平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年1月31日 真理の声を聞き分ける

2016-03-24 12:56:36 | 2016年
ヨハネによる福音書10章1~6節
真理の声を聞き分ける

 私たちは愛する者には、名を付けます。ペットにも、もちろん、名前をつけて呼びます家族同然、可愛がっております。決して、「おい!」、「ちょっと!」、などとは言いません。飼われている羊たちにも、名前をつけていました。たくさんの群れになりますと、名前など不要かと思いますが、昔から羊飼いたちは、一匹一匹の羊たちに名前をつけていて、その名前を呼んで、群れ全体を導いておりました。
 名前をおぼえるのが、自然とできる方、得意な方もおられますが、苦手な方もおられます。私は、牧師をしていますから、人の名前はよく憶えていますと答えたいところですが、ほんとうによく忘れます、というより、最初からおぼえていないのですね。それで、「申し訳ありませんが、お名前は何でしたっけ」と、恥ずかしい質問をしなければならないのが多くの場合です。
 これは、プロ意識に欠けておりまして、だめですね。名前を呼ばれるだけで、私たちは相手から認めていただいたような気持になりますから、それこそ、その方との関係をつくる上では、名前をおぼえるというのは、大事なことで、私のような職種の者はなおさらです。わかっているけれど、できないのですね。買い物で、よくいくお店などで、名前を呼ばれたりすると、自分はここでは自分の存在を認めてもらっているのだ、と思うでしょう。
 私も管理釣り場に行って、平良さんはこれ以上釣らないでくださいね、などと言われても、平良さんと名前をおぼえてもらっているということで、うれしくなります。その点、妻は、よく人の名前はおぼえています。ただし、フーちゃんが、なみちゃんが、と名前で人の話をするのですが、なみちゃんとおぼしき人はあれこれと複数おられて、いったいどこのなみちゃんなんですか、と私は自分のことは棚に上げて、イライラして聞き返します。
 ときに、妻と本人だけの関係であり、他の人は全然知らない人なのに、なみちゃんがと話したりするものですから、当然、その話を聞く人は、いったいだれのお話をしているのはわかりません。まあ、とにかく、妻は人の名前をおぼえるのが得意です。おそらく人に対する関心の度合いが違うのでしょうね。こればかりは、持って生まれたものもありますので、私は自分をそれほど責めないようにしています。
 ただし、私は、名前はおぼえられませんが、数字は、比較的まあ結構おぼえています。例えば、自分の携帯番号ですが、皆さん、ご自分の携帯番号を今言えますか。妻は、そらでは言えないのです。
 私は言えます。「おー、やべー、よみいいなあ、ゴーゴ-ナンバーワン」です。こんな具合でおぼえます。これはどういう意味かと言いますと、「オーヤバイ080、黄泉はいいなあ4317、行こう行こう真っ先に55・・」ということです。何で、こんな番号をもらったのですか、と聞かれても、携帯電話の会社がくださった番号でして。どうやって覚えるかと考えたときに、こんな覚え方をしてしまったということですね。人柄が疑われるというのなら、ごめんなさいとしか言いようがありません。
 牧師が、そんな覚え方していいのかと言われそうですが、これは、逆説ですので、ジョークと思ってお聞き流しください。これは、歴史で年代をおぼえるやり方です。しかし、人の名前は、おぼえられないのです。顔と名前がつながらないのです。ところが、羊飼いたちは、あの羊たちの顔をみて、わたしにはどれもこれも同じようにしか見えないのですが、あの顔形を見て、名前がでてくるというのですから、驚きです。
 まず、その違いがわかるということですね。それほどに、一匹一匹の羊たちをかわいがっている、愛しているということでしょう。イエス様も私たち一人一人をよくご存じでして、この私、平良憲誠を名前で呼んでくださることでしょう。けっして、そこのちょっと頭の禿げあがったとか、かんとか、というような呼ばれ方はなさらないに違いありません。ちゃんと名前で呼んでくださいます。
 今の時代、名前を知られるというのは、うれしいことだけではありません。ちょっと、怖いことにもなりかねません。へたに名前を覚えられて、サギのターゲットになったりします。しかし、イエス様に知られるということは、実に安全なことであります。しかも、イエス様は私たちのすべてをご存じの上で、私たちを愛してくださっています。
 「羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。羊飼いは、イエス様、自分の羊とは、それは私たちたちのことであり、私たちはイエス様の羊です。先週は、ヨハネによる福音書の6章の5000人の給食のお話を致しました。その際、39節にも触れて、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることです」とありました。
 私たち羊は、神様がイエス様に与えてくださった一人一人なのです。そして、その羊飼い、イエス様のお仕事は、神様からいただいた自分の羊たちを、ひとりも失わないで、終わりの日に復活させることだと、はっきりと語られています。
 また、イエス様は、羊飼いだと言われますが、ただの羊飼いではありません。よい羊飼いだというのです。良い羊飼いの定義をイエス様は、良い羊飼いは、羊のために命を捨てる、と言われます。ほんとうにそのような羊飼いがいるのでしょうか。イエス様は、雇い人は、それぞれの羊たちは、自分の所有の羊ではないから、狼が来ると、その羊たちを置いて逃げてしまう。命をかけるほどのものでないからでしょう。
 しかし、良い羊飼いは、自分の羊たちのために、命を捨てる、それほどの思いをもって羊を守るのである、ということです。命がけで、羊たちを守るのが、良い羊飼いというのです。イエス様が十字架におつきになるという形で、私たちの命が滅びるのを救ってくださいました、そのことを成し遂げてくださいました。14節で「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」とあります。
