えられるのはどういうときでしょうか。苦しいときの神頼みということでしょうか。これは、してもいいのではないでしょうか。苦しいときに神様におすがりする、依り頼む、そういうことは許されているし、そのことを神様は喜ばれるに違いないのであります。
ただし、日頃、自分がなすべき努力をしないでおいて、頼み求めるということはどうなのでしょうか。例えば、試験のときに、日頃の努力の成果が十分に発揮できるようにという祈りは、いいとしても、まったく勉強も、それなりの準備もせずに、あしたのテストがうまくいきますように、などという祈りは、みだりに唱えているということにならないでしょうか。
或いは、神様を試すような形で、祈り求めるというのは、どうなのでしょうか。もし、神様がこれこれのことを適えてくださったら、自分は、これこれのことをします、というような祈りです。或いは、単なる、私利私欲のためにする祈りは、どうなのでしょうか。
人の不幸を願うような祈りはどうでしょうか。私たちには、何を祈るべきかということは、当然あるのです。何でも祈ってかまわないということではないでしょう。ローマの信徒への手紙の8章26節には「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とありますように、祈りの真実というものがあるのです。
ほんとうに苦しいときには、どう祈っていいかもわからない、否、祈りの心さえ、失せてしまうということだって起りえます。そのとき、聖霊の働きによって、助けられるということもおこります。神の名はみだりに唱えるべきでは決してないのです。
神様の名前をみだりに唱えた結果として、神様の名が汚されるということがあります。最初に言いましたような、アメリカの大統領や福音主義派の牧師、テロ行為を唆す者たち、他にもいるでしょう。最近では、あれは異端だとは思いますが、キリスト教を名乗る教会の指導者が行ったハレンチな行為などもそうです。このようなことを通して、神様の名は、汚されています。
それでは、どのようにして、汚された神様の名は名誉を回復されるのでしょうか。そのことについて、エゼキエル書の36章21節から24節のところに、書かれてあります。
「そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神は、こう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが、彼らの目の前で、お前たちを通して、聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる」、そう言われるのです。
汚された神様の名を人間が、聖なるものにすることはできません。それは、神様ご自身がなさるのだと、言われているのです。しかし、それは人間の行為によって、それを見て、人々が神様を称えるのだと、神様が聖なる者であることに気付くのだということです。主体は、神様ご自身ですが、しかし、それをなさるときは、人間をとおしてなさると言われます。
そうしますと、ほんとうに平和をつくる努力を、アメリカをはじめテロリストと対峙している国々とテロリストたちが互いになし、時間をかけ、話し合って、もちろん、そのとき、神様のお力が働かれ、そのことを導いておられるのですが、それでも、そうした双方の努力によって、平和が築かれたときに、人々は、真の神を称えることになるのだと、思うのです。
私たちは、マザーテレサをはじめ、あの修道会の働きですとか、中村哲さんたちが行っているアフガニスタンでの働きですとか、そうしたことが、神様を証ししていることを知っています。
しかし、彼らは、あの政治家やテロリストたちのように、神様の名を声高に叫ぶことをしません。隣人のために、こつこつと息の長い、確実な仕事をしているに過ぎません。しかし、結局、それが、十分なる証しをしているのです。
彼らこそ、絶望的な隣人の痛みを前にして、神の名を四六時中叫びたいのだと思うのですが、彼らは、神の名をみだりに唱えることをしないのです。
否、祈りはきっとしていることでしょう。それも、必死の祈りをしているに違いないのです。しかし、それは、公のところで、これみよがしになされる祈りとは違うのです。それでいて、十分に愛で満たされた行為をし続けているのです。
神のみ名をみだりに唱えない人々の真実さを私たちは見る思いがします。私たちもまた、真実に神様の名前を唱え、祈りましょう。
今週、私たちは、韓国の華明中央教会へ行ってきます。そこにおいてもまた、互いに、真実の神様のみ名を口にし、これから、真実の祈りを交わす関係が築かれるように、お祈りください。
神の名をみだりに唱えてはならない
2003年に始まったイラク戦争は、今や泥沼化しています。予想できていたという人もいます。場所も、イラク国内を越えています。先週もイギリスで二回目のテロ事件が起こりました。ロンドンには、他国から移民としてやってきたイスラム教徒がたくさん住んでいるということでした。
イギリスは、植民地をたくさんもっていたために、そうした国々からの人々をイギリス本国に受け入れてきたのだということでした。テロを行ったのは、そうして移民としてイギリスに来て、イギリス国籍をとった者たちだったということで、ショックを隠せないようです。昨日は、エジプトでも起こりました。
イラク戦争を始めるとき、アメリカの大統領は、保守派のキリスト教の勢力の支持をたのみとしました。大統領自らが、敬虔なキリスト者というイメージを与えておりました。そして、いくつかの福音主義派の牧師たちも、そのブッシュを指示するような説教や演説を致しました。
