ダニエル書3章13〜30節
どこまでも共におられる神
今日は、こども祝福式を礼拝のなかで致しました。こどもたちを取り巻くこの時代は、否、こどもたちが育っていくこれからの時代は、ますます生きにくい、希望がなかなかもてない時代になるかもしれません。既に世界のあちこちの国が、困った様相を呈してきています。権力の腐敗、おごりがもたらしているものもあります。このたびの米大統領の選挙について思わされたことは . . . 本文を読む
ダニエル書1章1〜21節
自分を汚すまいと決心する
ダニエル書もまた黙示文学です。そして、ダニエルがおかれていた場所も捕囚として連れてこられたバビロンの地でした。捕囚としての身の上ですから、あからさまにバビロンについてあれこれ言うことはできませんでしたから、黙示文学という形式で言わんとしていることを表現しています。ダニエルは、ヨヤキン王の時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、捕囚とし . . . 本文を読む
エゼキエル書43章1〜9節
主の栄光が満ちるところ
ここでの神様の栄光とは、目に見える形としては、眩いばかりの光だと考えてよいかと思います。もちろん、それは、単に目に見えるイメージだけではなく、その内容を指している場合もあります。神様の輝かしいほまれをいう場合です。ここでは、実際に目に見えるようすを言っております。その栄光、眩いばかりの光に大地は包まれました。
「大地はその栄光で輝いた」とあり . . . 本文を読む
エゼキエル書37章1〜14節
枯れた骨に主が霊を吹き込むと
エゼキエルは、神様の霊に導かれ、ある谷の真ん中に立たされます。これもまた、神様が、エゼキエルに何かを伝えるために見せた幻です。そこには、多くの骨が散乱していました。あとでわかりますように、この骨は人間の骨でした。それも「殺されたもの」という言葉が9節にでてまいりますので、イスラエルの兵士たちの骨だろうと思いますが、一般の人々の骨も含まれ . . . 本文を読む
エゼキエル書33章1〜11節
立ち帰って、生きよ
これまで預言者エゼキエルは、都エルサレムから捕囚となってバビロンに来ている南ユダの人々に、悔い改めを迫る神様の言葉を伝えてきました。捕囚となった人々は、どうして、自分たちの国が、このようなつらい目に遭わねばならないのだろうか、自分たちのヤーウェの神様は、どうなってしまったのだろうか。私たちは見捨てられてしまったのだろうか。あちこちにあるバビロンの . . . 本文を読む
エゼキエル書1章1〜21節
主の御手が彼の上に臨んだ
第三十年というのは、いったい何からの三十年なのか不明ですが、一説では、ヨヤキンの年齢を指しているのではないかということです。それからエゼキエルの年齢ではないかという説もあります。というのも、祭司になれる年齢が30歳からなので、そうであったのではないかということです。このときは、祭司ではなく、預言者としての召命であったわけですが。
また、それ . . . 本文を読む
列王記下6章32~7章11節
この日は良い知らせの日だ
北イスラエルの都サマリアは、アラムの軍隊に包囲されました。そうでなくても、そのとき既にサマリアは、大飢饉に見舞われていました。それにアラム軍の包囲が加わりました。アラム王のベン・ハダドは、全軍を招集して、攻め上りサマリアを包囲したのですから、蟻一匹逃げ出すことのできない状態となりました。大飢饉に見舞われたうえに、包囲されたのですから、サマリ . . . 本文を読む
マタイによる福音書6章25~34節
神さまにおぼえられているあなた
私たちは、人生のうちに思い悩むことがどれほどあるでしょうか。イエス様が私たちに教えられたことの一つに「思い悩むな」というものがあります。私たちは、自分の人生を振り返り、何と多くの思い悩みのなかにいたことかと思うのです。それは、長時間続いていたこともありました。病気や子育て、夫婦関係、友人関係、仕事など、忘れていたけれども、そう言 . . . 本文を読む
列王記下2章1~14節
後継者となるために
預言者エリヤがいよいよ天に上げられるときのお話です。エリヤとエリシャは、ギルガルまでやってきました。ギルガルは、死海の北の方にあります。そこで、エリヤは、主に遣わされてさらにベテルまで行くので、あなたはここにとどまっていなさいと、エリシャに言います。ベテルは、ギルガルから西の方にあります。それほど遠く離れてもおりません。エリシャは、どんなことがあっても . . . 本文を読む