 イエス様と私たちの関係は、神様とイエス様との関係と同じであるとまで言われます。イエス様は、私たちのことを知っておられます。私たちは、神様からイエス様に与えられた存在です。私たちの外見上の一人一人の違いをよくご存じです。それだけではありません。
 内面のいろいろなこともまたよくご存じです。何が好きで、何を嫌がり、どのような考え方をして、どのような癖があり、何に悩んでいて、何を喜びとしているのか、多くをご存じです。私たち自身もまだよくわからない自分自身のこともイエス様はよくご存じなのです。イエス様が、わたしたち一人一人の名前を知っているということは、私たちのすべてを知っておられるということと同じです。
 さて、私たちは、その羊飼いに呼ばれて、右へ左へ、そして、牧草地へ、或いは、水場へ、また、安全な囲いの中へと入っていきます。ときには、小高い丘を越えなければならないかもしれません。崖の多いところをそろりそろりと進んでいかなければならないかもしれないのです。しかし、羊飼いが導いてくれるので安心して従っていくのです。問題は、そのイエス様の声を聞き分けることができるかということです。イエス様は、「羊はその声を聞き分ける」、「羊はその声を知っている」と言われます。
 また、27節でも「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」とあります。そうしますと、イエス様の羊でないものは、イエス様の御声がわからない、イエス様の御声を聞き分けることができない、そういうことになります。当然、イエス様に従うこともありません。私にイエス様の御声は聞こえるか、そのことが大事です。
 例えば、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という御声は、私の耳に聞こえてくるか、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」という御声なら、私の耳に入ってくるか、イエス様の御声としてその声がわかるか、響いてくるか、そういうことです。しかし、それはできるのだと、私の羊である限り、それはこちら側の努力のいかんではなく、神様の恵みとしてそれはできるようになっているというのが、ここらのみ言葉の意味だと思います。
 さて、イエス様は、14章の6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました。
 1月のJOYSHIPのテーマは、「主の道をまっすぐにせよ」ということだとうかがいました。これは、ヨハネによる福音書の1章の23節でバプテスマのヨハネが言った「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』、と」という御言葉からとったテーマですね。
 ヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。人々は、罪にまみれて曲がった道を歩いてきたが、これからは悔い改めて、メシアの救いを受けよということだったのでしょうか。そして、このバプテスマのヨハネもイザヤ書の40章3節からこの言葉を引用しております。このもともとの意味は、捕囚の民であったイスラエルの人々に、神様からの赦しの宣言がなされて、いよいよ彼らが、神様へ向かって道を進むのですが、その神様へ向かう道を彼ら自身が、広くて平らで、まっすぐな道にするように努力するということなのです。確かに、私たちには、そのことへの使命も与えられていると思います。
 しかし、14章では、イエス様が、その道こそ私であると言われました。主の道とは、神様のみもとへ向かっていく道、その道は、イエス様ご自身だと言われたのです。イエス様を通っていく道です。私たちが、神様へ向かう道を舗装する必要はなくなりました。ただ、この道を選んで、歩んでいけばいいのです。実に、楽に、簡単になりました。
 イエス様は、このたとえのなかで、ご自分のことを囲いの門だとも言われました。門以外の他のところから、この羊たちのいる囲いの中に入ってくる者は盗人だと言われます。ここでの盗人というのは、ファリサイ派の人々のように救い主なるイエス様を受け入れることではなく、自分の行いをもって神様に自分を正しい者として扱ってもらうことを価値としていた人々であり、それを他の人々にも説いていた人々のことでした。
 イエス様は、自分が門であり、自分を通らなければならないのだと、言われました。羊たちは、皆、この門を出入りして牧草を見つけるのです。牧草、それは命の糧です。牧草を食べなければ、生きていくこともできません。それにありつけるのは、イエス様という門を通ることです。イエス様を通らないでは、牧草地にはいけないのです。行ったり来たり、イエス様という門を通ることで、イエス様に触れることで、魂に牧草という糧が与えられ、命が育まれていきます。
 また、イエス様は、真理です。イエス様の羊である者たちは、イエス様の御声を聞き分けることができるのです。それは、真理の御声です。わたしたちが、イエス様の羊である限り、それはできるということです。こちらの努力のいかんによって、それがイエス様の声であるのかどうか、真理の声であるのかどうか、聞き分けることができるというのではなく、既に、イエス様の羊であるあなたには、それができるのだということの宣言がなされているのです。これは私たちに与えられた恵みです。
 私たちは、良い羊飼いなるイエス様所有の羊たちです。良い羊飼いは、羊たちのために命を捨てる、まさに、イエス様は、私たちのために十字架におかかりになり、命を捨てられました。これ以上の羊飼いはおられません。
この良い羊飼いの羊であることの恵みを私たちは、感謝して受け入れます。
そして、まだ、この囲いの中にいないイエス様の羊たちがおられますので、その羊たちのためにも、私たちはイエス様のお手伝いをしてまいりましょう。


平良師

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