神の名を用いて、国民を、否、世界の世論を戦争にかりたてようとしたのです。アメリカの大統領も福音主義派の牧師たちも、神の名をみだりに唱え、利用した者たちではないかと思えてしかたありません。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりに唱える者を罰せずにはおかれない」と、申命記5章11節で述べられています。しかし、イスラムの神の名を利用して、自爆テロ行為に及ばせている者たちもおります。
これもまた、神の名をみだりに唱えている者たちであります。両者共に、神様の名前を持ち出して、敵対心をあおり、双方の国々だけでなく、世界の平和を脅かしている彼らの罪は深いと言わねばならないでしょう。
さらに、日本の国においては、だから、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、一神教の神は、こわいとか、宗教に凝るとこわいとか、そういうことを言う人がでてきます。何事もほどほどがいいのだと自分たちのいい加減な態度や不信仰さに力を得たりという人々もいます。
しかし、このイラクでの戦争やテロの行為によって、世界中で神様の名が汚されるということになっているのは事実です。そのことが、アメリカの戦争を推進している政治家たちも、テロをやっている人々もわかっているのでしょうか。
神様は、「主の名を、みだりに唱える者を罰せずにはおかれない」と言われているのですが、そのことへの恐れはないのでしょうか。何故、「神の名をみだりに唱えてはならない」と言われているのか、うなずける気が致します。
今の例でもわかりますように、神の名を利用して、戦争にかりたてることは、いずこの国においても、いずこの権力においても、行われることをこれまでの歴史が証明しております。
日本においても、天皇を現人神というように神に祀り上げて、その天皇のために、それはそのままお国のためにということだったのでしょうが、そして戦争で死んだ者は英霊となって靖国神社に祀られるというような、思想をつくり、戦争へと駆り立てていったのです。日本においても、そういうことがありました。
それから、この十戒の、一戒から三つ目の戒めまでのことを考えますときに、何か宗教が陥りやすい過ちを指摘しているように思えるのです。聖書において、神様は、人間が行う神への信仰の間違った方向性にしっかりと釘をさしているように思えるのです。
例えば、人間は、どちらかというと、あちらこちらに神様がいるという感情を持つ者が多いと思います。それから、偶像も造りたがります。人間は、神様を目に見えるものにしたがります。安心をしたいのです。それから、その神様の名をみだりに唱えたがるのではないでしょうか。
それが、宗教の傾きやすい方向性です。そうした、方向性のまったく逆の方向性をこの最初の三つの戒めは示しているのです。宗教一般では、もう一度いいますが、神々はたくさんおり、偶像はたくさんあり、神の名をいたるところで、いたるときに唱え、叫び、呼びまくるのです。そうした態度は、真摯な信仰心、態度と言えるのかと問われると、そうではないというのが、聖書の指摘なのではないでしょうか。
そして、特に、この第3の戒めは、神様の名前を軽軽しくも口にしない、呼ばないようにとの戒めですが、このために、長い間、イスラエルの民は、神様をヤーヴェと名前で呼ぶのは畏れ多いと、主(アドナイ)と呼んでいたのです。そもそも、相手の名を知るということは、その人を支配するというような意味合いをもっていたのです。
ですから、神様は、例えば、ヤコブと格闘をして、負けたときも、ヤコブが、神様の名前を聞いても、教えることはありませんでした。逆に、神様は、ヤコブに、これからはお前は、イスラエルと呼ばれると、彼に新しい名前を与えたのでした。
神様が、名前をつけるのです。天地創造をなさったときも、光を昼と呼び、闇を夜、大空を天、乾いたところを地、水の集まったところを海と呼ばれました。神様が名前をつけるのです。神様が支配されるのです。
そして、新約聖書でも、御使いをとおして、神様は、ヨセフに、生まれてくる子をイエスと名付けるように言われました。神様が名前をつけるのです。神様が、私たちを支配なさるのです。その逆ではありません。
しかし、神様は、モーセから、神様の名前について尋ねられたときに、ご自分のお名前を明かされたことがありました。それは、モーセが神様から遣わされたということをイスラエルの民に語るときに、彼らから、その神様の名前を聞かれるに違いありません、そのときには、何とお答えしたらいいのでしょうか、との問いに対してでした。
神様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」、そのように答えよと言われたのでした。名は体を表すと言われますが、まさに、このとき神様が言われた名は、神様の本質を表していたのでした。わたしは、存在するというのですから。神様は、見えないけれども、確かに存在される、そういうお方なのだ、というのでした。
名前ということで、もう少し聖書から考えてみたいのですが、ヨハネによる福音書の10章3節には、「門番は、羊飼いに門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。羊飼いというのは、イエス様、或いは、神様と理解してもいいと思うのですが、その神様は、私たちの名前をおぼえてくださっておられます。
