平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2014年11月9日 わたしたちの罪とは

2015-03-22 18:04:16 | 2014年
イザヤ書53章1~12節
わたしたちの罪とは

 宗教的にさほど熱心でない人も、昔から、幼い子どもを教育するときには、誰も見ていなくても神様はご覧になっているのだから、神様だけはちゃんと知っているのだから、悪いことをしてはだめですよ、と教えてきました。聖書は、神様のことを思う思いは、そもそも人間が創造されたときから、神様によって、すべての人間に与えられたものなのだと教えています。誰もが、何らかの形で神様のことを考えるように、神様は一人一人を創造されています。
 そして、「誰も見ていなくても、神様だけはご覧になっている」というのは、人間の罪の意識の問題を実に明確に述べている例だと思いますし、根本的には人類全体が、こうした神様のイメージを聖書が言うように、生まれつき与えられているのかもしれないのです。しかし、私たちは、罪というものがどのようなものなのか、日本人である私たちは、さらに聖書から教えてもらう必要があるだろうと思っています。
 それは、日本人の罪概念と聖書が教えているところの罪概念には、多少の差があるように思うからです。日本人の罪意識についてですが、はじめに、法律違反や規則を破る罪のことは、もちろん十分に理解されています。また、人間関係における儒教的というか、道徳的・倫理的なところからくる罪意識をもって罪と考える方も多いでしょう。それから宗教的な罪ということであれば、ご先祖様に対して供養が十分でなかったとか、祭儀が不十分であったなど、仏教的、神道的な罪についての理解があると思います。
 ところが、神様に対して罪を犯しているという意識は、実に理解が困難なのではないでしょうか。それは、唯一絶対なる神様という意識を日本人の多くは欧米諸国の人々に比べると持っていないからです。当たり前と言えば、当たり前のことですが。この神様との関係における罪意識は、おそらく、聖書を通してしか得られない、聖書をとおしてしか、はっきりとした罪概念は、理解できないに違いありません。聖書を知ることなしに、真実に罪を知ることはできないでしょう。
 欧米諸国は、文化の中にキリスト教が根付いておりますので、罪の問題も自然と扱われています。私たち日本人が、映画やテレビドラマを作ったりすると、その中に仏教に関すること、神社に関することなどが自ずと取り上げられているように、欧米諸国もまた、映画やドラマの中にキリスト教のことが取り上げられています。
 たとえば、葬儀やお祭りなどです。これは、映画やドラマだけでなく、日々のニュースの中でもマスコミがその季節・季節のお祭りなどを取り上げますが、そのような扱いもしかりです。そのように、日本人も、自ずとそのような宗教的な文化事情の中で、罪といったものも、理解させられてきています。
 ですから、キリスト教でいう罪もまた、聖書が教えるものがどのようなものなのかを日本の人々には改めて伝えていかなければならないと思います。それで、キリスト者になっても、日本においては、長い信仰生活をとおして、長い時間を経て、ようやく、罪がどのようなものなのかにたどり着く方もおられます。私もバプテスマ(洗礼)を受けられる方々のために学び会をして、その備えを共にさせていただくのですが、そのときの一番の問題は、この罪意識です。
 よほど、普段からでたらめな生活を送ってきていたり、何かのことで他者に対して悪どいことをしてきていない限り、普通にまじめに生活をしてきた人には、自分が罪人だといった感覚は正直いってわからないのです。聖書の中にコヘレトの手紙というものがありますが、その7章の20節にも「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」とありますし、パウロという人も、ローマの信徒への手紙3章の23節で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と述べています。
 聖書は、すべての人間が罪人なのだと言っているのです。しかし、実感としてはなかなか得られにくく、聖書に描かれている神様を見ていくなかで、ああ、このようなことに神様は怒られ、このようなことが罪に相当し、このようなことは大目に見てくださり、全く私たちが赦されたのは、そのような理由によるものなかと理解されるものだろうと思います。日本人の罪意識と欧米諸国の人々が持っている罪意識は、重なるものもたくさんありますが、異なっている部分があることを心しておきたいと思います。
 このイザヤ書53章には、罪というものについて、考えるヒントになる言葉がいくつかあります。神様への背きの罪、という言葉がでてきます。神様に背く、というと、初めにそれがなされたのはいつであったかというと、それは、最初に神様が創造された人、アダムに遡ります。人間は、他の動物と違って神様に似せて造られたと言われます。そして、自由意志を与えられ、自らの意志で神様を信じ、神様に従うように創造されたと理解されます。十戒のなかに、真の神(わたし)以外のものを拝んではならないと言われました。
