パウロは、自らを弱いと言っていますが、私たちから見ると、なかなかどうして、強靭な精神の持ち主です。それは、ユダヤ教のエリートとしての道をまっしぐらに進んでいたときよりもさらに強くなったと思われます。彼の言動は、確信に満ちています。彼は、初代教会の指導者として活躍 した人でしたが、当初は、キリスト者を迫害するほどの熱心なユダヤ教の信徒でした。ですから、エルサレムで教会を作っていたイエス様の弟子たちよりは、どこに行っても格下の者のように思われていた向きもあったことでしょう。 ですから、1章1節の「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」という自己紹介をみるときに、自分の使徒としての権威は、神様から来ているといった主張は、生前のイエス様を知らないパウロにとっては、一種の戦いのようなものでした。私たちは、このパウロの姿勢に学ぶところが大きいのです。 それは、神様と直接につながった者だけが、自立した信仰を持ちうると教えられるからです。時に神様よりも人とつながっている方がおられます。人のことをほめ過ぎたり、過剰に敬意を抱く必要もありません。同じ人間として、どのような人にも愛情を注ぐことこそ大事です。生前のイエス様を知らないパウロよりは、エルサレムのペトロやイエス様の兄弟ヤコブたちの方に、初代教会の人々は権威を感じたことでしょう。 ここでも、せっかくパウロが、救いは律法を守ることで得られるのではない、といった福音の内容を告げ知らせていても、後にエルサレムからやってきたペトロが、割礼を受けることを主張して、パウロの説いたキリストの福音を台無しにするといったことが起こっていたのでした。パウロは、あくまでも、律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされるとの福音を語っておりました。 . . . 本文を読む
今日は、召天者記念礼拝を守っています。当教会の召天者記念礼拝は、教会員で既に天に召された先達たちはもちろんですが、教会員のご希望で、ご自分のご家族の誰かをおぼえて欲しい方、或いは、教会員ではなかったけれども、葬儀を牧師がしたことで、今日のこの日に、一緒に故人をおぼえたい方、また、その他の理由により、とにかく、故人を一緒に偲びたい方もどうぞというのが、私たちの教会が行っている召天者記念礼拝です。 ところで、その故人ですが、今、どのようなところにおられるのかということですが、カトリックでは、天国と地獄がありまして、その中間に煉獄というものがあります。そして、その煉獄では、小さい罪を犯した者は、この煉獄で悔い改めれば天国に行けるということになっています。プロテスタントでは、天国と地獄しかありません。それでは、そのイメージですが、これらについては、定かではありません。地獄は、火と硫黄の池、灼熱に苦しめられる、うじが尽きず、などといったことが書かれています。天国は、文字通り天にあります。 ヨハネの黙示録では、新しい都エルサレムということで表現されています。例えば、21章22節からのところには、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」。 とにかく、天国は輝くばかりの白色で満ちているといった印象です。これは、目に見える天国の印象です。しかし、イエス様は、いろいろなたとえを用いて、天国、神の国を示されました。あるときは、裁きを伴う事柄として、あるときは、人の行為よりは、憐み深い神様の一方的な恵みとして。 . . . 本文を読む