つまり、私たち一人一人の存在をおぼえてくださっているのです。黙示録の21章、27節「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都には入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」とあります。
命の書に名がしるされてある、私たちは、自分がそうであることを願っています。私たちの名というのは、神様におぼえられるときに、はじめて、喜ぶべきものとなるのです。
神様のみ名をみだりに唱えるという場合、先ほどの例をのぞいて、どういう場合が他に考えられるでしょうか。レビ記の19章12節「わたしの名を用いて偽ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」とあります。
神様の名で宣誓をして、裁判のときなどに偽りの証言をするような者がいたのでしょう。強い者が、弱い者を抑圧したり、弱い者の権利を奪ったりということもあったのでしょう。
私たちの身近な場合は、どうでしょうか。神様の御名をみだりに唱えるという場合として、考えられるのはどういうときでしょうか。苦しいときの神頼みということでしょうか。これは、してもいいのではないでしょうか。苦しいときに神様におすがりする、依り頼む、そういうことは許されているし、そのことを神様は喜ばれるに違いないのであります。
ただし、日頃、自分がなすべき努力をしないでおいて、頼み求めるということはどうなのでしょうか。例えば、試験のときに、日頃の努力の成果が十分に発揮できるようにという祈りは、いいとしても、まったく勉強も、それなりの準備もせずに、あしたのテストがうまくいきますように、などという祈りは、みだりに唱えているということにならないでしょうか。
或いは、神様を試すような形で、祈り求めるというのは、どうなのでしょうか。もし、神様がこれこれのことを適えてくださったら、自分は、これこれのことをします、というような祈りです。或いは、単なる、私利私欲のためにする祈りは、どうなのでしょうか。
人の不幸を願うような祈りはどうでしょうか。私たちには、何を祈るべきかということは、当然あるのです。何でも祈ってかまわないということではないでしょう。ローマの信徒への手紙の8章26節には「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とありますように、祈りの真実というものがあるのです。
ほんとうに苦しいときには、どう祈っていいかもわからない、否、祈りの心さえ、失せてしまうということだって起りえます。そのとき、聖霊の働きによって、助けられるということもおこります。神の名はみだりに唱えるべきでは決してないのです。
神様の名前をみだりに唱えた結果として、神様の名が汚されるということがあります。最初に言いましたような、アメリカの大統領や福音主義派の牧師、テロ行為を唆す者たち、他にもいるでしょう。最近では、あれは異端だとは思いますが、キリスト教を名乗る教会の指導者が行ったハレンチな行為などもそうです。このようなことを通して、神様の名は、汚されています。
それでは、どのようにして、汚された神様の名は名誉を回復されるのでしょうか。そのことについて、エゼキエル書の36章21節から24節のところに、書かれてあります。
「そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神は、こう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが、彼らの目の前で、お前たちを通して、聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる」、そう言われるのです。
汚された神様の名を人間が、聖なるものにすることはできません。それは、神様ご自身がなさるのだと、言われているのです。しかし、それは人間の行為によって、それを見て、人々が神様を称えるのだと、神様が聖なる者であることに気付くのだということです。主体は、神様ご自身ですが、しかし、それをなさるときは、人間をとおしてなさると言われます。
そうしますと、ほんとうに平和をつくる努力を、アメリカをはじめテロリストと対峙している国々とテロリストたちが互いになし、時間をかけ、話し合って、もちろん、そのとき、神様のお力が働かれ、そのことを導いておられるのですが、それでも、そうした双方の努力によって、平和が築かれたときに、人々は、真の神を称えることになるのだと、思うのです。
私たちは、マザーテレサをはじめ、あの修道会の働きですとか、中村哲さんたちが行っているアフガニスタンでの働きですとか、そうしたことが、神様を証ししていることを知っています。
しかし、彼らは、あの政治家やテロリストたちのように、神様の名を声高に叫ぶことをしません。隣人のために、こつこつと息の長い、確実な仕事をしているに過ぎません。しかし、結局、それが、十分なる証しをしているのです。
彼らこそ、絶望的な隣人の痛みを前にして、神の名を四六時中叫びたいのだと思うのですが、彼らは、神の名をみだりに唱えることをしないのです。
否、祈りはきっとしていることでしょう。それも、必死の祈りをしているに違いないのです。しかし、それは、公のところで、これみよがしになされる祈りとは違うのです。それでいて、十分に愛で満たされた行為をし続けているのです。
神のみ名をみだりに唱えない人々の真実さを私たちは見る思いがします。私たちもまた、真実に神様の名前を唱え、祈りましょう。
今週、私たちは、韓国の華明中央教会へ行ってきます。そこにおいてもまた、互いに、真実の神様のみ名を口にし、これから、真実の祈りを交わす関係が築かれるように、お祈りください。