 さて、その最初の人アダムは、神様から、この木の実だけは食べてはならない、死んでしまうからと教えられていたのに、蛇の誘惑にのってパートナーのエバがまず食べて、それからエバがアダムに差し出したものを彼も食べて、神様に背きました。これが最初の人類が、神様に背いた出来事でした。
 ですから、人間には、初めからこの神様に背くというDNAが組み込まれているということのようです。これを原罪と言います。神様に背いたこの二人は、エデンの園(楽園)から追放されました。このときから、滅びとしての死が訪れたということです。そして、アダムとエバにふたりの子供が与えられます。
 カインと弟アベルです。神様は弟の献げ物には目を留められましたが、兄の献げ物にはそうではありませんでした。それで、兄カインは激しい怒りにかられるのです。そこで、神様は、カインに、あなたが正しいのなら顔をあげられるはずではないか、もしそうでなければ、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求めるから、お前はそれを支配せねばならない、と警告されるのでした。
 暗に、兄アベルの罪を神様は見抜いておられるようなのですが、そうでなくても、つまり、人生には、ときに、その人にとって、不条理と思えるようなことも起こるということです。兄アベルには、どうして弟だけの献げ物が受け入れられたのか納得いきませんでした。そこで、このお話の場合は、兄のカインが、嫉妬にかられて弟アベルを殺害するのです。人間は、その場合、そのよからぬ思い(嫉妬、怒り、憎しみ)を支配する、コントロールしなければならないのです。しかし、それができないために、罪に及んでしまう、そういうことを言っています。
 そして、最初の殺人が行われたお話が、この兄カインの弟アベル殺しでした。人は、創造の初めから神様に背き、生まれた子供もまた、罪を犯してしまった、ということで、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」というパウロの言葉は、人類創造の初めからだったと、残念ながら、そういうことになります。
 それから、罪ということでは、このイザヤ書の53章には、6節ですが、このような表現があります。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を・・」という言葉です。私たちは羊の群れであるとあります。羊(人間)は、羊飼い(神様)の言うことに従って、歩んでいます。羊飼いに守られ、導かれて、牧草のある、水のある、安全な場所へ移動していくことができます。
 しかし、それが罪を犯すというのは、羊飼いが導いてくれているのに、それに従わず、勝手に動いて道に迷ってしまうということです。それも、それぞれがてんでばらばらに、勝手な方向に進んでいったということです。これが、人間の罪だと、聖書は言うのです。イスラエルの人々は、バビロンへの捕囚というつらい状況が訪れたのは、自分たちが神様に背いたからである、と考えました。つまり、道を誤り、それぞれの方角に向かって行ったのでした。
 そして、それは、具体的には、イスラエルの人々が、異教の偶像の神々を拝んだということ、それも歴代の王たちの多くがそのような過ちを犯し、民も同じように罪を犯しました。それから、政治的にも、歴代の王たちは、王に苦言を呈する預言者の言うことを聞かずに、勝手なことをやっていきました。なかには、民衆への迫害や搾取を行い、神様の怒りをかう王たちもおりました。それもまた、罪であったと考えました。
 イエス様は、罪の問題をもう少し、徹底した厳しさで、あるいは、幅広い角度から私たちに教えております。実際の罪ある行為をしなくても、心の中で思えば、それもまた罪を犯したのと同じだと言われたこともありました。マタイによる福音書の5章の27節からのところ、「あなたがたも聞いているとおり、姦淫するなと命じられている。
 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。あるいは、ルカによる福音書6章の41節からのところ、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気付かないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください、と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。
 イエス様というお方は、罪の問題を、人々の罪を指摘して、裁きの座にあった当時の祭司たちやファリサイ派の人々、律法学者たちの中にも見出され、彼らに痛烈な罪の指摘をなさいました。これなども、そのうちの一つです。しかし、こうした事柄は、何も当時の彼らだけでなく、現在に生きる私たちにもあてはまります。
