平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年2月12日 主が拓かれる道を(宣教開始60周年記念感謝礼拝)

2017-08-13 13:48:31 | 2017年
本日は、この平尾バプテスト教会が、宣教を開始して60周年を迎え、この間の神様へのお恵みとお導き、お支えに感謝を表す記念の礼拝を捧げています。宣教が始まってからのことは、宣教50周年のときにも語り、おぼえましたから、今日は、その後の10年の歩みについて、集中して、聖書から神様のお恵みとお導きについて、振り返ってみたいと思います。つまり、それは、私たちが、どう聖書を生きてきたかということです。そして、これから、どうキリストの教会の歩みを共になしていくかという、これからを考えることでもあります。多くの人々は、目に見えるものによって価値を定め、生きております。しかし、私たちは、見えないものを信じて、それに自分の人生すら賭けて生きてきました。それはこれからも同じです。この10年がいかなる年月だったのか、特に、2009年から神様によって私たちに与えられたヴィジョンは、途方もないものでした。それは、私たちの教会だったからこそ、神様が与えられたヴィジョンではなかったのかと解釈しています。自由と多様性を大切にする教会だったからこそ、このヴィジョンを私たちの教会に託されたと思うのです。しかし、ご存じのように、この道程は容易なものではありませんでした。むしろ、困難な道でしたし、今もなおその途上にあります。この10年の歩みがもらしたものは数々ありますが、そのなかの一番は、やはり二箇所で一つの教会を作るという選択を余儀なくされたことでした。しかし、それはいつしか積極的な意味を私たちに与えるようになり、今はむしろこの方向性に多くの可能性を見出しつつあります。かつて、イスラエルの民にエジプトの強大な軍隊が迫ったとき、海に逃れの道を用意された神様、また、荒野をさ迷わぬように昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれた神様、その神様が、私たちの10年間の歩みもまた同じように、導かれてこられたのです。 . . . 本文を読む

2017年2月5日 知恵の正しさは働きによって証明される

2017-08-13 13:23:38 | 2017年
悔い改めのバプテスマを授けていたヨハネは、そのあと領主ヘロデに捕えられました。それは、ヘロデの結婚が律法に違反しているとの指摘をしたためでした。ヨハネは、イエス様こそ来たるべきお方(メシア、救い主)ではないかと考えておりました。しかし、そのメシアは、ヨハネが期待していたメシアとは少し違ったようです。ヨハネがイメージしていたメシアは、3章の10節から12節に描かれています。そのお方は、大きな力を持っておられる裁き主なる厳しいお方でした。それで、ヨハネは牢獄の中から自分の弟子をイエス様のところに送って尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。イエス様は言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。これが、イエス様のなさっていることであって、武力などの大きな力を用いて社会を変えたり、動かそうとされる方ではありませんでした。そのあとの、イエス様の語られていることは難解に思われます。「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」。ヨハネの信仰は、人間がとにかく努力して神の国を得ようとするもので、イエス様のもたらそうとしている世界は、神様の側から人間に近づいてくるものでした。イエス様が来られて、既に、いろいろなところにメシア到来のしるしは見えているのに、人々はそれに気付こうとしないのです。その働きによってヨハネとイエス様の正しさは証明されているのに、それを見ようとしない時代だとイエス様は嘆かれました。 . . . 本文を読む

2017年1月22日 あなたの信仰があなたを救う

2017-08-13 13:18:13 | 2017年
ここには、二つの奇跡物語が描かれており、イエス様に救いを求めてやってきた二人の人物が描かれています。一人は、「ある指導者」とあります。もう一人は、12年間も病気で苦しんでいる女でした。指導者とありますから、女性とこどもは人の数に入らない時代であったことなどを考えますと、これは男です。後にでてくる少女の父親です。指導者とは、ユダヤ社会の指導者であり、マルコによる福音書には会堂長ヤイロとあり、職業と名前まででてきます。その彼が、イエス様のところに来て、ひれ伏したのでした。娘が死んだのです。それは絶望の極みであり、誰にもどうすることもできないことでした。しかし、この指導者は、イエス様に救いを求めてきました。「おいでになって、手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう」。これは、イエス様に対する信仰です。イエス様であれば、そのことを成し遂げてくださると信じたのでした。イエス様は、立ち上がり、この男について行かれました。ところが、途中で、12年間も病気で苦しんでいた女が近寄って来て、後ろからイエス様の服の房に触れたのでした。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからでした。これもまた、この女の信仰でした。イエス様は振り向いて、この女を見ながら「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この直後に、この女性の病は治りました。また、それから指導者の家に着き、「少女は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われるイエス様を嘲笑う群衆を外に出したあとで、少女の手を取り起こすと、少女は起き上がったのでした。イエス様は、ことのとき二つの奇跡を起こされました。それは、二人の人間の求めに応じるものでした。7章の7節で「求めなさい。そうすれば与えられる」と教えられたのはまさにイエス様でした。そして、彼らには、このイエス様に対する信仰がありました。 . . . 本文を読む