平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年3月26日 主よ、まさかわたしのことでは-裏切りの予感-

2017-08-22 23:09:04 | 2017年
最後の晩餐の場面です。一同が、食事をしているとき、イエス様は突然このようなことを言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。それで、弟子たちは非常に心を痛めたと書かれています。そして、その次にどのような態度を弟子たちはとったかと言いますと、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのでした。そこで、イエス様は、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言われ、暗にそれがユダであることを伝えます。そして、その直後、ユダも「先生、まさかわたしのことでは」と言うのですが、そのときイエス様は「それはあなたの言ったことだ」と意味深長な言い方をされました。この聖書の箇所は、キリストを信じて歩んでいる者たちにとって、実に、日々の生活の中で自分の身にも起こりそうな出来事として迫ってきます。私たちは、イエス様を信じて、日々の生活を送っておりますが、いつもどこかでイエス様を裏切っているのではないか、今はそうでなくても、何かの折には裏切るのではないか、といった恐れが頭の片隅をよぎることがあります。弟子たちは、それまでのイエス様の言動からいよいよ何かのっぴきならぬ事態が訪れるのではないか、といった恐れの中にはあったと思いますから、イエス様が言われた弟子の一人が裏切ろうとしているというのは、根も葉もないことではなく、おそらく、誰かそういう者が、自分たちの中から現れるだろうくらいのことは考えたと思われます。弟子たちは、誰もが自信がありませんでした。ひょっとして、自分がその裏切者にならないとも限らない、そのような予感の中にありました。ですから、代わる代わる「まさかわたしのことでは」と答えたのでした。ただ、マタイでは、この後の主の晩餐の場面には、まだユダもいたと思われますから、罪の赦しがユダにまで及んでいると理解できないこともありません。 . . . 本文を読む

2017年3月19日 あなたがたはその日その時を知らないのだから

2017-08-22 23:00:49 | 2017年
これは、天の国のたとえ話です。花婿を迎えに10人のおとめがそれぞれにともし火を持って出て行きました。当時は、花嫁のところへ花婿が迎えにくるのですが、その花婿を花嫁の友人が明かりを持って出迎える習慣がありました。ですから、ともし火を持っていた10人というのは、花嫁たちではなく、結婚をする花嫁の友人たちでした。ところが、そのうちの5人は賢く、5人は愚かでした。賢い5人は、油が切れたときのためにと予備の油を用意しておりましたが、愚かな5人には、その準備はありませんでした。賢いおとめたちは、予定していた時刻に花婿が来ないことがあるかもしれないと考え、愚かな娘たちは、予定の時刻に来るものと勝手に思い込んでおりました。ところが、実際は、花婿は予定した時刻には到着せず、真夜中にやってきたのでした。その時、10人のおとめたちは皆眠気がさして眠り込んでしまっていたのです。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、皆起きてそれぞれのともし火を整えたのですが、すでに消えかかっておりました。愚かなおとめたちは、油を分けて欲しいと賢いおとめたちに頼みましたが、彼女たちも分けてあげるほどの量はなかったので、店に行って買って来なさい、とつれない返事です。愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿はやってきて、賢いおとめたちの出迎えで、一緒に婚宴の席に入り、そこで戸も閉められてしまいました。そのあとで、愚かなおとめたちが帰ってきて、婚宴が行われている建物に入ろうとするのですが、その家の主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言ったということです。これは、イエス様が再びこの世に来られるとき、イエス様が来られることを婚礼に、また、イエス様を花婿にたとえております。私たちには、イエス様がいつ来られるかは知らされません。しかし、いつ、来られてもよいように目を覚ましておく必要があるのです。 . . . 本文を読む

2017年3月12日 ろばに乗って来られたキリスト

2017-08-22 18:45:54 | 2017年
イエス様が、ろばに乗ってエルサレムに入城されたようすは、世の多くの王たちがしていたように、軍馬に乗り、また、戦車に乗って意気揚々と行っていた凱旋パレードとは大きく異なりました。戦勝国となった将軍や王たちは、大勢の家来を引き連れ、その両脇には大勢の市民が歓声や音楽をもって迎えていたことでしょう。今であれば、優勝したスポーツ選手たちの凱旋パレードを思い浮かべたらよいのでしょうか。イエス様がなさったのは、日ごろは荷を担いでいたであろうろばに乗って、それも子どものろばであった可能性もあります。ですから、とても弱々しい、優しいといったイメージです。それに乗ってエルサレムに入ってきたのでした。マタイでは、これは預言者の言われていたこと「シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」(ゼカリヤ書9章9節)が実現するためであったとあります。そのとき、群衆が上着を脱いで道に敷いたり、木の枝を切って敷いたのは、王を迎える所作であったようです。それからまた、イエス様がろばに乗っていくその前後にいた群衆たちは、「ダビデの子にホサナ(「主よ、救ってください」、「バンザイ」などの意味)。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びました。ここでいう群衆たちは、それまでエリコやガリラヤからついてきていた人々であったと思われます。ところが、都エルサレムの住人たちは、そうではありませんでした。「いったい、これはどういう人だ」と言って、騒ぎになりました。そこで、群衆は「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者だ」と、答えたのでした。イエス様に出会った当時の人々からして、イエス様に対する理解は微妙に異なりました。「柔和」は、痛めつけられる、惨めという意味もあるようですが、そのようなお方を私たちはキリストと呼んでいます。 . . . 本文を読む

2017年2月19日 祈りと信仰

2017-08-22 17:49:35 | 2017年
「祈りとは」、と聞かれたら、私たちはいかようにでも答えるでしょう。祈る時は、いつがいいのか。祈りの姿勢はどのようなものがよいか。しかし、その多くは、イエス様が教えてくださっていますから、そこに既に答えはあります。また、イエス様自らが祈っておられますので、その姿勢からも学ぶことができます。今日の箇所では、マタイによる福音書の14章23節「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」。イエス様は、よく祈るためにたったお一人で山に登られました。そこで祈られました。それは、ちょうどモーセがシナイ山で神様から十戒をいただいたときのことを彷彿とさせます。山は、誰もおりませんので、神様と一対一で向き合うという点では、環境が整っています。それから祈りということで、この箇所からは、ペトロの叫びが、また一つの祈りの姿勢として考えられるでしょう。これは、弟子たちだけで、向こう岸に漕ぎ出したのですが、途中で逆風が吹いてきて、波がたち舟を思うように操縦できなくなったときのことでした。これは夜通しそうであったようです。しかし、明け方頃、イエス様は彼らに湖上を歩いて近づいてきました。それを見た弟子たちは、幽霊ではないかと怯えたのでした。それで、イエス様は、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけます。そこで、ペトロが、自分も歩いてイエス様のところへ行かせて欲しいと願います。イエス様から来なさいと言われて、舟を降り、水の上を歩き始めたのですが、途中で強風に気づき恐れが生じて沈みかけます。そのとき、イエス様に「主よ、助けてください」と叫びます。ペトロは、死ぬかもしれないと思い、必死でした。このときの叫びが、祈りです。これは、とても短いものですが、簡潔であり、強く熱く必死な思いが込められています。イエス様はすぐに手を伸ばして彼の手をつかみました。 . . . 本文を読む