 イエス様は、実際に行わなかったからそれで罪がないということではない、心の内に思っただけでも罪なのだとそれまでよりももっと厳しい見方も示されました。また、自分たちの行いは棚にあげて、他者に罪人というレッテルを貼って、天国の門を閉ざすようなまねをしていた人々の罪をも指摘しました。私たちには、人のあら、足りなさは、よく見えるのです。
 そして、自分も同じようなことをやっていたり、配慮が足りなかったりというのは、よくあることですが、なかなかそれに気付かないで他者を裁いていることは結構あります。私たちが、イエス・キリストを知ったからそうなのだと思うのは、自己を絶対化せず、相対化できるというところではないでしょうか。
 自分も他の人のことをあれこれとあげつらうことはできない、自分も私が非難しているその人とあまり変わらないかもしれない、そのような思いを与えられるところです。あるいは、この方も、私同様、神様が愛されている方だ、そのような思いに導かれるのも、イエス様から示されていることで、先ほどの聖書の箇所などですが、教えられるところが大きいと思います。イエス様は、ヨハネによる福音書の8章で、姦淫の現場で捕えられてきた女性に、人々が、イエス様を試そうとして、こういう女性は、律法によれば石で打ち殺せとありますが、どうしたらよいでしょうかと聞いてきた律法学者やファリサイ派の人々に、「あなたがたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい」と言われました。そうしましたら、一人また一人去り、そこには、イエス様とその女性しか残りませんでした。そして、このときイエス様は、わたしもあなたを罪に定めない、これからはもう罪を犯さないように、と言って、この女性を返されたという話があります。
 ところで、このイザヤ書53章のいわゆる苦難の僕と言われる人物は、イエス・キリストではないか、と思われています。イエス様が、裁判にかけられて、十字架におつきになられた、その場の状況とこの53章は、よく似ています。そして、この苦難の僕と神様との関係ですが、「わたしたちの罪をすべて、主(神様)は彼(苦難の僕、イエス・キリスト)に負わせられた・・わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と書かれています。
 わたしたちの背きと、わたしたちの咎のために、また、私たちが道を誤り、それぞれの方角に向かって行った、そうした罪のために、この僕は、私たちに代わって、捕えられ、裁きを受けて、命を取られた、と言っています。
 聖書によれば、私たちの罪は私たちの善行によっては、赦されないのだということです。そもそも、コヘレトの言葉にありましたように、人は、善ばかり行って、悪を行わないような人は誰もいないからです。人は皆、罪を犯して神様の栄光を受けられなくなっているのです。神様が、イエス・キリストをこの世に遣わされ、彼に罪を負わすことで、一方的に、私たち人間の罪を赦されたということです。私たちが、神様の前に義とされるのは、正しいとされるのは、この救いの出来事を信じる、その一点においてだけだ、というのが、聖書の言っていることです。こうしたことを信じる信仰によって、私たちは、神様にそれでよい、義とされるのです。つまり、私たちの罪が完全に赦されるのだということです。
 それにしましてもこのイザヤ書の53章に描かれている僕の姿は、裁判から始まるイエス様の十字架のご様子とかなりの部分が重なり合います。十字架におかかりになるときには見る影はもはやなく、憔悴しきっておられたこと、人々から侮辱を受けられるようす、民衆からも弟子さえからも、見捨てられていくようす、黙してただただ耐えておられたようす、それでも、私たちのために神様に執り成しをされたということ、53章の12節の後半は、「彼が自らをなげうち死んで、罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」と結ばれています。
 わたしたちは自分の罪がいかなるものなのか、聖書をとおして次第にわかってきます。自分が罪人であることに気づかされることは、己に固執することからの解放につながります。私もまた、日々、己が罪人であることを思わされています。イエス・キリストによって赦され、解放され、自由にさせられる、そのことの喜びを今週もまた味わいつつ、歩みたいものです。
 私たちは、自分たちも、そして子供たちも、すべてのことから解放され、ほんとうに、自由に、生きていくことができたらと願います。他人の目やこの世の価値観からも解放されて。そのためには、イエス・キリストを通して与えられた赦しを受け入れ、畏れるべき方を畏れ、従うべき方に従うこと、イエス様、真の神様だけを見上げて歩んでいくことができたら、それが可能となると私たちは信じています。


平良師

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